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文芸の里コミュの潮のように 未完 1

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 赤子の家の近くには木工場があって、いつも機械鋸をひく気だるい音を響かせている。
 赤子は猫と呼吸を合わせるように、寝てばかりいたから、じっさいの音なのか、夢の中に響いてくる音なのか、判断するのが難しいほどだった。
 おそらく夢の中でも同じ音が鳴り響いていて、夢の影響を加味して大胆に大きく、更なるリアリティーを持たせて、鳴動しているのに違いなかった。
 夢の中の物語では、赤子は決して崩れることのない堅牢な城を建設中だった。
城の材料は矩形の木である。以前母親と積み木遊びをしたことがあり、
夢はその仕掛けを大きくして、見事に粉飾してあった。
材料はいくらでもあった。絶えず作業中の木工場から運ばれてくるのだから、至極当然と言えた。
城が完成に近づくと、きまってそれを壊しに来るものがいた。
 はじめその悪者が何ものであるか判らなかったが、最近になって、身近にいる猫らしいと読めてきた。  何しろ夢の中では、大きな動物に変身しているので、初めの頃は虎だと信じ込んでいた。
 その虎が赤子に限りなく接近してきて、額をぺろぺろ舐められたりしているうちに、これは変だと思うようになり、城を壊してしまったので、悪びれて機嫌を取りに来ているのだと判断し、夢の中でその猫を
思いっきり蹴とばしてやった。夢の中でやったことだが、現実に猫を蹴飛ばしていた。
 猫はギャフンとかケフンとか、呻き声を発して眠りから覚めると、逃げ出していき、庭の椿の木を伝って塀に飛び乗り、向こうの路地に跳び下りると、しばらく帰って来なかった。
 四五時間したころ、塀の上に猫の影がさして、三匹の猫が並んで赤子をにらんだ。
 今寝ると、夢の中でこの猫どもに食われてしまうと思ったから、ママを呼んで、動物園に虎を見に連れて行ってくれとせがんだ。
 まだ二歳半になったばかりの赤子は、言葉が思うように出てこないので、
 もどかしかった。
 明日動物園に行く約束を取り付けて、それまでは寝ないように辛抱した。虎を見てじっくり観察すれば、その攻略法も分るというものだった。



 翌日の昼過ぎ、四十分電車に揺られて動物園のある街に赴き、母と子は虎の檻の前に立っていた。もっとも赤子は抱っこ紐で囲われていたから、立っていたのは母親だけで、赤子は前向きに母親に抱かれていたと言うべきだろう。しかし虎を見せるように迫ってからの赤子は、それまでの赤子とは違って、格段の成長を遂げたように母親には見えた。主張するということは、とりわけ猛獣を見せよとせがむのは、大きな変化でもなければ、現れてこない内部からの突き上げなのだ。
 虎は床に寝転がって、一本の太い丸太を抱くような格好で、いつもと変わり映えのしない檻の前の風景を、見るともなく眺めていた。
と、その眼ががぜん光を放ち、すると体のほうもそれにつられて緊張が走り、四本足で立ち上がると、見物客のほうへと踏み出したのである。
檻の前には、気色ばんだ赤子が小さな拳を振り上げて、虎を威嚇している。その口からは涎が吹きこぼれて、息を溜めて膨らんだ頬ははち切れそうである。そこに溜められたものを吐き出さなければ、爆発するのは時間の問題だ。
このとき赤子から、唯一意味を持つとおぼしき声が洩れて出た。赤子は、
「トットー、トットー」
 と発声している。赤子につききりで、ただ一人の吾が子の翻訳者と言える母親も、はたと行き詰った。これまで赤子が発した、はっきり固有名詞と分るものは三例ある。一つは母親の自分を呼ぶときのママであり、二つ目が雄猫のトモキであり、三例目が中庭を挟んで祖父母の住む母屋で飼われている梟のフクちゃんだった。
この梟のフクちゃんは、祖父が山の花畑で花の取入れをしているとき、軽トラックの屋根に乗っていて、車をスタートさせても降りる気配を見せず、そのまま自宅に連れてきてしまったという経緯があった。山で親にはぐれてしまったのだろうと、祖父は話していた。この梟のフク子は赤子の良彦にもよくなついて、母親がポテトフライなんかをこしらえたときは、フクちゃんに上げるのだといってきかなかった。猫のトモキ以上に愛すべき仲間だと考えているようだった。夜行性の梟が,そのときは昼間でよく目が見えないところを、祖父が大きな眼鏡をかけているので、目の大きな梟の親戚筋くらいに考えたのかもしれなかった。それにしてもよく懐いて、村役場に勤めている祖父が出かけてしまうと、祖母の後を追い回しているが、それにも飽きてしまうと、中庭を挟んで別棟になっている良彦の家に向かって奇妙な声で呼ぶのである。すると赤子は昼寝をしているときでも、パット梟のようなつぶらな目を開いて、
「フクちゃんら」
 と三つしか話せない固有名詞の一つを過たずに用いて、梟の見えるところまで縁側を這って行くのだった。
その良彦が四つ目の固有名詞を、四十分電車に揺られてやって来た虎の檻の前で披歴したのであった。指さして愛玩のものを示すのではなく、敵意をむき出しにして拳を突き出したのである。
虎は赤子の気色ばんだ異様さにつられて立ち上がっては来たが、親に抱かれた乳飲み子にすぎないと見て取ると、侮蔑の表情に一変して檻の中をめぐって行った。赤子はその間も興奮して拳を振り上げ
「トットー、トットー」

 と叫んでいた。足を母親の腹部に押し付け、蹴って躍り出て行くほどの力みようである。もし檻がなければ虎に跳びかかって行ったかもしれない。身の程知らずとはよく言ったものである。
「あれは、トットーじゃなくトラっていうのよ」
間違えを訂正した形ででも、一つの名詞を習得させればいいと、母親は心を切り替えてそう思った。しかし赤子から、その呼び声は退いていかなかった。そもそも赤子の要望を訊こうとして絵本を開かせた時から、その声は赤子の口から洩れていたのではなかったか。
良彦は動物絵本のページを次々とめくっていき、一匹の動物が現れると、ぴたりと体の動きが止まり、絵に見入った。虎の絵だった。赤子はその虎を指さした。
今その虎は、絵本から抜け出して来たかのように、檻の内側を巡って行き、赤子と対向する位置に出ると、再び赤子と顔を合わすのは御免だとでもいうように、向こう向きになり、深山幽谷を模した箱庭のような世界へと丸太の橋を渡って行った。渡り終えて二つ三つ岩山を登ったところで体を横向きにして、こちらを見た。あの乳飲み子はまだいるか、そんな態度がありありと見える。



 この遠景へと退いた虎に向かって、赤子の良彦はまた拳を振り上げて唸り声をあげた。赤子の身振りは、虎の怒りを煽った。今までは乳飲み子の思い違いか、空想のひとり歩きくらいに考えていたが、ここまで退いて赤子に降参した素振りを見せているのに、なお歯向かって来るということは、ただごとではない。あの執念深さは子供のものではなく、大人だ。
 そう考えると虎は怒りの権化となって、箱庭のようなちゃちな岩山を一気に駆け下り、丸太の橋を一跳びに越えて、赤子に向かって突進した。牙を剥き出し、唸り声を上げて。
 赤子は怯まず、むしろ戦う好個の相手を迎えたとでもいった面構えを見せて、身を乗り出した。
 虎は檻の鉄格子と厚いガラスで阻まれてしまった余力を、鉄格子に手を這わせて立ち上がり、さらに上へと跳ね上がることで解消しようとした。
 赤子がその仁王立ちになって立つ虎と、直面することはなかった。その前に怖れをなした母親が、身を翻して逃れ出たからである。
 赤子は体をのけぞらせ、足をばたつかせて、虎の檻を後にするのを悔しがった。赤子の良彦からすれば、夢の中で雄猫のトモキを何十倍にもしたような巨大な虎と戦う疑似体験を、何度もしていたから、実物の虎を見ても、怖ろしいとは感じなかった。
「もうトラさんはたくさん。動物園もたくさん。駅の前のパーラーに入って、良彦の好きなミルクセーキでも飲みましょう」
 母親がそう宥めても、トット、トットを連発して、ご機嫌ななめだった。母親がパーラーと口走ったことも、パパと聞き違えて、赤子は不愉快でならなかった。これまで幾度となく、パパ、パパと、父親を覚えさせるための訓練を受けてきて、辟易していたからである。
 何となれば、そのパパは赤子の本当の父親ではなかったのである。むろんそんな事情など、二歳半の赤子が知るはずもない。良彦が母親の胎内にあって、生まれ出る二箇月前に、実の父親は不慮の交通事故に遭って他界していたからである。
 動物園を出ると、公園になっていた。そこを十分ほど歩くといろいろな店の並ぶ通りに出る。その中の一軒のパーラーに入った。この店は現在の夫の大輔とも東京に出た帰りなどに寄っていた。そのとき良彦は祖母に預けてきていた。
 窓際に席を取って、良彦を向かい合わせた席に坐らせた。少し楽になりたかったし、赤子にもいいと思えた。抱かれていても、体を縛っているとも言えた。
 良彦は椅子を二つ並べたほぼ真ん中に腰かけて、母親に眠そうな目を向けた。虎と対峙した極度の緊張が、今ぐっと疲れとなって押し寄せてきたのだ。
 注文したミルクセーキが来ると、女店員に頼んでベビー用の腰掛を出して貰った。これだと高くなるので、ストローが自分の頭上にくるようなことはない。赤子は手を伸ばして、ストローでグラスの中をかき回していたが、少し手元に引き寄せてストローを銜えた。
「おいちい?」
 と母親が訊いた。赤子は母を見て心もち顎を引いた。肯うことと、首を横に振ることで、ほとんど会話はできてしまう。たとえこの二つの仕草ができなくても、表情を見れば赤子の心のうちは読み取れるというものだった。
 それにしても、この子があんなに虎に執着しているのは、どうしてなのだろう。母親が考察しなければならないのは、まずそれだった。そしてトット、トットと言うのは、どこから赤子に侵入してきた言葉なのだろう。
 良彦が夫のことを、パパと呼ばないことに、母親の奈美は少なからぬ拘りがあった。確かに夫は良彦の実父ではないが、その実際を赤子は何も知らないのである。夫は他界したのだから、対面などしていない。出生したときには近くに今の夫がいて、赤子を抱いたり、あやしたりして、実の親のように世話をしたのであった良彦が物心ついたときには、事実を教えることにして、それまでは本当の親のように振る舞えばいいと、奈美の両親も言っていた。むしろ両親のすすめで、先の夫が死去して半年が経つと、奈美は今の夫と同居をはじめたのである。別棟の今の新居を建てたのも親のはからいだった。前の夫とは母屋に両親と一緒に住んでいた。そして今の夫は雇人として、Y市から通って来ていた。
 奈美の実家は観賞用植物を栽培する園芸農家だが、花の栽培を含めて、手広くやっていたのは、祖父母が健在だったときで、祖父は六十代後半で亡くなり、一年後には祖母が亡くなって、人手が足りなくなった。奈美の父は高校を卒業してすぐ村役場の職員として働いていたので、職場を辞めて園芸作業に取り掛かるというわけにはいかなかった。その分母親の負担が多くなった。それを気づかって、父は職場に出る前とか、帰宅してから、また休日を家業に振り向けて、一心に働いていた。奈美もできるだけ母の家事や園芸の仕事を手伝うようにしていた。
 その頃奈美は、農家に嫁の来手がないというのを、自分の家も同じ目線で考えていた。つまり自分の家にも、結婚の相手は現れないだろうと。
 しかし村の青年会に入り、誘われるままにいくつかの集いに出席してみると、農家の次男坊、三男坊はけっこういたのである。奈美は結婚相手を探すとなれば、家業を継ぐために彼等のなかから選ぶことになるのだろうと、漠然と考えたが、その方向へ進むにはまだ早過ぎた。それは父母も考えたようだった。とにかく農家に嫁の来手がないというのは深刻な問題だったが、農家の娘に婿の来手がないというのではなかった。奈美は何人かにドライブに誘われもしたが、その気にはなれなかった。グループで、男女の触れあいじみた会に出るのも億劫だった。父と母も、娘の結婚を急いではいなかった。花嫁修業を兼ねて、街の大学に通わせるのも、将来の結婚に役立つかもしれないと考えるようになった。たしかに人では欲しいが、父母が協力してやれば、こなせない仕事量ではなかった。と言うのは、祖父母のしていた園芸植物の栽培を、ずっと縮小していたからである。

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