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文芸の里コミュの乳母車の中にいて 1/2

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         Debussy, Suite Bergamasque. Claudio Arrau, piano


 ☆乳母車の中にいて



 そこは新開の住宅地の外れで、前方には家に接するように草原が広がっている。草原には、まばらにブナや柳などの潅木が立っている。
 一軒の住宅の中庭に、乳母車が停まっていて、赤子が天子のようにしておさまっている。買物に出る母親が家から出てくるのを待っているのである。母親は後片付けやらメーキャップに手間取っていて、既に三十分は経つのに出てこないのだ。母親も赤子がつきまとっていては、後片付けも化粧もできないので、乳母車に乗せて待たせておくのである。母親と一緒に買物に出るという目的があれば、むずからずにおとなしくしていることを、あるとき発見して、それからは早めに中庭に出して待たせるようになった。目的のあるなしは、大人に限らず、生きていく上に不可欠なものなのであろう。
 縁側には赤子が生まれる前から、この家に棲みついている猫が、転寝をしている。季節もまだ夏には早い時期で、そよ風が肌に心地よく、それは赤子だけでなく、猫にとっても同じだった。猫は深い眠りに誘い込まれていきながら、そうなるのを制御する神経が働くのか、ときどきこっくりをしている。
 赤子はおしゃぶりを銜えて乳母車に背をもたせつつ、首をよじって、あの猫ちゃんはどうしてあんなに眠いのかと、半ば哀れむような視線を送るのだ。
「よく寝る猫だよ、まったく」
 まだ言葉は遣えないながら、赤子の口の端には、そんなことを呟いているような余裕の笑みすら浮かんでいた。
 そのとき、キキキキと、けたたましい声がして、前の草原から野鳥が一羽庭に飛び込んできた。そして鳴きながら、中庭の狭い領域を旋回しはじめた。領域というより、空域というべきだろう。空中に羽ばたいているのだから。家の壁や庭木に翼をぶつけたりしながら、危機を告げ知らせようとするかのような喚きかただ。
 野鳥の声に猫が目を覚まして顔を上げた。そして小鳥がやって来た方角の草原を見やった。と、そこに目敏く何かを発見したらしく、居住まいを正し、すっくと首を伸ばして前傾姿勢になり、次にはそのままダッシュして縁側を跳び下り、生垣をかいくぐって草原へ突入して行った。その猫を追うように小鳥が低空を翔けていく。

 乳母車の赤子は、これまで遭遇したことのない出来事に、開いた口がふさがらない精神状態に陥っていた。瞳は驚き一色に光っている。赤子はなかなか母親が現われず、退屈になってきていたので、突如起こったこの出来事は、気を紛らわす絶好の材料となった。彼は猫と野鳥の向かった先に視線を走らせる。
 猫は住宅地に近い一本の潅木にぶつかると、幹の下から枝を見上げた。ここまで一直線に駆けてきたということは、野鳥のけたたましい声に目覚めて顔を上げたとき、即座に枝の上の異変に気づいたのだ。
 枝には一匹の蛇が絡まっていた。チロチロ舌を出して鎌首をもたげる蛇の先には、木の葉に隠れて小鳥の巣がある。そこからはまだ目の開かない赤むくれの雛が、ピーピー母鳥を呼んでいる。母鳥は巣の周辺を、蛇を威嚇する声を張り上げて廻るだけだ。
 野鳥の親は一体、猫に救いを求めて庭に飛び込んできたのだろうか。絶体絶命の危機を、とにかく人間に期待していたのなら、今や敵を、蛇だけでなく猫にまで広げてしまったことになる。
 いや、野鳥と猫の信頼関係は、とうに出来上がっていたのかもしれない。あの猫は決して雛を襲ったりしない猫であると、猫の日常を見てきて、確かめたからこそ、あんな人家に近い木に巣をこしらえたというのが実際なのだろう。むしろいざという時、力になって貰えるかもしれないと期待して、猫のいる家の近くの木に巣作りをしたのではないか。
 首が折れるほど上を見上げていた猫は、ついに木の幹に前足をかけると、一気に駆け登った。下か三番目の蛇のいる枝まで来ると、たった今幹から枝へと滑り移ったばかりの蛇の尻尾に、おい待てとばかりに前足の爪を立てて押さえ込んだ。
 野鳥の雛を略奪することばかりに集中していた蛇には、猫の追っ手があるなど気づいてもいなかっただけに、爪を立てられた衝撃は大きかった。電気ショックを受けたような震えが蛇の尻尾に起こり、それが猫の前足に伝わってきた。しかしそんなことで怯む猫ではない。もう片方の前足を加えて蛇を手繰り寄せにかかった。
 蛇はもう野鳥の雛どころではない。自らの命さえ危ないのである。鎌首を大きくもたげて、ほぼ半身を猫にぶつけてきたのだ。猫は開かれた蛇の口をかわして顎の辺りに咬みついた。やや浅かったので、瞬時の早業で、深く咥えこんだ。はじめに押さえた尻尾の部分から前足を剥がして、蛇の頭部へ移した。
 こうなると蛇は逃げるしかない。全身を空中に投げ出して枝からぶら下がった。しかし猫は咥えた頭部を放さない。空中でもがいて
身を揺らしても、猫は蛇の総体重を口と前足で必死に持ちこたえている。

 赤子は蛇が枝からぶら下がっているのを見たとき、小さな生き物の世界で何が起こっているのかを知った。小さな生き物といったが、赤子は自分を小さなものには数えていなかった。人間と他の生きものとをはっきり隔てていたのかもしれないが、自分が関わろうとしても、動きの取れない乳母車の中に閉じ込められていて、あまりにも世界を客観的に見ていたせいかもしれない。自分と外の世界は違うのだと。
 四五日前、母親に絵本の説明を受けていたので、枝にぶら下がったのが蛇であるとはすぐ判った。言葉は理解できなくても、身近な猫とは異なる気持ちの悪い生き物であると本能的に判った。だから
その手足のない長い生き物と、猫が相対しているとなると、それだけで大変な事件だったのだ。伝え歩きすらままならない、乳母車に絆された自分が、もどかしくてならなかった。もし羽があったらという人間の願望は、特にこの時期に醸成されるのではなかろうか。
 赤子は力むために握られた拳を突き出し、わおわおと出るがままの音声を発して意気込んでいる。足で乳母車の床を蹴るために、車は一メートルほど前に進んでいる。
 太陽の直射を避けるために、赤子は大きな夏帽子をかぶせられていた。その帽子のつばが、顔の前に垂れてきて視界を塞ぐので、赤子は帽子を払い除けてしまい、一本のゴムひもで背中にぶら下がっていた。

 頭部を押さえられてぶら下がった蛇はどうなったか。いくらもがいても解放されないと知ると、長い身を猫に巻きつけて胴体を締め付けにかかった。猫の体は端から巻かれていき、みるみる蛇の色に染まっていく。猫は体が重くなり、締められて息も苦しくなっていくが、ここで頭部を放せば、蛇の思い通りになって自分が餌食にされてしまうことが判っている。あの淫靡で堕落しきった蛇の自在になるほど愚かなことはない。息苦しくはあっても、頭部を押さえ込んでいる限り、魂を悪魔に明け渡したことにはならない。
 猫がそこまで考えたかどうかは不明だが、生きものはなべて、生きるか死ぬかの究極の判断で動いているはずである。だから飼いならされた動物でも、誤解されると怖いのである。象が飼主を圧殺してしまったり、熊がいきなり牙を剥いたりする。それは小動物であろうと、同じだ。命に尊卑などあろうはずはない。
 蛇は必死に猫の胴体に巻きついて締めていった。猫は咬みついた蛇の頭部から口を放さなかった。深く咥え込みはしたが、急所を外れているために、息の根を止めることはできないでいる。猫の唸り声は相手を威嚇して参らせるというよりは、蛇の締めに耐えられるだろうかといった自問とも受取れる悲痛な響きがある。
 ついに猫は蛇の長身に隙間なく巻かれてしまった。蛇は巻き上げた上に、締め付ける力を保持しているのだろうか。当の猫からすると、最後に締められて、自分が呼吸不全に陥ることも考えられただろう。それを防ぐにはどうすればいいか。蛇の頭を放して解放するには、時機を逸していたのである。いま放せば、蛇に自分が急所を咬まれて命を落とす危険がある。それでなくても、締め付けられて、体力を消耗していくのがわかった。
猫は最後の賭けに出た。幹にしがみついていた後足を離して、落下に身を委ねたのである。下には岩石の欠けらがあって、その角にぶつかれば、相当なダメージを蛇に与えることができる。自分にも落下のショックはあると思えるが、外傷は外側がこうむらずにはおくまい。やってみなければ判らないが、単純に考えてそう思った。
 猫はとにかく、運命に任せて、戦いの舞台を木の上から地上に移し、落下していった。落ちていきながらちらっと小鳥の巣の方をうかがったが、どうやら雛たちは安全だったようだ。蛇の口にも鳥の羽毛らしきものは付着していない。
 
