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文芸の里コミュの第二部「少年の夢」 未完2

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 幹太の表彰式があった日、夕刻近くなって堂田道太の病室にひよっこり、三沢幹太がやって来た。
家には帰らず、真っすぐ学校から来たらしく、ズックの鞄を肩にしている。幹太はその鞄の中から、西洋紙に薄く包んだものを取り出した。
 表彰状を見せに来たと思っていた堂田は、取り出したものがみすぼらしい西洋紙の薄っぺらい包みとあって、なあんだという顔をして、眺めていた。
「桃子叔母ちゃんの昔の写真。家にあったから持ってきた」
 幹太はそう言って、五六枚の写真を取り出して堂田に見せた。
「昔はこんなに美人だったよ」
 と言って、五六枚の中から、独りで写っているものを抜き出して示した。
「昔を強調しなくたって、今だっていい女だ」
 と堂田は写真の美しさに、心そそられつつ言った。
「これは桃子叔母さんの、何歳くらいの写真なんだ」
 一枚の写真を引き寄せて訊いた。
 三十名ほどのグループで撮ったもので、背景に古刹のような建物が写っている。桃子は最前列で唇をきりっと結んでいる。
「うん、下に修学旅行で京都って書いてあるよ」
 幹太は小さな字を読み取ってそう言った。高校の修学旅行と聞くと、堂田は家のごたごたで旅行には行けなかったので、気が滅入った。しかし今、そんなことを考えたってはじまらない。人生は再び巡っては来ないのだ。過ぎたことは、過ぎたこと。この少年はなぜそんな過去を想い出させようとするのか。この少年など生まれてさえいなかった頃のことを。
 堂田は今にも桃子が入って来そうで、気が気でなかった。幹太にけしかけて、桃子の過去の記録を集めさせているなどと、思われたら、まったく面目ない。風向きがそうなって流されていく分には、躍起になって逆らうつもりはないが、自分から積極的に押し開いて掴み取っていく進取の気概というものはなかった。その点では年を重ねたこともさることながら、自分の人生にのっぴきならぬことが多過ぎて、若さを削ぎ取られてしまっている気がした。
 その反面で、いささか矛盾するようだが、この写真を手元に置いておきたい思いもあった、それで写真をひとまとめにすると、軽く元の西洋紙にくるんで、無造作に消灯台に運んで置いた。幹太の瞳が、やったあ! というように一瞬光を放った。若者の夢を削がないことも、堂田の今の生き方に入っていた。
「それで、表彰式のほうは、うまくいったのか」
と堂田は話題を変えた。
「うん、それを伝えに来たんだった」
と幹太は言って、今朝の朝礼でのことを話しだした。ことに感謝状と記念品を一度返して、警察署長が馬の実験をするために、柿の木坂にやって来た件の話をするときは、その馬の飼主が目の前にいるとあって、手に汗を握る思いだった。
 堂田道太は厭な話をされるな、という思いで緊張し、逆にあんな馬になめられてたまるか、と開き直ったりした。 
 いよいよ警察からの三人を乗せた二台のパトカーが、馬の現行犯ともいえるあの現場について話さなければならなかった。実にこの話には、被害者の堂田道太と第一発見者である幹太の間に、大きな認識のずれがあった。もし初めから、この二者間の認識のずれが縫合されていたら、幹太の感謝状と記念品を一度返すというようなハプニングは起きなかったにちがいない。しかしそうした場合、署長ほか二名のあの馬の追跡の話は聞けなかったことになり、馬は一度の失敗はあったものの、まあよくある過失の一つくらいで過ぎ去っていくかもしれなかった。いずれにしても、それでは済まされない核心を、この事件は孕んでいたのである。
「林檎園が見えてきたら、馬がレース馬みたいに駆けだしていき、いざ林檎の木の下に来るや、イヒヒンとやったかどうかは知らないが、二本の後ろ足で立ち上がって、林檎目がけて口と前足で跳びついて喰いあさったんだろう」
 幹太が怖れて口にできないでいるものを、堂田はあっさり言ってのけた。
 少年の目は大空を映したように青ずんでいき、不思議な生き物でも観察する目つきで堂田を見ていた。
「おじさん、それを知っていたの? ぼくには一度も話してくれなかったじゃん」
