ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

文芸の里コミュの狭められた蒼い聖域

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

                Chopin Nocturne No.20 in C Sharp Minor


   ☆

蒼き海と定めて書けば
一方の蒼き風も忘れてならず
と神はのたまふ

   ☆


 台風が上陸するかもしれないと予報が出ていたが、海はまだいくぶん波立っている程度だった。
 そのせいで岩鼻にいた一家四人が、高波にさらわれて行方不明に なっていると聞いても、簡単には信じられなかった。
 しかしつい一時間前、写真家の国井が岬のこの場所に立ったとき、ここから段になって落ちている岩鼻には、確かに四人(両親と十四、五歳の娘と七、八歳の男の子)が釣りを楽しんでいたのに、今は消えているのである。そして海には十隻をこえる船が出て、彼等を捜し回っている。
 岬は事故を聞いて駆付けた人々で混雑している。一台のブルーの セダンが、海に向かって駐車している。この車は、一時間前、国井がここに立寄ったときもあった。遭難した一家の乗ってきた車らしい。
 国井の耳に入ってきた情報によると、一家から少し離れた岩場で釣りをしていた男が、辛うじて高波を逃れて四人の遭難を告げに走った。周期的に押し寄せる大きな波をはるかに越えた、想像を絶する高波だったという。
 捜索する船の上を、ヘリコプターが旋回している。何艘もの小船が、波に翻弄されながら四人を捜し回っていた。
 国井は捜索の様子がもっとよく見える所まで岩場を下りて行った。
 海は先程の無気味な静まりとは様相を変えてきている。間違いなく台風は接近しているようだ。風も、逆巻いて吹いている。
 数人の潜水夫が、断崖下の洞穴を探っていた。
 国井は一時間前、岩場で釣りをする一家を見ているだけに、よけい心が苛まれていた。そのとき岬には数人しかいなかった。今ここに駆つけている人々より、国井はずっと四人とかかわりが深いことになる。それだけに、一家の行方が気掛かりで、時間が経つほど絶 望感が身につまされて深くなっていった。
 背後に目をやると、一家のブルーのセダンが沖の方を向いて駐まっている。飼主を待っている犬のように見える。
 国井は岬から徒歩で約十分の国民宿舎に泊まるつもりだった。夏 も過ぎ、シーズンオフになっているから、部屋は空いているだろう。それでも早めに予約しなければと焦るが、四人の行方が気になって、ここを離れられなくなっていた。
 もう一時間半にもなるのに、どうして一人も見つからないのだろ う。しかし運よく見つかっても、これほど時間が経っているのだから、生存している可能性はないかもしれない。気絶していて、息を吹き返す例もあるのだろうか。
 海は徐々に黒ずんできている。波も確実に高まっている。岩縁に立っていても、時折頬に飛沫がかかるほどだ。
 スピーカーが、高波の危険があるので海に接近しないようにと繰返している。この分では、そういつまでも捜索が続けられるとは思 えない。やがて打切られるだろう。
 近くに立っている人のポーターブルラジオが、いきなり音声を上げた。高波による漁船の転覆があり、ここから巡視船が向かったと 報じている。
 少し前、嵐をついて沖の方に向かう船があったが、それが巡視船だったのだろう。今はそこに、荒海を遮る船影は見当らない。
「この調子では望みなしだね」
 傍らの男が、連れの女に言った。近くの一家の遭難から、沖の漁 船の遭難へと転ずるような言い方だった。黒々とうねる海原を見る 限り、この者の言う通りだろう。
 しかし国井は、海にではなく、真上の空にかすかな希望を繋いだ。海はかき曇って荒れてくるにもかかわらず、上空は逆に明るんできていた。このただならぬ雲行きのなかにあって、一箇所だけ、雲に 裂目があり、蒼い空がのぞいていたのだ。そこに四人が、一瞬のう ちに吸い取られて行ったとは考えられないだろうか。そんな神秘な 出来事が、人目に触れることなく、起こったとは信じられないだろ うか。
 旧約聖書に出てくるエノクやエリヤが天に挙げられたようなことは、今は起こり得ないのだろうか。
 黒雲が押し寄せ、空の裂目はだんだん狭まっていくが、深淵が完全に消されてしまうことはなかった。犯し難い聖域のように残されている。
 三時間経っても、遭難者は一人も発見されなかった。国井は、発見されないほうがいい、そう祈る気持に傾いていった。遺体で発見 されるのなら、見つからないほうがいい。
 岬に駆け付けた人々も帰っていき、残っているのは関係者と近隣の者たちばかりになっていた。
 台風はすでに上陸したのかもしれない。暗黒の海に、白波が壁のように立ち上ってきた。捜索の船は、自ら遭難の危険にさらされて動き回っている。
 国井は、岬の国民宿舎に泊まる予定を破棄して、このまま次の列車に乗ろうと思った。
 岩場を登って行くと、一家のセダンが四人の行方を案じて、ヘッ ドライトで照らしていた。そう思ったのは錯覚だった。遠くの灯がライトのレンズに反射して耀いていたのだ。                                                                                                                            了 

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

文芸の里 更新情報

文芸の里のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング