ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

文芸の里コミュの野生馬の岬

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加


 Y半島には野生馬の棲息する一郭がある。視界の利く、海に望む丘陵に馬たちが草をはむ様子は、牧歌的な風景として絵はがきにも紹介されている。
 蹄鉄士の鳥山は、久しぶりに休暇が取れたとき、旅行先にこの半島を選んだ。馬が好きで蹄鉄士をなりわいとしている彼が、野生馬の棲む土地に来てみたくなったのは自然の成り行きというものだろう。もっとも、野生馬と蹄鉄は無関係であるが。
 絵はがきの光景を思い描きつつ遊歩道をさまよったが、野生馬は潅木の茂みに入り込んでいるらしく見かけなかった。ちょっとがっかりしたが、眺望を海に切り替えて逍遥した。おちこちにヨットが浮かんでおり、これはこれで思いがけない目の保養である。
 ここ数年、競走馬に囲まれていて、自ずと心も目先のレースに囚われてしまっていた。
一頭一頭、いや、一足一足、蹄鉄のはまり具合に良し悪しがあって、胸に引っかかりがあり、レースの結果に縛られてしまうからである。すべてが、馬と騎手と調教師の責任とは言い切れない不安を、人知れず抱え込んで生きていかなければならない陰気な商売なのである。
 岬を右側へ渡るつもりで行くと、後ろに大きな影の動く気配がした。週日であるから、観光客は少ない。したがって、人が群がってくるとは考えられない。ここは遊歩道なので、車が入ることもないだろう。もし人が固まってくるのなら、話し声が湧くだろう。しかし後ろから来るものは、実にひそやかなのだ。
 道がカーブを描いているところに差し掛かると、鳥山は思いきって振り返っていた。何と、馬なのである。しかも一頭だけが、しょんぼりと、人の歩く道を辿ってくる。骨太で、たてがみは荒く、一見して野生馬と分かる。
 それにしても、どうしてこの馬は仲間達と行動を共にしないのか。
 様子を見るために、彼は足を止めた。すると馬の方も歩みを止めて立ち、太い頸を左右に大きく揺すって、鼻から抜けるような声で嘶いた。競走馬が出払った厩舎に、一頭だけ残された馬が胴震いでもするかのように、何ともやるせない嘶きである。
 鳥山は長年の習慣から、手を出して馬を招く仕草をして見せた。馬は人見知りをする具合に、今度は頸を上下に振ってみて、あらためて静止すると、鳥山を見据えた。
 手を出しはしたものの、もし本気で向かってこられると、怖い気がした。人に飼われる競走馬にしても、、調教師がどれほど手こずるかを見てきただけに、野生の馬など熊に等しいと思えた。しかし肉食獣ではないので、その点だけが頼みの綱である。
 鳥山は手を引っ込めて歩き出した。やはり野生を構うのは止めておこう。
 引き返して行くかと見ると、馬も同じ歩調を取ってついてくるのである。鳥山はこの時、馬の足の運びが不揃いであるのに気がついた。足に欠陥があって、仲間と一緒の行動が出来なかったもので、うらぶれて歩き回っていると見える。
 鳥山の日常であれば、こんな時、獣医に連絡するなり、軽い傷ならしかるべき処置をするところであるが、野生馬が相手となれば、話は違う。下手に善意で向かえば、咬みつくなり、蹴るなりして、とんだ災難に遭うだろう。それで緊急病院に運び込まれることにでもなれば、地方新聞に書き立てられ、物笑いの種になる。それは職場に戻ってからも尾を引くだろう。
 鳥山は早足になっていた。もうこの岬は切り上げよう。野生馬を見かけない憤懣を抱えてうろついていたもので、これ見よとばかりに一頭の馬につけられる羽目に陥ってしまった。
 鳥山が足を速めると、馬も明らかに歩度を速めてくる。しかし急げば急ぐほど、馬の肩が大きく崩れて、思うように進めないらしい。ぐらつく度に鼻息を荒くして、ぶるるんぶるるんとやっている。もし足の負傷がなければ、たちどころに追いつかれて、とんだ目に遭うところだった。動物という奴は、一度弱いと見るととことん付け狙ってくるのではないか。
 鳥山はついに走り出した。海鳥が飛来して、頭上を旋回している。きらっと光るのは、翻るとき、翼に陽光が照り返しているのだ。
 馬はずっと遅れて、それでも鳥山の後をつけるのは諦めていないらしく、足が進まないもどかしさから、ぶるるんぶるるん、としきりに鼻を鳴らしている。
 鳥山はいささか気の毒にもなって、並足になった。すると意外に距離が狭まってきて、油断できなくなった。足はともかく、今度は馬の根気と心臓の強さで、敗北を喫するようで不安になった。
 岬は起伏に富んでいて、すぐ先が見えなくなったり、いきなり視界が開けたりで、波に翻弄されているようなものだった。
 振り返ると、どうやって距離をかせいだものか、すぐのところに馬の耳が来ていた。
 鳥山は焦った。谷間で捕まったら、どうしたらいいか。
 このとき前方に話し声が湧いた。姿は見えないが、声はこちらへ向かってきている。
 間もなく、父親らしい男と少年が前に現れた。その少年が馬を見つけて叫んだ。
「パパ、野生馬が一頭こっちに来るよ」
「あれは野生じゃないんだ。骨折してレースに出せなくなって、殺してしまうのは可哀相なので、ここに放したって話だ」
「だって、怒ったようにたてがみ振って来るってば。あれは野生馬だよ」
「いや、パパは何度もここに来てるから知ってるんだ」
 二人は鳥山とすれ違うとき、不意を衝かれてたじろいだ。父親が悪びれて、大仰な挨拶をした。
 二人はすぐ馬と出合った。そこで馬は方向転換すると思った。ところが馬はそうしなかった。依然として、鳥山の後をつけてきた。
 二人の会話を耳に止めていただけに、怖れは綺麗に拭われていた。かわりに新たなおののきに襲われていた。
 元競走馬となれば、現役の蹄鉄士として穏やかな気分ではいられなかった。骨折して放されたとあっては、なおさらだ。
 鳥山は立ち止まって、にじり寄るものを待った。
 またもや微かな足音と共に、すぐの所に耳が迫ってきた。ぐいっぐいっと頸が伸びてきて、丘陵の頂ににゅっと馬の顔が出た。
 海辺の強烈な光の中に立つ元競走馬は、かつて脚光を浴びた優勝馬の雄姿を彷彿させる。
 馬はそこで立ち止まってしまい、鳥山の方へさらに下ってこようとはしなかった。手を伸べると、緩やかに頸を振って、口をぶるるとやった。
 何か話しているつもりなのだ。先程の荒っぽさは影をひそめて、しおらしくなっている。鳥山は職業柄の直感で、雌であると見抜く。確かめると、やはり付いていないのだ。雌だから男性の鳥山を慕ってきたなどと言うつもりは毛頭ない。
 馬は後ろ右足に骨折がある。鳥山は馬の脚を上から下へと目でなぞっていき、あってはならぬものを発見した。野生となった馬が、蹄鉄を填めているのである。
 どうして野に放すとき、蹄鉄を外してやらなかったのか。元馬主に対して憤りが頭をもたげてくる。爪が鉄に押さえられて歪になり、歩行を妨げているのだ。
 足を引きずっているのは、骨折のためばかりではなく、盛り上がり変形した爪が痛くて、体重をあずけられないでいるからなのだ。
 長年馬を見てきたが、これほど無惨な姿を目の当たりにしたのは初めてだった。馬はどこか訴えるような眼差しで鳥山を見つめている。
 馬の前脚の一本に手をかけ、上げるように合図をした。馬は骨折の憂き目にあっているばかりか、爪に圧迫され、加えて競走馬当時のスマートさは微塵もうかがえないほど体重を増やしているので、三本足で立つのもままならない状態だった。
 そこで鳥山は、腰をこごめて、両手に馬の臑を抱えて持ち上げた。一度自分の膝で支えて、傍らの小石で馬の足の土を払い、覗き込んでたじろいだ。何と、手作りの蹄鉄で、鳥山のサイン入りなのだ。しかも鳥山がつかう以外は作っていないから、彼がこの馬に打ち込んだものに違いないのである。
 いじらしいことに、この馬は幾度となく鳥山のところに連れられてきて、顔を覚えていたのだろう。校長は子供の顔を覚えていなくても、子供は校長を覚えているようなものだ。
 そうか、それでおまえは、痛い足を治して貰おうとしてついてきたわけか。
 そうは言っても、道具がなければいくら蹄鉄士といえどもお手上げだ。腕を上げて時間を見る。間もなく二時を指そうとしている。五時にはこの土地を離れる予定になっている。予定を遅らせると、宿の心配もあり、次々と狂ってきてしまうのだ。
 彼は駅からここへ来るまでの道筋を目に浮べた。だんだん街並は寂れてきて、原野に民家の点在するところにきてバスを降りたのである。金物屋のありそうな街へ引返すとなれば、往復一時間はみなければなるまい。それまで、この馬がここでおとなしく待っているだろうか。
 鳥山は馬の鼻面を手で押えて、
「おい、ここで待ってろよ。すぐ戻って治してやるからな。いいか、分ったか」
 と言い置くや、走り出した。馬は後を追う身振りで、「いひひひん」と嘶いた。いや、蹄鉄士の意が通じて、待つという返事の嘶きであったかもしれぬ。何歩もつけてくる気配はなく、嘶きはずっと後方でしていたから。
 野生馬岬のバス停留所で時刻表をみると、四十分も待たなければならなかった。これではたまらないと、街並の広がる方角へと走り出した。
 うまく金物屋が見つかったからといって、馬の蹴爪を削る工具などあるはずはない。彼が使っているのはすべて自家製の道具である。代りになるものとしてどんなものがいいか、走りながら考えていた。草刈鎌では刃が立たないだろうし、金ヤスリでは埒があくまい。
 意外に近い所に鍋やバケツをぶら下げた店があって、鳥山は息急き切って飛込んだ。奥に老婆が一人店番をしている。彼はそれを無視して、店内を物色していく。何しろ窓のほとんどが乱雑に積上げられた商品に塞がれているので、手ごろな道具を探すのも容易ではない。
「何の用かね」
 老婆が奥から首を伸ばしている。    
「出刃包丁はないかね」
 こう言って老婆のほうに目をやった時、彼女の坐っている後方の棚に薄光りして収まっているそれらしきものを発見したのだった。「おっ、そこにあるな」
 彼は奥へと身を泳がせる。
「何に使うね」
 老婆が胡散臭そうな目を向ける。彼はここまで足を運ぶ間に、結局は包丁で間に合せるしかないだろうと腹に決めていたので、ごく自然に口を衝いて出たはずだった。にもかかわらず、包丁を何に使うとはどういう料簡なんだと老婆を睨む目つきになった。そうか、土地の者には見えないし、旅人ならもっと簡便なものでも済むので、それを出してやろうというのかもしれない。
「馬の蹴爪・・・」
 そう言っても老婆には伝わらなかったらしく、ますます怪訝な顔を剥き出してくるので、「骨のようなもんだ。骨が削れれば文句ない。その手前の、一番ごついのがいいな」
 と彼女の頭越しに棚を指差した。
「魚かね」
「まあ、そのようなもんだ」
 老婆は後ろに手を伸ばし、厚紙のケースに入った出刃包丁を出した。二千五百円はやや高いが、かつて自分の手がけた馬の命に関ると思えば、そうも言っていられない。家に持帰って、それこそ魚の骨をぶった切るのに使えばいいのだ。
 老婆が荒っぽく包装した物を横抱きにして出口へ向いながら、ふと目に留ったドライバーを掴んでレジまで戻った。釘を抜くのに欠かせない物だ。
 蹄鉄士は走った。これまでは競走馬の足を軽くして、少しでもスピードを上げることができるようにと努めてきたが、今は最低の所に追いやられ、そこで生きていこうとしている馬の命を救うために仕事をしているのだという思いがあった。しかし自分の取付けた蹄鉄によって無残な姿になっていると考えると、責任問題として重くのしかかってくる。まだ、あそこにいてくれればいいが。
