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文芸の里コミュの潮のように 未完 4

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 一息つくと左条雅彦は、奈美からのプレゼントのケーキを開いて、食べはじめる。奈美にもすすめたが、彼女は腹部を抑えて、家庭教師の家で充分食べてきたからと断った。
 今日は家庭教師の月謝も出たことだし、このまま車をスタートさせ、どこかのレストランで、彼と二人だけのクリスマスを祝いたかったが、たえずいろいろな面で卑屈になっている彼に、それを言い出すのはむずかしく、断念するしかなかった。とりあえず、今彼が最も必要としているであろう寝床を与えることが、一番願わしいと思えたが、いざそれを口にしようとすると難しく、じっと言い出す時をうかがっていた。まるで近くに寄って来て、何かを狙っている飼猫になった気分だった。
「左条さん」
 奈美は話の合い間を狙ってことばをはさんだ。
「え?」
 と左条が顔を上げて、横から奈美に目を向けた。奈美は黙っているわけにいかなくなり、自分があたためてきた野望について話さないではいられなかった。それはイブの前日から、今日までの短い期間ではあったが、他の方法が見つからないほど、綿密であり、唯一無二と言える大胆な野望と呼べる計画であった。
「左条さん、あなた今日これから、どなたかと約束があったわけじゃないよね」
 と奈美は単刀直入に訊いた。
「僕に?」
と左条は、彼自身に指を向けて訊いた。
「僕は人と約束などできる身分じゃないよ。自分自身との約束だって、できない状態なんだ。これは精神状態のことだよ」
 左条のそういう話しぶりから、そしてこの短い問いに探り得た、彼の人生経験から、奈美に納得のいくものだっただけに、彼女はほのぼのとしたぬくもりを感じた。左条が惨めであればあるほど、自分は彼のためになれるという自負心に裏付けられたものであったにせよ、手放せない事柄として奈美に迫ってきた。それなら、さっそくそれを実行に移さなければ
ならない。彼女はそう得心して、話を進めた。
「なら、これからこの車をスタートさせて、私の家に行かない?」
「この間持ちかけてくれた、話だね。考えてみたけど、僕には農業の仕事に携われる才覚なんて、まったくないんだよ
「才覚なんていらないわ」
「それなら、園芸の仕事を手伝う実直さも備わっていない。僕に今、さほどの抵抗なくやれるのは、路傍で弾き語りのように歌う、流浪の歌だけさ。金銭にはまったくならないけどね」
 奈美は左条の暗さにのめっていき、先程までの計画も、やはり野望に過ぎなかったのかと限りなく悲惨、陰惨な方向へ落ち込んで行きそうになっていた。そこからの脱出口は見つからなかった。
 なければ、左条を残して、このまま走り去るしかない。
「さいなら。私の誤算だった。ごめんなさい」
 奈美が涙をこらえて、そう言おうとした時、ぽつりと左条の口が開いた。
「嬉しいよ。僕にそんなこと言ってくれるのは、君しかいないからね。僕が君の申し入れを感謝して受け入れさえすればいいんだ。
 でも、どうして君は、そんな人のために尽くすような大らかな気持ちになれるのだろう。そこが分らない。そこまで自分を投げ打って人のために尽くそうとする気持ちが分らない」
 奈美は左条の言葉に救いを得たような、気分になった。それは、感謝して受ければいいと言っていたからだ。そして奈美は人を救おうとか、人のために尽くすというような、大それた気持ちは、一つもなかった。そうするのが、奈美にとって、もっとも楽であるから、彼を受け容れたいだけだった。
「自分を投げ打ってなどいないわ。私が楽だから、そうしたいだけよ。人のためじゃない、私が自由になるためよ。私自身が楽になりたいからよ」
 奈美はそう言ってことばを震わせた。その声は、左条を動かした。奈美にはそう実感できた。
 左条はしばらく俯いていて、その顔を上げると、
「もしかして、君は僕とどこかで逢ってはいないよね。何年か前に、高校とか、さっきのように路上のミュージシャンの歌を聴く仲間の一人として……」
「会ってなんか、いないわ」
 奈美は左条の思い付きを強く否定した。否定する必要があった。[私があなたを見かけたのは、あのドイツ語の授業で、どかどかと教室に流れ込んで来たグループの中に、あなたを見かけた、それだけよ。でもあなたは群れの中で行動していただけで、あなたは違っていた。どうしてなのか分らない。でも違っていた。みんな単位を落として、そのために卒業できないでいる、一群れなのだから、それなりに苦しみを負っていたと思う。でもあなた一人だけは、苦しみの中身がちがっていた。苦しみが深いとか浅いとかいうんじゃなくて、あなただけ別なことを考えていたのよ]
 奈美はそのとき彼に抱いた感情を表現できないままに、そう言うしかなかった。
「別なこと?」
 と左条は考え込んだ。
「そんな時、僕の頭に占めているのは、家を出て行った母親のことなんだよ。13歳の時だったから、まだ母親を必要としていたと思う。そんな僕が幼い子供のように求めた母が、目の前をスーッと横切ったりするんだな。だから僕は目を瞑って、そんなイメージを吹き飛ばそうとするんだ。目を瞑って安らぎの訪れるのは、意識が薄れて来て眠ってしまう時さ。逆にたまらなくなるのは、外でしきりに鳥が鳴いているとき、特にあの郭公に啼かれると、胸がうずいて来て、どうにもならなくなる。うずくと言うより、胸を掻き毟られる思いだ。実際は額を抑えたくらいでは治まらなて、、胸を掻きむしっているんだ。。寝ているときに事実そうしたらしくて、胸に傷跡があって、乾いた血もついていたよ。あの郭公の啼く声はたまらないね。郭公は自分で雛を育てないで、鶯とかメジロの巣に卵を産んで、ほかの鳥に孵化させて、そのまま育児までさせるんだ。托卵という習性があるらしい。
 高原に行くと、その郭公が来て啼くので、僕は高原が嫌いだ。郭公は自分の子がこの近くにいるはずだ。いれば大きく育って、母親の声に応えて、どこかから出てくるくらいに思っているのかもしれない。
 奈美はドイツ語の授業中、左条がコックリをしていたのを、まざまざと思い出していた。あのときは「この人、寝ていないんだわ」と独り決めして、その後で「可哀そうに」という思いだけが残されたのを振り返っていた。
 彼女が今、左条に関わろうとしているのは、その思いの延長に自分がいるからではないのかと、隣の左条を重ねあわせて考えていた。本当の母親に育てられた奈美は、左条の思いを知らなかった。けれども、知らなければ、知らないなりに、自分からその思いを引き受けようとしているおバカさんの小娘。それが自分なのではないか。そんなとりとめない心に振り回されて、ハンドルを強く握り、自分の車を横一線の車列から前へ出していた。
 左条は心もち慌てて身を起こしたが、黙っていた。
「少し走るわね。外気に当るために」
 奈美はそう言って、帰りの道程へと車を進めて行った。
「あなたがイースターの前日唄っていた、あのメロディもう一度聴きたいわ。あのCDはないの?」
「あの唄か」
 左条ははにかみを含み、苦り切ったように言った。しかし自分の得意な分野に話を運ばれて、蘇ったようだった。頬が崩れていた。
「そう、あの曲よ。あの曲を聴いて、私しびれちゃった。私があなたに話しかける決心を促したのは、あの物悲しい曲のせいよ。帰りの電車の中でも、ずっと私のなかで鳴り響いていたもの」
「うん」
 左条は自分の不運の運命にも、納得がいったとでもいうように、幾つか頷いてから、ぼそりと洩らした。
「僕はメロディーを移し取る学がないから、口を開けて唄うだけさ。前にも、あの曲のCDを求められたけど、断るしかできなかった。それでもCDを求めている人がいると知って、僕は嬉しくなり、大学の仲間に、採譜をしてくれないかと、頼んであるんだ。彼は自分の曲作りに忙しくて、なかなか人のものにまで関わってくれないけれど、そのうちやってくれると思う。きっとやってくれるさ」
 左条雅彦は、夢見るようにそう言った。

 奈美はその時、何も気づいていなかったのだが、左条の語るその大学の仲間こそ、奈美の前に登場してきて、左条雅彦の運転する車を襲って事故死に至らせた後、奈美の不幸を補う形で、入籍した現在の夫なのである。
 あんなにも性急に左条を実家に迎え入れようとしなければ、彼の運転する車が事故に遭遇することはなかった。
 左条はその日、新しい顧客になってくれるに違いない期待を持って、その客のところへ園芸植物を満載した軽トラックを走らせていた。前方確認不注意によるコンクリート壁への激突事故。不慣れな運転と、早く園芸作業に習熟しようとする、彼の誠実さが招いた事故だった。
 いち早く左条を我が家に迎え入れようとした奈美の望みがことごとく裏目に出た左条の死だった。
 なぜそのとき、あまりにも早過ぎる左条の死を予見できただろう。彼女は知り初めた恋の情熱にうっとりとなり、未来も現実もかき消されて、左条を乗せるために父から無理に借り出した車を、フルスピードで走らせていた。
「この車どこへ行くの」
 左条が突然、表情を曇らせて隣の奈美に訊いた。
「車の行くところによ」
 奈美はそう答えるしかなかった。
 左条には想像はできたが、それを持出し、不穏な炎の火を煽るのも考えものだった。そこで黙り込んで、左条は普段の孤独の殻に潜り込んだ。
「私ねえ」
奈美はそんな彼を自分の方へ引き戻そうと、朗らかに言った。
「あなた、ドイツ語の授業中、コックリしてたでしょう。自分のコックリに揺さぶられて、あなたは目が醒めたけど、またコックリをする。その時、私に目覚めた感情、何だか判る? 私自分でも分らなかったのだけれど、あなたが今しがた話してくれたので目覚めたのだけれど、「可哀そうな人」と思ったのよ。お母さんとの間が、そんなになっているなんて、まったく知らないのに」
 辺りは夕景に染まっていき、車の前方に夕焼けが貼りついていた。流れ去る外灯も光を強めていた。
 左条は四囲の街に浮かび出る看板の電光文字や車の信号などから、奈美が彼女の実家に向けて車を走らせていると悟った。一つのバス停が迫ったとき、左条は決然と言い放った。
「ここで車を停めて。僕はバスで帰るから」
 奈美は左条の言葉の、あまりの強さに、車を停めた。
 奈美は「もうこれまで」と絶望的になっていたが、逆にそんな彼女を揺さぶって、目覚めさせてくる別の力が働いていた。それが母性の強さでなくて、何であろう。
「それはできないわ。仔犬を道路に置きっ放しにして、一人で帰るなんてできないの」
「少しは僕の気持ちにもなってくれよ。僕にもプライドってものがあるんだ、くだらない気負いでしかなくても、それがかろうじて僕を生かしているんだ。
 君の善意はよく分かった、しかし僕はそんな甘い汁ばかり、吸ってはいられない身分なんだ。僕が定宿のようにしているポンコツ車だって、親父の残してくれた形見の宝物だ。
 親父は家を出て行ったおふくろを愛していた。それは家を出て行った後の、落ち込みようを見ても、家出をする前の母への思いやりからも、十分頷けるものだった。
 君が今、僕の不幸に気づいて、その足らなさを補ってくれようとしているのは分る。僕にはそれにもたれかかって行きたい気持ちも十分にある。でも僕は父と一緒に暗い人生を歩んで来たんだ」
 左条がバス停を確認し、前ドアから出ようとしたとき、奈美はその腕にすがって、
「行かないで、お願い。私のことも分って」
 と叫んで彼に倒れ込んだ。そうしながら片手で車のクラクションを押していた。その警笛に左条が慌てて奈美を抑えこみ、車に留まった。
つづきます。


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