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文芸の里コミュの高原列車・長編連載〈5〉

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 歌子は田坂の留守の村里を一巡して、同じ民宿に泊ると、翌早朝、さらに奥地へと列車に乗った。
 彼女は何故か心落着かなかった。念願の靴が手に入りそうになっているからではない。それは叶えられたこととして、心に占めていたものが欠けてしまい、安定を失っているというのでもない。
 歌子は理由も分らず、鬱いでいた。もう靴のことなど考えていなかった。というのは、靴の完成を目に浮べると、ふつふつと憂愁がわいてくるというように、不快な靄に覆われてしまうのだ。
 そもそも旅に出て来たのは、心を軽くするためだった。誰もが言うように、心の洗濯をし、爽やかになって帰るためだった。ところが実際は、それとは逆の方向へ填り込んでいくようで穏やかではなかった。
 ああ、歌子は吐息をついた。声に出してしまうほど、抑えがきかなくなっていた。差し向いの席にいる男の子が、自分が怒られたのかと眉を寄せた。けれども歌子の目は男の子の上を素通りして、車両の端にあるトイレの使用中を示す赤ランプの方へ向っていた。男の子は身をひねってそれを確かめ、子供らしい判断を下した。が、これも歌子の心を言当ててはいなかった。
 四つ目の駅に来ると、歌子はバックを手にしてふらふらっと降りてしまった。この田舎の駅で下車したのは、歌子一人だった。名所旧跡があるのでも、温泉が沸くのでもない。また名峰の登山口に当っているのでもなかった。歌子もここで降りる予定があったわけでもなかった。しかし車掌の声がスピーカーに流れたとき、促されるように足が降車口へと向ってしまったのである。こうするのが、今の彼女の心に最も自然であるかのように。
 列車は歌子一人を残して遠ざかっていった。こんな鄙びた駅に降りてどうするつもりだろうという顔をする乗客もいたが、それは勝手に想像させるしかない。周遊券であるのが幸いしていた。しかしここは無人駅で、周遊券を示す必要もなかった。
 歌子はホームに旅行鞄を置いて、夏帽子を被り直した。髪に山の風を入れようと思った。しばし帽子を手にかざしていてから被った。
 一段高くなったホームから周囲を見渡すと、農家らしきものが三つ四つ地面に這うようにして建っている。その辺りから、土の香りも運ばれてくるようだ。
 旅行鞄を手にすると、一番近く見える農家の方角へと歩き出す。舗装のない土の径が畑中をうねっている。小径の中央にまで雑草が茂っていたりして、いかにも寂しいたたずまいだ。
 農家から二百メートルほどになった頃、家に近接した畑から腰を伸して歌子の方を見ている人影に気づいた。輪郭から見て、老婆であるらしい。あるいは、歌子が気づくもっと前から、こうやって見ていたのかもしれない。
 家から相当離れた道端に杭が傾いで、郵便受けがくくりつけられている。郵便受けには、鈴木サチと霞んで読める。鈴木サチが、あの老婆に違いない。
 歌子は今帰省した者のような足取りになって近づいて行った。
 姉さん被りのサチの頬は、日に焼けて葡萄色に輝いている。都会の空気とは違って、スモッグのない透明な陽光を浴びると、こんな色に焼けるのだろうか。
「この道をまっすぐ行くと、どこへ出ますか」
 歌子はこの人気のない田舎道を黙って通るのが不自然だったので、そう訊いた。
「農家があるだけですわね、どこの家を尋ねなさるね」
 優しそうな細い目が、光って歌子に向けられている。
「いえ、家を尋ねているんじゃなく、土が懐かしくて降りてしまったんです。昔私の家が農家だったものだから」
 サチの顔がさっと陽にさらされて、畑から径へと躍り出てきた。身ごなしは、老婆とはいえないほど敏捷だ。