 この時に至るまで、母鳥は巣に入って雛を翼の下に隠しながら、傍らの戦いがどうなっていくか、気が気でなかった。猫が戦意を喪失して、咥えた口から蛇を放してしまうかもしれないからだ。もしそんなことになれば、蛇は再起して巣を襲ってくるだろう。何とか猫に協力する方法はないものか。野鳥の唯一の武器である嘴を使って、蛇の目を抉り取ることもできるはずだが、草原に夜明けを告げて鳴く平和の使者である小鳥には、その残忍な方法は思いつかなかった。ただ蛇の力が衰えていくのを祈るだけだった。
 しかしたった今、予想もしなかったことが起こった。猫が蛇を咥え込んだまま、落下して行ったのである。

 乳母車の赤子は依然拳を突き出して、猫に声援を送っていたが、不安の方が膨らんで、ああふう、ああふうという声も湿りがちだった。何しろ自分の家の猫が、蛇の色に染まっていくという奇怪な現象が赦せなかった。生れ落ちたままの純粋な瞳は、視力二・一の威力を備えていて、猫と蛇の樹上の戦いから、その奥の小鳥の巣の様子まで、くっきりと写していた。
 と、このとき、樹上に変化があった。猫が幹から四肢を放して地上に落下したのである。その様子も赤子の網膜はくっきりと写し取っていた。さあ大変だ。戦場が地上に移ると、草の繁みやら、生垣によって、赤子の視界から消されてしまったのだ。
 赤子は動転して、乳母車は荒波に翻弄される小舟のようになった。固く握った手で天を指差し、空中に振り回し、至るところに差し向けて、声を震わせて叫んでいる。パ*パ*パ*とパまでは聴き取れるが、下が判らない。口からは涎が噴き零れ、興奮するあまり、涙まで噴き出てきた。猫と蛇の戦いを最後まで見届けることができなくて、悔しかったのかもしれない。家族の一員でもあった猫のことが心配でならなかったともいえる。
 母親が娘時代に着ていた夏の装いで出てきたのはこのときだった。まず吾子がかんかん照りの中で、夏帽子を脱ぎ払って狂気の塊のようになって絶叫しているのに度肝を抜かれた。
「どうしちゃったの、あなたは? お帽子もかぶらないで!」
 母親は息子を引き寄せると、額に手をやった。「熱い!」
彼女は一瞬自分の手を引っ込めたほどだ。次にその手を自分の額に持っていった。水道水を使っていたので、熱く感じただけかとも思ったのである。しかし自分は平熱だ。息子は明らかに熱い。庭で待たせておく反省が湧いたが、今はそれどころではない。赤子は母親が介抱している間も、体を草原の方に捩って、パ*パ*パ*と訳の判らぬ絶叫を繰り返している。
 買物に行くどころではなくなったとみた母親は、とにかく冷房のきいた室内に入れて、休ませようとした。しかし赤子は乳母車の床に足を突っ張って降りようとしないのだ。そして草原に拳を突き出しては、パ*パ*パ*と訳の判らぬ言葉を発して叫んでいる。判らないといっても、以前にも一度「パ*」と発声したことがあり、「ママ」は赤子が言える唯一の言葉なので、「パパ」と言いたいのに口が廻らないのだろうと、勝手に解釈していたのである。そう受け取った方が、自分だけママと呼ばれるよりは、気が楽だったのである。
「パパは東京の会社でしょう。そんなところにはいないのよ。太陽さんが沈んで少ししたら、ブーブーで帰って来ますからね。それまでお家に入って休みましょう」
 母親はそう宥めて赤子を乳母車から出そうとするが、全身で暴れてきかないのだ。母親には気づかれていないが、どうやら「パ*」という赤子の二番目の言語は、猫のパコだったようだ。この猫はパコという名前で、いつも母親からそう呼ばれていたのである。赤子は姿の見えなくなっている猫が、心配でならなかったのだ。
 母親はこのまま乳母車を押して、かかりつけの小児科へ連れて行くべきか、携帯を取り出していた。「もしもし、先生でしょうか。
実は子供が高熱を出しまして、パ*何とかなんて、訳の判らない言葉を発して草原を指して叫んでいるんです。多分パパと言ってるんだと思いますが、パパが草原にいるわけないのに、おかしいんです」医師がカルテをめくって調べているらしい。少しして応答があった。「とにかく休ませることです。氷枕で頭を冷やすことも必要です。以前お出ししたトンプクがありましたら、それを飲ませて下さい。二三時間して熱が引かないようなら、また電話で連絡してください。次の手を考えましょう」
 母親は覚悟を決めて強引に赤子を抱え上げ家に入れた。クーラーに近づけ涼しい風にあてても、狂気にかられたような絶叫は止まらなかった。母親は高熱のせいと考えて、以前赤子が風邪を引いたとき出して貰った熱さましのトンプクを、水に溶かして飲ませるのに苦労した。子供が訳の判らないことを叫ぶ合間に、口に流し込むのだから、容易ではない。噎せて、それが引き付けを起こすきっかけになってしまい、女一人の手には負えない状態となった。しかし携帯で夫に報せるにも、赤子から手を離すわけにはいかない。このまま狂気が持続して、吾子がおかしくなってしまうのではないかと不安だった。
 赤子を介抱しながら、何とか夫に携帯で連絡した。すぐ帰ると言っても、車で一時間半はかかる。夫が来れば子供がよくなるというものでもなく、母親一人で何とか鎮めなければならなかった。二十分もすると、さいわい薬が効いてきたらしく、引き付けは治まっていった。
 帰宅した夫には、子供が狂気にかられたようになって、パ*パ*パ*パ*と喚き散らしたことを話した。それがパパ、パパと言いたいのに口が廻らなくてならなかったとなると、息子が不憫でならなかった。どうして引き付けを起こすまでになってしまったのか。精神の障害にならなければよいがと、不安も起こってきた。いったい何故、草原に拳を向けて父を呼ぶのか、皆目見当がつかなかった。

 赤子は悪夢にうなされるのか、ときどき奇声を発した。声に合わせて力なく拳を振り回したりした。夢の中でも現実との接点がはっきりしていて、猫と蛇の塊が木の上から落下する場面を起点としていた。胸を掻き毟られるような仕種をするのは、まといついた蛇の重さを払い除けようとしてもがいていたのだ。赤子は夢の中では、パコとはっきり猫の名を呼ぶことができた。もっと、もっと、とも叫んでいた。それは猫ができるだけ木の幹から離れて地面へ落下するように促すためだった。
 何故幹から離れる必要があるのか。離れれば大きな木の切り株があって、そこに蛇をぶつけてやれば、弱らせられると考えたからだ。 切り株が木の幹から離れた位置にあると思ったのは、少し前、と言ってもつい二三日前のことだが、母親に絵本を見せられて、その中に大きな切り株が描いてあったからだった。その切り株は白くて大きく、切断面が尖っていて硬そうだった。やはり木から少し離れたところにあった。絵本の切り株にはリスが乗っていたが、赤子の夢の中での格闘の場面では、リスは消えていた。
 母親は指で絵本の絵を指し示しながら話していた。赤子に言葉は判らなくても、母親について指で絵本を追っていくだけで、中味は理解できた。その草原には、リスの他に、ウサギやキツネやタヌキも棲んでいた。小鳥もいたし、野ネズミも、モグラも棲んでいた。母親は住宅の前の草原と絵本の中の草原を同じものと考えているような口振りだった。実際絵本を指し示していた指を上げていき、窓の外に広がる草原を指差したりした。赤子の指もそれにならって、窓の外を指していた。草原には蛇も棲んでいた。絵本の蛇も木の枝にのっていたが、その蛇を説明するのに、本物の蛇の皮でできているパパのベルトを持ってきて、赤子の傍でにゅるにゅるとされたときは、思わず赤子は顔を横に向けて耳を塞いでいた。言葉など判らないのに、耳を塞いでいた。
 その蛇が猫のパコをぐるぐる巻きにして、木の上で戦っていた。そこから飛び降りるしか、猫に勝ち目はない。それはさっき赤子は視力2・0の肉眼で確認していた。そこから赤子の人生の苦しみは始まったのだ。誰にも語れなければ、それだけ苦しみはわだかまって大きくなる。脳中に蛇がとぐろを巻くようなものだ。何とかしなければ、自分自身が危なくなる。赤子が拳を振り回して絶叫しはじめたのはこのときだった。母に家に担ぎこまれ、薬でおとなしくさせられたからといって、それは外面であって、内部は治まっていない。事実、依然猫と蛇の塊は木の上にあって、早くどうにかしなければならなかった。
 切り株をめがけて、木からできるだけ離れて落下するように、赤子は願っていた。目標は木の株の尖った角だが、そこに猫がまかり間違って自分の頭をぶつけてはならなかった。そうしないためには、猫はできる限り首を引っ込めなければならないのだ。首を引っ込めると、蛇のとぐろの中に巻き込まれる寸法になるのが、なんとも嘆かわしく、たまらないことだった。
 実際に草原に入ったこともないのだから、切り株があるかどうかも不明だ。しかし赤子の中には、母に教えられた絵本に端を発して、切り株は瑞々しい光を放って存在した。そしてパコのいのちは、落下物が切り株に届くかどうかにかかっていた。しかもその際、パコは咥えている蛇の頭部を放して、とぐろの中へ潜り込むことが大切だった。それには一瞬の早業を必要とする。赤子の頭はそのシュミレーションをするために緊迫していた。脳の深いところの緊迫を維持するために、赤子の周囲は熱く煮え滾っていた。それが発熱の誘因であり、悪夢となって魘されていたのだ。
 
 一時間ほど悪夢の中を彷徨っていると、おい、パパだぞ! すぐ近くで男の低音を耳にして目を開いた。しかしパパはいても肝心なパコではないので、再び目を閉じてしまった。眼を瞑れば、すぐ眠りに入って、悪夢の続きを見ることができた。 
 荒唐無稽な夢に、発展などというものがあるかどうかは判らない。しかしそこに時間軸を置いてみれば、発展も進捗もあるといわざるを得ない。
 母親に乳母車から家に連れ込まれ、薬を飲まされ、寝込んで最初に見たのは実際に肉眼で目撃した木の上の光景で、まさに猫と蛇の塊が落下の寸前だった。そして猫が木の幹を蹴って、空中に浮かぶまでの息詰まるほどの有様を悪夢の中で繰り返し見せ付けられていたのだ。
 その後父親の帰宅などで、夢が掻き乱されたりしたが、間違いなく猫は空中に身を躍らせ、木の切り株を目指して落下したはずである。切り株の尖った角にぶつかって蛇の力が衰えたのなら、猫は華々しい勝利とはいえないまでも、とにかく勝つには勝ったのだから、家に帰って来ていいはずだ。パ*をパパと誤解した父親は帰宅したというのに、当の猫が現われないとはどういうことだ。
 赤子は皺ひとつないつるつるした額に渋面を作り、考え込んだ。パコは切り株に頭をぶつけてのびてしまったのだろうか。猫と蛇ともに気絶して倒れているのだろうか。それとも猫は勝ったのだけれど、命を落として絡み付いている蛇を取り除くのに手間取っているのか。赤子には皆目見当がつかなかった。ただこれだけはどうしても考えたくなかった。それは猫だけ切り株の上にのびていて、蛇が立ち去って行く光景である。あるいはのびた猫を蛇が首に巻きつけて、意気揚々と蛇の故郷へ凱旋する情景。
 赤子は悪夢の中での自分の戦いが足りなかったと見て、もう一度眠りに入った。意識が霞んでいく間際、ざらざらした肉厚な感触が額にあって、
「だいぶ熱も下がったようだな」
 と父親が母親に話す声がした。
「大丈夫かしら。それならお医者様に来ていただかなくていいわね」
「いいさ。医者だって、夜中にここまで来るのは大変なんだし、昼間は昼間で外来の患者がいて、時間外勤務になるんだから。それにしても、どうして引き付けまで起こしたのかなあ。今はやりの熱中症か?」
「暑いことは暑かったわね。それなのに夏帽子をかぶせたのに脱いでしまって、口の周りを涎でいっぱいにして、壮んにパ*パ*って意気込んで叫んでいるんだもの、私びっくりしちゃったわ」
「パパと呼びたいのに、言えないもどかしさから、そんなになってしまったのだとしたら、僕にも責任があるね。今度の休日には、動物園にでも連れて行ったやるか。ママとはあっさり呼べるのに、パパが言えなくて悪戦苦闘してそんなになったのだとしたら、可愛いところがあるじゃないか。僕もママ、ママと連発しているのには、僻みっぽくなっていたからなあ」
「そうしてあげて。喜ぶわよ、あの子。でも動物園に行くのはいいけど、蛇を見せちゃ駄目よ」
「どうして」
「あの子、蛇には鋭く反応するみたい。だって絵本を見せていて、蛇が出てきたから、あなたが昔していたベルトを出して見せたのよ。これが蛇よって。そうしたら、そっぽを向いてしまって、体を強張らせていた」
「しかしあれは蛇といっても、合成革だよ」
「あなた私とデートしている頃、これはニシキヘビだって言ったわよ」
「そんなことあったかねえ。それを本気にする君も君だよ」
「本気も何も、あなたが本革だって言ったんだもの。私がそう信じて、あの子に示せば、あの子だって、蛇と信じるわよ」
 この夫婦の会話が、子供に届いていたわけではない。たとえ聴こえていたにせよ、言葉を話せない赤子に伝わりはしなかっただろう。 実際のところ赤子に睡魔が襲ってきて、夢は第二の戦いへと突入していった。第二の戦場の基点は、木の上から木の切り株へと移っていた。

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