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文芸の里コミュの赤ん坊が降ってきた

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                           Marie Carmen - L'aigle Noir



 秋だというのに真夏のような暑い日だった。リゾート地の高層マンションの前広場で、一人の少女が通りかかる人を捉まえては、しきりに話しかけていた。何かに取り付かれでもしたように、夢中に話しているので、私はつい引き寄せられて傍へ寄っていった。
 私が寄って行ったのは、みんなが寄って聴き入っているからではなく、真剣に話しているのに、人々はちょっと立ち止まるだけで、すぐ歩み去って行くからだった。この少女にいささか哀れを催したのである。何も荷物を持っていないところを見ると、旅をしてここに来ているのではないようだった。すぐ前の高層マンションの住人とも思えなかった。それではどこからこの少女はやって来たのだろう。
 傍らに高さ約三十メートルのモミの木が立っていて、少女はその木陰に入っていた。風に梢が揺れると、木漏れ日が彼女の額を撫ぜている。モミの木はほぼ五十メートルの間を置いて、等間隔に立っていた。二ヶ月もすれば、モミの木は色とりどりの豆電球に飾られ、クリスマスツリーに早変わりするのだろう。恐らく、分譲マンションとして売り出す際には、そんなキャッチフレーズもあったにちがいない。
 少女はセーラー服で、髪はおさげ。白いソックスを半分折り曲げて履いている。靴も制服に合った上等の革製。近くの住人ならサンダルとか、スニーカーで十分のはずだった。
 それでも少女はいたって自然に、この街にとけこみ、気さくに振舞っていた。お下げ髪の下の目は柔和で、どこにも凝らしたようなところはなく、人に対して、あるいは世の中に対して、疑いとか恨みとかを抱いてはいないようだった。
「あの九階のベランダの手摺の上を、赤ちゃんは這い這いしてたのよ」
 と少女は人懐っこそうな瞳で私を見て、説明した。これまで何回となく、この同じ説明を通りすがりの人にしているに違いなかった。その話を聴いてもらうために、少女はそこに立っていると思えたからだ。
 私は他の通行人とは違って、少女の話を聴く用意があることを示すために、
「九階となると高いね。このマンションは十二階だから、上から四つ目か」
 などと調子を合わせた。
「そうよ、七階でも八階でもなく、九階なのよ。私数えたんだもの」
「それは危ないね。危険この上もない」
「そうでしょう。危険だわ」
 少女は言って、呼吸を整えるために生唾をごくんと飲み込んだ。彼女の瞳の奥に、恐怖が蘇ってくるようだった。
「それで赤ちゃんはどうしたの」
 語れずにいる少女に誘いの手を差し伸べる。
「隣の仕切りのところまで、這い這いして行ったの。そして仕切りにぶつかると、くるっとこちら向きになって、また這ってきたの」
「よくそんな狭いところで、回れたね」
 と私は訊いてみる。
「そうなの。仕切りに掴まって、少し立ったと思うわ。それで方向転換すると、また手摺に手をついて、這い這いしてきたんだわ」
「こっちへ向かって来たんだ」
「そう、赤ちゃんは得意そうに下の私のほうを見て、口を大きく開けて何か言ったんだわ。ああとか、ばあとか、赤ちゃんにだけは分かる言葉で」
「……」
「私は動悸が激しくなって、早くベランダに戻りなさいって手で合図を送ったの。家の人が台を置き忘れたのよね。そこを這い登ってきたんだわ。外の世界を見ようとして」
「それでどうしたの。その赤ちゃんは」
 と私は先をせかせて言った。少女がこちらをやきもきさせて、わざと遅らせているのではないかと、意地悪な気持ちにもなっていた。
 実際はそうではなく、少女は恐怖心にさいなまれて、語りたくても口がいうことを利かない、金縛りのような状態になっていたのだ。
「それで、それで」
 と突っかかりながら、少女は前へ進もうとしていた。「片方の手を、何もない空中についてしまったのよ」
 そのときの赤子の様子を思い出すだけで、彼女の体はぐらぐらっとした。少女自身が、片手を何も支えのないところについてしまったかのように。
 私の感覚も、似たような情況に追い込まれていた。
「それはそれは、一大事だ」
 と私は少女を励まして言った。「落ちたの?」
「ううん」
 少女は頑なになって、首を横に振った。「しがみついたの。体を手摺に密着させるように低くなって」
「よかった、よかった。無事だったんだね」
「ちょっともよくないの。それから私は、怖くて上を見ることができなくなってしまったの。救急車を呼ばなきゃと思って、携帯の番号を押すんだけど、指が震えてしまって、数字を二つ押してしまったり、番号を忘れて、何度も繰り返してみたりで、いつになっても、どんなに苦心しても、電話が通じていかないのよ。分かる? こんな気持ち」
「分かる、分かる。気持ちが動転してしまったんだね。その気持ちと体が、ぴったりと重なってしまったから、電話をするのも、うまくいかなかったのさ」
「そうかもしれない」
 と少女は言った。しかし彼女は、伝えなければならない大切なことを、まだ言えずに抱え込んでいた。それを話して理解して貰わないことには、この大人も、これまでの通行人と変らない人になってしまうのだ。
「携帯は通じなくて、何も話せなかったけど、私が言っていることは本当よ」
 と少女は言った。いくら話しても、信じてくれないと思い込んでいるような口ぶりだ。
「本当だとも。ここで一人の旅人が足を止めて、少女の話に耳を傾けていることも本当さ。だから話してごらん、その先を」
「分かったわ。これまでは駄目でも、それだからこれからも、駄目ってことには、ならないよね」
「ならない。駄目なのは、駄目と思い込んでしまって、先へ進もうとしない心なんだ」
「分かったわ。それでなければ、過去ばっかりで、未来なんてないものね」
「そうさ。未来なんて星の数ほどある」
 こういったとき、閃光が走るように少女の顔が輝いて、私を見上げた。
「星の数ほど」
 少女はそのことばを押さえ込んで、「そうよね。星になったんだわ。あの子は」
 と言った。
 それからだ。少女が意を決したように話しはじめたのは。
「ああとか、ばあとか、しきりに私に呼びかけていた赤ちゃんの声が、急に途切れて、何かにぶつかるような鈍い音がしたの。私は怖くて見上げることなんかできなくて、相変わらず救急車の番号を押しつづけていたの。もう間に合わないと分かっていても、押しつづけていた。番号さえ頭から消えてしまっているのに、何度も何度も繰り返し押していたの。そのうちにものすごい風圧が、私に向かって降りかかってきた。私はもう駄目だと観念して、目を瞑ってしまった。ところが最悪のどすんという音は起こらなくて、今か今かと、覚悟して、待ち構えている私の耳に響いてきたのは何だと思う?」
「何だろう」
 私はそう言って、少女に目をやった。少女はそのときのことを思い出すのか、唇を震わせて、片手を前に差し出していた。その手をしゃくるように手繰り寄せると、断言した。
「雀だったのよ。びびっという雀の翼の音だったの。赤ちゃんが地面に叩きつけられる寸前に、雀になって、私を掠るようにカーブを描いて、空中に舞い上がって行ったの」
「目を瞑っていた君は、そのとき目を開いたんだね」
 私は情況を確認するために、そう訊いた。
「そうなの。どうしてか、そのとき無意識に目を開いたの。その私の顔を擦るようにして、舞い上がっていったのよ。上から落ちてきたスピードのままに、私の前を滑空して天に昇って行ったの。見る見る小さくなって、真昼間の空に点になって消えて行った」
「分かった、分かった。君の言うことは分かったよ。それでその赤ちゃんは、ベランダの手摺にはいなかった?」
 少女は何でそんなことを言うのかという顔になって、私を見つめた。
「何か赤ちゃんらしい、他のものもいなかった?」
 と私は少し角度を変えて重ねて訊いた。少女は気分を害したのか、私を恐らくこれまでの大人たちに示したと同じような目つきで見据えていた。
 私は少女のよき理解者となるために、彼等、大人たちと同じ傍観者ではいられなくなった。それで詳細にわたる現場の検証をはじめた。私立探偵を雇う代わりに、私が探偵にならなければならなかった。そうでもしなければ、少女は私を赦さないだろう。
「もう一度最初からおさらいするけど、いったいその事件というのは、いつ起こったのかな」
 私は探偵なら、どういう対応をするだろうかと想定して、手帳を取り出すと、メモする構えになった。
「あれは、夏に入ったばかりの、ものすごく暑い日だったわ。その辺り一面陽炎が立っていたの」
 初夏、炎天の一日、と私は書き取った。少女に見られても、咎められないドイツ語で。
「そんなに暑い日なのに、お嬢さん自身には変った事はなかったんだね。たとえば、熱中症とか」
「なかったわ。私は夏帽子を被っていたから」
「その帽子を今は被っていないようだけど」
「それにはわけがあるの。それを話すと長くなるから、またの機会に話すわ」
 と少女は言った。私も枝葉のことで、これ以上長くなるのは差し控えて、問わないことにした。
「とにかく、そんな暑い日に、赤ちゃんが落ちてきて、雀になって飛んでいったわけだ」
「そお」
 と少女はいって、私が本当に信じてそう言っているのかを、探る目つきをした。
「それで君は、その日からずっと、ここに来ているの? それからまだ訊いていなかったけど、君のお家はどこ」
「私のお家はねえ、あそこ。山の中腹に赤い屋根が見えるでしょう。あのお家」
 なるほど、この新興の街を眺望できる位置に少女の家は立っていた。麓に街が開けてくると、子供なら誰でも、下りて来てみたくなるというものだろう。人間に限らず、山に棲みつく鹿や猪だって、似たようなものだ。いきなり街ができてしまったとなると、物珍しさへの好奇心が先走るに違いない。
「静かなところに立つ、いいお家だね」
「静か過ぎて、鳥がうるさいわ。こっちから逃げ出した鳥もいるみたい」
「鳥たちは逃げて行くのに、お嬢さんはやって来たと」
 私のもの言いが気に食わないらしく、少女はきかない目つきをした。君と呼んでいたのが、お嬢さんに変ったのも、原因しているらしかった。
「ではこれから、そのマンションまで歩幅で測ってみるよ」
 私は言って、約七十センチの歩幅でマンションまで歩いて行った。少女は私に合わせて、股が裂けるような歩みをしてついて来た。
 マンションの下には、柔土の花壇もできていた。サルビアが炎のように揺れている。
 マンションまでは、二十歩あった。とすると、約十四メートルだ。
「いいかい」
 私は現場検証の状況説明にはいった。「あそこから、ここまでは十四メートルある。どう考えても、落ちてあそこまでいくというのは、腑に落ちないなあ」
「だから雀になったって、さっき言ったじゃん!」
 少女はついに立腹して、牙を剥き出してきた。
「そうだった。悪かった」
 私は素直に謝って、先を急いだ。「それはいいとして、次に訊きたいのはだ。その後君は、何のために毎日ここに足を運んで来るようになったの」
「毎日じゃないわ。一日おきとか、二日おきのこともあるわ」
「その執着度は、一日おきも、二日おきも似たようなものだ」
 これは独り言のつもりでいった。
「執着度って何」
「真剣さとでも言うのかな」
 私は当たり障りなく切り抜ける。
「私が来るのはねえ、今度あんなことがあったら、ちゃんと電話できるように、家で訓練してきたの」
「そうか、あんな危険なことがあったら、すぐ連絡できるようにか」
「そう、落ちる前に、赤ちゃんを救うために」
「なるほど偉い。よし、君の偉いところが分かったついでだ。これから、あそこまで行ってみるぞ」
 私はマンション九階の、注目のベランダを指差していった。にわかに慄きが走って、少女は身を竦めた。
「怖がることはないさ。僕はこういうことに慣れているんだ」
「あなたは探偵さん?」
 少女は柄にもなくませた口を利いて、あなた呼ばわりした。
「まあそれに近い」
 と私は曖昧な応え方をした。正しくは精神科の医師だが、医師と患者として向い合うのではなく、巷で精神を病む者を見つけて、病むに至った原因を探り、合わせて治療法まで見つけ出せたらと考えての、いわば野に下っての療法探索のようなものなのである。その点では、探偵と似ているところもあるかもしれない。医者だと知られてしまうと、野に下った意味がなくなるので、このくらいの偽証は目を瞑って貰うしかなかった。
「そうだったのか、道理で普通の人とは違うと思ったよ」
「違うと思ってくれて、ありがとう」
 私はただことばを繋げるために、そう言った。それから潔く「よし、行くぞう。九階の右から三番目のベランダだな」と言い放った。そのとたんに、あの演歌歌手の「吉幾三」が目に映ってきたので、私は少々慌てた。こんなとき、彼に登場などして貰いたくはなかったのである。
 棟の中央部に位置するエレベーター前に立つ。彼女はやや臆した面持ちで、ついて来た。空のエレベーターが上から降りてきたので、乗り込んで、九階のボタンを押す。何が待ち構えているのか。私自身が動揺しているので、少女を観察する余裕はない。精神科医師の新しい試みも、最初から足踏み状態といったところだ。
 九階に着くと、一歩踏み出して左右を窺った。ひっそりと長い廊下が続いていて、人の気配はない。少女も私の呼吸に合わせて、抜き足差し足、辺りを窺いつつついて来る。近くなると、目的の場所が次に迫っていることを、その扉に指を向けることで少女に教えた。彼女は深く頷いて、その顔は青ざめて見える。 ところが、目当ての扉の前に立つと、私は意気消沈した。
 当室は空いております。マンションご希望の方は、お入りになって、自由にご見学ください。
 管理人事務所 電話57445789
 扉は手をかけるかかけないうちに、すーっと内側に開いた。スリッパが二足揃えておいてある。
 少女は部屋を間違えたのではないかと、端から何番目であるかを確認している。私はかまわずベランダへ直行した。室内を風がめぐっている。クーラーとか扇風機によるものではない。自然の風だ。木々の香りが含まれている。
 なるほど、ベランダに出るガラス戸が僅かばかり開いていた。ベランダの床から手摺までが、ちらっと目に飛び込んできた。そこに少女が予見したように、踏み台があった。それも手摺の壁に接するほど近くに、置き忘れたように置かれていたのだ。
 私がガラス戸をもっと開けようと手をかけたとき、信じがたい異変が起こった。大きな褐色の猫が、狭い手摺の上で逃げ腰になっていたのである。私がベランダに一歩踏み出すやいなや、大猫は慌てふためいて、隣との仕切りまで進み、その壁を飛び越えられるかどうかを、二本脚で立ち上がって、上を振り仰いだ。飛び越すのが危険と見るや、狭い手摺上を見事な身のこなしで方向転換すると、身を低くして、私のほうへ向かってきた。そして踏み台に飛び移ると、難なく床に下りて、私が大きく開けたところから、飛び出て行った。
「正体はこの猫だ!」
 大猫が出て行ってしまってから、私はそう悟った。何というのろまなことだ。猫が消えてしまってから納得するとは。
「君、君、早くその大猫を捕まえろ。逃がすな」
 私は部屋中を隈なく歩き回って、押入れ、トイレ、浴室、ドアを音高く開け閉めして、探し回った。しかし猫はどこに雲隠れしたものか、姿を現さなかった。残るのは、玄関だけだ。そのドアは、見学のために開放されていて、押しても引いても、自由に出入りができるようになっている。
 大猫は私がベランダへ向かったと同じコースを、逆行してまっすぐ玄関へ向かったとしか考えられない。スリッパは一足が綺麗に揃えて置かれている。少女はいったいどこへ行ったのか。
 私は猫だけでなく、少女も併せて探さなければならなくなった。これはどういった現象だろう。少女まで消えてしまっているとは。長い廊下に人影はなく、個別の部屋から出てくる気配も皆無だ。
 逃亡したとしたら、エレベーターを使うとしか考えられなかった。もはや手遅れとは思ったが、エレベーターのボタンを押した。
しかしいったい、何が手遅れなのだろう。人間の精神に、手遅れなどということがあるのだろうか。それとも私自身が今、象牙の塔に入り込んで、救済を待っているのだろうか。
 私は心を病むクランケどころか、少女の中に棲みついた正体すら捕まえられなかったのだ。はたしてあそこに、褐色の大猫はいたのだろうか。
 下に降りて行けば、モミの木陰に少女がいるような気がしたが、アベニューに人影はなく、季節外れの陽炎が立ち、地上一面がぼうっと霞んでいた。私は立ち昇る熱気と、地面が揺れ動く感覚にじっとしていられなくなり、携帯を取り出すと、SOSを発した。若い助手が出た。
「車で、迎えに来てくれ。頼む」
 と私は言った。                       了                                                                        






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