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文芸の里コミュの市場通り

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                    ペギー葉山 ラ・ノビア .


  ☆

 市場通り


 青山さんは愛犬のブルドッグを、毎朝散歩に連れ歩いている。
 路地から歩道に出てしばらく行くと、犬が足を地面に突っ張って、どうしても前へ進もうとしないのだ。
「どうしたんだ? いつもはこんなことはないのに」
 不審に思って、青山さんは辺りを見回す。
 そこは市場通り。すぐ横は大きな魚屋だ。店先にけったいな肉の塊がぶら下がって揺れている。包丁で捌かれるのを待って、吊るされた鮟鱇だ。その大きな鮟鱇が目を皿のようにして、辺りを睨んでいる。怒らせた赤い目の先を辿ると、歩道のブルドックに向けられている。ブルドックは下を向いてしまい、鮟鱇を見返すこともできないでいるのだ。ブルドックの体は硬直し、震えているようだ。
「あんな鮟鱇に、びくついている奴があるかよ。お前のほうがずっと凄い顔してるのを、忘れたのか。そんな態度じゃ、ブルドックの権威ある血統が廃れるというもんだ」
 青山さんはそう戒めて、ブルドックを前方にではなく、後方に引いて、犬を歩道の水溜りの前に連れて来た。昨夜の大雨で、ところどころ水溜りができている。その水鏡に映して、あんな鮟鱇などに引けをとらず、むしろ優っている怖い顔を見せ、自覚を促してやろうとしたのである。
 犬は何を勘違いしたのか、その水をぴちゃぴちゃいわせて飲むと、顔を上げて、目の前の電柱に貼ってあるキャバレーの踊子のあられもない写真に目を留めているのだ。
 青山さんは、そうかそうきたかとばかりにロープを引くと、再度挑戦するべく魚屋に向かって歩きはじめた。
 だが、魚屋の前に来る前に犬は足を止めて、前進を拒んだ。一度の学習で、二度と同じ轍は踏まないということらしい。度胸はないが、賢さなら並の犬といえる。
 やむを得ず、青山さんはブルドックを歩道から引き剥がすようにして、散歩のコースを変更して引き返して行った。
前から若いOLがやって来る。彼女はブルドックが来るのを目に留めて、早くも警戒態勢に入った。左側の車道の方へ大きく寄って、今にも歩道からはみ出ていきそうになってやって来る。これまで彼女が通勤コースを外れたことなどないのだろう。この時間ブルドックに遭遇するのは、予測外なのだ。青山さんとて、通勤人と対向するのを避け、都市公園へ向かうつもりだったのに、怖気づいた犬のために、引き返しているのである。
 彼女は歩道の左へ寄ったくらいでは、安全圏内ではないとばかりに、車道の方へ身を泳がせた。このとき背後から迫ってきたタクシーに、けたたましくクラクションを鳴らされてしまった。その警報に慌てて、彼女は歩道に留まり、コツコツとヒールの底を鳴らして急ぎ足にやって来る。
 ブルドックはその女の方へ、ロープを張って寄って行こうとしている。
 青山さんはそうはさせじと、犬を自分のほうへ手繰り寄せる。
 犬の鼻先とOLの腕の肌が十センチにも満たない間隙で、危うく無事に擦れ違ったとき、青山さんはしどろもどろな詫びを言った。
「申し訳ありません。ご大層な面構えのくせに、まったく臆病ものでして」
 言ってしまってから、失言に気づいた。そして天にも届けとばかりに言い放っていた。
「おまえはどうして、そう、美人にばっかり、寄っていくんだよぉ!」
 反対側の歩道を行く人が、振り返ったほどだから、OLの耳にも聞こえたはずだ。青山さんはほっと息をついた。ブルドックはぺろっと舌を出して鼻の頭を舐めた。
 

