ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

文芸の里コミュの馬とリンゴ 第一部 完

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 





 幹太は病室内の周囲を見回して、様子を窺う。一番新しく入ってきた堂田のベッドは戸口に近い位置で、床を挟んで向かい合っているベッドには、年配の老人が寝ている。また堂田の向こう隣は、やはり老人で、世の動きに敏感に耳を傾ける生活をしているとは思えなかった。
 一通り安全性を確かめた上で、それでも慎重に、幹太は声を落として話しはじめた。そんな幹太の態度に、堂田が反応して腰を折り身を低くしてきた。
「樋口桃子叔母さんのことだけど、おじさんはどう思う?」
「どう思うかって、俺はいい女だと思うよ」
 堂田は何を言うのかという顔をして、ぼそっとそう言った。
「それだけ?」
「それだけって、おまえ、俺に何を言わせようっていうんだよ。いい女で十分だろうよ。女として申し分ないということさ。優しいし、頭も切れるし、おまけに別嬪ときている」
「その先は?」
 と幹太は追求してきた。
「何でこの人は結婚しないでいるのかなって、考えたことはあるさ。しかし女は魔物だからな。魔物は分らないということよ。だから魔物のところで栓をしてしまって、その先は考えないってことだ」
「おじさんここからは真面目に言うけど、樋口桃子と結婚しようと思ったことはないか」
「この俺が彼女とか。そんなことを考えたら固くなってしまって、あんな太平楽な口はきけなくなるよ。まったくそんな気にならないから、そこいらの人形か小道具みたいに扱えるんだ。別な言葉で言えば、高嶺の花っていうんかなあ。俺とは生きる土壌がまるで違って、別世界の人だよ。そもそも看護師は嫌いで、俺とは関わりのない人間とみなしてきた。それがいやが応にも、入院して関わりができたとすれば、さばさばと大雑把にこなしていくしかねえじゃねえか」
「ぼくがさあー、倒れているおじさんを見つけて病院に送り込んだのは、二人を繋いで一緒にさせるっていうことだったんだよ。どうしてもそこに重大な意味がある気がしたんだ。人命救助より、そっちのほうが大きかったんだ」
「オイオイ、お前、そんな寝ぼけたことを桃子叔母さんにも言ったのか」
「少しばかりね。桃子叔母さんは少しも反応を表さなかった」
「当たり前さ。子供の思い付きだけで、世の中のことは動かせるもんじゃねえよ」
 この時、病室のドアが開いて、樋口桃子が検温に回ってきた。
「幹太まだいたの。そろそろ帰りなさい。病院には自分と同じような健康な人がいると思うのは、大まちがいよ。自分より弱い人が入ってるのよ」
「今帰るよ。大事な話をしてたんだから」
 堂田は体温計を慌てて脇の下に挟んだ。樋口看護師は堂田の検温を後回しにして、他の患者のほうへ回って行った。
 幹太は一度席を外して病室を出たが、樋口桃子が隣の病室に入ると、再び堂田のところに来て、丸椅子に腰かけた。

 十一

 幹太は先ほど、この病室に最初に顔を出したときに比べて、心が急いていた。それはやはり、彼が推理した初めの見立てと、少し前堂田に抱いた新たな推理との間に大きな隔たりがあるからである。間違いなく馬がリンゴ欲しさに立ちあがったために、堂田が荷馬車から振り落とされたと確信していたのに、実際は馬方のほうがリンゴに跳びついたがために、自業自得のように馬車から転げ落ちたとなれば、自分の人命救助の基盤を大きく修正しなければならないのである。堂田に癲癇癖のようなものがあったのだとしたら、監視の目を怠ってはならないのである。堂田が病院にいる間はいいとしても、退院後は身近に看護師を侍らせなければならないと思った。そのためには結婚を急がなければいけない。
 世間一般の趨勢から行けば、一族の繁栄のために、不幸の原因となるような因子を除く方向に行くと思えるが、小学五年生の幹太は結婚を急がせて、護ろうとしたのである。そこにこそ、人命救助の根が隠されていたというべきだろう。そこまで見ての表彰とすれば、警察も立派なものだ。
 ところで、この創作を最初から読まれた方は、一章にはっきり馬が後ろ足で立ち上がってリンゴをあさった描写があるので、かりそめにも堂田がリンゴに跳びついて転げ落ちたなどとは思わないだろう。しかしこの小学生の幹太が登場するのは、二章からであって、その前のことはまったく知らないのだ。

               未完
 12

 風はひんやりしてきたが、空は青く澄み渡って、まだ秋の色である。
 楠村立小学校の屋内運動場では、これから全校生が一堂に集っての朝礼が挙行されるところだ。全校生七百人が、各学年各組ごとに縦に並び、教師陣も屋内運動場の左右に分かれて立っている。
 子供たちがざわついて落着きなくしているのは、朝礼の中身がいつもとは違うからである。朝礼の最初に、三沢幹太の表彰が計画されているからなのだ。ガラスの破損を防ぐために、鉄の格子の入った窓は開かれ、屋外の様子がのぞいている。その屋外運動場には、朝の光がこぼれ、雀や鴉が散らばって、餌を拾っている。
 このとき、警視庁S方面本部と車のサイドに記された一台のパトカーが、正門を入って来た。どよめきと緊張が、生徒のみならず教師陣のうえにも走り、静粛にという戒めの笛が吹かれ、場内はいっせいに静まった。
 三沢幹太に表彰状を手渡し、顕彰するために、S町の警察署長自ら足を運んで来たのであった。渋滞があって、少々遅れると連絡があり、全校生、教職員一同、屋内運動場に居並んで、警察署長の到着を待っているところだったのである。
 車には署長と部下の一人が運転手を兼ねて随行してきた。
 パトカーの到着を見届けると、学校長と教頭が、遠来の主賓を迎えるために、いそいそと屋内運動場を出て、正面玄関へと向かった。 七分もしないで、主役の来賓と、学校長と教頭が、二人を恭しくもてなしながら、屋内運動場に入って来た。
 教務主任の指図で拍手が沸き起こる。遠来の二人はすっかり恐縮した物腰で、腰を低めて居並び拍手を送る生徒たちの前を通り、壇上に設えられた来賓席に就いた。
 拍手が鳴りやみ、場内は静まり返った。拍手に驚いたのか、鴉の声がひときわ大きくなって開いた窓目がけて吹きあげて来た。何もこんな時に、騒ぎ立てなくてもいいのに、あの鴉ども。教務主任がそんな目で、ちらっと窓の外を見やった。
 さて、何はさておき、本日の主役三沢幹太はどうしているだろうか。幹太は呼ばれたとき、敏速に動けるように、窓側か三列目の一番前に立って、天井のない丸太の、粗い骨組みに目をやっていた。そうやって口上でも暗記しているのだろうか。しかし表彰される側に、言わなければならないものなど何もないはずである。整列したところを背後から見ると、背丈は普通だが、やや肩幅が広いようである。キャッチャーをしているうちに、筋肉が鍛えられてそうなったのか、もともと頑丈な体つきを買われて、キャッチャーというポストが与えられたのか。顧問の監督にでも聞いてみなければ分らないだろう。いや訊いてもも分らないかもしれない。もともと備わっていた体とセンスがはたらいて、自然に現在のポストについていることもあり得るからである。
 学校長の挨拶がはじまった。幹太の視線が屋根裏の丸太の骨組みから、壇上へと下りてくる。
 学校長は表彰される本人ではないが、表彰を受ける側である。日頃の教育が良いから、このような模範的な生徒を輩出したのである。それを自分のほうから仄めかしたら形無しだ。そこを弁えているから、幹太についてはざっと概略をのべただけで、表彰する側を多くの言葉を遣ってねぎらい、過分なもてなしを感謝すると語って、いよいよ警察署長の登場となった。
 署長は一本の筒状のものを手にして登壇すると、中から表彰状を取り出して広げ、そこに記された名を読み上げた。
「三沢幹太君」
「ハイ!」
 幹太は威勢よく返事をして、壇上へとステップを踏んだ。それから署長の前へ進み、深々と頭を下げる。ここまでは昨日担任から手ほどきを受けていた。問題はそのさきである。幹太自身そうだと確信していた第一の推理が破綻したとき〈それはもう目に見えていた〉どうしたらよいか。相手が少しでも疑うようなことを口にしたら、そのときは表彰状と贈呈されるミットと軟式野球ボール一ダースは潔くお返ししよう。難しいのは次のようなケースである。相手があっさり幹太の推理を認めて、さらに善行を称えてきたとき、どうしたらよいのか。正直、幹太には分らなかった。運を天に任せるとはこのことだ。
 署長は表彰状を両手に広げて持ち、記された文章を読み上げていく。
 最初に若者の勇気ある行動をたたえ、感謝しますと語った。それから身の危険を顧みずにとった行動は、これから後に続く若者たちの手本となります。よってここに、勇気と誠意と犠牲の精神を、尊いものとして称え、感謝状をおくります。
 どこにも第一の推理などという言葉はなかった。馬という言葉も出てこなかった。それでも心情的に重なってくるものがあって、心揺さぶられた。表彰状とばかり思っていたのに、感謝状だったことも意外だった。
 最後に部下に記念品を指示して、その人からデパートのレジ袋ごと渡され、幹太はぼんやりと立っていた。運を天に任せるとは、このことだろうか。自分の危惧したものにはいっさい関係なく、ことなく通過していったのだ。
 しかし、事はそれで納まったわけではなかった。感謝状と記念品を幹太に渡してしまった署長は、なぜかほっとしたように、幹太の肩に軽く手をかけて、くるっと全校生徒の方を向かせると、実に流暢な言葉遣いで語り出した。彼の本領はここにあると言わんばかりの話の運びようだった。
「聖書のなかに、良きサマリア人の話というくだりがありますが、三沢幹太君のとった行動は、まさにその良きサマリア人の分身ともいえる立派な行いでした……」
 クリスチャンでもある署長が、小学生の幹太が人を助けた話を耳にしたとき、そのサマリア人の話を思い浮かべ、これは顕彰に値すると判断したのだった。しかも通り一遍のやり方で感謝状を手渡すのではなく、署長自ら率先して、丁重に扱おうと考えた。
「……三沢幹太君は、何だ酔っぱらいが寝ているだけじゃないか、と軽くあしらって通り過ぎてしまわず、倒れている人の脈を検べ、息があると見るや、即救急車を呼び、額に触って熱いと知ると、タオルを濡らしに渓流に走り、救急車が到着すると、今度はなぜ男の人が倒れていたのか、謎の解明に着手しました。救急車で病人を病院に運び込むとき、病歴などの情報がないと、病院側でも処置に困って、そのために手遅れとなり、命を落とすケースが多いのです。
 その点でも、三沢幹太君は知恵を貸してくれました。大人顔負けの推理の見事さです。
 倒れていた人の状況説明からはじまり、証拠を並べていき、ついに馬が後ろ足で立ち上がったために転落したと、説得したのです。暴漢に襲われたのでも、熱中症に罹ったのでもなく、馬車から転落した事故であることを推理して、救急車の人を納得させたのです。
「違います!」
 と幹太は片手を挙げ、署長を振り返って、怒り声で叫んだ。もっと早く言おうと思いつつできなかったので、つい言葉が荒々しくなった。場内はシーンとなり、署長は小さく口を開けたまま黙っている。幹太の次の言葉を待っていたのかもしれない。幹太は荒く息づきながら話をつづけた。「堂田おじさんは、一度治って、また倒れたし、この間会った時は、何を言っているのか分らないことをしゃべったりして、頭が少し変だと思ったんです。だからあの時も、馬が後ろ足で立ち上がったから転落したのではなくて、おじさんがリンゴを取ろうとして、跳びついても届かなかったから、馬の背中に乗って、そこから跳んだから大けがをしたのだと分ったのです。
 それだから僕の初めの推理は間違っていたので、この感謝状と記念品はお返しします」 
 幹太はそう言って、感謝状と記念品を署長の前に返した。
「君、待ちなさい」
 と警察署長は落ち着き払って言った。この辺りはもうどよめきに包まれていた。キャッチャーを務めている幹太の声は、日頃から外野にも届くように大声を張り上げているので、マイクなしで、しかも後ろ向きに話していても、よく通った。
 幹太は肩の荷が下りて、ほっとしていた。堂田道太に疑いの目を向けてからというもの、たとえミットが手に入ったとしても、それを使ってプレーすることには、後ろめたさを感じていた。推理が得意だからといって、有頂天になり過ぎていたと反省していた。もうアニメも小説も、推理と名の付くものは、読むのをやめようと思っていた。
 警察署長は顔をほころばせ、幹太をいたわるような物腰になって、マイクを手に話しだした。
「私どもも、三沢幹太君を表彰するについて、考えないわけではなかったのであります。いくら善意に満ちた小学生の善い行いだからと言って、片方だけの言い分を鵜のみにして、事を運ぶのは、慎重の上にも慎重でなければならないからであります。物事には必ず盲点というものがつきものだからです。
 それで鑑識にはかり、馬の実験をしてみることになったのであります。馬の実験は次のような手順で行われました。


 警察署長の話をまとめて書くと、以下のようになる。
 署長は鑑識課の二名を連れて、パトカー二台で堂田道太の村へ向かった。柿の木坂3丁目の堂田の家をまず目に納めておき、その認識をもとに近くに住む堂田の友人の家を訪ねた。友人は二台のパトカーに驚いた顔をしたが、もっと驚いたのは、友人が預かっている堂田の馬だった。馬は仮の厩舎から顔を出し、足を踏み鳴らしながら、イヒヒンイヒヒンといなないた。いななく合い間に、ブルルンブルルンと鼻と口を鳴らす動きもした。もしや自分が悪さをして飼主を馬車から振り落としてしまったので、その制裁のために現れたのではないかと、馬なりの判断を働かせたというか、詳細は分からない。
「堂田道太さんの事故につきまして、その証拠を固めるために参りました」
 と署長は言った。
 友人は自分に嫌疑がかけられたのではないかと、怯んだ表情を見せたが、「いやその、小学五年生の三沢幹太君の立証する、馬が後ろ足で立ち上がったという推理が、あまりにも立派なもので、吾警察のものとしては、確証を掴んでおく必要があったのです。いつなんどき外部のものが、警察の甘さを突いて来ないとも限りませんからね。私の言う外部のものとは、主に報道機関、もっと言えば新聞各社ですな」
 署長がこう言ったとき場内にフラッシュがたかれて壇上に閃光が走った。閃光は署長と幹太を最も強く耀かせた。パトカーが来る一時間も前から、新聞社の小旗を翻した二台の車が、校舎の陰に横づけにされていた。場内のどこに身を潜めていたのか、影も形もなかったが、しかるべき時を待ち構えていて、今登場したのに違いなかった。
 署長は一瞬身をすくめたが、そんな脆弱な警察ではないとばかりに、そちらを見やって、
「記者クラブから来たな」
 と幹太には意味不明の一言を発して、先をつづけた。
 堂田の友人はきりっとした乗馬ズボンを身に着けて外に出て来た。そして厩舎の馬を引き出すと、約五百メートル先の堂田道太の家に向かって馬を引いて歩き出した。それに二台のパトカーがつづく。

   未完

 馬車は母屋の隣に立つ厩舎の真ん前に、横づけになっていた。堂田の友人はそこまで馬を引いていくのに手こずっていた。強引に馬車の前に立たせたが、馬具を取り付けようとすると、馬は全身で拒んでつけさせようとしなかった。馬車から離され、しばらく自由を味わった馬は、容易なことでは納得しそうになかった。馬具を取り付けようとしても、臀部と首を右へ左へと振り、埒が明かない。警察としては、堂田が事故に遭った時と、まったく同じ状態で実験しようとしているのに、困っていた。
「私が馬に直にまたがって、裸馬のままやってみますよ」
 と友人は言った。
「大丈夫ですか。こんなに人に関わられるのを嫌っていて」
 と鑑識の一人が訊いた。
「裸馬には、幾度か乗っていますので。この馬にも四五回は乗っています。堂田は一度も乗っていないようですが。彼は運動神経が発達しているようではありませんでしたので。同級生の中でも劣っていました」
「あなたたちは同級生でしたか、ほお」
 と署長も珍しい取り合わせに感心している。「では、裸馬に挑戦していただきましょうかな」
 友人は承諾して鞍に足を掛け、楽々馬に跨った。警察の三人も目を丸くして、頼もしく感じているようだった。
「林檎園はあちらですね」
 と年配者のほうが、やって来た方角とは別な道を指さした。
「そうです。土の道ではなく、バラスの敷かれた道になります」
 友人は手綱を取って、その方角へ馬を並足にして進み出した。
「我々は馬を脅かさないように、ゆっくり車を進めて行きましょう」
 年配の鑑識が若い鑑識係に言った。
「オーケーです。接近して行きますので、望遠はいらないでしょう」
 と若い鑑識が言った。
「よろしい。では出発だ」
 と署長が言った。馬は少し先に行って、横腹を見せて待っていた。
 林檎園が迫って来ると、道幅が少し広くなり、道に敷くバラスの量も多くなった。小石を車が弾く音も、秋の空に小気味よく響いた。馬がバラスを踏む音は、弾くというより、ぎしぎしと押し潰していた。
「やつ、急ぎだしましたね」
 署長を乗せて運転する年長のほうの鑑識が言った。署長が後続の車を振り返り、速度を上げ馬を追う合図をした。速度を上げているはずなのに、馬との距離は開く一方だった。
「あの馬は、レースをしている気持ちになっているのでしょうか」
 と署長を乗せた鑑識係が言った。
 次に車の三人が目にしたのは、後ろ足で立つ馬の姿だった。
「狙っていたものが、まさに展開しているよ」 カメラを積んだ後続の車が、スピードを上げ先に出て行った。
 どうしたことだろう。騎手の姿勢がおかしな格好になっているのだ。手綱を深く握って、馬のたてがみにしがみ付くようにしていなければならないはずなのに、体が逆方向に寝て、頭部がぶら下がって揺れているのだ。
「危ない! 安全マット、安全マット」
 と署長が叫んで、後部座席に積んできたマットを取り出し、両の腕に抱え込んだ。前の車が道を塞いで停車したため、車では進めなくなり、後続車の二人は、マットを抱えたまま走らなければならなかった。
 鑑識のカメラマンは、カメラを放さずに撮りまくっている。さすがプロの意識だ。
 安全マットを抱えた二人は、荷物を持って走る競争に参加している心境だった。すぐ前には、頭が地面につきそうになった堂田の友人が、馬の飛び上がるままにぴくぴく跳ねて、躍動を余儀なくされているのだ。
 堂田の友人はまさに、今雌馬から誕生してくる胎児の姿をしていた。
 馬はそんなことにはおかまいなく、幾度も幾度も地面を蹴り、碧空の林檎に口を伸ばしている。馬の前足は空中に流れる林檎を抑えるのに、口と一緒に動いているのだった。
 馬は一つの林檎を抑えると、一度地面に足を下ろして咀嚼するのではなく、口に入れたまま、というより、立って食べながら次々と口に銜えこんでいく様子だった。
 二人は堂田の友人の頭が地面につく前に、かろうじて追いつき、安全マットを頭の下にあてがうことができた。そうして友人の体を、二人力を併せて抱えると、あっけなく鞍から友人の足が外れて、自由の身となった。それは二人の介添え者にとっては、全身の重みをあずけられたのと同じだった。
 馬は依然跳ね上がる行為をやめない。いち早く馬から離れなければ、馬に蹴られる心配がある。二人は頭が下向きになった友人の体を、いったんマットに寝かせ、頭が上になる状態にして立たせた。そうして三人は馬に蹴られないだけ距離を取って、馬から離れた。

 馬が後ろ足で立ち上がり路上を蹴って跳ね上がるときは、足の筋肉は見事に張って盛り上がり、雄姿天を翔けるといった勇壮な姿だった。こんな馬の姿を、目近にとらえたものはちょっといないだろう。
 馬は間もなく地上に前足を置き、口にくわえこんだ林檎を一個一個咀嚼しはじめる。上には果実のない裸枝が、二三枚の葉をつけて涼気に震えているばかりだ。
 堂田の友人は、落ちていた鞭を拾うと、それでもって馬の臀部を力の限り打った。ぴしっと、馬の肌に鞭が鳴り、馬は電撃の痛みに震えわなないて、やって来た方角へと走り去った。たった今、レースが開始されたといった走り方だった。
 すぐ馬のあとを追ったことは言うまでもない。あのスピードのままS町へ走りこまれたら、たまったものではない。小事の確認を取るために柿木村に来て、そのために大事を引き起こすことにでもなれば、警察の信用はがた落ちだ。
 乗物を失った堂田の友人は、若い鑑識係の運転するパトカーに乗せてもらい、一行は車を走らせた。よほどのスピードで駆け抜けたらしく、いくら走っても馬の姿は見えてこなかった。
 間もなく堂田の家に入る道に来たが、どうも馬の入った形跡はない。一方の友人の家へのコースを窺った。堂田の友人の奥さんが、仰天した面持ちで、厩舎を指さし、何か叫んでいる。どうやら馬は、こちらの厩舎へ逃げ帰ったらしいのだ。
 
 幹太はここまで来て、いい話を聞いたと胸を撫で下ろしていた。堂田が治って退院したら、また馬車に乗せてくれるように、叔母の桃子に言づけておいた、その甘さへの痛烈な反省はさることながら、ここで馬が飼主の堂田道太のことを、露ほども思っていない事実を掴んで、それは堂田と桃子を繋ぐいいきっかけになると考えたからである。
 堂田は園芸農家として、収穫を農協へ運び込むために、馬を必要としていたが、それを叔母の桃子に彼女の車でやらせようとしたのである。叔母の病院への出勤前に、柿の木村まで車を走らせ、そこから堂田と力を合わせて収穫物を農協へ運び込む。そんな桃子の苦労を見れば、堂田も早急に運転免許を取ろうとするだろう。そこから車の購入はひと跳びだった。というのは、桃子の高校の親友、持村彩子は女性でありながら、勇ましくも車のメーカーのディーラーをしており、そろそろ新車に買い換えるようにと、うるさいほど言われていることを、幹太は聴き挟んでいたのである。
 幹太は自分より年長の堂田道太を、多くの生徒や教職員の前で、やや貶める発言をしてしまったきらいも、ないではないが、それはやがて堂田道太を、自分の身内の一員として迎え入れようとする意識が働いていたからに他ならない。
 幹太の思いは今や、馬が後ろ足で立ち上がったという、検証を踏まえて、次なる物語へと飛翔しようとしていた。それは堂田道太と叔母桃子を結び、そこから草野球へと発展してゆく夢であった。
 警察署長は話を締めくくると、部下に検証の写真を出すように命じた。部下は準備してきたものを取り出した。それはプロのカメラマン顔負けの、後ろ足で立つ馬の拡大写真である。馬が勇ましく立ち上がり、前足で林檎と青空を抱きかかえようとしている迫真の写真だった。堂田の友人への気遣いから、彼がのけぞって地面に落ちそうになっている写真は、除かれていた。
 居並ぶ生徒からどよめきの声が上がり、再びフラッシュがたかれた。新聞社のカメラマンが、馬の写真を間近から写し撮るためである。
 やがて場内が静まると、幹太は再び感謝状と記念品を手渡されて、壇上を下り、普段の小学五年の生徒に戻った。新品のミットを手にしたからには、柿の木小学校野球クラブ捕手という肩書も、付け加えていいかもしれない。

    馬と林檎 第一部 完

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

文芸の里 更新情報

文芸の里のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング