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文芸の里コミュのパン屋の美徳

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Bach - Coffee Cantata ''Schweigt stille, plaudert nicht'' BWV 211 - Final


☆パン屋の美徳


 パン食を中心にしている彼は、よくパン屋に出かける。パンの品定めをしているわけではないが、いろいろなパン屋に顔を出す。
 パン屋に共通しているのが、店員の笑顔である。男はたいていパン工房でパン作りをしているから、店にいるのは女の店員だ。しかも若い店員が多い。しかめっ面をしている店員はまず見かけない。たいていにこやかな笑顔を見せている。
 彼はなぜパン屋に限って、こんな笑顔ができるのか不思議でならなかった。他の職種の売場では、こんなに揃いも揃って笑顔を咲かせている例を知らない。そこで思いついたのが、あのパンの馥郁とした香りだった。この匂い立つ香りは、他の食品売場ではちょっと思い浮かばない。パン屋の独壇場といってもいい。次に焼いたパンの地肌の色合いだ。焼き方に濃淡の違いはあっても、ほとんど例外なく狐色をしている。狐色というと、パンの品格を落すので、他の形容をさがしてみたが、どうもしっくりいかない。狐色というのが、一番ぴったりしているのだ。しいて言えば、土気色だが、どこか病的で、ふくよかな感じがしない。そうかといって、いきなり肥沃な黒土にとんでも、パンの素朴なイメージを損なってしまう。
 そこで彼は、他に形容を借りたりせず、そのまま独自に、パンの色と呼ぶことにしたのである。そうすると心を波立てずに収まって、パンはパンの色で落着きを見せた。それでよかったのである。
 彼がいつも買うのは、全身がパンの色に焼けているフランスパンである。週に何回か、一メートルに近いフランスパンを、他の食料と一緒にレジ袋に入れる。長すぎて包装しきれないのが難点といえば難点だ。帰宅する頃には、包装がずり落ちて丸裸に近くなっている。独身生活をしているから、副食はたいてい出来合いのもので我慢する。野菜サラダ以外は、魚フライだったり、チキンかつだったり、海老フライだったり、その他雑多な惣菜ということになる。家に着く頃には、フランスパンはもう、それほど匂いを発してはいない。むしろ別の惣菜の匂いが強いために、パンは打ち負かされているといったところである。
 家族はいないが、猫が一匹いる。二歳になる雌猫で、のどかと命名している。遊び相手がなく、いわば鍵っ子ののどかは、彼が玄関のドアを開けるやいなや、飛びついてくる。飼主に飛びつくのなら、可愛いところもあるが、狙いはレジ袋の中味なのである。
 玄関を入ってすぐの床にレジ袋を置いて、彼は靴を脱ぎにかかる。 その僅かな隙に、のどかはレジ袋の中に首を突っ込んで好物を探しにかかる。今日はプランスパンを買ったので、レジ袋の食品の間に立たせておいたが、それが彼女に倒されてしまった。そして、パック入りのワカサギのフライを床に引きずり出していた。何とそのパックの蓋が、猫の魔法にかかったかのように、ぱかっと開いたのである。
 夕食のおかずが台無しにされてしまう。彼は倒れているプランスパンを手に取ると、その端を持って猫の脳天に振り下ろした。ぱんと心地よく弾んだ一撃に、猫は二、三歩よろけて退き、その後は歩く力も失せて、床に倒れてしまった。彼はフランスパンを振り下ろしたときの手応えがあったことから、力を入れ過ぎたなと少し反省し、猫に手をかけて起こしにかかった。猫は四肢で立つと、夢から覚めでもしたように、力なくふらふら彼の前をリビングへ向かって歩いた。これまでもフランスパンをとっさの武器として使っていたが、今回ほど手応えのあったことはなかった。
 それから三日目の夕方、彼はデパートの食品売場にあるいつものパン屋に寄った。長いフランスパンを買うのが躊躇われて、売り子に言って、いくつかに分割してくれるように頼んだ。店内に分割する機械が据えつけてあり、分割ご要望の方は、店員にお申し付けくださいと貼り出してあったからである。
 女店員は彼に渡された長いフランスパンを抱えて、
「おいくつに分けますか」
 と訊いた。
「三つでも、四つでもいいですよ。猫をぶつ、武器にさえならなければ」
 と彼は正直に言った。
「あら!」
 と女店員は彼を上目遣いに見て、思わず噴き出し、パンを分ける機械を置く一角に向かった。彼の位置からは、女店員の後姿しか目に入らなかったが、作業をしながら不必要に背を揺すって、笑っているように見えた。
 五個に分割したものを渡されて、彼は帰宅した。
 それを残らず平らげてしまい、三日目に彼はいつものパン屋で、フランスパンを手にすると、前回のように分割を申し出た。同じ店員だった。レジには同じ年恰好の女店員が七、八人並んで、接客に勤しんでいる。これだけ見ても相当大きなパン屋といえる。彼のパンを分割に当たっている女店員も、今は当番でしているが、普段はレジに立って、客に渡されたパンをレジに打ち込み、見事な手捌きで包装し、代金を受け取り、レジ袋に容れたパンを客に手渡し、恭しく笑顔で送り出しているのだろう。その女店員が彼に歩み寄って、分割したフランスパンを手渡しながら、
「お子様おいくつですの?」
 と訊いた。
「いや、子供はいません。僕ですよ、猫をぶつのは。いい歳をした子どもで、申し訳ないっす」
 彼がこう言い終わるか終らないうちに、女店員は笑いが堪えられなくなったらしく、口を抑えて仲間のいるレジの方へ走り込んでいった。
 彼は彼女の冷静になる時を置くためと、彼女の労働に報いるために、盆にパンの品数を増やして、レジへ運んで行った。
 するとどうだ。あの一律に咲き匂っていた、パン屋特有の柔和にして静かな彼女たちの笑顔が、様変わりして色めき立ち、彼を見て笑っているではないか。破顔一笑、それも女店員が打ち揃って。
                  了

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