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文芸の里コミュの林檎を我に与へしは(長編連載)16・海沿いの家(2)

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                      Daybreak in Santa Barbara-Ravel 'Daphnis et Chloé'




 荷造りを終え、運送屋に頼んでサヨの家宛に送ってしまうと、内木元介は先にしたためておいたエリコのメールに書き加えていった。加えるかどうかずいぶん迷ったが、彼女の中に自分の印象を良く残したい気持ちが働き、言葉は流れるように出てきた。

 これは何年後になるか分からないけれど、僕は第四の詩集を出すつもりだ。その詩集の中扉に――この詩集をエリコさんに贈る――こう書こうと思う。それが僕の君にできる最初で最後の愛のしるしと思って欲しい。
 正直、何年かかるか分からない。けれどもそこに書かれた詩のことばは、僕の心が君に向かっていたからこそ生まれたのだと信じてください。

 内木はそう記しながら、トモカのことが被さってきてならなかった。気を鎮め、心を定めて再びメールに向かった。

 君の住所は電話帳で調べたら出ていたので、詩集はそこ宛に送るよ。君が家を出ていたとしても、実家とは連絡は取っていると思うので、君の手には渡るよね。多分君はそのとき、誰かと一緒になっていて、子供も生まれているはずだ。かなり断定的な言い方になるけど、僕の中の君の将来は、そのようになっているので誤魔化せないのだ。
 それで君は、その子供(男の子か女の子か、それは予測できない)に向かって、こう言って欲しい。恐らく、そう言えるくらいの妻の座についているはずだ。ママの位置といってもいいのかな。そのとき君は、若い親鳥がヒナに語るようにこう言うんだ。
「この詩集を書いた人はね、ママの初恋の人よ」
 それが今僕の胸にある君に寄せる偽りのない願いだ。君の子供に、そう言ってくれるね。夏休みに、十七歳になった君とデートをする約束も果たせなかったけれど、追われている僕の気持ちも理解してね。
 このメールを発信した後、ブロバイダーとの契約を解除するけど、僕を捜したりしないで、エリコさんの道を真っ直ぐ進んでください。
 では美しい想い出を与えてくれた、凛々しく可憐な青いリンゴのような君に感謝して、ごきげんよう。

 内木元介はエリコに送信してしまうと、管理人に鍵を返し、通勤鞄一つで電車に乗った。 まだ起こったことの実感が伴わず、夢のように流れた年月を、後先なく反芻していた。しかし何事もなかったわけではなかったのだ。そこに思い至ると、自分の頭がどうかしているのかもしれないと、意識を現実の一点に集中しようとした。それでも実感は湧いてこなかった。競技を終えたスポーツ選手が、よく口にする言葉を呟いてみる。まだ勝ったという実感がありません。暫くすればじわじわと喜びが湧いてくるのかと思いますが。
 ところが内木は、勝って戦場を後にしているのではなかった。大局から見れば、敗北のベールに包まれているのに、そう認めたくない反作用のような力が働いているのかもしれなかった。

 サヨの家に辿り着いた頃には、竹林越しの落日が目に痛いほどだった。
 内木を迎えに出て来たサヨは、意外といえるほど老けてはいなかった。独り生きる覚悟によるのか、いくぶん痩せはしても七年前より足腰はしっかりしていた。今なら楽々、あの歳時記を運んでくることもできそうだった。「以前よりお元気そうに見えます」
 と内木は本心から言った。
「色々あったけれど、私は私だと思ったのよ。でも内木さんにそう見えたというのは嬉しい。私の肉体が、意志を映して動いてきたということですものね」
 孫娘のことを匂わせていると思えた。内木はサヨに、ナナの死を知っていながら、お悔みも言わないで来たことを詫びた。
 ナナの部屋はあのときのままだった。机にナナの写真のはいったパネルが立掛けてあった。パネルに収まったナナは、どきりとするほど美しかった。どこにも翳りというものがなく、いつごろの写真なのか、大人びた面立ちだった。内木が遠ざけようとしてきたナナとは、大きくかけ離れていた。彼が見てきたのは、別のナナであったかのようだ。
 サヨは彼をそこに導くと、そっと姿を消した。
 内木はナナの前で手を合わせていた。
「あのときは御免」
 その言葉が、自分でも驚くほど素直に出てきた。
 ナナと向かい合っていると、儚く終わった若い娘たちを次々と思い出しそうになった。彼女たちの影に追われているようだ。逃げるように居間に行くと、ソファに沈み込んで、両手で顔を覆った。広げた両の手に自らを投げ出すといった感じだった。
「疲れたでしょう」
 とサヨが茶を運んで来て言った。「七年振りに会った私の印象を言っていただいたけれど、内木さんは変ったわよ。男性が社会に出ると、こうなるのかと思えるくらい」
「そうですか」
 それ以上、内木は何も言えなかった。。精神の糧となるような苦労は何もしていない気がしていた。
 すぐにも投宿する安いホテルを探しに出るつもりでいたが、サヨがここに泊れと言うのでそうすることにした。
「ナナの部屋で寝なさいなんて、言わないから」
 そうまで言われると、逆らうほうが不自然というものだった。そして、サヨと旧交を温めるには、こうなるに至った経緯を聴いてもらわなければならなかった。
 サヨは寿司の出前を頼む電話をしていた。
「ここはねえ、区に寄託することにしたのよ。このまま持っていても、税金が嵩んでどうにもならないのよね。ドイツの娘や、横浜の息子に言っても、税の話になると、引っ込み思案になってね。高層のマンションでも建てれば、景観条例とかで、周囲から嫌われるしね。それより文化財として、区に使ってもらうほうがいいと判断したわけ」
 なるほどと、内木は一度は夢に描いたことのある遺産について、ぼんやり思い巡らせていた。
「**さんらしいご決断ですね。どう利用されるのか、楽しみですね」
「改築して茶室にするとか、句会が持てるような、趣のある場所になればと期待しているのよ。その前に私は、どこかの老人ホームに入ろうと思うの。お手伝いさんに来てもらっているけど、もっと別の環境で寛いでみたくてね。私の生きている間に区が着工してくれればいいけど、そうしたら、私はそこから句会にでも出席できたら、そんなにいいことないわよ」
「離れの人はどうなるんですか」
 内木はちょっと引っかかっていたものを口にした。
「ああ**さんは、ここの管理人として置いて貰うことにしてあるわ」
 とサヨはあっさり言ってのけた。亡夫の遠縁に当たるらしく、それ以上関わりたくない口振りだった。
 区に寄進する契約が成立している屋敷と聞いて、内木はここに投宿するのに気が楽になった。打ち解けた気分は、その辺りから湧いてくるらしかった。
 内木は誰にも語れないできたこの何年かの心の遍歴を、包み隠す必要もなく話していった。何といっても、エリコとトモカのことが、まだ真新しい瑕口としてさらけ出された。
 内木の話を一通り聴いてしまうと、
「それはねえ」
 と、サヨはソファの上にスリッパを脱いだ足をのせてしまい、姿勢を崩した。独りのときはいつもそうしているらしく、長いソファの一方に寄って肘掛に厚いクッションを置いて背をもたせ、足を伸ばした。内木にも楽にしなさいと命令口調で言った。それから言い掛けた言葉を継いだ。「ドストエフスキーが何の本だったか、若い頃読んだものだから忘れてしまったけれど、『自分の命が相手に握られてしまっているとき、その相手を殺す権利がある』そんな内容だったと思う。つまりそのトモカっていう娘は、自分の命が危ないくらいに追い詰められていたのよ。内木さんのことが、好きというより、もう業のように手に入れないではいられなくなっていたのね。それであなたの心がエリコという娘にあって、それを崩すほかに、あなたに顧みられる術なしとみたとき、最後の手を使ったのね。エリコという娘を殺さなければと思ったの。もちろん、実際に手を下さないとなると、あなたにもっとも効果のあるもっともらしい嘘を用意したってこと」
 内木が断を下すのに困窮したところを、サヨはかくもあっさり言ってのけた。彼は自分の弱点を衝かれたに留まらない、エリコを傷つけたかもしれない罪悪感のようなものが、どす黒く自分の内部に渦巻くのを覚えた。沈み込んでいく内木を見かねたのか、サヨは彼女の判断に訂正を加えて言った。
「エリコという子だって悪いわよ。全部が全部でっち上げとは思えないから、その写真をちらつかせたのよね。そういうことをする娘って、自分が愛されている自信から、つい抑えが利かなくなって、自慢したがるものなのよね。そんなちゃかちゃかする自分の悪いことを十分承知していながら、公に口走ったりしてしまうのよね。一方の男性に対する自分の心がはっきりしていると思うからこそ、その秘めておくものが、捌け口を求めるように、軽口となって、もう一方の男性を出さないではいられなくなるの。あるいはそれが高じて、生徒手帳の自分の写真に、その男性の写真を重ねてしまったかもしれない。ただそのトモカという娘は、エリコという子の心を十分知っていて、奪おうとしたのよね」
 サヨは自分のは全部、昔読みあさった書物からきたもので、当てにはならないとも話した。これまで内木は知らなかったが、サヨは名門のO女子大出身だった。トモカについて、文学少女だと内木が話したことから、それならとサヨなりの少女時代を披瀝したとも受取れる。サヨは内木の手つかずにいるプルーストの「失われたときを求めて」トルストイの「戦争と平和」トーマス・マンの「魔の山」などをかたっぱしから読破していた。
 絡み合った恋の痛手の話はひとまず置いて、内木の身の振り方について持出さなければならなかった。暫くは,自分にもできる塾の教師などで食い繋いでいきたいと言った。しかし、できるだけ離れた場所に住みたいとも話した。
「そう言っても、どこに落着きたいの」
 とサヨは眉を吊り上げた。
「どこでもいいです」
 内木の投げ遣りな言い方に、苦悩の深さを読んだらしく、
「私を訪ねてくださったんだから、連絡の取れるところにいて欲しいわね」
 といつの間にか保護者然とした口調になっていた。
「ええ、それはそのつもりですけど」
 と内木は力なく応えた。手に職のない無力さというものに取り付かれていた。これまで力を入れてきたものといえば、詩の他になかった。だが詩を書くといっても、それは世間に通用するものではなかった。
 北陸のK市と、具体的に最初に地名を口にしたのは、サヨのほうだった。内木は顔を浮かせて、彼女の次の言葉を待った。
「そこで持たれている句会が、いつも活発で新鮮に見えるのよ」
 何だそんなことか、と内木は落胆しつつも、その街に自分を受入れるスペースがあるのであれば、それもいいなと内心思っていた。古い城下町であるくらいの知識はあった。
「もしお望みなら、K支部の理事に連絡してあげるわよ。住いの世話くらいしてくれるでしょうよ」
 とサヨは言った。これからサヨが出かけて行くかのように、前向きになっていた。「そうしたら私も、たまにK市の句会に顔を出すきっかけにもなるし、句会の後はあなたと食事をしてもいいしね」
 内木はにわかに浮かび上がってきた新転地の印象を、毀してしまいたくなかった。それに乗らないことは、サヨの夢を蔑ろにするにひとしかった。
「いいですね。K市。古い町でありながら、どこかハイカラなイメージもある」
 サヨは句誌「行燈」を何冊か抱えてきて、支部の電話番号を見つけ出すと、内木の諒承を取って、すぐ電話をした。
 先方が上京して、何度か会ったことがあるような口の利き方をしている。次に詩人だとか、暫く一緒に俳句の勉強をしたなどと話している。部屋だけでなく、仕事も探しているというような話になった。
 そのうちサヨは内木を呼んで、受話器を渡した。
 相手は教える科目とか、何年生くらいを希望するかなどと訊いてきた。
「得意とは言えませんが、中高の国語と数学なら何とか教えられます」
 相手は小学四年の孫の勉強を見てもらいたい口振りだった。
「小学生も教えたことはありますが、字の書き方なんかぞんざいになるかもしれません。筆順などにとらわれないで書いていますので」
 結局孫の小学生のことも引き受けることになったのか、曖昧なうちに電話を切った。すぐアパートを当たってみて、見つかったら電話をするということになった。

 見つけてくれたのが、内木が現在落着いている海沿いの家の二階である。ほかに二軒候補があったが、内木は市街地より郊外、郊外でも海に近いほうを選んだ。
 サヨに暇を告げる最後の夜、彼女ははじめてワインを口にした。内木はなぜかこのとき、サヨの身の上話を聴かないで出て行くのは悪いような気がした。O女子大を出て、世界文学を読みあさったという彼女に、青春がなかったなどとは考えられなかった。たとえ華やかな青春はなかったにせよ、一人の男を見つけて結婚したことは事実なのである。けれども、その内実は、実にひっそりしたものだった。彼女が最後の日まで秘めてきた理由も頷けるのである。
 この屋敷に婿養子として入籍した夫は、銀行員で頭も切れ、謹厳実直な人柄が買われて信用を集め、とんとん拍子に地位も上がっていった。そして支店長のポストを得たが、上層のある闇取引が発覚すると、責任を取って自殺してしまったのである。
「ナナは事故死でよかったのよ。事故死で」
 とサヨは力説した。孫娘の死を誇るようにそう言った。

 内木はこのような経緯で北陸のK市に移り住んだ。サヨの俳句仲間の口利きとあって、「行燈」支部の句会にもたまに顔を出さなければならなくなった。まだ一度出席しただけだが、圧倒的に老人が多かった。
 そもそも若者は大きな都市、名古屋、大阪、東京などへ出ていて、老人の比率の多いところへ俳句を嗜む多くが老人とあって、無理からぬことだが、内木は若いというだけで歓迎された。
 代表者には、若い息吹を注いでくれなどと発破をかけられている。そんなことから、義理でも俳句を作らなければならなかった。
 塾教師の口を見つけてくれたのも、支部の代表者だった。孫の家庭教師は、小さい子は苦手だからと丁寧に辞退した。
 明鏡塾は、K市の中心からバスで二十分ほど海に寄った位置にあった。それでも内木の借りた海沿いの家までは、さらに七分バスに揺られなければならない。週に二度、午後三時からの受持ち以外は夕方からなので、暇な時間をどうやって過ごすかで頭を悩ましていた。ぶらぶらしていると、考えても仕方のないくさぐさが押し寄せてきて苦しめられるので、何かに集中するなりして心身を縛っておかなければならなかった。それは、夜の授業を終わった後についてもいえた。これから帰って寝るだけと思うと、その空隙に向かって、少女たちが責めてきた。音信を不通にしているだけに、よけい想像は膨らむのかもしれなかった。
 その空いた時間を内木はさらに塞がなければならなかった。酒場に入って酒で頭を麻痺させるのも、一つの手段なのであろうが、そして多くがそうして、酒に頼って一時の擬似平安を得ているのかもしれなかった。だが内木には、そういう習慣がなかった。これまではそうする必要がなかったのだ。けれどもここに至って、そうはいっていられなくなった。
 ある日、これからの長い時間をどうしようかと思っていた。受持ちの高校生は、みんなさっさと引き揚げてしまった。サッカーの日本対オーストラリアの試合が放送中とかで、ものの一分もしないうちに、生徒は残らず帰ってしまった。
 一人コピー機に向かっているのは、昼の部を受け持つ三崎マナミだった。彼女は確か、内木が夕方ここに来たときにも、そこにいたのではなかったか。
 コピー室はどの教室からも出入りが可能なように、三方が切り開かれ、ドアもついていなかった。内木は黙って帰ってしまうのに気が引けて、
「忙しそうですね」
 と覗きがてら声をかけた。
「忙しいってほどじゃないの。ただ暇だったから、やってただけ」
 三崎マナミは弾かれたようにコピー機から顔を上げると、そう言った。内木などは暇であっても、正直に内心を吐露できないのに、さらりと言ってのけられるあたりが羨ましかった。また性格のよさのようなものも窺えて、コピーされた一枚を手にとって見るともなく眺めながら、
