ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ビルマ戦線 一兵士の回想コミュの一兵士の回想29

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
『コレラの汚染地帯』2

 また、山越えにかかる。沢をつたわり峰に出る。峰から沢を探して下る、次の山の沢を登る。峰から沢を探して下る。幾山越えたことか、ようやく山岳地帯を過ぎたような気がする。

 昭和四十八年十二月ビルマ慰霊巡礼の折、ラングーンからマンダレーに行く飛行機からこの広大な密林の山脈を眺め、よくぞ生きて帰れたものよと、戦友と手を取りあって涙を流した。

 山を下りた所に折りたたみの躁舟機が置いてあった。舟は二つに分かれる。エンジンと三つの荷物になる。これをサルウイン河の渡河点まで運ぶことになる。一つを片側を三人ずつ六人で担いだが、中の兵が一度に荷が掛かったり、ぶらさがったりで担がれたものではないというのだ。足場は山の斜面で木の切り株が出ている。片側を二人で担ぐことにした。装具や銃は舟の上に乗せた。その重いこと、肩に食い込んでくる。

 私は下側の後ろを担いだ。誰か切り株につまづいたのか、ドドドーッと押して来た。私は舟を担いだまま前屈みになって腰から二つに折れたようになった。皆が寄って来て舟を除いてくれた。その時背骨が出てしまった。痛いというよりしびれて感じがしない。しばらくして痛み出した。痛みの和らぐまでそこにいた。山中でなくてよかったと誰にともなく感謝した。

 持ち物は皆に持って貰い、両脇を人の肩に支えられて歩いた。着いた所はサルウイン河の右岸の渡河点である。気がついて見ると首に掛けていた班長の小指の包みがない。驚いて聞いた。他の者に持ってもらったから心配するなという。復員してから戦友会の時聞いたら青木君が持ってくれたとのことであった。しかし終戦の時英軍に渡したら返してくれなかったとのことである。申し訳ないと思う。

 サルウイン河は上流でメコン河と併行して中国に入ると怒江となる。ここはモールメンの河口から数百キロの地点だが歩いて渡れない深さである。さがって来る部隊を左岸に渡さねばならない。この任務は工兵隊であり、配属された我々水上勤務隊の任務でもある。
 何処から連れて来たのか牛が六頭程いた。牛は舟に乗せられないので前の兵が一頭、後ろの兵が一頭鼻先を持って顔だけ水から出して渡したが上手に泳げた。渡河してから一週間程休養したと思う。
 その間にマラリアも出て頭が割れんばかりに痛む。食事は砂を噛むように味気ない。マラリアの特効薬であるキニーネもない。体は衰弱するばかりであった。

 みるにみかねたのか中村軍曹が
「加藤来い、小隊長に頼んでやる」というのでついて行った。
 小隊長、加藤はこの様子ではとても一緒に連れて行けませんので、渡河作業が終わったら舟に乗せて連れて来てもらいたいと頼んでくれた。
 小隊長は加藤は選抜上等兵だと思って、たるんでいるのだ。連れて行かないから皆と一緒に歩けと言った。非情なことをいう奴だと思ったが命令である。

 翌朝、背嚢は牛の背に着けてもらい水筒、雑嚢、飯盒を肩に掛け、割れそうな頭に堅く鉢巻をして、杖をついて行軍の中に加わった。私一人のために速度を緩めることはできない。歯を食いしばって歩いた。
 小休止の号令が掛かる。四十五分歩いて五分の休憩である。
「加藤来い」
 衛生兵の後藤上等兵が注射を打ってくれる。何回目かの時、
「後藤上等兵殿、この注射は何ですか」と尋ねた。
「これはカルシユムだよ、これしか無いのだよ」と言った。
 マラリアにカルシユムはきかないが骨を痛めているから打たないよりましだと思った。川沿いの平地を歩いていたが間もなく山の間に入った。
 半月程して頭の痛みも薄らぎ腰の痛みも杖を頼れば楽になり力もついて装具も持てるようになった。

 この頃は米の配給がなかった。先行した部隊が試食して言い伝えているのか、岩に生えている苔や道端の雑草など、食べられる物、食べられない物と話し合いながら選り分けた。
 野生のこんにゃく芋が沢山生えている所があった。ビルマの人達はこんにゃくを食べないようだ。我々も加工して食べる余裕はない。土地が肥えているとみえて茎が一メートル程伸びても葉の部分が丸まっている。同じ茎でも斑点の濃いものはあくが強くて食べられない。斑点の薄いものは食べられた。皮を剥いで少し塩を入れ茹でると、ふのように柔らかで腹の足しになった。
 何処にでもあるわけではないので、取れるだけ取って束にして背嚢に着けて歩いたものである。
 食べられると教えられた物は手当たり次第食べた。しかし栄養のつく物はない。頬はこけ目だけが剥き出た感じで人相も険悪に思えた。