「最初の気絶から覚めたときは、そうさ。おまえがいくら推理を働かせて、聴かせてくれても、実感がなかった。多分そうだったんだろうなと、納得しそうになっても、それは上から押し付けられた無理な理解にとどまっていたさ」
「そうだよ。ぼくが何度も何度も状況を説明しても、ぼんやりいているだけだった。ふんふん相槌は打つんだけど、遠い空の下を見るように、ぼんやりとした目つきだった」
 幹太はその時のことを思い出して、自分の推理の頼りなさと、はがいのなさを、むなしく味わっていた。
「それがはっきりして、お前の話した推理の輪郭がリアリティーを持って目の前に迫って来たのは、二回目の気絶から回復した時だった」
 と堂田は、思い出したくないものを目の当たりにする目つきをした。
「二回目の気絶から回復した後だって、おじさんは馬のことをはっきりは言わなかったよ。めちゃくちゃに喋りまくっていたけど、馬のことになると、口を濁すように避けてしまうか、別な話に飛び火していた」
「うん、そうかもしれんな。あの馬がそんな悪さをしたなんて、思いたくなかったし、第一痛み止めの麻酔薬の影響で、いつもぼんやりしていた。起きていても寝ているみたいだった。痛みをごまかすために、あの麻薬のモルヒネが入っているんだぜ」
「それでおじさんは、ぼくにも分らんことを、話まくっていたのか」
 こう言って幹太は、堂田のことを正常な大人とばかり見て、病人扱いしていなかった自分を反省していた。鎮痛剤で頭が麻痺している人をまともと見た自分の見立てに、間違いの烙印を押してしまったのだ。疑問は残しながらも、堂田が馬の背に上り、そこから林檎にジャンプしたと判定を下し、感謝状と記念品を返上したのであった。
「馬が林檎をあさった事実は、よおーく分った。一つ取っただけならまだ可愛さもあるが、三つも四つも溜め込むとなると、貪欲さが勝ってきて、可愛げがなくなる」
「ぼくが桃子叔母さんに、堂田さんが治ったらまた馬車に乗せてくれるように、頼んでって、言ったのは下ろすよ。おじさんも馬車に乗るのは、止したほうがいいと思う。一度あったことは、二度も三度もあると思うから」
 と幹太は言った。
「俺もそのことは考えているところなんだ。もう馬の時代じゃないしな」
「それで農協に出す荷物は何で運ぶ? まさか運送業者に頼むわけにもいかないでしょう」
 幹太は一気に桃子の車にもっていきたかったが、早過ぎるようだ。言葉が繋がっていかないのだ。
「それより馬の最後がどんなことになったか、聴こうじゃないか。町に走りこんで、人様を傷つけるとかしたら、ただごとじゃないからな」
 堂田はなかなか話を進めていかない幹太を、もどかしく思いながら言った。
「そんなことにはならなかったから、大丈夫。人に危害を加えるようなことには」
「体に傷をつけなかった分、心に傷をつけることはある。しかし、それはこの際目を瞑ることにしよう」
「おじさんの家のほうには駆け込まないで、友人の家の道へ入って、そこの厩舎にちゃっかり入ったのさ」
 と幹太は言って、堂田を窺った。にわかに表情がかげるでもなく、深く沈めていて表に出てこないという感じでもなかった。堂田なりに、何らかの整理がついていると考えられて、幹太はうれしかった。
「今日の話は聞いておいてよかったよ。友人もそのうちやって来て、この話をするだろう。そのとき、友人が俺のことをきずつけまいとして、うまく綺麗にまとめ上げた話をされると、たまらんからな。おまえからリアルな話を聞かされていれば、二つを比べて、友人の話を飾り立てた荷馬車と断定して、希望的に受け取らずにすむからね」
 間もなく幹太は椅子を立って帰ると言った。堂田は病院前のバス停まで、幹太を送って行った。今日幹太はナースステーションに寄らず、病院の患者用の出入り口を使ったので、来るときも帰りも、桃子に気づかれずにすんだ。

 バスが来て幹太が行ってしまうと、堂田はこのまま病室に引き返すのが億劫になり、病院を背にしてふらふら歩き出した。
 こんなに長くベッドで生活したことはなかったので、足の感覚がしっかりせず、体が右へ左へと揺れ動いた。
 病院は町の北端に位置しており、病院の先は小高い丘になっていた。その丘の向こう側が堂田の住む、柿の木坂村だった。小高い丘の上にも、家は点在しており、多くは農家のようである。あるいは兼業農家というのが正しいのかもしれない。
 兼業農家といっても、S町に組み込まれており、丘の上はS町だった。町の郊外というのは、こういう領域を指すのかもしれなかった。
 堂田道太は丘を登っていく元気はなかったから、丘の麓の小道を歩いて行った。サンダルの足に雑草が触れてきて、農作業から離れて、時間が経つなあ、と思った。
 現在堂田の土地と畑は、すべて友人の長山峰男にまかせてある。馬の飼料代、世話代、農地の管理、それらすべては堂田の畑作の多くを長山に与えることで賄われているはずである。電気代、水道代等は預金からの自動振込にしてあるので、手数はかからないだろう。
 長山には働き者の妻と、彼女との間に生まれた四歳の息子があり、その家族が、何より長山の生きる支えになっている。
 長山峰男の妻ニーナは、フィリピン国籍の外国人妻である。はじめお手伝いという形で、長山の家で働いていたが、実直な人柄を認められ、次男峰男の妻として迎えられたのである。峰男の母親がしっかり者で、息子の嫁を取る目的で外国人の手伝いを家に入れたのにちがいなかった。
 ニーナには妹がおり、その妹を堂田の妻にしたいらしく、しばらく家政婦として来ていたが、堂田には苦い思いを残して、フィリピンに帰国してしまった。彼女には日本の愛人がいたらしく、しばらく追い回していたが、不毛に終り、気の毒なほど荒んでしまった。そうなると、堂田の手には負えなくなり、長山に話し、長山から妻のニーナに話して引き取ってもらった。妹の破れかぶれの身と心を引き受けるほど、堂田は懐が大きくはなく、心の底では女の純真を求めていた。
 畑作や園芸の不明な点の処置などは、長山峰男からの携帯で済ましていたが、このところその携帯も鳴らなくなった。妻のニーナが堂田の家の一般に慣れてしまい、訊く必要がなくなったのだろう。
 ニーナは不出来な妹のすべてを抱え込まなかった堂田のことを、快く思っていないらしかったが、堂田は堂田で、日本の男性に寄せる妹の純情を、いとおしくも尊くも感じていた。彼女を棄てた日本の男に憎悪すら感じていた。
 堂田道太の足は、珍しい郊外の街並みを探ってみたい誘惑にかられながら、病院の方へ向かって歩き出した。無目的でありながら、何故かそこが一番現在の彼を迎え入れてくれる場所のように思えた。それだけ体が弱っているということなのだろう。
 馬までが向こう側へついたとしたら、ますます自分の居場所が狭められてしまった気もするのである。彼は遠ざけようとしている桃子を、幹太が持ち込んだ彼女の若き日の写真を想い浮かべることで、近くに引き入れようとしていた。

           未完

 看護師の樋口桃子は、投薬に回ってきて、堂田のいないことに気づいた。消灯台に置かれた夕食の膳は手をつけていない。ベッドの横に木椅子が出ているので、見舞い客があったようだ。その客を送って行ったと考えるのが順当だが、それが幹太とは気づかなかった。ナースステーションに立ち寄らず、病院の裏口から入ってくる甥の幹太など想像できなかった。
 消灯台の隅に西洋紙に軽く包んだ写真のようなものが目に留まった。やはり誰か見舞い客が置いていったのだ。知人などいないようなことを口にしながら、隅に置けない男だ。桃子は少し心に咎めるものはあったが、西洋紙の下から数枚の写真を引き出していた。一体誰かしら、この写真? 一棒を食らった気がしたのは、若き日の自分の写真と気づいたからではなかった。堂田道太に意中の少女がいると早合点したからだった。桃子は写真の下に記されたメモに目を留めた。修学旅行、京都、嵐山とある。どこかで見た記憶がある、この写真。彼女は写真を目に近づけて見入った。ここにいるのは私だわ! 桃子は二度痛棒を食らわされた思いになり、その二度目の痛棒で元に戻った。
「幹太の奴、今日来て置いていったんだわ。まったく油断も隙すきもない甥っ子だ」
 桃子はぷりぷりしながらも、謎が解けた安心も訪れて写真を元に戻すと、投薬の職務についた。
 この投薬が、桃子の今日の職務の終了だった。彼女はナースステーションに戻ると、日誌をつけて、更衣室で帰り支度をしながら、甥に何といって怒ればいいか、思いあぐねていた。結局、何も知らなかったことにするのが、いちばん安易な道であり、長つづきする道であると考えた。幹太もそれを考えたからこそ、ナースステーションに寄らず、裏口から侵入したのだろう。
 桃子は病院の駐車場から、自宅まで25分の車を始動させた。秋が進むと日が短くなり、その分車のライトの明かりがましてくる。最短の車道ではなく、いつも通る車の少ない路地を走らせていた。先程の衝撃がまだ残っていた。そのことと堂田の病理が、どこかで繋がっているような気がしてならなかったのである。つまり第一の気絶からの回復では治らなかったものが、二度目の目覚めで、完治して記憶が繋がったという不思議である。
 桃子はさっき、堂田の消灯台の写真を見て、衝撃を受けたが、その写真が桃子の過去の写真であると判明した二度目のショックである。二度目の衝撃は確かに大きなものであったが、しかしそのショックで彼女が回復したことは間違いなかった。
 それを考えていると、彼女は急に吹き出しそうになった。自分のはただの勘違いに気づいただけのことであって、それを大げさに堂田の病状と繋げてしまった愚かさに吹き出したのであった。
 そんな余韻にかられながら車を走らせていると、前方に当の堂田そっくりな人物の後姿をライトが映し出したのであった。次に桃子は、前の人物が堂田であることを否定した。あまりにも堂田が密になりすぎていたからである。偶然のもたらす結果としても、多過ぎる。それで様子を探るためにスピードを落とし徐行して車を進めた。堂田とした場合、何故病院を離れる方向に、歩みを進めているのか。彼はまだ夕食をとっていないはずである。それなら急いで帰院しなければならないのだ。幹太を送るために病院を出たにしても、方向違いである。病院前から幹太を送り出した後、少しぶらついて行きたくなったというなら、そういう患者の心理も分からぬではない。届けも出さずに二時間も街をさまよっていたケースも、何度かあった。桃子はそういった患者の前例に照らして、前を歩む人物の内面を探っていた。探るといっても堂田となると、もっと具体的になる。幹太を送って出たこと、夕食に手をつけていないこと、そしてこれは考えたくないが、二回気絶して、回復している前歴があること。その三度目はどういうことになるのか。桃子は暗い方向へ引き込まれていきそうになるにつれ、前を行く人物が堂田でないことを願った。
 いくら車を遅くするといっても、人の歩みに合わせて進むのは難しい。はっきり人後をつけていると分かり怪しまれるからだ。ヘッドライトの光が堂田の前を照らしているのだから、車が迫っていると気づいて、後ろを振り返ってくれてもいいのに、堂田はそうしなかった。まったく無視して、吾関せずとばかりに、自分のペースで歩みを進めていくのだ。病院を遠ざかる方向に。パジャマとよく似た上下の服装も、包帯を隠すためにかぶっている帽子も、病院からの脱出を思わせた。波に乗るようにして左右に振られていく歩き方も、堂田に酷似していたが、それでも彼だと決めつけるわけにはいかない。世の中には他人の空似ということがよくあることだし、そういう前提で人を見ると、まったく同じに見えてしまうこともよくあることだった。 桃子は覚悟を決めて二度、三度クラクションを短く鳴らすと、速度を上げて、男の横に車を滑り込ませた。
 帽子につばはなく、上下の服はパジャマで、足は靴ではなく、突っ掛けだった。そしてつばのない帽子の下から、包帯が覗いているのだ。
 桃子はフロントドアの窓を開けると、
「堂田さん!」
 と呼びかけた。抑制したつもりだったが、抑えてきただけに、声は大きくなった。堂田は予期していたのか、いなかったのか、揺さぶられたように、
「は?」
 と身じろぎつつ、隣を見た。とぼけているようには見えない。いつもの彼の物腰である。「これはまた、まずいところを見つかってしまいましたね」
 そう言って、自分の貧しい外出姿の、突っ掛けの足に目をやった。
「夕食もとらないで、いったいどうしたんですか。こんなところをさ迷い歩いて」
「幹太君が見舞いに来てくれて、帰りを送って出たのはいいんですが、急に自由を満喫したい思いにかられて、ぶらついているうちに、昔父親が亡くなる少し前に、一緒に入ったラーメンのうまい店がありましてね。その味を想い出して食べてみたくなり、探していたんですよ。それが見つからなくて、破れかぶれになって歩き回っていたんです。そのうちに病院の位置が分からなくなってしまって、途方にくれていたところです。そこに看護師さんが現われてくれて助かりました。こちらから来られたということは、病院は逆の方向ですね、僕が向かっていた方角とは」
「それで目的はどっちなんですか、ラーメン店と病院と」
 と桃子は患者を諌める口調で言った。
「病院ですよ。ラーメンは店の所在を確認しておこうとしただけですから。さっき病院の売店で買った煙草の釣銭しかありませんので、店の場所が分かればよかったんです」
「では、病院までこの車で送っていきますから、乗ってください」
 桃子はフロントドアを開いて言った。
「そんなわざわざいいですよ。今がお帰りなんですね。僕は方向さえ分かれば、帰れるでしょうから」
 堂田は気兼ねからそう言った。
「あなたの足の運び方では、どれだけ時間がかかるか分かりません。当直の看護師も回ってくるでしょうし、夕食の膳が運ばれたまま、手をつけていないとなれば、心配をかけることになります。幹太を送って出ただけなら、許可は不要でも、それから二時間も外出となると、ただでは済まなくなるんですよ。
 そうやって無断で出て、お酒を飲んでくる患者さんもいるので、病院の規律も厳しくなるんです。まあ、ラーメン店を探していて時間が経ってしまったくらいなら、私が黙っていれば済むことですから。でもここから歩いていたら、時間が経つだけです。さあ、お乗りなさい」
 桃子は容赦しないとばかりに言い放った。堂田は言われるまま助手席に乗って、ドアを閉めた。これでしばらく、患者の自由が利かなくなったと観念して、看護師の運転に身を委ねる。
 桃子は車の方向転換をして、百八十度向きを変えると、アクセルを踏んでスピードを上げた。
 この勢いに乗っていけば、堂田と幹太の間で何が話されたのか、問いたださなくても済む気がした。それは当然堂田にも言えることで、あの写真について触れないですむのだった。
 病院の正門前で車を停めると、
「それで、幹太は何と言って?」
 と堂田に探りをいれてきた。堂田は急に車が隘路に乗り上げた気分にかられ、
「何と言ってって?」
 と口ごもって先が出なかった。写真のことだろうか。あの写真が目に留まったのだろうか。直に見えないようにはしてきたので、一概に写真が発覚したとは言えないだろう。それを堂田のほうから言ってしまうのも、賢いやりかたではない。幹太の語ったことは、写真以外にもあったのである。
「幹太君は僕を気遣って、なかなか馬のことを言えないできたようです。馬が不貞を働いた一件です。馬は飼主の僕を馬車から振り落としただけじゃなく、警察が行なった検証では、後ろ足で立ち上がって林檎をもぎとり、咀嚼したところまでは、まあ予測通りだったのですが、その先ですよ、問題は。友人の長山峰男が怒って鞭をくれたところ、走りに走って、そのまま町に向かって駆けて行かなかったところは、まあまあなんですが、長年手塩に掛けて育ててきた生活体験は、体に沁み込んで分かっているはずなのに、その飼主の家の方角には向かわないで、飼主に傷を負わせてから面倒を見てもらうことになった長山峰男の家の方角へ走り込んで、そこの仮の厩舎に逃げ込んだというのです。これには僕も唖然としてしまいましたね。
 いつか看護師さんが幹太君に電話で何か言われたらしくて、(僕には何の話なのかいまだに見当もつかないのですが)幹太ときたら、まったく開いた口が塞がらないとはこのことだわ、とぼやきつつ僕の病室に入ってきたことがありましたが、その幹太君から聞かされた飼馬のことで、開いた口が塞がらなくなったのですよ。臨時の飼主である長山峰男の鞭を食らって逃げて来た、その馬が僕の家のある方へは向かわず、反対側の長山の家の方へ走り込んで行き、にわか造りの厩舎に入ってしまったというのですよ。馬を家族のように思ってきた僕からすれば、裏切られたというか、無念というか、何やら情けない気持ちになりましてね」
 桃子は堂田のしんみりした話を、このまま聞いていたいと思う一方で、時間の経過を気にしていると、病院の駐車場でライトが点滅して、職員が帰宅する様子だった。
 桃子は慌てて腕を伸ばして堂田の側のドアを開き、
「見舞いの客を送った後、気分が優れなかったから、表の空気を吸っていたとか、言うんですよ」
 そう言い含めて、車を発進させた。

未完

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