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文芸の里コミュの旅立ち 5

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 旅立ち 5


 あなたとの約束の日が近くなって、私は旅の準備をしようと、スーパーに向かって路地を歩いていました。買物という目的はありながら、まったく上の空といった心の状態で路を辿っていたのだと思います。
 ふと後ろから車の警笛を鳴らされた気がして、右側へよけようと体がよろけるようになっていきました。石塀が迫って、何とか難を逃れ得たつもりだったのですが、体が塀に吸いつけられるようにして倒れ込んだのです。
「どう、されました、か」
 若い外人女性の声が、体ごと飛び込んできて、私を抱き起こしてくれました。痛みなど少しもないのに、石塀に抉られた私の膝から、血が滲んできました。
「いけません、これは、いけません」
 彼女はティッシュを出すと、傷口にかぶせ、自分のヘヤバンドを素早く外すと、私の膝を抑えこみました。その間、私はぼんやりして、ブロンドや美しい割りには意外に雀斑の多い肌などを、彼女の動きともども観察していました。傍らの路面には、彼女が家々に配り歩いていたトラクトが置かれ、上の何枚かが風に靡いていました。キリストとか、伝道大会とかのゴジックの文字が、風に揺れていました。
「このままではいけない。私の住まい、すぐそこ。行きましょう」
 言うがはやいか、私の腕を肩にして引き摺るように歩き出しました。私は路上に放置されたままのトラクトに首を振り向けて、
「あれは?」
 と訊きました。
「そうそう、大切なものを、忘れちゃ、いけませんね」
 彼女は体をこごめて手にすると、私を引き摺って歩き出しました。私は一人で歩けたはずなのに、どうしてかそのとき、自分では動けなくなっていました。
 迷路のような路地を辿り、非常階段といった趣の鉄の段を上ったアパートの一室が、彼女の住まいでした。彼女たちのと言うべきでしょう。そこは彼女を入れて四人の伝道者の住まいとなっていたのです。他の三人は外に出ていて、彼女だけ、不意の事故(私の)のため仕事途中で戻ったのです。四畳半ほどの部屋には、車付きの大きな旅行鞄が四個置いてありました。
「ここ、マイベッドね」
 彼女は畳の一枚を指差しました。私はそこに傷の片脚を立てて坐りました。
「あなた、体のどこか、悪い?」
 彼女は、本格的な傷の手当てにかかりながら言いました。
「いいえ」
 私は意外な問いに、首を横に振りました。
「では、どうして、あんなに、ふらふらっと倒れたの」
 彼女は、目の焦点を定めて、私に見入りました。
「車がきたから、よけただけ」
「車なんか、通りませんでしたよ」
 私ははっと弾かれたようになって、姿勢を正しました。そのとき我に返ったと言ったらいいのでしょうか。ある別な力に捉えられていた気がしたのです。私の動きをどう受け取ったのか、
「心配することはありません。人はみな弱いのです」
 と励まして、オキシフルで傷口を洗い、ヨードチンキを塗り、膏薬をつけたガーゼを当てて、包帯を巻いていきました。
 私はそこで彼女の伝道者としての話をいろいろ聞かされました。彼女の名前は何とか、マリヤといいました。アメリカで六箇月の訓練を受けて、日本宣教のために派遣されて来ていたのです。この近くの教会で何週間か奉仕をして、次は仙台に行くとのことでした。
 ベッドもない狭い部屋に四人もが寝起きしながら、日本のために伝道している姿を見るにつけ、私は自分の寮生活があまりにも豪勢に思え、罪悪感に近いものを抱きました。そのくせ私には喜びはなく、マリヤは希望を持って生きていました。
 私は自分の悩みを打明けたあと、
「あなたのように明るくて、人を思いやれるような生き方が羨ましい」
 とつい本音を洩らしてしまいました。
「あなただって、出来ますよ。今日からだって」
 マリヤは私の肩を叩いて言いました。
「今日から?」
 私はよほど呆気に取られた訊き方をしてしまったのでしょう。マリヤは朗らかに笑って、あなたみたいに正直な人を見たのははじめてだとか言って、褒めてくれました。私が狐につままれたようになっていると、先程のトラクトを引き寄せて、片言の日本語ながら、おおよそ次のように説明しました。
「『神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』と書いてあるのは真実よ。父なる神が、ひとり子をお与えになったというのは、御子は天の父のもとには帰れないということなのよ。永久に人類に里子に出したようなものよ。ここに父の神の犠牲があるの。その御子を嘲笑ったり、受け入れようとしなかったりしたら、父なる神が怒るのは当然じゃないの。それなのに、その怒りさえ分からずにいるんだから。反対に、御子を信じれば、神は愛して下さり、永遠のいのちを下さるの」
「信じるわ」
 私は、自分が言っているとも思えないながら、そう叫んでいました。言わされたといったほうが、当たっているかもしれません。
 マリヤは、額に深い皺を刻んで、何故かせつなそうに私を見詰めていました。そのうちその目から涙が溢れてきて、
「やっぱり今日、神様は私に、あなたと会わせて下さった。これ偶然じゃない。二年前の今日、私の妹の死んだ日」
 と、しどろもどろになって説明しました。
 私はマリヤとすっかり打解けて、話し合いました。

 私はあなたを裏切る方向に向かいながら、一方である喜びの予感のようなものに支えられていました。それは今は離れても、あなたを見捨てることにはならないといった漠然とした気持なのです。
 その上でマリヤと約束した私の決意を書いてしまいます。私はクリスマス前にアメリカヘ発ち、六箇月の訓練を受けることにしました。英語もろくに喋れず、聖書を読んだこともない者が、いきなり飛び込んで行くのですから、人の二倍三倍の期間を要するかもしれません。
 それでも今の私は、昨日までの私とは打って変はって充実しています。終末の世であればあるほど、遅咲きの野の花のようにしっかり咲きたいと思っています。もうあなたとお会いしていたときの私はきれいになくなっています。私は神を見はしなかったけれど、あのとき路地を歩いていて、神様に倒されたのかもしれません。
 いつかあなたにお訊きしようとして、果たせないでいたことがあります。今となっては御返事をいただくわけにはいきませんが、あなたは私との出会いを、偶然というより絶対者が、会わせてくれた……とかおっしゃっていました。その絶対者をどのようにお考えなのでしょうか。創造主なる全能の神、それとも八百よろずの神、もっと身近に守護霊のような存在‥‥
 私今でこそ申し上げられるのですけれど、私をあなたに会わせて下さったのは、キリストの父なる神の他に考えられません。マリヤの妹の命日に私をマリヤに会わせたように、あなたと私を結んだのです。
 新しい天では、人はめとることも、嫁ぐこともないとマリヤに聞きました。創造主の前に、みなが兄弟柿妹の関係なのです。あなたも、近い将来、神の御手に触れられて、私と兄弟姉妹として新たな交わりの中へ導き入れられますように……
 狭き門より入れ、滅びに至る門は大きく……

 ちえっ! 鶴夫は読み続ける気になれず、手紙をほうり投げた。いい気になりやがって、何がキリストだ。この俺と行くのが気が重かったもので、つい一方へのめり込んだだけの話じゃないか。ちえっ! こんな言い逃れのための宗教なら、キリスト教なんていい加減なものよ。
 鶴夫は不貞腐れ、まずくて一口口をつけたままだった安ウィスキーをがぶ飲みした。意識が錯乱し、やがて鈍っていくなかで、もしかしてあの兄が現れて、鶴子と懇ろになったのではないかと、そんな下卑た妄想までしているうちに寝てしまった。

 目が覚めたとき、カーテンの向こうに朝日がきらめいていた。意地でも出発しなければならない。
 彼はひげも剃らず、そそくさと支度をして家を出た。
 鶴子がキリストをふりかざすなら、俺は八百よろずの神でもいい、自分の神を見つけてきてやる。日本誕生のゆかりの地であれば、それらしき神々もいてしかるべきだ。偶像を買い込んで、鶴子に送り付けてやるのも一つの手だ。
 終末観などと御託を並べて書き出しながら、最後にきて俺を伝道しようなんて、そんな手管に引っ掛かってたまるか。
 羽田に着き、塔乗券を求めると、出発口ヘ急いだ。
 待合い広場に、すっくと首を伸ばして辺りを見回している女がいた。その女が彼に目を留めて歩み寄って来る。誰だろう。見覚えがあるような、ないような。目の前に迫って、ようやく鶴子と気づいた。鶴子はそれほど面変わりして、別な雰囲気に包まれていた。女でありながら、女でない。それでいて艶なる姿だ。こんな鶴子をこれまでどこに隠していたのかと、訝られるばかりの変容ぶりで歩み寄って来た。
 彼はその美しい鶴子を避けるように、ひげ面をそむけた。
「お電話したんだけど、お出にならないので、きっと旅立たれるのだと思って、お見送りに来たの。私、手紙を出した後、自分ばかり有頂天になっているようで、気が差したの。御免なさい。これ慌てて買ったんだけど、後で食べて」
 鶴子は胸に抱えていた紙袋を彼に押しつけた。彼の列は前へと進んでいた。鶴子も一緒に歩いたが、搭乗手続きをする所で立止まった。
 彼はそのまま前へ出て行った。鶴子はスチュワーデスと見違えるばかり、ブルーのテーラードスーツで決めていた。白手袋もアクセントになっている。
 ああやって、美しいところを男に想い出として残そうとしている。勝手なものさ。ところでこの俺は、顔も洗わず、不精ひげときている。この無様さを彼女に残すというのか。かまうものか。これから何年生きようと、今の俺がありのままの姿だ。男は、といって悪ければ、俺は想い出を大切に胸にしまって生きていくほど余裕はない。野郎はそもそも即物的に出来ているのだ。
 披は振り返らなかった。鶴子に押し付けられた紙袋が、やたら重いと思った。
 飛行機には確かに鶴のマークがついていた。今になって、なんでこの機にしたのか、自分に腹を立てていた。
 機が地上を離れたとき、彼はふと疲れを覚えた。他の何らの感慨も湧かなかった。
 機が上昇して、平行飛行にはいると、紙袋を開けてみた。ドイツ製の高級そうなワイン、そのビンを包み込むように様々なパンが押込んであった。
 俺はパンなど好物ではないし、鶴子と一緒のときもハンバガーどまりだった。ワインにしても、十パーセントそこそこのアルコール分では酔えもしない。昨日がぶ飲みした二級ウィスキーを、愚弄したというのか。
 彼は空腹を覚えて、パンにかじりついた。考えてみると、昨夜ソーセージを肴にウィスキーを飲んだきり、食事をしていなかったのである。頭の片方が痺れていた。
 窓に目をやると、機は雲の上に出ていた。素晴らしい蒼さが、宇宙の透明度をびしっと決めているように見えた。と同時に、鶴子のスーツのブルーを思い出し、打ち消そうと、頭を振った。 
 次に窓に目をやったとき、機の斜め前方に思いがけないものを発見した。
一羽の鶴が翔んでいるのである。羽撃くというより、翼を広げたまま、気流に任せて浮かんでいるのである。機は相当なスピードのはずなのに、さらに速く、前へ前へとつっこんでいく。こんなはずがあるだろうか。
 彼は幻ではない標を見ようと、窓に目をこらした。脚がぴんと揃えて後方に伸ばされている。
 鶴子よ、君は、羽田近くで一緒に飛行機を見上げたとき、言ったな。
 車輪をしまって、すべてを空に委ねていく。私もあんな生き方がしてみたいと。
 しかし、あの鶴は、ちゃんと脚を出しているぞ。しかもその脚を、それさえ機体の一部のようにして風を切っているぞ。
 彼が鶴を確認しようとしたときには、下方から雲が湧き上がり、その鬱然たる輝きの辺りに吸い取られてしまった。
 しばらく眠ったようだ。アナウンスがあり、機は九州上空にさしかかっていた。
 荷物をまとめていると、鶴子の紙袋から伝道用の小冊子が出てきた。その裏表紙の空白に、彼女の書込みがある。

 私、神様に愛されていると分かり、この世に生きる支えを見つけた今になって、貴方を愛してることに気づきました。六箇月の訓練
を終えて帰るまで、どうぞ待っていて下さい。二人を結びつけた神が、一人だけを導いて、貴方を離すはずはありません。離れていても、祈っています。

 彼はどきんとして、小冊子をポケットにしまいこみながら、呟いていた。
「キリストはいるのか?」
 悲哀が雲のように彼を包んできた。
                        つづきます

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