 ここで終えるつもりだったが、それでは不満が残った。このままではブルドックの臆病を指摘しただけで終ってしまう。
 飼主の青山さんからすれば、それでは済まなかった。散歩も中途半端なまま帰宅すると、さっそく市場通りの魚屋に電話を入れた。
「今お宅の前を通って見かけたんだけれど、店先に吊るしてあった鮟鱇、まだあるかね。あったら、それを一尾まるごと届けて欲しいんだよ」
「一尾そのままですか、あの大物を?」
 魚屋が驚きを言葉にした。
「一尾そのままといっても、一尾は一尾でもいくつかに解体して貰おうか。しかし頭の部分は、目をつけたまま残して、下部を半分にして、至急届けてもらえるかね」
「承知しました。すぐ若い衆に言いつけますんで」
 ブルドックにする出費としては、二年前仔犬だったのを購入したとき以来だが、放って置くわけには行かないと思った。
 青山さんは画家である。画塾を開いて子供たちに絵を教えてもいる。教育者としても、ブルドックを訓練しなければならないと思った。
 奥さんに鮟鱇鍋を作る準備をさせた。鮟鱇丸ごと一匹ともなると、子供一人の三人家族では、食べきれない。三匹の猫を入れても、しれたものだ。
 そこで近所から絵を習いに来ている三人の男の子を呼び出すことにして、早くも電話をした。画塾のある日ではないが、そんな暢気は言っていられない。
「今日、お宅の息子さんをお借りしますよ。鮟鱇鍋の夕食会を開く予定を立てております。そのうち鮟鱇を絵のモチーフにもするつもりですので、ぜひ参加させてくださいよ」
 そうやって三人の子供に来る了承を得た。

 時間が迫ると、リビングに座卓を二個並べて置き、座布団を八個用意した。青山さんの画家仲間にも連絡したので、臨時の参加も考えてのことだ。
 座卓の中央にガスコンロを置き、その上に大鍋を載せた。そこに奥さんがシンクで調理した具をいれる。その上に鮟鱇をのせて火勢を強める。鮟鱇の頭部はまだいれていない。
 三人の画塾の子供と息子は、席についていた。夕食会の趣旨については、息子から彼等に説明してある。
 鮟鱇をのせて五分もすると、匂いが立ち込めてまさに鮟鱇鍋という感じになった。座卓の周りをうろつく猫の動きが、慌しくなってきた。
 ここでいよいよ主役の登場である。青山さんがブルドックを引いて現れ、リビングの座卓の良く見える位置に坐らせた。下にはあらかじめ油紙を敷いておいた。
 ブルドックは何事が起こるのかと、興味津々といった面持ちだ。そのブルドックの前に、奥さんがトレーに載せた鮟鱇の頭部を持って現れる手はずになっている。
「ミヨ子、いいぞ!」
 と青山さんが奥さんを呼んだ。
「ハーイ」
 奥さんが儀式の一齣でもあるかのように、トレーを胸に抱えて登場してきた。トレーには、目を光らせた鮟鱇の頭部が載っているのだ。鮟鱇も今では観念しているのか、目を怒らせてなどいない。沈んだ穏やかさに包まれている。
 それをブルドックの前に差し出した。犬は最初、何だこれはといった様子を見せて、トレーの中の物に見入った。犬は顔をずらして、鮟鱇の目にぶつかると、にわかに体がぐにゃぐにゃっとして、お坐りの姿勢が崩れた。その身の持って行き場がなく、這い蹲り油紙に顔をつけるような真似をした。逃げて行こうにも、ロープをしっかり青山さんに掴まれているので、そうはできなかった。
「もう一度見せる?」
 と奥さんが訊いた。
「もういい、勘弁してやれ」
 と青山さんが言った。
 鮟鱇鍋の一番上に、鮟鱇の頭部が載せられ、火力を一段強くした。
 犬は腹這いになり、舌を出して荒く息をしていた。犬の役はこれで終ったわけではない。
 これだけなら、わざわざ油紙まで敷くこともなかったのである。
「さあ皆さん、煮えたところから召し上がって。パパもこっちに来て食べたら。そんな弱虫にかまってないで」
 と奥さんが声を張り上げる。
 ブルドックのロープを、リビングのドアノブに括り付けて、青山さんも席に着いた。
 コップにジュースが注がれ、青山さんはブランデーで乾杯ということになった。
「ブルちゃんが、魚屋さんの前も通れるようになりますように、乾杯」
 と小学五年生の息子が音頭をとった。
「いつもは通れたんだから、鮟鱇が吊ってあるときも、通れるようになりますように、とそう言わなくちゃ駄目だ」
 息子が父親にならって訂正の音頭をとった。
 和やかな食事会がはじまった。三匹の猫にも、それぞれ猫の器に、鮟鱇鍋がふるまわれた。それを見ても、犬は欲しそうな顔をしなかった。
「拗ねた人間みたいだな、あいつ」
 と青山さんが言った。
 上に載せた鮟鱇の頭部が煮えた頃を見計らって、青山さんが目の部分を加えたところを掬い取り、ブルドックの前に運んで行った。
 その近くでは猫が、肉の熱さに辟易しながら食事に取り掛かっている。
「おい、食べてみれよ。猫はあんなにがつがつやっているのに、猫にも笑われるぞ」
 そう言って、皿を口もとまで滑らせてやった。
 ブルドックはこれ以上拒むと、この家に置いて貰えないと思ったものか。そうではなく、ひもじさが極に達していたのか。犬はとうとう魚肉の端に口をつけた。うまい。思ったよりうまい。何だこれは。そういった発見でもしたかのように、皿の端から中心へと口をのばし、頬張っていった。
「足りなけりゃ、もっとやるぞ」
 青山さんは人間が敬遠していた骨の多い部分をあさって、ブルドックの皿に運んでやった。
 食事には奥さん手作りのパンもふるまわれた。
「メロンパンおいしい」
 一人の男の子が言った。奥さんは気をよくして、
「ママへのおみやげの分は、向こうにあるから、たくさん食べて」
 と言った。
 突然青山さんの背の方で、不可解な音が起こった。はじめ音なのか声なのか、よく分からなかった。
 青山さんが振り返ると、ブルドックが油紙の上で、奇怪な声を出して暴れ回っている。
「おい、どうしたんだ」
 声をかけられて黙るような事態ではない。不祥事が起こったのである。ゴホゴホ、ケフケフ、咳なのか呻きなのか、わけの判らぬ声を発して転げ回っている。
 どうやら骨が咽喉に引っ掛かって、もがいているらしい。そう読めてきた。
 何ということだ。人間でもそんな失策はしていないというのに。弱肉強食の動物界で、骨と骨と戦いに明け暮れてきた先祖を持つ犬が、咽喉に骨を引っ掛けるとは。赤子ががらがらを放さないように、骨を一本与えておけば、玩具にして放さないというのが、犬ではなかったか。その犬が咽喉に骨を引っ掛けるとは。
 いくらなじってみても、目の前でもがいているのを、手を拱いているわけにもいかないので、飯を丸めて飲み込ませてみることにする。鮟鱇を与えて疑心暗鬼になっている犬が、果たして人間の与える飯を口にいれるかどうかだ。
 思案していても始まらないので、青山さんは奥さんに飯を持ってこさせて、それを犬の口の中へ押し込んだ。しかしのっけから受けつけようとせず、吐き出してしまうだけだった。
 結局油紙を敷いたことは役に立ったと認めるだけで、犬のためにした鮟鱇鍋も、悲惨な結果に終ってしまった。あとは自然治癒を待つのみだ。
 幸い、骨が引っ掛かっている違和感はあっても、もがき苦しむ状態ではなくなったので、犬小屋に戻して水を与えておいた。
 犬は何も食べずに衰微していったが、三日目になって奇跡のように回復して、それからは何でももりもり食べるようになった。
 五日目に犬を連れての青山さんの散歩がはじまった。桜は散ったが、これから他の花々が次々と開いていくだろう。
 魚屋の前を通ったが、犬はそ知らぬ顔で通過した。ロープを持つ青山さんの手に、少しの抵抗も残さなかった。そうか、鮟鱇がぶら下がっていたのはあの日だけで、今日はないんだな。そう思って通り過ぎた魚屋を振り返ってみた。するとどうだ。別の鮟鱇が吊ってあった。その鮟鱇の目が、今度は青山さんを追ってくる。なぜか怖いと思い、足が速くなっていた。動悸もしている。

                了 

   ☆
 

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