「僕もこれから帰って、どうしようかと迷っていたところです。よかったら、お茶でも」
 と言ってみた。
「いいわ」
 と彼女は言って、自分の手提げ袋にコピーしたものをしまいにかかった。それから、「私って、バカね。明日ここでつかうのに、持ち帰ろうとしている」
 と自嘲をこめて言った。
「誰だってありますよ。解答用紙と勘違いするんです。まさか彼等が苦心して書いたものを、置いていくわけにいきませんからね」
 と慰めてみる。誘いかけた気まずさを、そんなふうに糊塗したといったほうがいい。
 彼女はコピー機の周りを片付けると、内木につづいて表に出て来た。夜気をつんざいて銅鑼の音が響いてきた。どこへ向かう船なのか、皆目見当がつかない。
「少しひんやりしてきたわね」
 と三崎マナミは言った。
「東京に比べると、夏がいなくなるのも早い」
 と内木は言った。何故いなくなるなどと言ったのか、自分でも意外だった。消えてしまった二人のことが、こんなところで飛び出してきたようで、寂しかった。
 内木とマナミは純喫茶にするか、酒の出るところにするかでもたついていたが、
「私、生ビールが飲みたい」
 そう三崎マナミが声を張り上げたので、大衆酒場の暖簾をくぐった。彼女はときどき大きな声を出すが、そうする理由が話し込むうちに分かってきた。いきなり声を大きくしたり、「え?」と聞き返すので、その度に内木も声を大きくしていたが、
「私、そっちに行っていいかしら。右の鼓膜が破れていて、ないの」
 そう言って、向い合った席から、ぐるっと回って左隣に移ってきた。自分で聞き取れないものだから、つい出す声が大きくなっていると知れた。
「子供のとき、父に怒られて、びんたを食らって、そのときから右の音が消えたの」
 と三崎マナミは話した。不幸はいろいろのところに転がっていると内木は思い、また別れてきた二人の上に心が傾きそうになった。トモカならともかくとして、どうしてエリコまで浮かんできたのか、自分でも分からなかった。エリコの不幸といえば、恵まれ過ぎていることではないのか。にもかかわらず、浮かんできたということは、内木との別れが響いているということなのか。
 内木は考え込むのを避けて、三崎マナミに心を向けようとしていた。マナミは地元の大学の教育学部の四年生だった。
「半島の外れのほうに行って、教えたいの。小さな学校で」
 と彼女は言った。「そこで不幸な子の親代わりのようなことをしたいの。でも私は女だから、父親の役はできないわね。しかも私はその後の父の愛を知らないし」
 彼女の話したところによると、父親は娘の鼓膜を破って少しして、突然家を出て行ってしまった。
「私が勝手に憶測したんだけれど、どうもこれ以上一緒に住んだら、娘を殺してしまうのではないかと、不安を抱いたようなの。家を出る二日ほど前だけど、やっぱり怒って手を挙げかけたんだと思うの。何とか堪えていたときの父の顔がありありと浮かんできて、ああ父は苦しんでいたんだなって……そのくせ、私は自分がどんな悪さをしたのか、まったく頭にないのよ。不幸だわ。血を分けた親子だって、一つ屋根の下で暮らせないんだもの」
 内木はそんな話を、三崎の耳の健全な側の顔の半面を見つめて聞いていたのだったが、その顔がなぜか、エリコの顔と似てきて、二重写しになって見えてくるのだ。
 席を立って、三崎マナミの右側を歩いていると、顔の右側がトモカの顔に似てくるのだった。これではとても付き合えないなと落胆していると、マナミの乗るバスが来て、彼女は行ってしまった。走り去るとき、手を振る彼女が、後部座席の窓から見えたが、いきなりその顔がぐらぐらっとよろけて、内木の視界から消えてしまった。                    つづく






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