『アメーバー赤痢』

 そのうちアメーバー赤痢にかかる者が出てきた。私もどうやらアメーバーらしい、下痢の連続である。用をたしてまたすぐ行きたくなる。しゃがんでもろくに出ないのに行きたくなる。駐屯中ならまだしも行軍中である。
 走って行って隊列の中程まで行き、道から外れて用をたす。尻の始末をした頃は隊列と離れるので走って追いつく。また隊列の中程まで走って用をたす。
 これの繰り返しである。体の消耗は甚だしく、脱水状態になってますます衰弱する。
 兵の中には下痢が激しいので絶食する者もある。絶食して力尽きて落伍した者もあったようだ。私も絶食しようと何回か思ったが、アメーバーは下痢すればするほど食べなければ死ぬと言われた。
 栄養があろうがなかろうが、わけのわからない物も食べた。何処で聞いたのか下痢には消し炭がよいという。
 休憩の時、雑木を燃やして水をかけないように炭火にした。水をかけると効力がなくなるという。炭を雑嚢に入れ行軍しながらガリガリ食べた。皆も口を黒くして歩いた。少しは下痢が少なくなったようだが、腹を搾る痛さは前と同じであった。
 部落を通る時、馬鈴薯を見つけて生で食べた。下痢によいというのである。青木君はニンニクを見つけて生で食べたという。何と何が効いたかわからないが、誰もの下痢が次第に癒ってきた。


『欠食行軍は続く』

 山の中でも小さな部落があった。もちろん人はいない。手分けをして米を探した。家から離れた所にやぐらを造り、その上に編んだ大きな篭に、両面を牛の糞と粘土を混ぜて練ったものを張り付けて乾燥させた中に籾で貯蔵してある。

 ビルマは半年雨が降るので山の中でも段畑を作り、周囲に土手を作れば稲作ができる。用水路も排水路も不要である。
 平地でも用水路も排水路もない。勝手に入って勝手に流れていく。雨期になって田圃が柔らかになると、牛二頭に鋤をつけて、耕すのだが鋤の先には鉄の木をつける。黒い木で鉄より堅いといっていたが、細工をして先の形を作るのだからそうでもあるまい。田圃に水が溜まるようになると、大きな“たにし”が出てくる。ビルマの人達は食用にしていた。

 珍しいと思ったことは川辺りに落ちた籾が生えて、雨期の深まりと共に水が増えてくると、それに連れて伸びる、常に頭を水面上に出している。穂が出て花が咲き実の入る頃、雨期が終わる。水が引けると木に絡んだり、蔓に絡んだりした穂が、そのままになっているものもある。手を伸ばしてやっと届くほど高くまで伸びている。稲というものはこんなに、順応性があるものかと驚いたものである。

 部落さえあれば米を探した。山の奥に籾を隠してあるとの情報を受けた。各部隊で数人ずつ兵を出した。同年兵も四名ほど出た。私もマラリアで調子がよくなかったが思いきって加わった。今度は遠いので泊まりがけである。

 急な道である、二時間ほど歩いて目的地に着いた。籾はたくさんあった。精米用に石臼を土中に埋めて杵は足で踏むように出来ていた。籾から白米に仕上げるのだから時間がかかる。まだ幾月行軍するかわからない。ある所で持たなければ、次は何処まで行けばあるという当てはないのだ。皆、一生懸命であった。

 私は間もなく熱が出始めた。せっかく来たのだからと我慢していたが、マラリア特有の寒気がする。この寒気の気味悪さは経験のない人にはわからないと思う。ありったけの毛布をかけ、その上に乗れるだけの人に乗ってもらっても、ふるえが止まらない。乗った人も揺する、このまま死に引きずり込まれるような厭な気持ちである。
 しばらくして寒気がすぎると、反対に物凄く熱くなる。裸になってうちわで四方から煽ってもらっても熱い状態になる。それが過ぎてようやくもとに戻る。

 マラリアには二日熱、三日熱、デング熱とある。二日熱は二日毎に、三日熱は三日毎に出る。午前と午後と時間も同じ時間に出る。デング熱は毎日であった。

 今まで俺は蚊に刺されないのにマラリアになったという兵がいたが、マラリア菌を持った蚊は斑蚊といって、羽根に黒い斑点があって刺す時尻をピリッとあげる。この蚊はバナナやマンゴの蜜を吸う時に菌を残すとのことである。バナナやマンゴからでも伝染するといわれていた。

 何とか頑張って米つきをしてみたが、頭がふらついて仕事にならない。中村軍曹や戦友達が心配してくれて、帰ったほうがよいと勧めてくれた。ちょうど連絡で部隊に帰る兵があったのでついてもらって帰った。申し訳ないことであった。長い間の行軍で皆疲れているのに、翌日の夕方白米にしてたくさん持ってきてくれた。誰も心強く思った。感謝した。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ビルマ戦線 一兵士の回想 更新情報

ビルマ戦線 一兵士の回想のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。