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文芸の里コミュのある決着

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     J. S. Bach: Cantata No 208, 'Sheep May Safely Graze', BWV 208




 ☆ある決着

  〜青黒い空の下で〜


 左側は千尋の谷、右側は断崖絶壁という険しい道を、二匹の生き物が喘ぎ喘ぎ登ってくる。
 雪に覆われた白一色の世界である。前を行くのは、白くはあっても、雪の白さと比べれば、はっきり汚れて見える野の兎。後ろは尾の長い文字通り狐色の狐である。
 これだけで、二匹の相関関係は明らかだ。一方が追いかけ、一方が追われる立場。喰うか喰われるかではない。野兎からすれば、逃げ切れるか、喰われるか。狐からすれば、久しぶりの生肉にありつけるか、逃げられてしまうか。
 気になるのは、二匹の間が徐々に狭まってきていることだ。ヒューマニズムの見地からすれば、狐の空腹を充たすよりは、野兎を逃がしてやりたいところである。いくら弱肉強食の野性の世界とはいえ、殺戮の現場など見たくはない。白一色の清らかな世界を、血の色で染めて貰いたくはない。
 逃げ、追う二匹の関係は、二時間も前から続いていた。平原で狐の追跡に気づいたとき、兎は全力疾走して、狐の姿が見えなくなるくらいまで距離を開いた。兎は安堵の息をついて、もう追ってくることはないだろうと、木の皮を齧ったりしながら、ゆっくり進んだ。そしてふと振り返ってみると、意外な近さに狐が来ていたのである。 兎がすわ大変とばかりに、速度を上げた。しかし最前ほどには、狐との距離を開くことができなかった。一度狙った獲物は逃がさないといった、狐の執念にたじたじとしてしまったのか。しかし敵の執念に屈するとは、餌食になることに他ならない。
 兎は命の大切さと、生きていけばいいことだってあるさと、生い先への希望を、胸に呼び込もうとした。
 そして平原から隘路へと逃走の進路を変えた。それが現在辿っている片や絶壁、片や峡谷の、この狭く険しい道なのである。道が経巡っているため、姿を隠すにはよかったが、視界の利くところに出ると、またまた狐が意外に近く迫っているのを認めなければならなかった。
 雪が降るまではバスが走っていたが、今は停まっている。来年雪が解けるまでは、走らない。それまでは数少ない人の足跡がついているだけだ。
 ここまで来ると、もう引き返すことはできない。細い一本の道を辿るしかない。足を遅くすれば、狐に追いつかれてしまう。赤い舌を出し、息を喘がせてやって来るのだから、兎にとっては生きた心地がしない。恐怖に身の毛がよだつ。あの牙に咬まれ、肉を八つ裂きにされてぐいぐいと喉の奥に飲み込まれるのだ。
 想像するだけで、体力が消耗する。魂より肉体が弱い。心は先へ急ごう先へ急ごうとしているのに、足がついていかないのだ。心臓がばくばくしてくる。それもスピードを鈍らせる原因だ。左は千尋の谷、右はほぼ垂直にそそり立つ断崖。
 前へ進むしか逃げ道はない。峡谷の上に二メートルほどの雪庇ができているが、その尖端まで遁れても、狐は吾身を安全なところに置いて、口だけ伸ばしてくるだろう。その口には鋭い牙がある。口を伸ばすだけでは獲物にありつけないと思えば、雪庇の際まで狐は入り込んでくるだろう。そこで兎が抵抗すれば、重さは何倍にもなって、雪庇が崩落するのは必定だ。敵と心中するほど愚かしいことはない。
 前進しか道はないと、野兎は悟った。この道がどこまで続いているのか分らないが、とにかく進むしか命を保つことはできないと確信した。
 狐の喘ぐ息遣いがしてきた。すると兎の進む速度が急速に鈍った。どうしたというのだろう。この急なペースダウンは? 恐怖にすくんで腰が抜けるという現象だろうか。しかし最前からの兎の動きをじっくり観察すれば、いざというときに備えて、力の温存をはかったと思えなくもない。だがこの兎に、そんなゆとりの時間があるのだろうか。今がそのいざというときではないのか。
 狐との距離は、十メートルから五メートル、四メートル、三メートルと狭まってきた。マラソンなら、後続のランナーがここまで迫っていると気づいたら、今こそダッシュしなければならない。狐は兎を抜き去って先へ出ていくのではないのだ。首筋に牙を被せて息の根を止めるのである。
 ついに二メートルに迫った。さらに接近して一メートル半になった。どうしたことか、兎の動きが止まった。しかし恐怖に竦んでしまったのではない。筋肉が張り詰め、白い毛皮の下で、何かが躍動している。狐も兎の不自然な動きに意表を衝かれて歩みを止めた。
 兎は張り詰めながら、狐がもう少し近づくのを背で待ち構えているようだ。狐はその誘いに乗せられたように、身を低くして獲物を狙う姿勢を取った。そして遅々としてはいるが、二三歩は兎に歩み寄った。
 このときである。一度低く身を沈めた兎が、後足にためた力で路面を蹴った。兎の身は前へではなく、真上へと跳ね上がった。ばねを利かせ、平原を最速で駆けるときのように、体を伸びる限り伸ばし、真上に向かって跳ね上がった。路面からの間隔が三メートルから五メートルと上昇する。野兎は崖の頂上まで飛ぼうというのだろうか。しかしそれが不可能であるくらいは、これまでの生涯でじゅうぶん体得しているはずだ。子兎ではない。中年の兎である。そそり立つ崖の頂上は、百メートルは先なのである。そこには青空が焦げつくばかりに黒ずんで控えている。その手前には白雲がかすんでいる。
 兎はこれ以上跳び上がれないというところで、断崖の岩肌を後足で蹴った。ここまで跳躍するのに、力は出し切っているから、死力をふりしぼって岩肌を蹴った。体は上昇から下降へと転じ、今やダイビングの姿勢になっている。岩肌を力の限り蹴った分だけ、落下速度を加速して飛び込んでいくのだ。目標は狐の硬い頭を避けて、柔らかい胴体だ。兎の長い耳は綺麗に寝せて体に密着し、硬い頭から突っ込んでいく。
「ぎゃふん」
 叫びとも悲鳴ともつかないひ弱な声が、狐から洩れて出た。兎の体当たりをもろに受けた一瞬である。狐は呼吸が止まったのか、そこに横たわった。
 野兎は横たわる狐の排除にとりかかる。後足と前足を用い、掘った穴から土を掻い出す要領で、狐を後方へ送り出していく。俊敏にして果敢な動作は、ほとんど本能の要請によってなされたといってよい。敵が息を吹き返す前に、片付けてしまわなければならないのだ。
 狐の体は、野兎の脚力によって三つ四つ転がされ、最後は雪庇を崩して深い空白へと落ち込んでいった。
 空中に投げ出されたとき、狐は意識が戻って、閉じた目が瞬き、黒い瞳が回転した。兎には理解できないが、あるものには愛らしくさえ見えた。
 兎は力を使い果たし、長らく動けなかった。一時間もしてようやく、猫がするような毛繕いをはじめた。そして体を整えると、やって来た方角へと、ゆっくり戻って行った。
                           了

  ☆

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