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文芸の里コミュの高原列車・長編連載〈6〉

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 二人は並んで草取りを続けていた。草を取った小豆畑は、湿った土の色を見せており、まだ手をつけていないところは、一面緑色になっていた。
 こうしていると、二人は親子と見えるのではなかろうか。もし歌子の母親が都会に働きに出るようにならなければ、そして農業だけで生活が成り立っていたら、このサチと歌子ほどの年の開きはないが、並んで畑に出ていたのではないだろうか。それが幸せであったかどうかは分からない。多分父親に突然死が見舞ったように、今度は母親を襲うかもしれず、そんな心配を抱え込んで生きていかなければならないだろう。
 列車がやって来て腰を上げたサチは、列車が走り去ってもなお、人気のないホームの方を向いて立っていた。降りた者は一人もいなかった。それでも降車口が向こう側だったので、もしや列車が停まっているうちに、ホームを降りてイタドリの茂みに隠れてしまったのではないかと、微かな期待を繋いでいたのかもしれない。
 降りた者がなかったと断定したのは、視界の利く馬鈴薯畑をスクリーンに大写しにされる具合に登場して来る者がなかったからである。さっさとホームを降りて、木陰で用を足すにしても、これ以上遅れて現れるとは考えられなかった。
 歌子はその前に腰を落としていたが、息子が帰って来たりしないように祈りに似た思いになっていた。もし今現れたら、彼女にあてがわれるはずの息子の布団に、二人して寝かされる羽目に陥るのではないかと怯えていた。そんな非常識は起り得ないと冷静になってみても、こんな所で農作業をしているそもそもが不自然であり、息子の餌食になるのは必定とまで思えてくるのだった。
 歌子は今、蛇に狙われて竦んでしまっている蛙のようなものだった。どうしてか、はっきりと拒む理由を持合わせていなかった。ここで必要とされて生きていくことに誘惑をさえ感じていた。そのくせ幸せを手に出来るとは考えなかった。したがって、そんな誘惑が近づいてこられては困るのである。息子が嫁を連れずに独りで帰省したのであれば、親子揃って歌子を引き留めたく思うに違いなかった。断る事由がないからといって、それに乗ってしまうのは禁物だった。たとえ息子が好ましいタいプの男性であったとしても、一緒になって平安が訪れるという自信は持てなかった。結ばれる前にして、それが分かってしまうのが、情けないような、張合いがないような気がしてならなかった。しかし実際その通りなので止むを得なかった。
 頭上高く、哀しげに鳶の鳴く声がした。何となく顔を上げると、鳶は一羽ではなく、三羽が気流に乗って旋回している。高さもまちまちで、最も高いのは赤蜻蛉ほどに小さく見える。そこからなら、畑に這いつくばって草取りをする二人は、もぐらか鼠にも見えるだろう。それなのに、急降下して来ないのは、経験から知っているからに違いない。そんなふうに歌子も、人生の幸せというものについて知ってしまったのかもしれなかった。
「昔農家で、お父さんは今何をしていなさるね」
 腑に落ちないところがあるらしく、サチはそう訊いた。先程歌子の返事にもたついたところがあったのもさることながら、そもそも、今時こんな僻地で働いてみたいという娘の心が解せなかった。広大な牧場で働くというのなら、そういった青春の過ごし方もあるだろう。しかしここでは、ロマンを満喫する何ものもないのである。このくらい変わった娘なら、あるいは息子の嫁としてやっていけるのではないかと、かすかな期待を抱いてみたくもなるのであった。
「父は私が小学生のとき死んだんです」
 いい加減な答えも出来なくてそう言った。
「なるほど、それじや、うちと同じだ」
 と老婦は答えて、こころもち口をきつく結んだ。ふっと、突然死なれたときのことが目に映ってきたのである。
 サチの夫が亡くなったのは、息子の高校生のときである。異変に気づいて街の医者に診せたときは、癌は体中に転移していて手遅れの状態だった。それを告げられたときの、信じられないような、そのくせ事実として受け止めざるを得ない、おかしな感覚の中を行き巡っていた。
「やっぱり癌かね」
 サチは地面から、歌子の方へ顔を振り向けた。
「いいえ、出稼ぎの建築現場で、事故死なの」
 サチは、不幸を背負っている娘に感心するようにつくづくと見入っていた。この境涯は、ここへ引止めるのに値するものだった。
 歌子は老婦の視線を感じながら、困ったことになったと思った。ずるずると填り込んでいっているようで、何とか脱出の糸口を見つけ出さなければならなかった。
「そうかい、あんたも苦労したね。それじや実家は母親一人‥‥」
「いえ、母は再婚したから、実家にはいないんです」
 こうなっては、ありのまま話してしまうしかない。夫に死なれて寡婦を通せなかった母親の娘として、評定が下がれば気が楽だった。
 サチは神妙な顔つきで草取りに戻っていた。前の雑草に手をやりながら、独り言めいて、
「そうかい」
 と溜息をついた。夫の死後、後妻の話もないわけではなかったが、頑なに節操を守ってきた自分が、隣の娘の母親に置いていかれたと思ったのかもしれなかった。
「小母さんは再婚しようとは思わなかった? 御主人の亡くなった後」
 歌子は渋で汚れた指を土にこすりつけながら訊いた。
「そりゃなかったわけじゃないよ。こんな山奥では心細いからね。子供一人育てていくのは大変なことでね。でも、結局その息子のために今のままの方がいいと考えたのさ」
 歌子の親と比べて、ずっと母親らしいと思った。そんな母親なら、歌子の方から再婚を勧めたかもしれなかった。
「でも息子さんは、手が掛らなくなって東京へ出てしまったわね」
「まさか、今からこんな婆さんに――」
 老婦は吹出して大きく体を揺すった。
「今は老人同士の再婚だってあるのよ」
 歌子は都会で見聞きしている老人のロマンスを頭に浮べて言った。
「それは東京で生活しているからこそ言えるんだね。田舎ではなんと言っても、自然が教えてくれる。この大自然を相手にしていると、いきなり方向転換するなんて芸当はできないんだよ。あんたのお母さんだって、田舎にいたら、再婚はしなかっただろうね。そしてあんたは、休みになれば田舎に帰って、母親の手伝いなんかしているだろうよ。ちょうど今みたいにね。あんたのお母さんは、もっとずっと若いだろうけど‥‥」
 歌子はなるほどと思えてきた。自分では気づかないながら、そんな欠乏が働きかけて、ここに留まっているのかもしれなかった。母親を想い出しもしなかったが、かねてから心に占めていた婦人靴を、旅先で注文してしまったのである。
「おばさんの言う通りかもしれないわ」
 歌子は心もほどけてきて、親しみをこめて話した。もう息子の嫁として見込まれるのではないかなどと、いらぬ心配をする必要はなかった。
「こう見えたって、だてに歳を重ねてきたわけじゃないよ。そんなことでもなけりゃ、若い娘が一人でこんなところに立寄るわけはないと思ったよ。ほれ、そんなに指を真っ黒く汚しちゃってよ。この下に体を洗うのにいい小川があるから、行って来たらいい。わしも最近は気候がいいから、風呂をたかないで、もっぱら川につかって汗を流してるよ」
 歌子は弾かれたように立上がっていた。
「川があるなんて、知らなかったわ」
 日射しも強くなり、汗ばんできていた。
「ここを少し下ったところだよ。川柳に囲まれてて、周りからは見えないから大丈夫。わしだけの水浴び場だからね」
「じゃ、そこをお借りして、ひと浴びしてくるわ」
「お借りだなんて、私のものじゃないよ。自然の恵みだよ」
 歌子は縁側のボストンからタオルを取って、坂を下って行った。ようやく古里に戻った気持になっていた。彼女の生れた田舎はもっと低地で、景観も底から上を見る感じだったが、周囲は山で、近くに小川もあったのである。その小川に最後に浸かったのが、施設から帰省して母親が戻ってこなかったあの日だった。そこから彼女の人生が大きく変ってしまったのである。下って行くと、そのときの気持のままに、目の前がぐらぐら揺れる気がした。
 せせらぎが耳に届いた。ちらっと水が光った。振返ったが、老婦は見えなくなっている。途中から傾斜が急になっていた。
 歌子はほの見えた谷川に向って駆出した。川音が大きくなり、涼しい風が届く。
 歌子の足で三歩ほどの流れだった。大きな石を伝って、少し川上へと歩いた。サチが話したように、川柳に隠されたところがあった。川原に流れが誘導され、石を積んで囲んである。そこがサチの入浴場なのだと分った。その中はごつごつした石がよけられ、小石ばかりが敷詰めたようになっている。
 歌子は四囲を窺い、頭上を仰いだ。天が抜けており、そこから白雲が崩れ落ちてきている。着衣を取り、水のこない川原においた。タオルをかざして恐る恐る水に浸かっていった。はじめひやっとしたが、やがて快さへと変っていった。脚をちぢめても、水は胸までは来なかった。水は緩やかに体をめぐって、出口の方へと流れていった。絶えず新しい水が石の間から流れ込み、やはり石の間を抜けていった。水に浸からないところを、タオルで浸して洗った。
 もっと川上の方で、セキレイが啼いている。ここで人が水に浸かっているのを知っていて、合図でも送るような啼き方だ。
 澄んだ冷たい水に浸りながら、歌子は都会での生活を思った。そこではあらゆる人間が込合って、汚れた水につかっているようなものだった。混浴どころではない、群浴だった。
 肩をタオルの水で浸し、凝りをほぐすように揉んでみた。スーパーでレジを敲いてきた疲れが、痛みとなってわだかまっていた。
 黒いものが飛礫となって飛び込んできた。蜂かと思ったが、虻だった。早くも血の匂いを嗅ぎつけてきたのであった。虻にとって、若い娘の肌ほど軟らかくて好ましいものはないだろう。歌子はタオルを振り回して、敵を追った。虻はタオルの届かない所まで後退して、その距離を回ったが、五、六度旋回してみて、潜りこめる隙がないと見て取ると、諦めて遠ざかった。
                  つづく
               

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