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文芸の里コミュの林檎を我にあたへしは・旅立ち2・長編連載小説・20回

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                         Kissin -Rachmaninov piano concerto n.2, I. Moderato (part1)




「私、内木さんが異動してすぐ、分館に行ったの」
 とトモカは言った。握っているトモカの掌は,話しているうちに熱くなってくるようだった。微熱があるのは判りながら、なお体温が上昇してくるのだ。感情に揺れて、熱の出てくるのが伝わってきた。その一方で、やっぱりトモカに先を越されていたと考えていた。けれども今は、それが焦りとはならず、静かに聴き取ることができた。それだけトモカが哀れに思えた。
「その前に、王子で持たれているポエムクラブGにも行ったしね。内木さんもそこに来ていたの。私彼が人の前で話すのを、初めて聴いたわ。まるっきり、別人に見えたわ。私、図書館にいるときも、彼がそういうものを秘めているとは気づいていたけど、それがああいう席では、直に噴き出て来るのね」
 エリコはトモカが内木を彼と呼ぶのを、独り占めしているようで辛くなったが、今はこらえなければならないと、自分に言い聞かせていた。
「それでね、毎月出て来てくれると待っていたのに、次の会にはもう来てくれなかったの。だから、図書館に押しかけて来たんだわ。分館に移っていて、そこまで出かけて行ったけど、閉館近くまで粘っていて、深夜喫茶ランで待つように言われたから、私そこで待ったの。好かったなあ、あの頃が。ずいぶん昔の気がするけれど、まだほんの何箇月か前なのよね。私いちどきに、人が一生かかってする経験をしてしまったみたい。それだけ私は、長い距離を歩いて来たんだわ。私たちの世代って、早く通過してしまうのね。とっても長く感じさせて。
 彼が現われて、私はどうしても突き止めなければならないことがあったの。それはこういうことなの」
 トモカはそう前置きして、祖父が図書館に押しかけて来て、自分がそこを飛び出して行ったときのことに話が及んだ。いや、トモカにとって、そのことが最大の関心事で、それを話すために導入が必要だったのだ。
「去年、私行方をくらましたでしょう。その直接の原因は内木さんなのよ。どういうことかと言うとね、祖父が内木さんのことを、虫呼ばわりして、こう言ったのはクラスにも知られているよね。『孫娘にもう虫がついた』って、カウンターの内木さんに怒鳴り込んだのよ。私は詩のことで相談に乗って貰っていたのに、そう言ったのよ。
 私はそこで、切れてしまったのね。『おじいちゃんは、私の世界を目茶目茶にしてしまう。私もう家に戻らないから』って叫んで飛び出したんだわ。すぐ内木さんが追いかけて来て、『秋山、秋山』って叫んでいたわ。私はそれでも堰を切ったようになって走って行って、狭い路地に入り込んだの。逃げながら背で待ち受けていたんだわ。どこまで私を構ってくれるか、彼の心をはかっていたんだと思う。詩の相談にかこつけて。私って、悪い娘よね。私を呼ぶ彼の声を、ドキドキ、ドキドキ胸に響かせながら、森の奥深く入り込んでいったの」
「森の?」
 エリコは不審にかられて、言葉を挟んだ。
「ごめん、路地の奥深く。森なんかあるわけないもんね。あの辺りには屋敷もないし。
 もうその先には進めないような奥まったところに入り込んで、息を潜めていたの。そうしたら内木さんが、狭い空間に射し込む僅かな光を背で遮って、そこに入り込んで来たの。私は絶体絶命といった窮地に追い詰められて、『私を助けて』という気持ちで、彼を見つめたの。内木さんも私を認めて、じっと長い間、二人は見詰め合っていた。映画の中の、もっとも感動的なシーンみたいよ。息詰まるような長い時間だったわ。そのうち彼の体が動いて、歩み寄ってくると思った瞬間、さっと空間が開いて、私に背を向けると立ち去ってしまったのよ。
 私は十分近くもそこに蹲っていて、駅に向ったの。もうどうなってもいいと思った。うらぶれ、捨て鉢な気持ちになって、それでも、少し前に内木さんに紹介された、ポエムクラブGの会合が持たれる王子駅まで乗って行ったの。
 その喫茶店でぼんやりしているとき、里崎に会ったのよ。ポエムクラブGにいる人だわ。彼は人生に傷ついてはいても、私に一目惚れしたっていうだけ、純情ではあったの。ただ誘惑するための口説き文句とも思えない話を聴いているうちに、『いいわよ、私でよければ』なんて言ってしまったの。
 里崎のことは、クラスの人も知っているよね。私が姿を現したとき、何人かに話したもの。どこに行方をくらましていたか、正直に話せば、まだ高校にいられるかもしれないなんて、甘い期待をしていたんだわ。
 長くなるから、里崎のことは省くわ。それで私が分館まで訪れたのは、どうしてあのとき、内木さんがいきなり背を向けて立ち去ったのか、訊かないではいられなかったの。その件は私にとって、大きな転換点なんだもの。あの狭い路地での恍惚と絶望が、消えずに私の中にあったのよ。埋められないまま、ずっと泣き濡れていたんだわ。
 だから内木さんが深夜喫茶ランに現れると訊いたわ。どうして言葉も掛けてくれなかったのかって。あそこまで私の名を呼びつづけて、探しに来てくれたのに、私をすぐ目前に見据えたまま、何で離れていったのかって。そうしたら、何て言ったと思う? 『ぼくには意中の人があって、どうしても踏み込めなかった』んですって。その意中の人が誰か分かる? エリコさん、あなたよ。私はそれを知っていたの。あなたが藤村の若菜集を見ているときから。そして内木さんに、エミリ・デキンソンの詩集を渡されたときから。あなたの心の動きを見て知っていたの。
 私はそれがたまらなかった。それでよけい私の恋は進んだかもしれないし、傾きもしたわね。詩には詩でというので、私の前にいた高校で出した文芸誌の詩を見せたりしたもの。あんな青二才の変な詩なのに。それでも彼は生真面目といえるほど司書の役割に徹して、導いてくれたわ。自分だけの手には負えないと見ると、ポエムクラブGを紹介したりして。 こんな話くだらないわね。私はもっと肝心なことを言うつもりなのに、なかなかそこに行けない。でも話さなければ、人の命はいつまでもあるわけじゃないの。命のあるうちに言わなくちゃ。あなたに謝るために、来て貰ったのよ。謝りもしないで、どうして詩を書くなんて言えるのよ。詩人は、もっとも奥に隠しているものを曝け出す人のことだわ。私にそんな詩は書けなかったけど、今真実をさらけ出したいの。エリちゃん、ごめんね。私はあの日、どうしても……」
「あの日?」
 とエリコが訊いた。トモカの語るあの日には、どうしても強調があるようで、そこを押さえないではいられなかった。
「そう、あの日。私が分館を訪ねていった日」 とトモカは言った。「いくら内木さんに意中の人がいたと言われても、私の中に少女のような我儘がくすぶっていて、ああそうですかって、おめおめと引き下がれなかったの。
だってそうでしょう。何回も言うけれど、私の波乱はあのときを境にして起こったんだもの。電車で行き着いた先に、防波堤のように里崎がいてくれたけど、それで私は救われたわけじゃなかった。だんだん深みに嵌まっていって、にっちもさっちもいかなくなってしまったのよ。だって、私と里崎のベッドシーンにまで内木さんが立ち塞がるようになったんだもの。もちろん内木さんが実際に入り込んできたわけじゃないわよ。それならそれで、道も開かれていったでしょうけど」
 エリコはクラスで回し読みしたトモカの欲情乱舞の詩を、いま脳裏に蘇らせていた。トモカの想像の産物としても、そこに内木が登場していたとなると、彼も隅に置けない気持ちになった。
「私の中には、もうどうしようもない蟠りが積み重なっていったの。それでなんとかしなければならなくなって、訪ねて来たんだわ」
 エリコは先手を取られた思いにいたたまれなくなって、病室の窓に目をやった。見知らぬ建物の壁が、西日を受けて輝いていた。その照り返しが、エリコの顔に来ていた。日の光まで自分に味方してくれないと、忌ま忌ましかった。けれども、とエリコは病床のトモカに目を転じた。自分の先を越して、分館を訪れ、深夜の喫茶店で長い時間を過ごしたトモカに味方したといえるのだろうか。もうエリコの手を離れていたが、こんなに衰弱して、最後の力を振り絞って、喘ぎ喘ぎ話しているようなのだ。
 トモカの心は、何度も何度も、奥まった路地の内木と対峙した場所へと向って行くようだった。話そうと思いながら、そこで行詰ってしまうのは、いぜん空白のままそこに置かれているからだと、考えないではいられなかった。
「意中の人がいるとはいったけど、それが誰とは言わなかったわ。私はあなたのことだと、ピーンときたけど、彼は口を割らなかった。未成年の女子高生と司書との噂が広まるのを、抑えようとしたのだと思う。片や中途退学にまでなった私からすれば、あまりにつれないと思えたから、私は言ったの。その人って、エリコさんのことでしょって。そしたら、彼、うろたえながらも否定はしなかった。私は嫉妬に駆られた鬼のようになって、言ってやったの。エリちゃんなら、決った人がいるって聴いているけれどって。そして坂本ミユさんから耳にしているいくつかのことを材料にして、もっともらしい話をでっち上げていった。話しているうちに、Y電器の女子バレー部コーチのYという人が、エリコさんには申し分のない彼氏に見えてきてしまったのよ。銀座で買ってもらったマスコットを持ち歩いているとも話したわ。実家が瀬戸内海で、大きな網元なんだってね」
 足元に置いている手提げ鞄に括りつけた内木に買って貰ったマスコットが顔を出し、エリコを見上げていた。内木との仲を隠そうとして、仄めかしたことごとくが、逆の作用を起こして悪さをしていると、このとき感じた。 内木さんは信じたくないといった苦渋に歪んだ顔をして、席を立って行ったわ。喫茶店内の歩行可能なスペースを歩き回っていたんだと思うの。戻って来ると、ふっと息をついて、どこか吹っ切れた顔になっていたの。人間なんて、分からないと思っていたのか。特に生育途上の少女なんて、どんなものになっていくか、空恐ろしいといったシニカルな顔つきになっていた。席を立って行ったときに注文したらしくて、ワインがくると、私にもすすめて、気持ち良さげに飲んだわ。
 もう最終電車もなくなって、タクシーに乗ったの。内木さんは私の祖父の家の近くで車を止めて、帰るように言ったけど、私は彼の腕に掴まって降りなかったわ。内木さんは仕方なく自分のアパートを告げて、そこまで行って二人は車を降りたわ。私はすっかり悪女になって、彼の部屋に入り込んだの。彼の布団の横に、余分の布団を敷いて貰って、洗濯に出して糊のきいた彼の浴衣を借りて布団に入ったわ。いくらワインが入っていたといっても、眠れるわけはなく、私は最後の誘惑を試みたの。エリコさんは自分の生徒手帳に、Yコーチの写真を抱き合わせにして忍ばせているって。
 私は彼のものになったわ。いや、逆よね。彼が私のものになったんだわ。それから五日間ずっと、彼に抱かれたわ。出勤時間になると、彼を送り出して、部屋の中を片付け、夕食の支度をして、内木さんの帰宅を待つの。私にとって、人生で最良の、二度とない六日間だったわ。私こんな話をして、私がこの世からいなくなった後、あなたが内木さんと会わないようにというんじゃないのよ。そんなためだったら、話さなかったと思う。そうじゃなく、あなたに謝ろうと決心したの。謝るために、あなたを呼んで貰ったんだわ。謝るには、洗い浚い話す必要があるでしょう。

 こんな気持ちになったのには、深い理由があるの。それはね、私が二度目に手術を受けたときだった。夢なのか、幻なのかよくは分からないのだけれど、彼が来てくれたの。実際に来たんじゃないのよ。場所もここじゃないし、それこそが、私にとっての原点なんだけれど、あの日、私が図書館から走り出て、路地に隠れ、そこを内木さんに突き止められて、狭い狭いところで向かい合ったでしょう。その内木さんが今度は、二歩も三歩も歩み寄って、私を抱きしめてくれたの。そしてこう言ってくれたの。もう君をどこにもやらない。いつまでも、こうしているって。それはもう、とろけるような抱擁だったの。
 私はその体験を支えにして、お話しているのよ。手術のために打った麻酔による幻覚なんかじゃないわ。はじめて、彼に愛されていることが分かったの。嬉しかったわ。もう死んでもいいと思った。本当よ。それで私、あなたに謝る気持ちになれたんだもの。
 ごめんね、エリちゃん。内木さんはあなたのことを大切に心においていたわ。愛しているんだと思う。内木さんは、あなただけでなく、私のことも愛してくれていたのよ。最初にあなたと決めたから、私には来てくれないと、僻んでいたけど、そうじゃなかった。内木さんは、あなたのことも、私のことも愛しているんだわ。
 私がこんな話をするのは、あなたと内木さんの間が、どんな障碍もなくスムースに結ばれていけばいいと思えるようになったからなの。そうしたらさ、私と内木さんの仲がさらに深まっていける気がするのよ―」
 トモカはここまで話すと、不意に目を瞑って、寝息を立てはじめた。頬は紅潮し、彼女なりによほど力を込めていたことが分かった。 エリコは腰を上げ、
「トモちゃん、また来るわね」
 と言ったが、トモカは目を開かず、寝息だけが聞き取れた。痛み止めの注射が効いてきて、急に睡魔に襲われたのだろう。坂本ミユの話では、痛み止めに、麻薬のモルヒネがつかわれているとのことだった。

 トモカの口をついて出てきた数々のことばは、エリコにはとても受け付けられないほどの事柄だった。けれども、エリコ自身がクラスで洩らしたことばの断片が散りばめられていて、その事実に逆襲されていた。
 内木が姿をくらますにいたった経緯のあらましは掴めたものの、彼の行方はいぜん知れないのだ。今一番エリコが求めているのは、内木の所在なのである。
 トモカの話から新たに気がかりになったことがある。それはトモカにとっては、もっとも大きな幸せをもたらしたと語った幻についてだった。かつては、狭い路地で見詰め合っていながら、二人の間は離れたままだったのに、今は距離を狭めるどころか、抱き寄せてくれたと語った一件である。トモカが日々余生を減らして、死に向かっているとしたら、そのトモカを引き寄せようとしている内木は、すでにあの世に行ってしまっているのではないか、という新たな不安だ。
 エリコは公衆電話ボックスのある場所を探して、記憶の中を行き巡っていた。携帯電話がはやりだしてから、公衆電話の数が減ってきていた。店先や公共建造物の陰に置かれた公衆電話もあるが、先方の声を聞き逃さないために、ボックスに閉籠もって周囲の雑音を遮断する必要があった。
 思いつくところといえば、公共図書館の近くにある電話ボックスだった。図書館からはかけずらい私用の電話のとき、内木もそこを利用したにちがいないのである。しかし今は愛する人の影に怯えているときではなかった。エリコも最近は、図書館に行っていなかった。大騒ぎをした後、司書たちの視線が煩わしく、てならなかった。それは、内木を見つけ出したか、探る目つきをしていたからだ。
 公園は静まり返っていた。新緑から若葉、夏の壮んな緑を過ぎて、木々は早くも秋の準備をしていた。眠ったり、眠らなかったり、昼夜も分かたぬ日々を送って、時間の感覚もなくなっていたが、こうして、周りを取り囲む自然は、変化していた。自然は無情だと思った。時間も無情だと思った。その中で内木元介はどうやって生きているのだろう。生きていけるのだろう。司書を辞め、実家を離れ、住所もないような生活をしていけるのだろうか。
 エリコは未成のおぼこにして、内木を労わる気遣いにもなっていた。今は猫どころではなかった。猫のかわりに、もっと大きくて自分にとってなくてならない生きものを抱え込んだ思いだった。生きていなかったら、承知しないから。エリコは唇をぶるぶる震わせて、そう呟いた。
「もしもし、先日お電話した、**エリコというものです。あの―、内木元介さんは、まだ―」
 今度は先方の反応が速かった。そこに希望があった。
「元介からは、昨日電話がってね、北陸のK市にいるって。そこで塾の教師をはじめたとさ」
 ここで母親の口が重くなった。エリカがその口を開かせなければならなかった。
「K市の住所とか、電話とかは?」
「それが暢気というか、抜けているというか、まだなんだとさ。親としても、いざというとき連絡先もないんじゃ心もとないから、早く見つけるように言ったんだけれどね」
「電話は?」
 エリコはいたたまらない思いで訊いた。
「それもまだなんだとさ。近いうちに決めて教えるっていうんだけれどね。ところであなたさんは、どなたでしたっけ? 他にも何人か訊いてきた人がいたけど、どれもはっきり呑み込めなくてね。それほどの歳でもないのに。平均寿命が延びたのを考えればね…」
 エリコは分かっているものだけでも、確認するために、
「K市ですよね、お母さん」
 と言った。何でそんな言葉がいきなり飛び出したのか、自分でも意外だった。先方もきょとんとしたように沈黙をつくった。
「そう、K市なの。北陸の冬は雪の降る土地よねえ。ここも降るけど」
 と母親は言った。それでも、親しみをこめて、お母さんと呼ばれたことで、心象をよくしたらしく、
「元介も、そんなに心配してくれる人がいるっていうのに、勝手に職業を変えたりしてねえ」
 と嘆きを口にした。これ以上新しい情報は得られないと思い、エリコは受話器を置いた。
 電話ボックスを出て、家路を辿りながら、内木の行先をしっかりとは掴めなかったものの、ひとまず安堵の胸を撫で下ろしている自分がいた。それは、とにかく内木は、この世にいたという事実であるようだった。トモカの話から、内木はもしやあの世に逝ってしまい、そこからトモカを呼んでいるのではないかと、気を回したりしたからだった。
 内木元介はこの世に生きている。しかも日本列島の、北陸のK市という狭い土地に限定して、追っ手を逃れる侍のように、身を潜めていたのである。
 エリコは腕を返して時計を見た。捜索の次の手を打つのは、明日にしようと思った。                  つづく





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