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文芸の里コミュのトビウオ 掌編

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トビウオ


 ◇

 間もなく四月になる昼時、電車の旅をしていた画家のSは、車窓のすぐ近くを燕の群れが移動して行くのを目にした。電車は相当の速度で走っているのに、それよりも速く飛んでいるのだ。しかし電車を追い抜いてどんどん先へ進むほどではなかったので、燕の飛ぶさまを間近に観察することができた。視線を前席の窓へ移動させる間も、燕の群れは飛び去らずに残っていたからである。
 さてその群れの中に、一羽だけ奇妙な鳥が混じっているのを発見した。まず白と黒で大きく色分けされている燕とは外見が大きく違う。その一羽は、黒白ではなく、全身が銀色なのである。翼などあるのかないのか、飛んでいるからにはあるにちがいないが、ボディーと同色の鰓のようなものをピンと張って、仲間に遅れまいと懸命について飛んでいるのである。
 画家のSはスケッチ帖を開いて、その奇妙な鳥を描いていった。元来精密画を得意としたから、この鳥の描写にも、手はそのように動いたはずである。
 この時、燕の群れにちょっとした異変が起こった。今まで電車と燕の群れには、速度の僅かな違いはあっても、平均して同じ高度を保って飛んで来たのが、いきなり一つ上の窓へと移動してしまい、一羽の奇妙な鳥だけが、下の位置に取り残されたのである。おそらく先頭の燕が、前方に障害物を見つけて位置を上方へずらしたのに、後続の燕たちは敏捷に従って高さを変更したが、奇妙な一羽だけはそれがかなわず、立ち遅れてしまったのだろう。しかし突発したこの現実が、一羽の意識に及ぼす影響は大きかった。気落ちして飛ぶ力を落とし、ほとんど失速状態に陥った。画家がスケッチブックから視線を空に向けたとき、その一羽も上の群れもきれいに窓から消えていたのである。
 駅が迫ってきて電車が速度を落としたことから、その間に燕たちは飛び去ったと見るべきなのだろう。Sは下方に取り残された一羽が気になった。そう思うのが自然であろう。電車内のアナウンスが、間もなく登山口駅に停車すると告げている。Sはスケッチブックを閉じて降車口へと向かって歩いた。Sのスケッチの旅は海岸駅から登山口までの一駅だった。
 電車を降り、ホームを歩いていくと、一つのベンチに褐色の猫が蹲って日向ぼっこをしていた。近づいて行くと、猫の下には銀色の魚が横たわって尾を振っている。
 Sはベンチの前に立って、上から銀色の魚を覗きこんだ。どこかで見たことがあるなー、この魚。そう呟いてSはスケッチブックを開いた。そうだ、間違いなくあの奇妙な一羽だ。これは鳥ではなく、トビウオだったのだ。海面上を飛んでいるとき、南国から渡って来た燕の群れに紛れ込んでしまったのだろう。
 あのとき気落ちして速度を鈍らせたトビウオは、このベンチで力尽きてしまったにちがいない。
 猫も上から降って来たトビウオを、自分の収穫物とは見ていないようだった。それはいくらSが近づいて覗きこんでも、決して唸ったりしないことでも明らかだった。魚の目の辺りを頻りに舐めているが、食べる前段階としてではなく、何か崇高なものに敬意を持って遇しているようだった。
 トビウオは体の下側になっている胸鰭をばたばたやって、なんとか体を起こした。ということは背を上に向けて、泳ぎの体勢をとったということである。海からの風が来て、駅舎のトタン屋根がパタパタと鳴った。猫のざらざらした舌に舐められて汚れの幕を取り除かれたトビウオの目は、純粋さに肉薄して、赤く充血しており、Sの目には見えない海を見ているようだった。先ほど燕の群れに混じって飛んで来た時とは逆向きになって、頭は海岸駅の方を向いている。その海の方角から、第ニ陣の強い風が来た。風を受けようと、トビウオは左右の胸鰭を張って回転させた。猫は胸鰭の凄まじい振動に目を擦られ、逃げ腰になっている。ざらざらした舌で魚の目の汚れを舐め取ってやった猫は、今や開眼したトビウオの羽搏きに目を擦られ、閉口していた。
 次にSが見たのは、空中に舞い上がり、線路上を海岸駅の方角へ飛んで行くトビウオの勇姿だった。いくら目が曇っていたからといって、魚が登山口へなど来るべきではなかったのだ。Sはそう思って、トビウオが無事故郷の海へ帰還できるように祈った。

  おわり


  ◇

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