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文芸の里コミュの旅立ち 二(2)

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旅立ち 二(2)


 鶴子は慧也の話を聴きながら、ワインの追加を頼んだものか、どうしたものか、頭を悩ませていた。
 先ほど煙草にライターの火を運ぶとき、手が震えていたのを目に留めていたからである。酒と煙草と音楽に逃避するしかなかった彼の話を聴きながら、手の震えがアルコール中毒の症状ではないかと思えてきたのである。そこまで酒に浸ってきたのであれば、ワイン一本くらいでは、とても充足できるものではないだろう。病んでいると知りながら、さらにワインの追加を頼んでよいものだろうか。しかし体の痛むものに、痛み止めの注射が必要なように、今は過去を吐き出すためにも与えてやるべきなのだろうか。
 鶴子は思い迷っていたが、レシートを手にすると、立ち上がって行った。ワインと摘みにポテトフライを注文して戻った。
「ホテルのお部屋はちゃんと確保してあるのよね?」
 慧也はポケットから、ホテルの部屋のキーを取り出してテーブルに置いた。
「大丈夫なのよね、よかった」
 鶴子はほっとして、そう言った。慧也が最初にカウンターに現われたとき、その物腰の柔らかさから、岩見鶴夫の夢に出てきた兄とは、まるで違っていると思っていた。それがここまで酒浸りの話を聴くと、鶴夫の夢には本物の兄が投影しているのではないかという気もしてきた。
 慧也が酔っているのは確かだった。しかしワインのせいではない。酒浸りの日々を送ってきた彼が、このくらいの酒量で酔えるはずはない。やはりこれだけ打ち解けて話の出来る相手が目の前にいるという事実が、彼をうっとりさせ、酒酔い以上の陶酔へと舞い上げていた。それはもう、恍惚境と言ってよいほどだった。
 再び慧也は語りはじめる。彼を生んだ母親、つまり故郷のど真ん中へ没入して行った有様を、父違いの妹鶴子に向かって語っていった。
 神戸駅南口に立ち、夜とも昼ともつかない意識がめぐってきて、ぼんやりしていく中で、慧也の目の前に、匂やかに明るく立ち塞がったものがいる。彼は思わず目を開いた。正しくは、ぼんやりしていた目を凝らして、眼前の現実を正視した。
 とうに慧也を見届けて、迫るように花開いている女がいる。これまでこんなに若くして美しい女性に出会ったことはなかった。幼少のころは、祖父母を両親と思い込んできた慧也である。母親のことも、少なからずその延長線上において考えてきた。
 眼前に立つ女が、ひとみであると理解したのは、和服にある鶴の絵柄を確認したからである。鶴は黒と白の濃淡で彩られていた。一羽の鶴は嘴を天に向けて開き、もう一羽は、天を仰ぐ鶴の前に、首を深く項垂れている。何やら二羽の鶴が演じる儀式のようでもあるし、雪の大地に生きる野性の姿なのかもしれなかった。
 脊髄に傷を囲い、背をこごめる慧也からすると、はじめて見る母は大きく映った。
「大国慧也さんね」
 ひとみは熟知しているものを受け容れる態勢でそう言うと、先に立って歩き出した。慧也はこのとき、ついて行くのが子の姿だと、ごく自然に思い知らされて足を運んだ。信号をいくつ渡ったのか記憶がなかった。後をついて行きながら、これまでこれほど美しい女性に出会ったことがあっただろうかと、自分の半生を振り返っていた。むろん、相手にしてくれた女のことではない。生涯の起き伏しに関わってきた社会の一員としての女たちについてである。
 鶴はひとみの背中にも二羽いた。鶴の配置は黄金率によるのか、ひとみの背幅や大きさと見事に調和していた。
 太りじしでも痩せぎすでもなく、心持ち身を振りつつ歩む緩やかでゆたかな腰の捩れは、母というより女のものだった。
 どうしてこんなに若く、美しくいられるのだろう。慧也は妬ましささえ交えて、そう思った。ひとみを独り占めにしている、あの夫が憎らしかった。それがまったく知らない自分の父親の感情ではないかと、唖然とする場面もあった。
 七、八分歩いて路地に入ると、ひとみは一軒のお好み焼き屋へ慧也を招き入れた。馴染みの店というわけではないらしく、店のおかみさんの応対にも、特別な親しさは出ていなかった。
「奥の小部屋、空いているかしら?」
 おかみさんは連れの慧也に一瞥をくれてから、ややぞんざいに、
「どうぞ」
 と言った。
 とても母子とは見ていない口振りだった。暗がりにひとみの白足袋が光って見えた。慧也はひとみの下駄の横に、靴をむぞうさに脱いで、畳の小部屋に上がった。ひとみが坐ったまま手を伸ばして、慧也の靴を揃え、自分の下駄の隣に寄せて並べた。
 お好み焼きの具が運ばれてくると、ひとみは手際よく鉄板の上に並べていった。焼けるまでの間、慧也が手持ち無沙汰にならない配慮に怠りなく、やってきた生ビールのグラスを、彼に回した。
「すぐ焼けるからね。喉も渇いたでしょう。ビールで潤してね」
 などと言った。その間、慧也を盗み見るでもなかった。勝手知った者同士のように気さくに振る舞った。初めて会う親子とは、とても思えなかった。
「このあたり、焼けてるわよ」
 などと、ヘラで野菜の上に烏賊、肉、桜海老ののった一部を押してよこしたりした。ひとみは焼けた鉄板の上に半身を乗り出して精を出していたから、よほど熱かったに違いない。袂からハンカチを取り出すと、額から目頭へと素早く運んだ。ああ母の体に何かが溢れてきている、と慧也は思った。
 一通り焼けると、それを鉄板の中央に集めて、ひとみは中腰の姿勢から体を沈めた。自分でも生ビールを口に運んだ。慧也は我慢していた煙草を取り出して火を点けた。
「私が慧作さんを知ったのは、ボランティア活動を通してだったわ」
 ひとみと出会って、まだまともな話は聴いていなかったので、いきなり要の内容から切り出したことになる。慧作とは慧也の父のことで、珍しい名の慧也がそこからきていたと納得した。
「彼は同じ大学の二年先輩だった。慧作さんの勧めで手話も習ってね。お手製の人形劇や紙芝居を持って、あちらこちらの施設を回ったりしたわ。彼は卒業後も、院生として残ったから、随分あちらこちらついて行ったわ。あれは私が四年生の夏だった。北陸地方に大きな地震があってね。私の大学からもボランティアのメンバーがすぐ救助に向かったの。地震によって引き起こされる山の崩壊、崖崩れ、地滑りが酷くてね。生き埋めになった人を救い出すのに、何日も野宿をして、炊き出しをしたり、傷の手当てをしたり、それはそれは目まぐるしい青春だったわ。そう、私にとって、ボランティア活動が青春そのものだった……」
 慧也は母の顔を正面からまともに見たくてならなかった。先ほど駅前で一瞬顔を合せたきりで、まだしっかりと記憶に留めるほどにはなっていなかった。
 最初の出会いに感じたときめくほどの目の美しさをもう一度確かめたくてならなかった。故郷を探しにきた慧也にできるのは、それくらいしか望めない気がした。そしてそれくらいなら、高望みなどではなく、慧也にも許されるはずだと考えはじめた。
 こんなに身近なものに目標が変わったのは、母にはじめて間近に接したそのときだった。
 慧也の生立ちに連なる肝要なところにきているのに、母は伏し目のままで、顔を上げてくれなかった。
 息子に顔を伏せたまま、母の青春の告白は続いていった。
 慧作は外部のボランティア組織とも連絡を取っていて、ひとみの大学ではリーダー的存在で仲間の信用も篤かった。ひとみは彼を信頼し、彼の行くところにはたいていついて行った。
 北陸の大地震の際は、自分の身が危ないからと、実家で反対するのを押し切って、ひとみは何日も昼夜を分かたず救助活動に携わった。本震の後何度も余震がつづいた。その度に脆くなった山が崩れ、山間の農家や施設が埋められていった。
 そこは温泉地でもあったので、地震で地盤が変化し、至る所で湯が噴き出ていた。その湯気と煙で、視界がかき消されていた。硫黄の臭いがあたり一面に漂っていた。
 ボランティアは日本の各地から、次々と送り込まれてきた。しかし勝手知ったものがいなければ、新参の者だけでは手のつけられない作業も多くあった。そのためもって、ひとみたちのグループは長く留まらなければならなかった。
 寝泊りする場所があるわけでなく、救助の場所を移動すれば、その近くに仮の寝床を探さなければならなかった。
 まだ余震はつづいていて、崖の下とか、傾いた家屋の近くは避けなければならなかった。 その夜泊まったのは、気象観測に使っているという石造りの小屋だった。ここにも窓を破って土砂が流れ込んでいた。その土砂をスコップで掻い出して、五人ほど泊まれるスペースを確保した。長いソファが二脚あり、一つのソファの下を、ひとみは寝る場所にした。ソファの上には慧作がいた。
 星明りの夜だった。ガラスのない窓から、星の瞬きが見て取れた。寝付けないままに、星を見ていると、すぐ上から、まったく予期しないものが垂れて来た。慧作の腕である。寝ているうちに、腕だけ居場所を失って、垂れ下がったらしい。慧作は無意識のうちにそれに気づいたらしく、腕は意思あるかのように、戻って行った。
 そんなことが二度ほどあって、三度目は上がらないまま、いつまでもぶら下がっているので、ひとみは力をかしてあげようとして、そっと手をかけた。その掌はなんと、親指と人差し指の間が深く裂けて、血が凝結しているのだ。
 大変だ。こうしてはいられない。ひとみは他の仲間の睡眠を邪魔しないように、慧作を振り起こした。彼は救助の要請があったと勘違いして、二秒とおかず外に飛び出していた。彼女は救急箱を抱えてその後を追った。
 どこへ駆けつければいいのか、瓦礫の上に立って途方に暮れている慧作に向かって、ひとみは声を放った。
「救助を必要としているのは、あなたよ。自分の手を見て」
 慧作は星明りの下に掌をかざし見て、留まった蜂でも払うように、その手を振った。
「知らなかった。どこでこんなへまをしたものか」
 彼は言って、救助に向かおうとした自分の馬鹿さ加減を嘲笑った。
 ひとみは改めて慧作の手を見た。血痕が分厚く傷口を塞いでいた。オキシフルで消毒するにしても、固着した血は洗い流さなければならない。しかしその水があるだろうか。ボトルの飲料水を使うわけにはいかない。たとえ二、三本ボトルの水を使っても、この傷口を洗うには足りないだろう。
「どこかに、丁度よい温さの水がないかしら」 ひとみはもうもうと湯気を立てている辺りに、目を配って言った。
「土砂で川が塞き止められてしまったからなあ」
 塞き止められた川は、四方へ散ってしまい、今どこを流れているのか見当もつかなかった。 二人は水の流れを探して、星空の下を歩きはじめた。眼下に広がっている町も、地震の打撃を受けて真っ暗だった。これで星明りがなければ、それこそ辺り一面、黒一色に塗り込められてしまうだろう。人の世界を地震とそれにつづく山崩れの土砂で埋めてしまい、今度は完全な闇で覆ってしまえば、生き残った人々をも掻き消してしまうことになる。
 慧作はところどころで岩の窪みに溜まっている湯に傷のないほうの手を入れてみて、さっと引っ込めた。
「熱湯だよこれじゃ。卵があったら、すぐうだる」
 一歩一歩踏み出す地面からも、熱が昇ってきて、頬が生暖かかった。熱湯とまではいかない溜まり水もあったが、手を入れて洗うには熱かった。岩肌が熱を持っているので、自然に冷ますわけにはいかなかった。
 探し回っているうちに、水の流れる音がしてきた。手の届かない岩の隙間を水が伝っている音だった。
 ふと多くの水を湛えたところに出た。手を入れてみると、丁度よい温かさだ。
 慧作を岩に坐らせ、ひとみは彼の手を取って洗いはじめた。湯はこんこんと沸き出し、そこに岩を伝って周囲から水が流入して、水量ゆたかな露天の温泉になっていた。
「どうしてこんなに酷い傷を負っているのに、黙っていたのよ」
 ひとみはひとりでに怒り声になっていた。
「手を洗ったとき、沁みるなと思ったけど、まさかこんなになっているとは、気がつかなかったんだよ」
「ちょっと沁みて痛いけど、我慢するのよ」
 ひとみは慧作の手首を強く握って痛みを庇い、一方の手で消毒と治療の処置をしていった。最後は幅広の絆創膏と細い絆創膏を使い分けて、明日からの作業のことを考え、包帯は巻かなかった。
 ひとみは天然の湯をたたえる岩の窪みを目にすると、どうしても湯につかって体を洗っていきたくなった。もう一週間も入浴していなかったのだ。
「私、このお湯に入っていきたい」
 その欲求に打ち克てずにそう言った。
「じゃ、出たころ迎えに来るよ」
「いや、行かないで。私をひとりにしないで、お願い」
 震災でずたずたになった知らない土地に来て、しかも幾度となく余震に見舞われる生活をしているうちに、ひとみは自分がいつ死んでもおかしくない気持ちになっていた。そんなことで、一時も慧作から離れられなくなっていた。心の支えなんてものではない。死ぬときは、彼と一緒でなければいられない思いだった。今もここに一人でいたら、再び地震に見舞われないとも限らなかった。溶岩が噴出して、溶かされてしまうかもしれないし、新たな地割れが起きて、その中に転げていかないともいえない。
 ともかく不安で、慧作のソファの下に潜り込んでいるのも、いのちの怖れから少しでも逃れ出るためだった。
 今ひとみが一人にしないでというのは、救いを求めるぎりぎりの叫びだった。
 慧作は、そんな悲痛なものを感じて、離れて行こうとはせず、
「なら、僕も入るよ。人が湯につかるのを見ているのも、つまらないから」
 そう言って、シャツを脱ぎにかかった。
「ちょっと待って」
 ひとみはいったんしまった救急箱を開けて、中からビニール袋を取り出し、彼の負傷した手に被せて、ゴム輪で留めた。
 三分後、二人は身を寄せ合って湯につかっていた。急激な思いがけない接近だった。

 そこまで詳細にわたって、ひとみが語ったわけではない。聴いた荒削りの骨子を、たぶんこうなったのであろうと、慧也が想像したものである。
 また鶴子に話した内容も、慧也の想像したままではない。極端にはしょって、色彩の乏しいものだ。なぜなら、その男は慧也の父親ではあっても、鶴子の父親ではないからである。
 二人はそこで初夜の交わりを持ったのだろう。岩肌はあたたかく、硬くはあっても、柔らかく沈み込む大地に等しかった。もうもうと立ち昇る湯気と温気の奥に、にゅっとばかり風に吹き分けられて、夜空が現われる。そこには二人を祝福して、夥しい星が瞬いていた。
 その後二、三回、露天の温泉場は二人の密会の場所となった。密会というより、祝祭と呼ぶべきだろうか。
「そんなことがあったのね」
 鶴子がひっそりと洩らした。慧也の断片的な説明からでも、容易に想像は湧いてくるらしかった。
「しょうがないよ、男と女なんだから」
 と慧也は言った。その結果、今の自分があることを見事に忘れ去っていた。
 いよいよ父親の命を落とす時が迫ってきた。ひとみは相変わらず目を伏せたままだったが、唇の動きで、そのことを察知した。思いが勝ちすぎて、言葉が出てこないのだ。そんなもどかしさを、慧也はひとみの唇に見ていた。その唇は思いに濡れていた。
 地震から八日目の朝、倒壊した家屋の下に数人が閉じ込められているという一報が入って、慧作は飛び出していった。ひとみはメンバーに加わって炊き出しをしていた。
 この日被災地はごったがえしていて、日中慧作の顔を見なかった。夜になっても彼は現われなかった。不安を募らせていると、慧作が倒れて病院に運ばれたというニュースが飛び込んできた。彼は生き埋めの人を救出中に、柱に頭をぶっつけて卒倒し、しばらく倒れていたが、起き出すと、救出作業にとりかかった。仲間が心配して声をかけたが、別に変わった様子はなかった。しかし彼は眩暈がするといって横になり、起きて来なかった。仲間が慌てて救急車を手配し、隣町の病院に運び込んだ。
 慧作の急変を知らされ、ひとみが病院に駆けつけたときには、すでに意識はなく、息をしていなかった。頭を強打した時などに起こる、急性硬膜下出血。
 何ということだ。救出に駆けつけた者が、救出によって命を落とすとは。慧作とは特別な仲になっていただけに、ひとみの心は複雑に揺れ動いた。大地震のとき以上の激震だった。そうでなくてさえ、彼から離れては生きていけないと自覚するようになっていたのに、深く結ばれた結果として、このようになってしまったことが、自分に罪業を突きつけられたように思えてきた。人目を忍んでの夜の情事が、彼の上にも重く押しかぶさっていたのではなかったか。まだ行方不明者がいるというのに、密会が赦されるはずはなかったのだ。 ひとみはこれ以上ボランティアを続けられなくなり、実家に帰って苦悶の日々を送ることになる。生きている心地がしなかった。
 被災した人々の死は、すべて纏まって慧作の上に覆い被さってきた。慧作一人に。しかも苦難に喘ぐ人々を救いに向かった彼の上にかぶさってきた受難の重さが、ひとみは耐えられなかった。彼が死んでしまった今、自分ひとりが負わされている気になった。それも罪の代償として。
 いや、そうばかりとは思えない。二人は真剣に救出のことを考えていたし、慧作などは、二人が一緒にいるときでも、余震があると、さっと飛び出して行こうとした。そしてひとみは、その彼にもっと一緒にいて欲しいと、引き留める気持ちはまったくなかった。慧作が飛び出せば、ひとみも共に駆け出していただろう。
 慧作を失った心の痛手があまりにも大きかったために、ひとみは受胎の異変にも気づかなかった。
 両親にはリーダーの急死は告げてあった。そのせいで、現場に留まれなくなり、一人で帰って来たことも話してあった。
 リーダーの死は、娘に相当の打撃であったにちがいないと、親たちも不憫がっていた。娘の憔悴ぶりから、それほど愛していた男であるなら、将来を誓い合ってもいただろうに。 そんな憶測があったからこそ、ひとみの妊娠を最初に嗅ぎ付けたのは母親だった。母親は身籠った自分の体験から直感して、娘に聞きただした。このときはもう、ひとみの腹部は膨らんできて、妊娠四箇月になっていた。「もっと早く気づいていればねえ…」
 とひとみは、慧也にともなく洩らした。早く気づけば、どうなったというのか。そのことに気づくと、さらに言葉を継ぐことはできなくなった。もし早く気づいて、処置していれば、今目の前にいる慧也は存在しないのである。彼はその秘められた言葉に戦慄した。「私は彼と、いつも一緒にいたい、一緒にいたい、そう思って、くっついていたから、取られてしまった。大切な人って、みだりに近づいてはいけないのよ。自分から、遠く離しておかないといけないの」
 ひとみはいつの間にかビールをよして、お茶の碗を手にしていた。その茶碗を両の手で回しながら、しんみりとした口調で、そう言った。それが慧也を手放した理由なのかと訝ったが、釈然としないものがあって、頷くこともできないでいた。
 ではみんな一緒に生活している世人の日常というのは、堕落なのだろうか。
「夜の星だって、人間から遠く離れて輝いているでしょう」
 と相変わらず慧也を見ずに、まわす茶碗に面を伏せて言った。
 慧也が生まれると、祖父母の手で育てはじめた。ひとみは外でパートの仕事をしたり、母校の大学で栄養学の講義を受けたりしていた。すでに大学は終えていたが、将来進む道として考えていた。
 そんな折に、かつて学んで、そこの会員ともなっている手話の協会に、銀行から手話のアルバイトの依頼がきた。顧客の中に五人ほど聾唖者がいるので、手話で彼らへの伝達をお願いするというものだった。
 日程は二時間ばかりを、二日にわたって手話通訳するというもの。
 六十名の健常者と五名の聾唖者への説明会を取り仕切ったのが、ひとみの現在の夫である岩見祥一郎だった。
 彼は前日仕事の要領をひとみに話すときから、しまりがなく浮ついていたが、実直な人柄は好感が持てた。
 二日目が終わり、謝礼金を渡されてひとみが帰ろうとすると、岩見は何か話がしたそうにしていた。しかし自分の務めは終わったのだし、このまま引き下がっていいだろうと、その足で大学へ栄養学の講義を受けに行った。 大学から帰ると、銀行の岩見が来ていたと告げられた。要件はひとみにぜひ自分の妻になって貰いたいとのこと。
「あの人はよっぽど、ひとみお前にまいったんだよ。本人もそのようなことを言っていたけど、一目惚れしたとか。そのとおりだね、あれは」
 と母親が言った。ひとみは呆れて、
「だってこの子は?」
 と、祖母に抱かれて寝入っている慧也に視線を落として言った。
「それは承知の上ですよ」
 と祖母は孫を膝にのせた体を、左右に揺らせながら言った。
「承知の上って、どういうこと?」
 ひとみはますます腑に落ちなくなり、問い詰める。
「最初あの銀行員は、あら、名前何といったかしら」
 祖母は傍らのテーブルから名詞を手にとって、「そうそう、岩見祥一郎さん。岩見さんは、ぜひお嬢さんを私に下さいっておっしゃるから、何か勘違いしていませんか。あれはもう、お嬢さんではありませんよ。そう言って、膝のこの子を大きく揺すって見せてあげたのよ。そうしたら、あの人慌てふためいて、『ではその相手の男は、どこにいるんです?』何やら急に怖い顔になって、攻め立ててくる感じなの。今にもその相手の所在を突き止めて、談判に行くことも辞さない意気込みだったよ。『奥さんをぜひとも僕に譲ってくれ』とか言ってね。
 私は教えてあげましたよ、ありのままをね。『この子の父親はね、あの北陸地震の救助に出かけて、救出中に頭を柱にぶつけて若死にしてしまったんですよ』って。そしたら、その銀行員、いや岩見さんたら、にわかに元気づいて、他人の不幸がそんなに嬉しいのかと、不平の一つも言ってやりたいくらいだったよ。実直なところは認めるけど、石橋を叩いて渡る堅実さには劣るね。あれで銀行マンが務まるのかと、呆れていたところなのよ。ねえ、お祖父ちゃん」
 と、夕刊を読んでいた祖父を振り返った。
「いやあ、あの銀行マンらしくないところが、かえって顧客の信頼を獲得する逸材なのかもしれんぞ」
 岩見の人柄によい印象を受け取った祖父は、彼の将来性まで見込んでそう言った。
「お祖父ちゃんたら、そんなこと言って。私はひとみが行くと言ったって、この子を離しませんからね。慧也はお祖母ちゃん子ですからね」
 いつの間に目を開いていた慧也は、指を立てて祖母の目をつついた。
        
   つづきます

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