「なら、家で休んでいきなされ。私もこれから一服しようとしてたとこだ」
 こう言うが早いか、自分の家に向って地下足袋をぺたぺた径に鳴らして歩き出した。彼女の絣のもんぺはかなり古い時代のものではないか。あるいは、歌子が久しく土を離れ、田舎を遠ざかっていたためにそう見えるのかもしれない。
 家の近くで鶏が昆虫を追って駆回っている。納屋から乳牛が貌を出して歌子を見ている。
 土間に入ると、ひんやりとした土の香りが漂っている。サチは手拭を取って、顔を洗いに行った。ポンプで水を汲む音がする。
「あんたも、よければどうぞ。今は電化されて煤で汚れることもなくなったけど、気持がいいよ」
 歌子は旅行鞄と夏帽子を置いて、サチの言葉に従った。裏庭になっていて、井戸がブロックで囲ってある。
「今時、ポンプなんて珍しいわね。素敵だわ」
「珍しくもないよ。この村では水道なんかないからね」
 歌子はバケツ一杯の水を貰って、草の生えている辺りまで運んでいき、手で水をすくっては顔を洗った。
「どうして、そんなところで洗いなさる。ここでやればいいのに」
 言われて、歌子は笑ってしまった。学園生活の習慣が出てしまったと気づいたのだ。そこでは自分の場所を確保しようとする気持が絶えず働いていて、ついこんな動作に繋がったと思えた。
「この水飲めるわね」
「飲むんなら、ここに杓があるがね」
 とサチが言った。
 歌子は五、六回手で水をすくって顔を洗うと、残った水を草地に撒いた。
 金柄杓一杯の水を飲干すと、すっきりとしてようやく大地に立っている気持になれた。砂漠を彷徨ってきて、安心の出来る地に立寄った感じがする。
「あーあ、おいしかった」
「そうかね、テレビなんかでは、水が足りないとか言ってるけど、ここはその点だけは、心配ないね」
 サチは言って家に入った。歌子も老婆に続いて土間を通り縁側に回った。
「次の電車が来るまでいなさるかね」
 厨房からサチが叫んだ。
「いいえ、そんなにはっきりした予定はないんです」
「そうかね、それじゃゆっくりしていきなさい。息子も東京へ出たっきりで、わし一人だから、気兼することもないよ」
 この一言で、歌子はすべてを読取っていた。そうだ、若者はみんな都会へ脱出して、ここも老人の村なのだ。
 二キロほど前方を山脈がうねって靄に霞んでいる。これは迫ってくる山ではなく、控えている山だ。これはこれで自然の景観だが、このままではとても観光地として売出すわけにはいかない。
 味噌汁、沢庵、それに丼に盛った飯を盆に載せてサチが現れた。
 歌子はこのときになって、食事についての準備が頭から抜落ちていたと気づいた。ここには売店もなければ、食堂もないのである。
「こんなものしかないけど、よかったらたっぷり上がってな。味噌汁には豚をぶち込んだから、おかずのつもりでな」
「ありがとう」
 歌子は感激して喉を詰らせながら言った。他の言葉が出てこないほど、ありがたかった。
 サチも自分の分を盆に載せて運んでくると、歌子と並んで食べはじめた。昼食には幾分早いが、時間どおり動かなければならない決りはどこにもない。
「私って、まったく当てずっぽうな旅人ね。ここに売店も、食堂もないなんて知らなかったのよ」
「買物をするには、列車に乗って一つ先の駅まで行かないとならないよ。昔はここにも
小さな店はあったけど、村人が減ってしまって、自然に店もなくなったよ」
 歌子は丼を手にして豚汁をすすった。冷そうとして息を吹きかけると、湯気の中に豚肉のにおいが広がる。この豚肉でさえ、列車に乗って買込んできたものだ。
 一服のつもりが、いつの間にか昼食になってしまったのがおかしかった。声を立てて笑うわけにもいかず、おかしさをこらえて、豚汁を飲込む仕草でごまかした。
 突然右手の納屋で鶏がけたたましく啼き出した。卵を産んだと告げているらしい。鶏は啼き立てながら首を伸して庭に出て来た。
「卵ならあるけど、今産んだのが」
 サチが納屋の方へ視線をさまよわせて言った。
「この豚汁でおなか一杯。本当に久しぶりだわ。こんなのんびりしたところで食事が出来るなんて」
 歌子はお世辞抜きで言った。
「それだけが取柄かもしれんね。人がいないんだものね」
 サチはそう言って、さも愉快そうに笑った。
 歌子はこれから観光地を回って行くのが億劫になっていた。いっそのこと予定を変更し、残りの三日間をここでサチの手伝いなどして置いて貰えないだろうか。そうするのが、一番今の歌子に似合っているように思えた。
 サチはそそくさと食べてしまうと納屋に入っていき、笊に五個の卵を容れて戻った。
「これを茹でておくから、帰りに持っていきな。列車の中ででも食べればいい」
 サチは卵を見せて言った。
「ここに三日ほどおいていただけないかしら。何かお手伝いしながら」
 歌子は潮時と見て、そう言った。サチは、若い娘の気持を理解しかねて、怪訝そうな顔をしたが、
「あんたが、こんなところで満足できるんなら、構いませんよ。私としては、話相手が出来て、大いに慰められるわね」
 とだんだん相好を崩していった。
 これで決った、と思うと自然に歌子は肩の力が抜けた。
「お願いするわ」
「そうしなさい。食べ物は何もないけど。布団は息子がひょっこり帰ってきたときのために、用意があるけどね」
「悪いわね」
「それじゃ、茶でもいれるかね。急がないとすれば、昼食はもっと後でよかったかね」 
 サチは昼にはまだ間のあることを、太陽の位置で測り、茶をいれに立った。

 午後、歌子はサチにならって畑の草取りをした。
「東京では何をしていなさるね」
 とサチが草取りの手を休めて訊いた。
「スーパーの店員よ」
 歌子はあっさり応えた。今不相応な苦労をさせられているなどとサチに思われたくなかったので、身分を明かしてすっきりした。サチもほっとしたらしい。場合によっては、店員の方が辛いこともあり得るのだ。
「住いはどちらかね」
「スーパーの近くの寮なの」
「それで実家は?」
 歌子ははたと当惑した。ありのままを話すのに躊躇いがあった。
 父親はすでになく、母親は再婚し、兄弟もないなどと自分の境涯を明かしてしまっていいものだろうか。それなら、ずっとここにいればいいなどと、サチに期待を持たせてはならない。ここにいれば、息子の嫁として納っていくことに他ならない。それも考えようによっては、歌子に適った生き方のようにも思えるが、自信がなかった。歌子はそれやこれやで、思い巡らしていたのである。
「実家は宮城県のKにあるのよ」
「親御さんは元気かね」
「‥‥ええ」
 歌子は苦し紛れに、そう応えるしかなかった。サチはもしやという期待感を持って尋ねたのかもしれないが、それきり黙ってしまった。しばらくして、引っかかっていたものを口にしていた。
「それじゃ、今は農家をやっていないのかね」
 農家であれば、土弄りが懐かしいなどと言うはずはないのである。
「そうなの、農家だったのは昔のこと。私が小学二年生くらいまでね」
 二人は黙って草取りを続けた。後ろを列車のやってくる音がする。線路を打つ響きが静まり、サチが腰を伸して振返っている。歌子もそれにならった。降りる者は一人もなかった。
 サチは列車が来る度に、いつもこうして息子の帰りを待っているのだろうか。ひょっこり一人で戻ってくるかもしれないし、都会で見つけた女を連れて現れるかもしれない。
 歌子はサチに何ら希望を与えてやれないのが辛かった。しかしこればかりは、歌子一人の手に負えるものではない。彼女自身、心のどこかで潜り込める安住の地を求めていた。そして漠然とながら、この旅においてもそういったものに出合えることを期待してもいたのである。
 けれども今、そんな場所が与えられそうになって、後込んでしまった。いやそうではない。安住の出来るものが、そんなに容易く手にはいるはずはないと知っていながら、ぼんやり夢見ていたようなわけだった。だから、夢であるものを、そう簡単に実現にこぎつけてはならないと、自らを戒めた。
 歌子は思った。父親が生きていた頃は、父が少女の支えだった。出稼ぎ先から帰る日ばかり、カレンダーを塗りつぶしていきながら待っていた。年二三回の休みに、父親は帰ってきたが、二日ほどして現場へ戻ってしまった。そうなるとまた長く待たなければならないのだった。父親の土産が当分の間は慰めになったが、長く続くものではなかった。
 あと十日もすると帰ってくるはずだった父親は、支柱の鉄骨が倒れてきて、その下敷になって即死したのであった。
 待つことで心の張りにもなっていたものが失われて、歌子はしばらくまったくの空白状態の中を彷徨っていた。いつも一緒にいる母親の方へ心を切替えるのに随分時間がかかった。
 父親の突然の死から恐怖心がうえつけられ、学校から帰ると母親がいなくなっているのではないかと、不安でならなかった。
 母親に心を預けることが出来るようになった頃、今度は母が働きに出なければならなくなり、歌子は施設にやられたのであった。
 年に二回、実家に帰り、母と再会できるうちは、そのときを待つのが歌子の支えとなっていた。次々と心の支えは変化していったが、何かに寄り掛っていなければならない性質はどうすることもできなかった。
 その母親に愛人が出来、年二回の再会もままならなくなったとき、歌子の心は真っ暗を通り越して、張裂けそうになり、自制できないところまで追込まれた。
 学園の教師と学園長の心配りで何とか立ちなおったが、心の空洞が埋められたわけではなかった。むしろ誰も信用してはならないという気持が働いて、その満たされないものを宥めつつ生きていくのが精一杯だった。そんな生き方が、少女をますます鬱屈した精神に追いやっていった。
 歌子は人を信じやすい性分なのだろうか。肉親に心を傾けるのは断念した代りに、学園の仲間や先生を頼っていった。ここしか生きていく場所がないと悟ったときから、その思いは強くなり、彼らを愛するようになった。子供らを兄弟姉妹に、女教師を母親に、学園長を父親のように慕っていった。
 はじめは恐る恐るではあったが、知らず知らず歌子は自分のすべてを預けて寄り掛っていった。独り立ちできないばかりに、学園を挙げて必要としてしまっていた。
 十八歳になれば、自活の道を歩まなければならないというのに、実際はそうできない方向へ傾いていった。
 スーパーの店員として働くようになってからも、休みの日には、学園を訪れていた。今となっては、そこが歌子の古里だった。ところがである。父親のようにも思ってきた学園長が、突然脳溢血で倒れたのだ。駆けつけたときには、歌子を識別する力も欠けていた。結局恢復することなく、半年生きて他界してしまった。
 歌子はあまり学園に帰らなくなった。というより、成長の糧となってきたものを失ってしまったのだ。他の教師や幼い子供たちはいても、みんないつかは離れていくのだと思わざるを得なくなった。独り立ちするとは、その認識に至りつくことであった。寂しくとも、みんなそうやって生きているのだ。
 そんな中で、歌子は全幅の信頼をおいて向っていける対象を求めるようになっていた。それは絶対不変の何かでなければならない。それを見つけた上でなら、これまでのように人に頼ってもいいと考えた。ところがそんなものを現実に探そうにも、見つけだすなど不可能に思えてきた。呼べば木霊のように返ってくる確かなものが、はたしてこの世にあるのだろうか。
 こんな不安定な状態にいて、たまに浮んでくるのは、あの朱の婦人靴だった。その婦人靴を手に入れないことには、次に踏出せないまでに、歌子は窮屈なところに追詰められ、時に悲鳴を上げたりもした。
                  つづく

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