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文芸の里コミュの少年の夢 未完 27

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 マリエとアユミの母で、若き未亡人のトキエは、来年春になったらすぐ耕して、種を蒔けるように、山に接する地の開墾に取り掛かっていた。
 マリエは小学校に、アユミは堂田へのおみやげにする卵探しに懸命になっていた。雪になれば埋まってしまうので、アユミはいつもついて来ていた母の所へも来ないで、卵を探し回っていた。
 そんなにも幼い娘の心を捉えてしまった堂田という男について、母親もまた心を動かしていた。レンのおかみさんの話では、先妻に若く先立たれ、後妻には逃げられた父親の、ぱっとしない43歳の一人息子ということだが、トキエはもっと詳しく知りたかった。独身であるらしいとまでは分かったが、どこかに決まった女がいるのか、いないのか。それがもっとも大きな関心事だった。二人の娘の母というハンディを考えれば、ぱっとしない男の方が取りつき易かった。
「そういえば、春夫さんの義理の妹が、S町総合病院で看護師をしていると言ってたなあ」
 とレンのおかみさんは洩らした。
「その看護師の甥子が、堂田という人を助け出したのよ」
 とつづけて「今度、春夫さんが見えたら、訊いてあげるよ」
 とおかみさんは言ってくれて、
「何か分かったら電話してね」と頼んでおいたのだが、まだその連絡はなかった。それほど日数を経ていないし、春夫さんが店に来ていないのだろうと思えたが、おかみさんから春夫さんに電話では訊けないのだろうか。そんなもどかしさも感じていた。
 それほどトキエは、アユミの堂田への執心ぶりに踊らされ急かされていた。アユミは堂田のことを、自分の父親だと思っているのだろうか。母が堂田を知らないのだから、そんなはずはないと推しはかれても、アユミが好意を抱くということは、自分の父親とどこか似たところがあるのだろう。トキエは測量技師との挫折で、あの色濃い絶望に打ちのめされていたとき、アユミの父親に救われていた過去を思いやるにつけ、堂田は大きく目の前に立ち塞がってきた。見舞いに行ってあげよう、心からそう思った。アユミを連れて、明日でも行こうかしら。一度そんな気持ちが芽生えると、居ても立ってもいられなくなるのが、彼女の娘の頃からの性分だった。そして十八歳の若い身で、妻子ある測量技師に飛び込んでいき、転落の人生を味合わされる破目に陥ったのである。でもそんな不幸を招いたのは、自分の罪からではなく、トンネル開通の計画が、実現しなかったからなのだ。そうトンネルになすりつけていた。
 そのトンネル口になるはずだった岩山は、すぐ目の前にそそり立っていた。掘削困難をつきつけ、娘のトキエを打ちのめした山は、十歩も進めばぶつかる距離にあった。しかし何故、選りにも選って、そんな青春の恨みを置く場所に戻って来てしまったのだろうか。今一度、その失敗を取り戻すとでもいうように。もしや、それが今登場してきた、堂田なのではあるまいか。彼女の中で血が滾ってくるのを感じていた。
 トキエは来年のために原野を耕地に整えるはずが、その平静さを保てなくなり、一服しようと煙草を銜えた。ライターで火をつけようとするが、ライターの火が出ないのだ。出るには出ても、火花が散るにとどまり、煙草に点火するまではいかない。何度試みても、火はつかない。
 そのうち薄曇る空にぴかっと稲光がした。閃光と同時に、轟く音もした。冬の雷なんて珍しい。しかもトキエのすぐ上で閃光は走り、光に寄り添うようにゴロゴロっと鳴った。アユミはどうしているだろう。放し飼いの雌鶏が産み落とした卵を探して、狐か狸のように笹薮の中を這い回っていて、この雷鳴にも気づかないのだろうか。いくら卵を集めたって、母親の私が連れて行かなければ、堂田に届けられはしないのだ。マリエは帰路に就いているはずだが、雨に遭わないで、無事に帰れるだろうか。冬に襲い掛かる雷雨なんて聞いたことがないが、現に今、ゴロゴロ鳴っているのは、冬の雷雨の先触れである。
 娘を心配する一方で、トキエはこう思った。マリエは雷に慌てて、頼んでおいた煙草を、忘れないで買ってくるだろうか。あと五本しか残っていないので、マリエが今日忘れたら、大変なことになるのだ。トキエの煙草中毒は募って、この頃では日に一箱では足りず、一箱半吸うようになってしまった。
 トキエは今、あまりに火がつかないのに苛立って、ナップザックを置いた所まで行って、予備のライターを探りにかかった。あるにはあったが、これも同じように火がつかない。ライターと煙草に当てこすって罵っていると、雷鳴が爆発し、彼女は立っていることができずに、地面に投げ出された。仰向けにではなく、俯けに倒れたのは、上から襲い掛かる雷鳴を逃れて、本能的にとった防禦の姿勢なのかも知れなかった。銜えた煙草も、手のライターも飛ばされて、口にも手にも何もない。トキエは自分の周囲をうかがい、耳を覆っていた手を放した。そうか、煙草は手で耳を塞ぐために、とっさに手放したんだな、と納得した。周辺に木の焦げる匂いが漂っている。
 顔を上げて目に飛び込んできたのは、いちいの木の幹が、地面から二メートルほどの高さで切断されている光景だった。切断された幹の上部は、地面に突き刺さっている。いちいの木の皮は剥ぎ取られ、白い木肌が剥き出しになって、煙とも蒸気ともつかないものを発散させている。
 無惨に折られたいちいの木は、トキエが子供の頃から頑健な姿をさらして立つ、一家の守り神ともいえる象徴的な存在だった。それがたった今、落雷によって切断され、木ではなくなっていた。彼女の頭の中は、雷鳴とは異なる轟きで一杯になっていた。この感覚をどう言えばいいのか分からない。名状しがたい重さと軽さが拮抗したような、奇妙な感覚で鳴り響いていた。腰を抜かしたらしく、立つこともできない。
 地面に倒されたまま、どれくらいの間、ここにいるのだろうか。時間の感覚がなく、朝なのか昼なのかも自覚できないのだ。手足も体も動かず、首から上の顔だけ、上げたり下げたりできた。その顔を、切断されたいちいの木の先に向けると、岩山になっている。トンネル口になるはずだった岩山である。
 その頑丈強固で、どうすることもできなかった岩山が、どうしてか堅牢であるにもかかわらず、トキエの手に負えそうなのである。
 目を凝らしていると、岩山の奥で小さく赤く火のようなものが燃えている。いくらライターで点けようとしても点火しなかった火が、あんな所に移って燃え上がろうとしている。そう思うと同時に、炎が翼を広げるように大きくなっていた。何かしら、あれは? あまりの不思議さにトキエは、その真相を探ろうとして、さらに顔を上げる。ぎくっと首が鳴ったが、痛みはない。肉体より、精神の方が強いのだ。落葉を敷いていた顎が上って、よく見ると、火は燃え上がる炎から人の形に変形して行った。しかも徐々に青みを帯びていく。ふと、そこに人型が立った。やっぱり中に人間がいる。そう思ったとき岩山の中から声が洩れ出た。
「私のために、祈りの家を建てなさい。家の前に十字架を立てなさい」
 密やかにではあるが、静まりの奥から声は確かにそう言った。空耳ではなく、確かにそう聴こえた。呼びかけに応えるように、トキエは口を力いっぱいに開いて、
「主よ、そうします。私の住む家を、祈りの家にします」
 と言った。有無を言わさず、言わされたと言ったほうが当っている。応えた後、岩山を見ると、分厚い岩石の向こう側に青空が見えた。トンネル! 思わずそう口走ってしまったが、実際目の前にトンネルが穿たれ、向こう側の世界が、青ずんで控えていた.海なのかもしれない。空と海が渾然一体となっているのかもしれない。とにかく、これまでトキエには訪れたことのない、夢見るような世界だった。追い求めてきた少女時代から18歳までの青春が、いまそこにあるとでもいうように控えていた。

 アユミは雷鳴に怯えて家に逃げ込み、これまで集めた卵が雷にさらわれないようにと、抱え込むようにして坐っていた。そこにマリエが学校から帰って来た。
「ママは?」
 と窓に連なる山の方角をうかがった。雷鳴ばかりで雨は降っていないが、二人の娘は心配になって、山の畑へと急いだ。
 母親がうつ伏せに地面に倒れ、顔だけ動かして何やらわけの分からぬ言葉をとなえていた。
 娘二人で母を抱きかかえるように立たせた。しかしすぐ腰が抜けたようになって倒れこむのを、三四度抱き起こしているうちに、母は地面に立てるようになった。母が立つ姿を見届けて安心したマリエは、
「私、これから安住商店に行って、お母さんに頼まれた煙草買ってくる」
 そう言って、山の畑を駆け出した。簡単に言うが、安住商店までは、往復三時間はかかるのである。
「マリエ、行かなくていいの。ママは煙草を吸えなくなった」
 マリエは信じられない顔で立ち止まったが、母が倒れていたことといい、いちいの木が切断されている有様から、人知の及ばない大変なことが起こったのだと考えるしかなかった。母が煙草を嫌うようになった、それだけで大異変が起きたとしか考えられなかった。
 そうはいっても、これまで煙草を切らしたときの、母のどんらん振りを知っているので、マリエはマラソン選手がスタートする前の態勢にも似た物腰でいた。その娘に向かって母は、自分のジーパンのポケットから、残っていた五本の煙草を一本ずつつまみ出すと、冬草と枯葉の地面に投げ棄てて行った。観客に芸を見せる手品師のように。マリエはそれを見て、村の中心へ駆けるのをよして母と妹の方へ戻って行った。ちらっと白く冷たいものが、顔に降りかかった。アユミが自分の上にも降りかかるのを見て、
「白いチョウチョ」
 と叫んだ。
「初雪だわ」
 とマリエが頬を染めて言った。雪は見る見る密度を濃くして、地面を襲うように降ってきた。アユミにとっては降る雪を見るのは初めてで、
「チョウチョ、チョウチョ、チンコイチョウチョ」
 とはしゃいで目で追いかけている。一家がこの村へやって来たのは三月の末で、地上に雪は多く残っていたが、降ってくることはなかった。
 ちらほら降ってきた雪は、みるみる密度を濃くしてゆき、視界をぼかすほどになってきた。
 雪が本格的な降りになると、母親のトキエが岩山に向かって、何やら叫びはじめた。前の岩山に向かって、両腕を広げ 二人の娘にはまったく意味不明のことばを発して、叫んでいるのだ。雪が本格的に降り出したのを、自分たちが祝福されたと受け取り、そんな天の計らいに感謝をささげるといったひびきをもっている。ここへ来てから耳にしたことのあるアイヌ語でもなく、もちろん日本の言葉は一つとして入っていなかった。
 マリエとアユミは母が狂ってしまったと思った。心配のあまり、マリエは坐り込んで、母の狂乱振りを聴くまいとして、手で耳を塞いでいる。アユミは姉の傍に立って、今となっては二人だけになってしまった家族を気遣うように、しょんぼりしている。
 母は絶叫をぴたりと断って、二人に歩み寄って言った。
「神様から来たことばで祈ってたのさ。心配することなんてない。これからは何もかも神様に任せるんだ。この雪はそのしるしだよ。神様が来てくれたというしるしと、恵みだよ。
 昔通じなかったこの岩山のトンネルが、今開通するんだよ。目を瞑って祈ると、そのトンネルが見えてくる。この山の向うに青い世界が広がっている。さっき倒されたときは、目を開いていても、青い世界がのぞいていたよ。海でも空でもなく、二つが溶け合ったような澄んだ透明な世界だった。青い世界があった……。
 母親はそう言って帰るしたくをはじめた。雪は地面を埋めるほどになっていた。
 アユミは唇を紫色にして、手に冷たく降る雪を、ふっふっと息で吹き飛ばしていた。

  未完

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