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文芸の里コミュの高原列車・長編連載「17」

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 田坂は夜が更けるとともに静まり返っていく店舗をかねた作業場に腰掛け、考え込んでいた。
 歌子の現住所が分ってみると、自分がこの二年間、囚われてきたものはいったい何であったのか、そんな虚しさにおそわれだした。
 東京都墨田区錦糸町‥‥そこのスーパーの寮に、歌子は旅行前も旅行から帰った後も、なんら変わりない生活を送っていたのである。現住所を見るかぎり、そのように思えてしまう。自分、田坂宗彦は、なんの幻を見てきたのであろう。被害妄想もいいところだ。
 清水牧師は説教の箇所が、聖書から取った「ここは聖なる場所である。あなたの靴を脱ぎなさい」だったことと、歌子のそのときの状況が合致したために、神に責められていると受け取ったのではないか、などと話していたが、その牧師が、自分の娘のためにこの靴を欲しがったのである。
 よっぽど頭痛がひどかったのだとしても、それならそれで、後から何らかの連絡をしてきてもよかったはずだ。あの領収書には、この店の住所も電話番号も載っているのである。そうするのさえ、呪われると考えたのだとしたら、自分のしていることはいったい何なのか。
 田坂は知らずしらず首を振っていた。そうするしか、思いの捌け口がないかのように、ただ首を振りつづけていた。
 代金を払って商品を受け取らなかったのだから、店に損はないと考えるのは、早計だ。既製品ならまだ分かる。問屋から取り寄せるなりした靴を取りに来なかったら、厭な思いは残るにしても、まあなんとか堪えるとする。しかし手作りの靴ともなると、そうはいかない。足の寸法を取って、履く人を常にイメージしながら、作っていくのだから、何日かは、その人と一緒にいるようなものなのだ。いかがですか、履き心地は。完成時のその問いかけを、絶えず放ちながら仕事をしているようなものだ。
 それが仕上がったのに、取りに現れなかったとなると、目標を失って、目の前に何もなくなってしまう。歌子の場合は、田坂の稔らなかった青春が重なってしまった。歌子のために自分の技量のすべてを注ぎ、精魂を傾けて靴を作ってやりたかった。そして短期間ではあったが、胸ふくらむ夢のような日を送ったのである。徹夜の作業も苦にならなかった。
 しかし蓋を開けてみると、ご覧の通りだった。そうなると、四、五日間の徒労にはとどまらない。何か予期せぬことが起こったに違いないと、歌子の身の上を案ずることになってしまった。絶対来るはずのデートの相手が、現れなかったとなると、ただごとではなくなってくる。
 そんな命も細るほどの心配を与えておきながら、つらっとして東京へ帰ってしまっていたのである。田坂は今、若い女の心が解らなくなっていた。解らないどころか、赦せなくなってきた。
 もしここに、田坂の二年に及ぶ苦しみなど、どこ吹く風と現れたら、若い女の頬に、往復びんたを見舞うかもしれない。相手の出方によっては、靴をずたずたに引き裂いてしまうことも考えられる。
 思いを行き廻らせているうちに、頭に血が昇ってきた。こうなると、ウイスキーをがぶ飲みして布団をかぶって寝るしかない。こんな怒りに駆られるのは、歌子が生きていると判明したからにほかならなかった。
 田坂は思いを決して立ち上がると、電話局に電話をして、歌子のいる寮の電話番号を訊ねた。呆気なく番号を告げられてみると、自分のしてきたことが、ますます夢のようでならなかった。
 煎じ詰めれば、田坂の苦労を無にして、神の忠告を優先したことになる。若い娘が赤い靴を欲しがるのは、神の目に適わないことなのだろうか。しかし歌子に説教した清水牧師でさえ、自分の娘の卒業祝いに欲しがったくらいなのである。それを歌子は、一顧だにせず、さっさと列車に乗ってしまったのだ。

 翌朝、歌子に電話しようとしたときには、怒りはきれいにおさまっていた。愛するとは哀しいことだ。おそらくこのように、親は娘のあやまちを赦してしまうのだろう。
 出勤前で慌しくしているのではないかと、気になったが、夜は夜で、また何かと予定もあるかもしれないと、このときを選んで電話をした。
「え、関口歌子、ですか?」
 電話に出た女性は、怪訝な声でそう言った。「関口さんなら、二年前に辞めましたけど」
 田坂は行き先を突き止めようと、穏やかに穏やかにと自分を制した。このままでは、つっけんどんに電話を切られてしまう。だからといって、では現在歌子はどこにいるのか訊くだけでは、教えてくれそうにない。その場合は、二年前のいきさつを述べなければなるまい。電話する前から、心の備えはしてあった。
「実は私は、葵湖の傍で靴屋を開いているものですが、二年前関口さんが見えて、靴を注文されたんです。手製の婦人靴を。前金でいただいてあったのですが、靴が完成して渡す日になっても、取りに来ないので、どうしたのかずっと気になって探していたのですが、たまたま関口さんのことを知っているという教会の牧師さんが現れて、それで寮の住所が分かって電話をしたわけなんですが」
 相手は納得のいかない声を出していたが、これだけ詳しく言うのだから、歌子が靴を頼んだのは事実なのだろうと思ったらしかった。
「では、その靴を送られるんですか」
「そうなんです」
「関口さんは、元いた養護施設に帰ったんですよ。仙台の方の。今はそこで働いているはずです」
「もしその養護施設の住所が分かりましたら、教えていただけないでしょうか」
「そう、年賀状が来ていたから、あると思いますけど。探すのに少しかかりますけど、いいですか」
「はあ、結構です。朝から申し訳ありません」
 歌子が養護施設にいて、そこに戻ったというのも、まったく予期していなかったことだ。自分は関口歌子について、少しの予備知識もないまま関わってきたわけだ。
 養護施設に戻ったと聞いたとき、どすんと、田坂の中に落着するものがあった。それは初対面の歌子に見た謎めいたものが、いっぺんに氷解した気がしたのである。高原を走る列車に乗り合わせた女子大生と、年齢は違わないとしつつも、歌子をその中におくことのできないもどかしさが、何処からきているのか呑み込めなかったのである。そんなことから、若くはしているが、もしかすると結構年を食っているかもしれないという見解になった。
 しかし今、歌子の来し方を仄聞するところによると、どうもそうではないらしい。彼女なりに、負って生きてきたものが、知らずしらず年輪のように雰囲気に刻まれていたようだ。良くも悪くも、俗に言うところの、生い立ちからくる影があったのだ。
「お待たせしました」
 女性は五分ほどして現れると、歌子の住所を読み上げていった。田坂は過たず聞き取り、メモしていった。
 歌子がなぜ勤務先を辞めなければならなかったのか、疑念が残ったが、それを訊く余裕はなかった。後は、直接あたるしかない。それも、靴を是が非でも受け取らせるには、靴の代金を一緒にして荷造り、田坂からの贈物としなければならなかった。
 赤い靴を忌むべきものとして、取りに来なかったのなら、歌子が欲しがったのではなく、人からの贈物としなければならないのである。清水牧師が自分の娘のためにプレゼントしたいと語ったことが、何よりのしるしとなる。田坂の作った赤い靴は、神に仕えるものの見立てに適っていたのである。それを一言手紙にして、添えてやればいいと思った。
 田坂はさっそく、書留小包にして出し、二年間の重荷から開放された。


 書留小包を受け取ったとき、歌子は頭の中に火の粉が爆ぜる状態になった。職人を等閑にしていた思いが強く迫ってきた。取るものもとりあえず、すぐ電話をした。二年の時をはさんで、しかも受話器を通してであったが、聞き覚えのある田坂本人の声があった。
 歌子は詫びとお礼の言葉がこもごもに飛び出てきて、自分で何を言っているのか分からなくなった。田坂の手紙の背後に、強い調子があったことも響いていた。
 何とか説明して分かってもらわなければならない。それが弁解に聞こえようとも、あのときの苦痛は、とても口で表現できるものではなかった。自分が意識を失ったとき、母が息を引き取ったなんて、言えるだろうか。理解してもらうには、向かい合って話すしかないと考えた。しかし今、それはできない。
「そのうち暇を見つけて、私そちらへ行きますから。行ってお話します」
 歌子はそれだけのことを、しどろもどろになって何度か口にした。
「想像していたより、ずっと素晴らしい靴でした。スマートで渋さもあり、赤が奥床しくって。それをさんざんご心配させた上に、ただでいただくなんて、私、今胸がいっぱいで、電話もできないんです。ごめんなさい。必ず暇をつくって行きますから」

 田坂は歌子の声に押しまくられそうになって、受け答えをしているのがせいぜいだった。応じているうちに、電話は切れてしまった。いや切る方向へ促している自分がいた。歌子の溢れくる感情を受けとめるだけの準備ができていないと思った。二年に及ぶ彼の行きかたの逆を取って、唐突すぎたのだ。これまでは自分とは無関係として、傍観してきた若さを、目の当たりにしているような気もした。

 一日の勤めが終わると、歌子は机に向かってペンを執った。しかしどうしてもあの日のことをまとめようとすると、頭が混乱してきて文章にならなかった。電話では、衝動的に会って話すなどといってしまったのだが、冷静になって考えても、それしかあり得ない気がしてくるのだった。
 彼女は机の上に飾っておいた一枚の写真を手に取った。この春、恒例の一泊温泉旅行に学園全体で、伊香保温泉に出かけたときのものだった。
 ハガキとして使えるように、表は切手も貼れるようになっている。大広間での、全員の食事の風景が写し取られている。約八人が一つのグループで膳を囲み、都合八組。職員も加えて総勢七十名の旅行だった。歌子のブルーのブラウスにジーンズのスラックスは、高原を旅したときと同じ服装だったので、田坂にも分かりやすいと判断した。
 歌子は便箋に書くのを断念して、写真入のハガキに細かな字で綴っていった。

 これは春に一泊旅行したときの写真で、手前の方にいるブルーのブラウスが私です。父が亡くなって、私はここにあずけられ、十八歳までいました。二年近くスーパーに勤めて、またここに戻って補助職員として働いています。保育士の資格を取るため、通信教育を受け、スクーリング等で忙しい毎日です。うまくいけば、来春一月には単位が取れそうなので、そうしたら、田坂さんにお会いできるのを心待ちにしています。素敵な靴を履いていきますね。それでは――

 すでに明かしたように、二年前歌子はスーパーに復帰せず、蕨学園に補助職員として働くようになった。
 そのとき歌子の先輩に当たる保育士が臨月を迎えていて、職場を離れなければならない状況だったのである。出産後も婚家の肉店を手伝いたいので、代わりのものを探していた。
 歌子の突然の帰省は、穴を埋めるために願ってもない好材料となった。母親に連れられて蕨学園にやってきた歌子が、母の死を契機にして舞い戻ってきたのも、不思議といえば不思議だ。しかも母の葬儀が持たれる青森へ向かうつもりが、途中の駅で下車して立ち寄ったというのだから。
 歌子が代わりに勤めることになったその保育士、根岸保子は、歌子より二つ年上で、同じ屋根の下で育ってきた。
 父親が酒乱で、暴力を振るい、母は幼い保子を連れて家を出た。しかしすぐ見つけ出しては、暴力の度を増し加えていった。母と子が一緒にいては、いつまでもつけ纏われるので、保子を児童養護施設にあずけ、母は名前を変えて、別れて生きるようにした。それでも酒乱の父は嗅ぎつけて養護施設にまでやってくるようになった。これではたまらないと、園長のはからいで、北海道から遠く離れた東北の施設で生活するようになった。母も危険を避けるためには、娘の傍に寄らないほうがいいということになり、音信もなくなっているらしかった。
「まさか、殺されたんじゃないよねえ」
 と真顔で歌子に訊いてきたことがある。歌子は自分の母の例があり、それを言うと、「そうよね、誰かいい人が見つかったのよねえ」と寂しそうに唇を噛んでいた。
 結婚した保子の夫は、ここから近い小路にある肉屋の息子だ。学園でも時々注文すると、その息子が届けに来る。
 その頃はもう、保子は高校を出て、補助職員として働いていた。肉屋の息子は、肉を届けたついでに、油紙に包んだものをそっと保子に渡す。それは薄く輪切りにしたハムで、保子はそこから二、三枚を歌子に与えていた。そんなことが何度かあるうちに、
「今の人よ、私のこれ」
 保子は小指を出して教えた。「勘づいてたでしょう?」
「うん、何となくね」
 保子が、肉屋の息子を選んだという理由を聞かされたとき、歌子はショックで貰ったハムも喉を通らなくなった。
「肉屋だったら、いつも包丁を使うから、父も恐れて近づかないと思ったのよ」 保子は本気でそう言ったのだ。「何より、あの人の優しいとこが、一番だけどさ。少し頭が足りないけど」
 そう言って、歌子が考え込むのをそらしてしまった。本当に優しい人なのだ。愛情があるからこそ、守ってくれるのだ。心からそう思えた。
 歌子が東京錦糸町のスーパーに勤めている間に、保子は結婚していた。招待状も出さなかったのは、やはり警戒心が働いたのだと思う。
 ここでは一歳から十八歳までの子供が、一つの家族を構成して生活している。食事は大食堂で、家族ごとにテーブルについてする。このような家族構成であれば、必ず歳の違う兄弟姉妹がいる。保育士や指導員は父母の役割を担う。
 子供たちはそれぞれ不幸を負っている。実際の兄弟姉妹なら、不幸にしても共通の根があるが、ここではそれが違う。違っていても、不幸には普遍妥当性があるので、そこで分かり合えるのだ。
 不幸はさまざまだが、暴力一つとっても、違いがある。現在歌子が所属するグループには、中学一年生の女の子がいるが、いつも乳房に絆創膏を貼っている。
 あるとき一緒に入浴してそれに気づき、うっかり訊いてしまった。
「由香ちゃん、そこどうしたの」
 最近引っかき傷でもつくったのかと思ったのである。由香は難しい顔になって、しばらく下を向いていたが、
「黒子があって、厭だから」
 と悪びれるように言った。このときはもう、訊いてはいけなかったことに、歌子は気づいていた。父親に性的暴力を受けていたのだと納得したのである。
 以前、指導員に説明を受けたとき、
「家庭内暴力」
 と聞いていたが、「暴力も、複雑だからね」と付け加えたのを、具体的には受け取れないでいた。今考えると、歌子にまだ正式な資格がないから、そんな半端な教え方しかしなかったのではないかと、寂しくなった。
 もし知っていたら、由香にそんな疑問を投げかけたりはしなかっただろう。一方、歌子が訊いたことで、職員の間に自分の厭なことが伝わっていないと、ほっとする面もあったのだろうか。
                               つづく
 

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