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文芸の里コミュの獅子ここにありき

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                        Adagio in G Minor (Albinoni)   

                        


 Sがいつものように帰宅して門の前まで来ると、堂々とした鬣の雄のライオンが地面に腹這いになり、菜園の南瓜を前足で押さえて貪っていた。テレビ等でライオンが獲物を押さえて食べる光景は見慣れているので、はじめはさほど驚かなかった。
 しかし通せん坊する具合に、茶色の獣が腹這っている姿を目の当たりにすると、唯事でなさを実感して、Sは後退りした。それから危急を告げに、近くの交番に向かって走り出した。
 門は二本の柱を立ててあるだけで、扉はついていない。したがって、庭へは猫、犬、人間誰でも自由に出入りができる。しかしライオンが入り込むとは、まったくの想定外だ。あまりのことに、とっさには信じられなかった。
 走っているうちに、事の重大さを認識していきながら、それでも鞄を投げ出さずに、ちゃんと抱えて、交番に走ったということが意外でもあった。まず家にいる妻と五歳の息子に、絶対外に出ないように告げなければならないが、携帯を取り出している余裕はなかった。またよしんば携帯が繋がったにしろ、庭にライオンが来ていることを、どう説明したら信じて貰えるか、伝える自信がなかった。冗談か、何かの比喩くらいに受取って、確認のために外に出てこられたりしたら、それこそ命に関わる重大事だ。
 交番はSの住宅から二百メートルと離れていなかった。彼は息せき切って飛び込むと、しどろもどろの状況説明をした。
「何、ライオンが庭に入り込んで、南瓜を貪ってるって!」
 Sより一回りは年配と思える、五十代後半の巡査は、声を張り上げてそう言った。そう言う間、Sから寸秒も目を離さなかった。
「ハイ、大きな鬣を持った雄のライオンです。家族に伝えたいのですが、お巡りさんが証人になっていただけますか。電話をしても家内が信じてくれなくて、確認のため外に出てこられたら、ひとたまりもありませんので。ちょっと電話をお借りします。携帯よりは交番の電話のほうが信頼がおけますので」
 Sが交番の電話に手を伸ばすと、
「ちょっと待った。ライオンがいたと言われても、わしも信じていないのだ。そのわしがどうして証人になれる」
 警官は依然訝しげな目でSを見据えながら、そう言った。それからこの界隈の環境調査票のようなものをめくって、氏名、年齢、家の番地、電話番号等をSに言わせて、照合していった。「勤務はD証券会社と、いいね。それからここには載っていないが、あんたの病歴は?」
「病歴なんてありませんよ。健康には自信がありますから。とにかく急いでください。信じられないのなら、現場に行って確認してください。ライオンがいきり立って、向かってきても知りませんよ。私はとにかく家族に知らせないことには、居ても立ってもいられないんですよ」
 そう急かせるSに、警官はますます思案顔を険しくしていった。そして勝手に電話をかけ始めた。
「もしもし、こちら橘交番ですが、至急救急車の手配願います。自宅の庭にライオンが入り込んで、南瓜を貪っていると、連絡してきたんですよ。はあ、いたって健康体ですから酸素マスク等の心配はありません。ただ、その……でありまして、麻酔の注射、いや麻酔銃は必要かと、相手が相手なものでして……」
 警官は受話器を手でかばいつつ、Sに背を向けて声を落としたり、思わせぶりに声を張り上げたりしながら話している。どうもこれは、ライオンの収容というよりは、自分をどこかへ連れて行こうとしているな。Sはそう睨んで、絶望の色を深めていった。こうなったら、場所を移して、携帯で自宅に知らせるしかない。
 Sは交番を出て、自宅の方へ足を向けた。
「君、待ちたまえ。今しかるべき最善の方法を取ったところだから」
 警官はそうSを呼び止める一方、「そういうわけです。至急願います」と電話を切った。
 Sは警官の声を振り切って歩きながら、携帯を取り出し、番号を押した。しかし何ということだ。話し中ときている。妻のほうが先にライオンを発見して、夫の帰宅時間と重なるのを心配して、手配を打っているということか。警察にではなく、動物園にでも連絡しているのか。あるいはそのほうが、賢いやり方だったかもしれない。
 警官が忍び足で背後に迫ってきているのは分かった。話の内容を探ろうとしているらしい。
 Sの足取りは一段とスローになっている。それはそうだ。ライオンのいる庭へと近づいているのだから。時間を費やしているうちに、黄昏の色は濃くなっている。近くの樹で蜩が啼きはじめた。
 一週間前、クーラーに切り替えてよかったと、Sは胸を撫で下ろしていた。もし自然の風に任せて、窓を全開にしておいたら、どんなことになったか。庭木と雑草の繁茂で、窓からライオンは見えないが、ライオンが嗅ぎ付けてきたら大変なことになる。
 ここから自然動物公園は、そう遠くない距離にある。ライオン、虎、熊、豹といった猛獣から、カモシカ、縞馬、キョンといったおとなしい動物、またさまざまな野生の鳥なども飼われている。昔から動物公園はあった。人家のない場所へ隔離するようにして、動物公園は運営されていた。そこへ開発の手が伸びて、住宅地として売り出されていった。自然動物公園も、住宅を売り込む格好の材料になった。まさかライオンが逃亡するなんて、考えも及ばなかった。
 Sも妻と三歳になったばかりの息子を連れて、一度訪れたことがある。ライオンも見たはずだ。確か鋭い牙で、丸太のようなものを齧っていたと記憶している。丸太を齧らせることで、鬱屈している野性を宥めようとしたのか。
 それにしても、ライオンがここまで来ているのに、騒ぎにならないというのはどういうことだろう。閑静な住宅地で、人通りもまばらだが、人の目にまったく触れずに、ここまで逃げ延びてこられるとは考えられない。
 いつから庭に入り込んでいたのか、想像の域を出ないが、あの南瓜の食べ具合から見て、そう時間が経っているとは思えない。ライオンが逃げたと騒いでいる様子はまったくないのだ。もっとも騒いでいれば、Sが交番でこんな目に遭うはずもないのである。Sは今、警官に尾行される羽目に陥っているのだ。一言、ライオンが庭に入り込んで南瓜を貪っていると話したがためである。あの百獣の王ライオンが庭にいるなどと言っても、信じないほうが当り前なのだろう。Sにしても、自分が妻に話しても、とても信じてはもらえないと思ったから、公僕たる警官を証人に立てればうまくいくと考えたくらいなのだから。
 それがならなかったとなると、携帯で一か八かの挑戦をしなければならない。Sは間隔をおかずに、携帯の番号を押した。依然話し中だ。そもそもライオンが我が家の庭に入り込む前、何人かには目撃されているはずだ。しかしその者たちも、ライオンが住宅地をうろついているはずはないとして、自ら見たものをも、夢か幻にしてしまったのではないのか。
 ではどのくらい相手が立ち勝って迫ってきたら、幻ではなく、現実として認識できるのだろうか。Sは自分がはっきりライオンだと判断して、交番へ駆け込もうとした発端がなんであったのかを、意識に上らせてみた。
 門を一歩入るやいなや、家の方を向いて腹這う後肢の辺りの茶色い筋肉の張り、そのふてぶてしさ。また尻尾の先端までライオンの神経が通っていて動いていたこと。ライオンは家の方を向いて南瓜を齧っていたから、顔を合わせないですんだ。もし目が合っていたら、飛びついて来たかもしれない。それでなくとも、あの迫真の臨場感は、もう夢とか、幻影などとは言っていられなかった。
 ライオンを見ていながら、それを届けるものがいなかったというのは、恐らく距離が離れていたとか、物陰であったとか、どこか迫り来るものに欠けていたのだろう。あるいは、たまたま弱視の人であったとか、妄想癖の強い人であったとか、最近よく取り上げられるようになったアルツハイマーの人が散歩していたとか……。
 そんなことを考えながら、話し中の携帯に何度も何度も挑戦していた。交番までほば二百メートルの距離の半分は来てしまった。もし今ライオンが門を出て、こちらへ向かって来たら、Sはどこへ向かって逃げればいいのか。それは警官にしても、同じ危険に身を曝していることになる。交番まで引き返す時間はない。ライオンは短距離向きとも聞いている。百メートルそこそこは、ライオンにとって、もっとも力の発揮される距離だ。警官が走り、その後を追って、Sが走り、まるで捕物劇を逆転したような光景が浮かんでくる。ライオンが追ってくるか、否か、振り返ってそれを確かめるゆとりすらないのだ。
 このときだ。救急車のサイレンが、閑静な住宅地を揺り覚ますように鳴り響いた。サイレンはこちらへ進路をとって、高鳴ってくる。救急車というよりは、けたたましい鳴物の塊のようになって迫ってくる。
 救急車はSの住宅の角を曲がると、姿を見せて疾走して来る。ライオンのいる庭をあっさりやり過ごして、交番を目標にしてくる。弥が上にもサイレンは耳を聾するばかりに狂騒してくる。道に立つ警官を認めると、サイレンが止み、車もストップした。
「この人です」
 警官はSを示した。骨格のたくましい二人の男が、Sを挟み込むように寄ってくる。「お宅には、私がこれから行って伝えますから、心配しないで」
 警官はSをいたわるようにそう言った。
「あなたが私の家に行くって? ライオンに食われに行くんですか。あなたが信じないのを、私は決して責めませんよ。庭にライオンがいるなんて、信じられなくて当然なんです。つぶさに見たものでなければ、信じるなんて、所詮無理なのです。そこで、提案なんですが、あなたも私と一緒にこの車に乗せて貰って、ゆっくりゆっくり私の門の前を走って貰いましょう。サファリ・パークを行くような感覚で…」
 こう言い終わらないうちに、住宅の角から中年男が飛び出し、血相を変え、何やら叫びながら走ってきた。
「助けてくれ!」
 と男は叫んでいる。喘ぎの中に「ライオン、ライオン」というような声が紛れ込んでいる。
 男は、救急車と警官の前に来ると、ゴールに駆け込んだマラソンランナーのように、そこにへたり込んでしまった。
 二人の屈強な男が、Sから離れて倒れ込んだ中年男を助け起こしにかかる。荒っぽく当たってみたが、怪我らしきものはしていない。
 男は苦しい息を衝きながら、話しはじめた。その内容は、ざっと次のようなものだった。
 彼は町工場の作業を終え、いつもと同じ帰りの道を急いでいた。後ろから救急車がサイレンを高鳴らせて来たので、道を片側に寄った。救急車は彼を抜かして行き、Sの住宅の角を曲がって、走り去った。
 何か事故だなと思っていると、程なくして、ライオンが飛び出し、角を曲がり男の方へ向かってきたのだ。逃げる間もあらばこそ、疾風のごとく男を突き飛ばして行った。彼はライオンが追ってくると思い、一目散に助けを求めて走った。
 男はここまで来てようやく、ライオンが追ってこないと分かった。ライオンの向かった方角には、約二キロ先に動物公園がある。おそらく、そちらへ引き返して行ったのだろうと、余裕を取り戻した男は言った。
「とにかく、速かった。そして怖かった」
 と男は結んだ。「ライオンの鬣に擦られた感覚が、まだありますよ」
 彼は言って、ライオンと接触した手の甲を見つめていた。
 警官は男からSに向き直ると、
「Sさんにはとんだご無礼を働きました。信じられなくて」
 そう言って帽子を取ると、深々と頭を下げた。
「いや私だって、妻を説得する自信がないので、交番に駆け込んだくらいですから」
 とSは言った。事情を読み取ったらしい男が、割って入った。
「野良犬みたいに、ライオンが住宅地をうろつくなんて、誰だって信じませんよ。私は救急車の先触れがあって、何かあったなと、予感したから、ライオンが目に入ったのでしょう。それでなければ、鬣振り乱して駆けて来る暴れ馬と見たかもしれない」
「その獰猛な動物をこのままにはしておけませんので、私はすぐ捕獲の手配を致しますので」
 警官はそう言って、皆に角度を変えた敬礼をすると、交番に戻って行った。

 警官が本署に連絡を取り、動物公園に問い合わせがいって、飼育係が点検したところ、ライオンの三つの檻には、ちゃんと一頭ずづ収まっており、異状はなかった。ただ一つの檻にかぎり、鍵の掛け忘れがあった。
 勤務は昼夜で交代していたから、昼の飼育係に連絡すると、鍵の掛け忘れなどするはずがないと、言い切った。しかし、失念とは、すべてこのようなものであろう。それだからこそ、失念なのだ。鍵が二重になっていようと、そんなことは問題ではない。
 では、当のライオンは、自然に開いた扉を押して、外の世界に出て行ったが、どうして舞い戻ってきたのだろう。けたたましい救急車のサイレンに、よほど驚いたとは分かるが、せっかく掴んだ自由の世界を、むざむざふいにすることもなかったであろうに。
 ライオンに特有の直感で、短時間のうちに知ってしまったのであろうか。外に自由などないと。
 残念ながらこのライオンには、アフリカの草原の記憶など皆無だったことだ。なんとなれば、ライオンはこの檻の中で誕生し、五年の歳月をずっとここで過ごしてきたからだ。いわば動物園が生まれ故郷だったのだ。
 だからといって、ライオンにはもっと本来的な、自由への希求というようなものは存在しないのだろうか。存在しないはずはない。しかしあまりにも深く眠っていて、気づかないのだ。だからこそ、彼は丸太を齧るのだろう。木がずたずたになるほど齧る。
 Sは食い荒らされた菜園の南瓜を見て、ライオンの心の奥底をそんなふうに思い巡らせていた。眠れる獅子、しばしここにありき。                                        了

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