ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

文芸の里コミュの温泉宿

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加


               Rosemary Clooney - Over The Rainbow

 ☆温泉宿


 少女がナップザックを背負って温泉宿を出ると、小鳥が壮んに唄っていた。尾の長い鳥だ。その尾を抑揚をつけるように振っている。
 少女にも唄えと促しているように聴こえたから、口笛を吹いてそれに応えた。
 小鳥は鳴きやまず、ますます高い声で囀り出したので、少女は、
「ハレルヤ アーメン」
 と唱えた。小鳥は唄うのを止めた。口笛とはあまりにも違った発声にたじろいだのか。少女は鳥を黙らせたのに気をよくして、覚えている聖歌を鼻歌にして建物を廻り、宿舎の表側から駅へつづく道を歩き出した。
 二階の窓が威勢良く開く音がして、
「また来年来てね!」
 と背に黄色い声が浴びせられた。振り返ると、従業員の中で一番親しく口を利いた若い女が窓から顔を出していた。
「来るよォ、カナちゃんも、お嫁に行かないでいてね」
 少女も負けずに叫んだ。
「カナちゃんじゃ、ないよう。ナカちゃんだよォ!」
 と若い女が叫び返した。
「ゴメン!」
 少女は自分の頭を拳でこつんと叩いた。いつも温泉宿に連れられてきていた祖母が、間違えてカナ、カナと呼んでいたのを踏襲してしまっているのを感じた。少女は悪びれて、
「ナカちゃんも、お嫁に行かないで、待っていてね」
 と言い直して叫んだ。先程は、「お嫁に行かないでいてね」だったのに、約束の度合いを濃くして、「お嫁に行かないで、待っていてね」と言わされてしまったのを、狐につままれたような思いで噛み締めていた。
「モチ・モチ・モチの、オーケーだよ」
 と若い女のナカちゃんが言った。「だからあんたも、間違っても彼氏なんか連れて来るんじゃないよ」
「モチ、モチ、勿論」
 と少女が叫んだ。
「分ったら、行きな。ぐずぐずしてると電車に遅れるよ」
 ナカちゃんは言って、手にしていた叩きを、手旗信号のように振った。

 両親が働きに出ている少女は、幼い頃から祖母の手で育てられた。
 祖母について教会にも行ったし、毎年教会の修養会が持たれる温泉宿にも出かけて来た。
 ごみごみした都会を離れた山の空気は新鮮で、宿で出されるタラの芽の天ぷらとか、山女の唐揚げは、家では口にすることのできない絶品だった。祖母と一緒に湯に浸かるのも好きだった。祖母は修養会のとき以外にも、年に二回は肩や腰の痛みを癒やすために、温泉宿を訪れていたが、それにも少女は同行していた。
 その祖母は、一年前に他界してしまった。
 祖母がいなくなってみると、少女は若いにもかかわらず、ふと体の奥深くが疼くのを感じるようになった。そんなことから、単独での温泉行きを試みたのである。
 ナカちゃんは今いる温泉宿で生まれたということだ。それは祖母から聞いていた。祖母はナカちゃんの母とも親しく、その母親は祖母に何でも打ち明けたらしかった。ナカちゃんの母親はこの温泉宿で働いていて、男と知り合い、身籠ったのだった。ナカちゃんはいわば、父親を知らない私生児なのだ。
 ナカちゃんの母親は何と、祖母が亡くなるのと時を合わせるように、一年前に他界していた。それを少女は今回の訪問で知らされたわけだった。
 祖母とは言いながら、少女にとっては母親のようなものだったから、ナカちゃんと同じ苦しみに見舞われたように思った。他人事ではなかった。
 ナカちゃんは高校二年生の少女よりは年上で、二十二、三歳にはなっていたが、生前の母親について、見よう見まねで温泉宿の仕事を手伝っていた。
 それらの予備知識を持って、少女は出掛けて来たのであるが、ナカちゃんの母親が亡くなっていたというのは、祖母から教えられていなかった。同じ年の同じ頃この世からいなくなったのだから、無理もない。
 これは少女の単独行からずっと後になって気づいたのだが、ある日、ふとラジオのチャンネルを回していて、新約聖書にある「カナの婚礼」という言葉が耳に飛び込んできた。そのとき何故か祖母の勘違いに不審を抱いた。祖母は分っていて、孫娘に語る話の中で、あえてナカちゃんをカナちゃんと言い続けた気がした。敬虔なキリスト教徒の祖母は、孫娘を信仰に向かわせようとして、彼女なりの策を巡らせていたように思えたのである。
 しかし祖母の死から一年後、少女が冒険の一人旅を敢行したとき、祖母の仕組んだ企みになど気づくはずもなかった。
 ナカちゃんをカナちゃんと呼び違え、本人に指摘されていくらか悪びれはしたものの、しれっとして高原の駅に向かって一歩一歩、歩みを進めていた。
 祖母と来たときには、駅から宿までタクシーを往復利用したが、今はそんな贅沢はしていられなかった。
 少女は長いなあ、と呟いていた。言っておきながら、何が長いのか、明確なものが浮かんでこなかった。来年ここを訪れるまでの一年が長いのか。単に駅までの道程なのか。それとも、これからつづいていく自分の人生なのか。そのどれでもあるようでいて、どれでもないようでもあった。
 いい相手を見つけて、家庭を持つまでの長い年月のことだろうか。違う。私の人生はそんなに平凡なものじゃない。それでは私の人生には何があるの? そう心の奥から問いかけてくるものがある。
 すぐ近くの木で鳥の声がした。見上げると、長い尾を上げ下げして唄っている。さっきの鳥が送ってきたんだなと思った。
 少女は口ずさんでいた聖歌が何であったか忘れてしまったので、山の娘ロザリアを歌って行った。古い歌だが、祖母がよく唄っていたので覚えてしまった。鳥も負けずに唄いながら、木を移ってくる。
 鳥の声の調子がおかしく、少女の歌と似ているので、真似をしているな、あの鳥、と思った。
 駅前広場を進んで行くと、線路を打つ車輪の響きがしてきた。間に合ってよかった。駅舎の屋根に鳥が一羽留まっている。

                        了

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

文芸の里 更新情報

文芸の里のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング