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文芸の里コミュの少年の夢 未完5

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桃子は母子と1時間ほど過ごして、小野上純子の家を辞した。自宅へ車を走らせながら、短くはあったが、これまでにない密度の濃い時間を通ってきた気がしていた。
 結局、幼子を抱くことはなかったが、少しも悔いは残っていなかった。その際どい体験を経なくても、幼子との心のやりとりは無言のうちに済ました気がしていた。怖れて逃げたのではないと、桃子は自分に言い聞かせていた。取り返しのきかない機会を逃したとは思っていなかった。
 赤子が目を開いたときに、桃子に向けてきたあの静かに澄んだ目が忘れられなかった。無言のうちに、最も愛する母親の味方として、迎え入れていたのである。そう信じることができた。スーパーのベンチの片隅で桃子に抱かれて意識なく眠り込んでいた時も、今から振り返ると、母の友人として認めていた態度とも読めた。その点では、桃子と母親はひとしい存在で、二人の母親であったのだ。
 桃子が開いた折り詰め弁当の煮豆を、母親が噛み潰すという手順を踏みはしたが、喜んで食べてくれたことも、桃子の中に熱く焼きついていた。
「おいちい?」
 と母親が訊いたとき、もっとくれと、拳を振り回した行為も、桃子を受け入れるしるしだった。
「この子の命の恩人は今、どうしてるのかしら?」
 そう言って、小野上は険しい目を桃子に向けてきた。気にしていて訊けないできたという緊張が、ありありと出ていた。よく訊いてくれたと、桃子は胸がいっぱいになった。「「幹太はねえ、人命救助で、表彰されたんですって。つい最近のことよ。馬車を操っている人がねえ、馬方っていうの? 今どき旧いわよねえ、馬車なんて。馬が木の林檎を取ろうとして、後ろ足で立ち上がったために、馬車が傾いでその人が地面に転げ落ちたらしいの。転げ落ちて路上でのびているのを、学校帰りの幹太が見つけて、救急車に連絡して、私の病院に運び込んで助かったの。それでその人は大事には至らないで意識が戻ったんだけど、倒れている人を見つけて救急車に連絡するだけでなく、頭を冷やすとかして行なった行為が、立派だったんですって。それで新聞にも載せられて、大騒ぎだったの」
「ちっとも知らなかったわ」
 小野上は青ざめてそう言った。「育児にかかりっきりで、命の恩人のことも知らないでいるなんて」
「命の恩人なんて、大げさよ。幹太も、当たり前のことをしただけだって、言ってるわ。でも少年野球のミットを貰ったのは、嬉しかったらしい」
「野球少年なのね」
 小野上純子の目に希望の光が宿った。やがてヒロキもそうなると、希望が飛び火したのに違いなかった。
「ねえ、いつか幹太君に会えないかしら」
 そう言って純子は身を乗り出してきた。
「いいわねえ、ヒロキ君も一緒だと、幹太もよろこぶわよ。ヒロキ君はまだ、野球のことは分からないし、口もきけないけど、心は通じるんじゃないかしら。今度幹太に話しておくわね」
 桃子はそう言って、先程から心をふさいでいる問題に踏み込んでいった。
「さっき目に飛び込んできたアニメのキャラクターみたいな絵は、何なの?」
 家に飾る絵としては、数が多いことと、訴えてくるイメージが尋常でなく、度が過ぎていたのである。
「ああ、あの絵のことね。さっきは後から話すなんて言っておきながら、すっかり忘れてたわ。あれはね、いざというときの生活の手段として、勉強しておこうと思ってはじめたの。家庭なんて、いつ何が起こるか分からないでしょう。あなたみたいに、しっかりした腕があれば、安心だけど、私は学校へ行ったわけでもないし、何もない。この子を抱えて生きていくための手段として、いろいろ手を出してみているのよ」
 桃子は小野上にこう言われると、注意する言葉が退いていった。子供を楽しませるために、マスコットを置くように部屋を飾っているとしか、思えなかったのである。一見して、悪趣味だと思った。それなら友人として忠告しなければと、考えたのであった。
「びっくりしたでしょう。下手な絵がずらりと並んでいて」
「そんなことないわ、上手だわ。ただ時代が時代だから、あくどさも要求されるのよねえ、現代は」
 桃子は話を打ち切ろうとして、そう言った。そろそろ母親を赤ん坊に返そうと思った。
 玄関を出ようとしたとき、ベビーベッドに置いてきた赤子が、一声発した。
「まだ帰らないでって、言ってるわよ」
 と母親が言った。別れ際に桃子が上から覗いたときは、赤子の顔は頬が緩んで、目には親しみが込められている感じだった。
「また来ますからね、ヒロキちゃん!」
 桃子はそう大きく叫んで、非常階段のような階段を降りて行った。ハンドルを握り、エンジンを始動させる。アルコールなど一滴も口にしていないのに、酔った気分になっていた。


 このあたりで、すっかり有名人になった樋口幹太について、書いておかなければならないだろう。
 幹太が全校生徒の前に立ったのは、四年生のとき補欠選手で参加した少年野球大会の壮行会のときだけである。そのときは、12名のメンバーと一緒に並んで、全校生徒の激励を受けたのである。まだ補欠のほやほやであったが、柿の木坂小学校野球部の一員であることに変わりはなかった。雛壇の一番窓際に立ち、全校生徒の校歌と激励に送り出されたのである。S町での少年野球地方予選は、一回戦で敗退と言う無残な結果に終わったが、雛壇で聞いた校歌の余韻は、耳朶に焼き付いていた。
 日輪ほのかに山を染め、
 輝く大地にそそり立つ
 吾らが母校に栄えあれ
 いざ行かん
 勝利を胸に闘わん
 ……

 話の辻褄が合わなくなったが、そのたった一回の残念な結果に終わった雛壇の経験しかない、樋口幹太が一人で舞台に立ち、わざわざS町から赴いた警察署長に表彰されるなんて、驚天動地、寝耳に水の出来事だったのである。
 とにかく、山里の一小学校で一躍有名人になってしまった樋口幹太のことである。登校時からそれははじまる。
「樋口幹太君」
と背から呼びかけておいて、携帯を向けてぱちりとやるのである。なかには、イヒヒン幹太などと、呼びかける者も出てきた。イヒヒンとは、馬の嘶きであるから、イヒヒン幹太と言えば、今回の出来事を如実に表していることになる。
 幹太が呼びかけに振り向かないでいると、
「何よ、有名人面して、けつかる」
 などと、斬り込んでくるのである。幹太に対してこんな扱いをするのは、六年生の一部の生徒で、それも女生徒だった。男子生徒は、上級の六年生でも、関わってこないようにしていた。それは今回の表彰が、警察署長からのものであり、怯えもたぶんに影響していると思えるのだ。
 そんなわけで、それら上級生の男たちは、自分たちが直接幹太に言ってこられないものだから、女子生徒をたきつけて何かと言ってきていると考えられるところもある。
「ねえ、イヒヒン幹太君」などと呼びかけてくるのなどは怪しいものだ。イヒヒン幹太郎などというものも出てきた。イヒヒン幹太より、イヒヒン幹太郎のほうが響きがいいらしい。
「僕は幹太郎じゃないよ」そう言うと、「幹太郎の方が、上品に聞こえるじゃん」などと六年生の女生徒が答えたので、幹太もそんな気がしてきたのである。いっそ名前を変えてしまえば、有名人騒ぎも収まるかと思ったが、そうはいかないようだ。実際雛壇に登ったのは、幹太であったし、顔を憶えられてしまったのだから、始末におえない。
「ねえ!イヒヒン幹太郎、あのさ、後ろ足で立ち上がった馬の写真、かっこよかったから、一枚欲しいんだけどさ。私に見せてくんない。見せてくれるだけでいいからさ」
 なんて言ってくる女生徒も出てきた。
「僕は馬の写真なんか、一枚もないよ」
 そう言って突っぱねると、
「うそこいて、あんたはその馬のことで、人命救助の手柄を立てたんじゃんけ。そのイヒヒン君が、馬の写真を持っていないなんてこと話が通じないよ」
「僕は当たり前のことをしただけさ。道に人が倒れていたから、救急車を呼んだだけさ。馬がいようと、いまいと、馬なんか関係ないさ。人が倒れていたから、当たり前のことをしただけだよ。だからそんなに騒がないでくれよ。写真を撮ったり、僕と並んで写すとか。僕は有名人なんかじゃないし、当たり前のことをしただけでさ」
「イヒヒンの幹太郎さん、あんた当たり前のことをした、当たり前のことをしただけだって、バカな一つ覚えみたいに言ってるけどさあ、当たり前のことをしただけなら、どうして朝礼に警察の署長さんが来たり、新聞社のカメラマンが来て、写真を撮ったりするのさ。あんたが高い壇に登ることなんか、ないじゃんか。さっきも、馬なんか関係ないって言ったけど、馬が後ろ足で立ち上がったっていう、最初の推理が間違っていたから、表彰状を返すなんて言って返したけど、またぶり返して警察署長さんに、後ろ足で立ち上がったのは間違いなかったって言われて、一度返した表彰状と記念品を受け取ったじゃないのよ」
 幹太は話が面倒くさくなってきて、駆け出していた。正門のすぐ近くで、捕まっていたのである。前に学校があって、命拾いをしたようなものだった。
 有名人になって、写真を撮られるようになっただけではなかった。放課後、野球の練習をするために、野球用具を入れておくロッカーを開けに行くと、待ち構えていて、新品のミットに触らせてくれと、寄ってくるのだ。上級生の女生徒ではなく、こちらは五年生や下級生だった。
 彼女たちは僕がはめたミットの上から、力いっぱい叩いていくのだ。全力を出し切って、せいせいした顔になって帰って行くのだから、幹太はたまらない。野球の練習をする前から、ミットに投げ込まれた一球一球を受け留めているようなものだった。
 こんな調子では、S町で行なわれる地区予選も、一回戦で敗退する不安にかられたりした。そんなとき野球部の顧問の先生が、ガムを噛みながらやって来て、
「樋口、何をしょげてるか。練習だ、練習だ!」
 と発破をかけるので、元気を取り戻してグラウンドに向かうのだった。グラウンドに部員は一人も来ていない。練習も、キャッチャーの幹太が下準備をしてから始める習慣になっていた。

  未完

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