 野生馬岬の入口に来ると、包装紙を解いてバス停の屑篭に入れ、裸の出刃とドライバーを一緒にして胸に抱えた。丘陵に踏込んで間もなく、パトカーのサイレンを聞いたように思った。しかし自分は怪しい者ではない。そう言聞かせた。
 風の唸りなどではなくサイレンは確かに迫ってくる。しかもサイレンは単調な響きではなく、重なり合って物々しく高鳴ってくる。
 出刃を手にしているからといって、俺と関係はない。何となれば、俺はあの馬を生かすために向っていくのだ。もしあるとすれば、あの馬が俺の手製の蹄鉄に足を絆されているのを知らずにいたということなのだ。
 サイレンが岬の入口でぴたりとやんだとき、事は深刻になった。どうやら追われているのは自分らしいと思われたのである。あの老婆の仕業だ。
 老婆は鳥山がドライバーを買物に加えたとき、ドアをこじ開けるために使うものと猜疑を深めた。家に侵入して出刃があれば、後は殺害に及ぶだけだ。老婆の単純な頭に、この図式が出来上ってしまったら、もうおしまいだ。男が立去る方向を見届けて、警察に電話をした。
 事は深刻になっても、まだ猶予はある。これから鳥山のすることを見れば、懐疑は自ずと霧消するはずだったから。そんな安心に寄り掛って、出刃をかざしたまま前進した。
 彼が取返しのきかない事態に立至ったと実感したのは、いったん止んだサイレンが、一呼吸おいて沸上がり、丘陵を登ってくるオートバイの爆音を耳にしたときだった。
 窪みを抜けて視野が開けると、あの馬がぎょっとした目つきで彼を捉えた。そして慌てふためいて方向転換すると、不自由な体を波打たせてオットセイのように逃出していくではないか。彼の手に出刃がぎらつき、それを加勢するようにサイレンを高鳴らせてオートバイがせまってきたのでは、誤解するなと言うほうが無理だ。
 こんなはずではなかった。いつからあの男は悪魔に心を売ってしまったのか。 俺を騙して待たせておき、肉馬として処分するとは。
「待て!」
 その馬に向って鳥山は叫んだ。その彼に向って、オートバイのマイクが呼びかける。
「こちらK県警本部、こちらK県警本部、刃物を下に置いて止りなさい」
 馬はもう手のつけられない荒馬となって、岬の奥へとなだれ込んで行く。
                                                了

コメント(4)

哀切なお話です。
風光明媚な岬の野生馬の棲むもとへおくられた「彼女」はこの日を待ち望んだんですね。蹄鉄をはずしてもらいたい。負傷を癒されに、帰りたい。・・・知己に逢い、望みを請い、待つ「彼女」が眼前に髣髴とします。おもわぬ、望まぬ逃走の形容にひかれます。

>窪みを抜けて視野が開けると、あの馬がぎょっとした目つきで彼を捉えた。そして慌てふためいて方向転換すると、不自由な体を波打たせてオットセイのように逃出していくではな いか。

そしてさいごの一文。

「彼女」の介抱を予期していましたが、良い意味で違いました。哀切の余韻が響きます。
ヒロヒロさま。

ご丁寧なご解読感謝です。
これは野生馬のいる都井岬を想像してかきました。
風景描写が粗末なのは、実地を見聞していないからです。w
それでも、肝要なところを、押さえていただけたことが
何より嬉しい。それに、馬を「彼女」としてくださった
ことが無上の光栄。www。
ヒロヒロさんも、作品寄せてください。ダブル投稿も
一向に構いません。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

文芸の里 更新情報

文芸の里のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング