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東アジア歴史文化研究会コミュの「コミンテルンと昭和史の真相」?

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「コミンテルンと昭和史の真相」(つづき)

(中西輝政京都大学教授)


《「日本の敵」の人脈》

 日本やアメリカにおけるコミンテルンや中国共産党の秘密工作、謀略というものを踏まえてアジアにおける第二次世界大戦を考えると、その敗者は日本、アメリカ、蒋介石の三者であり、勝者はソ連、中国共産党、そして戦後に「大ブレーク」する日本の左翼だったということができる。日本の左翼にとっては、自分達の闘争が日本を打倒したのであり、戦後の日本は革命への道を歩んでいくべきだと考えていた。これが戦後左派の意識であり、彼等は日本人でありながら自分達を「戦勝国民」だと思っていた節がある。それゆえ、彼らにとっても「東京裁判」史観を維持することは、自らの存在に関わる死活的利害であり続けたのである。「朝日新聞」が今日に至るまで示し続けている、あの執着はここに発している。

 一方、アメリカは共産主義に対する「大いなる防波堤」であった日本を打倒したために、戦後は朝鮮戦争、ベトナム戦争、あるいは中台対立で大変な苦難を背負うことになった。アメリカが「第二次世界大戦の敗者」であったというのは、この意味に於いてである。

 そこで疑問として残るのは、なぜアメリカはソ連・中共と対峙した日本を「叩く」という愚かな選択をしたのかということであるが、日・米・蒋という敗者を生み出すのにおそらく最大の役割を果たしたのが、アメリカ国内でアメリカの政策を捻じ曲げたコミンテルンや中国共産党の秘密工作員たちの活動であった。彼等は真の意味で、「アメリカの敵」であり、同時に日本をあの不幸な戦争に無理やり引きずり込んだ「日本の敵」、そして「蒋介石の敵」でもあった。

 「日本の敵」という意味で言えば、そこに重要な人脈が見えてくる。日中対立の中で、ソ連・中国共産党の側に立って、徹底的に日本を追い詰めていった人脈として名前を挙げられるのがまず、ゾルゲと尾崎秀実であり、彼らを結び付けたアグネス・スメドレー、オーエン・ラティモアであり、後年ニューヨークタイムスの名物記者になったセオドア・ホワイトである。

 セオドア・ホワイトはハーバード大学でスメドレーとも関係のあった「中国学の泰斗」J・K・フェアバンクの教えを受けたあと、若くして中国に渡り、支那事変、「ボストン・グローブ」紙特派員として日本軍の「残虐行為」を次々とアメリカの新聞に送り、昭和十年代前半にアメリカの反日機運高揚に大きな役割を果たした人物である。

 彼は、いわゆる「南京大虐殺」のプロパガンダに協力したハロルド・ティンパーリーと同様、中国国民党中央宣伝部国際宣伝処に勤務していたことが明らかになっている。ホワイトは、自叙伝「歴史の探求」(サイマル出版社)で、日本軍の侵攻による被害者の数を間違って桁違いに多く記事にしてしまった事を国民党宣伝部の幹部に告げると、「多い方がいいんだ」と言われ、それが次第に当たり前のことになっていたと愉快そうに書いている。また宣伝処には、アメリカの言論界に対し嘘をつくこと、騙すこと、中国とアメリカは共に日本に対抗していくのだとアメリカに納得させる為なら、どんなことをしてもいいというい方針すらあり、ホワイトが架空の反日女性ゲリラの記事を書いた所反響を呼び、宣伝部が写真まで用意したことが紹介されている。

 ホワイトは後年、アメリカを代表するジャーナリストの大御所となった。そして日米貿易摩擦の最中の1985年、ニューヨーク・タイムズ・マガジンに「日本からの危険」と題する論文を書いた。その中で、「ミズーリ号からの道」のどこで、アメリカは誤り、日本の脅威を見逃したのか、と荒唐無稽ながら、異様な「反日」の執念を露にしている。「ミズーリ号」はいうまでもなく、昭和20年9月2日に日本が降伏文書に調印したアメリカの戦艦の名前である。<アメリカは日本を完全に粉砕したと思っていたが、戦後日本を助け中国と対立するという誤りを犯したため、日本は経済的に攻撃的な国になってアメリカ経済を破壊している。ミズーリ号からの道を反省し、再び中国と組んで、日本を挟み撃ちにする道を歩む必要がある>というのがホワイトが論文で言わんとした趣旨であった。ホワイトは、単に戦時中、中国の工作員ジャーナリストであったというにとどまらず、生涯中国との関係をもって日本を敵視し続けた人物であった。

 アグネス・スメドレーが、日本軍が南京で二十万人を大虐殺したと初めて宣伝したジャーナリストであることは、もっと注目されてよい。スメドレーは延安との関係がとりわけ強い工作員ジャーナリストであったが、日米開戦前のアメリカで彼女が中国戦線について講演すると、聴衆は日本兵による中国女性の強姦に興味を持ち、その話をしないと講演が終わらなかったと書いている。更にエスカレートとして、日本兵が15人くらいで一人の女性を一晩も二晩も強姦し続け、女性が妊娠すると、日本兵は女性の腹を裂いて子供を引き出し殺すというシーンまで見たことがあるといった過激な話をしないと満足しなくなったという。しかし、こうしたでたらめな話が「歴史的事実」としてアメリカの人々に記憶されたのである。スメドレーが日米開戦と今日の「歴史問題」に果たしたネガティブな役割は非常に大きいといわねばならない。

 オーエン・ラティモアは1941年11月〜12月の時期、ルーズベルト大統領の個人代表として、重慶政府の蒋介石のもとに顧問として派遣されていた。そこで彼と共に日米開戦に向けて大きな役割を果たすのが、コミンテルンのスパイ・エージェントであった中国担当大統領補佐官のロークリン・カリーである。カリーは、第二次大戦中から戦後にかけてアメリカ国内で活躍していたKGBやGRUの工作員とモスクワ本部の電信を傍受した記録、通称「VENONA文書」が1995年に公開され、ソ連のエージェントであったことが確証された。

 開戦直前の昭和16年11月、日米交渉は、日本が開戦回避の為に提案した「Z 案」の条件で合意する可能性が出てきていた。交渉状況を逐一知る立場のカリーは「このままでは日米戦争にならない」と慌て、日米交渉妥結の流れを消す為に重慶のラティモアに電信を打つ。カリーの秘密指令に基づいてラティモアは蒋介石に、日米合意が実現すれば、中国の戦線は一瞬にして崩壊し、中国人は二度とアメリカ人を信頼しなくなるだろう」と強い調子でルーズベルトに交渉を妥結しないように迫る電文をホワイトハウスに送らせたのである。

 蒋介石からルーズベルトへの電信は最低でも二通が送られたことが明らかになっている。その日付は11月24日、25日。アメリカから日本に向けての最後通牒となった「ハル・ノート」が出されたのが26日であるから、ギリギリのタイミングであった。

 もしもラティモアが重慶におらず、蒋介石にリアルタイムで日米交渉の状況が知らされなければ、日米交渉はギリギリのタイミングで妥結していた可能性は大きかったと思われる。中国共産党と繋がるラティモア、コミンテルンと繋がるカリーの連繋こそ、「日本滅亡」への引き金を引いた恐るべき対日謀略の工作線だったのである。

 ちなみに、蒋介石がラティモアを通してカリーから受け取った電信の一部は台湾が公開しているが、最も重要な箇所は公開されていない。また同様の電信は、日本との開戦によってアメリカをヨーロッパ戦線に引き込もうとしていたイギリス首相、チャーチルもルーズベルトに送っていた。この電文も、おそらくはアメリカの依頼によってイギリスが一部しか公開していない。

 もう一人、日本滅亡の引き金を引く役割を果たしたのは、「アナザー・ホワイト」、つまり財務省次官のハリー・デクスター・ホワイトである。ハリー・ホワイトは、モウゲンソー財務長官を通じて、ルーズベルトに近く、いつでも会える立場にあり、「ハル・ノート」の原案を作って用意していた。彼もまさに「日本の敵」というにふさわしい人物であった。

 しかし、なんと言っても「日本の敵」の真打は、ハーバード・ノーマンであろう。カナダ外交官で、戦前から終戦後にかけて「知日派学者」として名を馳せたノーマンは、マルクス主義者であり、ほぼ間違いなくコミンテルン工作員であった。彼はケンブリッジ大学留学時にイギリス共産党に入党し、インド独立運動に関わった。ちなみにアグネス・スメドレーもベルリンでインド独立運動に携わり、その後上海に入っている。

 こうした経歴をすべて秘密にしてカナダ外務省に就職したノーマンは、モスクワつまりコミンテルン系統の活動家たちと秘密の接触を重ねながら「日本専門家」として出世していく。その過程で、ハーバード大学講師で戦後日本を代表する経済学者となる都留重人と知り合った。そして昭和15年に東大に留学し、現在も岩波文庫から翻訳が出ている「日本における近代国家の成立」を刊行して、若きジュアパノロジストとして一躍有名になる。

 東京で日米開戦を迎えたノーマンは交換船でアメリカに戻るのだが、その途上、やはりアメリカから日本への交換船で送り返される途中だった都留とアフリカのロレンソ・マルケスの港で劇的に落ち合い、一瞬の隙に情報をやりとりした。そこでは、都留がハーバードに残してきたアメリカ共産党ネットワークの極秘資料を処分してくれとノーマンに頼んだのだと、のちに都留を取り調べたFBI捜査官が議会で証言している。

 そしてノーマンはアメリカに帰国後、実際にハーバードの都留の下宿に行ったことがFBI によって確認され、ノーマンはFBIから繰り返し取り調べを受ける。FBIは都留がアメリカ共産党員であったと見ていたから、ノーマンのような怪しい人物があらわれるのをじっと監視していたのである。ノーマンは最終的に、マッカーシーのいわゆる「赤狩り」時代にスパイ疑惑を追及され、1957年に自殺する。

 ノーマンは、昭和12年に支那事変が始まると、スメドレーの親友で戦後「女性開放」運動に影響を与えたアメリカ共産党員の石垣綾子やキョ朝鼎、また都留らとともに、アメリカ国内で反日、反戦活動を繰り広げた。日本に石油を売ってはならない、中国を侵略している日本を孤立させていこう、と呼びかける反日集会を二ユーヨーク・ボストン・フィラデルフィアなど東部の主要都市で開催し、昭和14年のアメリカによる日米通商航海条約破棄を大きく後押ししたのである。

 日本降伏後の1945年9月、東京に赴いてノーマンはいち早く、マルクス主義憲法学者の鈴木安蔵と接触し、「憲法研究会」と称する左翼グループを作らせ、GHQ草案に近似した憲法草案を公表させる工作に従事したのであった(原秀成「日本国憲法制定の系譜・?」2006年)。この意味で「日本国憲法」は、単に占領軍将校が、一週間で作った「GHQ憲法」というだけでなく、もっとディープな「影の工作」をそもそもの基礎として生まれたという点で、「ノーマン憲法」さらには、「コミンテルン憲法」という方が、より本質に近い呼び名であると思われる。

 ノーマンはまた、近衛文麿を戦犯指名するようGHQを動かした影の工作者でもあった。近衛は昭和20年10月にマッカーサーから新憲法起草を指示されており、戦犯指名はされないはずであった。ところが12月に突如「戦犯」として逮捕命令が出され、出頭期日の12月16日に自殺することになる。

 この逆転劇の背景として、大きな影響力を持ったと考えられるのが、近衛の尋問に関わったGHQ 将校ポール・バランやトマス・ビッソン(ヴェノナでコミンテルン・エージェントと証明されている)と共に、ノーマンの工作活動であった。ノーマンは来日後、マッカーサーと直接しかも頻繁に会っていたと言われる。すでに戦前から、北米では「すぐれた知日派」としての名声を博していたが故に、「日本のことはノーマンに聞け」というのがGHQ内部の常識となっていて、マッカーサーの初期の占領方針が左傾化したのは、ケージスやホイットニーらニューディーラーだけではなく、コミンテルン工作員として断罪されているノーマンの影響もあったのである。


 《冷戦下の外交・情報戦》

 このように、中国共産党の国際的秘密工作ネットワークと結び付いていたのがスメドレー、ラティモア、セオドア・ホワイトであり、コミンテルンと結び付いていたのがハリー・ホワイト、ロークリン・カリー、そしてハーバード・ノーマンであると分類してもよいだろう。ところで、「チチミンテルン」とコミンテルンという二つの赤色国際ネットワークの関係は、現在に繋がる重要な意味を持っている。モスクワは、第二次大戦末期には明らかに、東アジアにおける国際共産主義ネットワークのイニシアティブを中共に奪われていたのである。

 毛沢東が戦後、スターリンの意向を無視して国共内戦に踏み切ったこともその証左であるが、アメリカの財務省や農務省に入り込んでいたコミンテルン工作員らが、50年代の「赤狩り」の時代、発覚寸前に中共に逃げているということからも分かる。アグネス・スメドレーも死後は全ての遺産と遺灰を北京に送ってくれと遺言していた。1930年代から、もともとコミンテルン系列だった人間が「チナミンテルン」に吸い寄せられているのである。それほど、中共の国際工作ネットワークは、ソ連を凌駕していたのである。

 明治の元老、西園寺公望の孫である公一は、近衛内閣のブレーンであったが、ゾルゲ事件に連座して投獄され「懲役1年6月、執行猶予2年)、戦後復権して参議院議員に。その後1958年、北京に「移住」して日中国交回復の旗頭になり、「人民友好使者」の称号を与えられている。また戦後の日本共産党幹部だった伊藤律や徳田球一が占領下でマッカーサーに追われて日本を脱出した際、逃亡先はソ連ではなくやはり北京だった。

 昭和27年に札幌市内で現職警官が射殺された白鳥事件に関与したとされる日共党員らも中国に渡っていた。近いところでは、平成14年に逮捕された日本赤軍最高幹部の重信房子も日本に極秘帰国したのち、北京との間を頻繁に往復していたことが明らかになっている。北京のネットワークは戦後も戦前も変わらず世界中に張りめぐらされていて、日本の国内にも深いパイプが残っているということを示唆している。

 今日なお共産党一党独裁を維持し、天安門事件に対する制裁をすり抜けて、卓抜な外交手法で世界の資本を引きつけ、そして「冷戦は終わった」といいながら歴史問題でブラックプロパガンダを展開して日本国内の分断、さらには日米の分断を謀る中国共産党の言動が、いかに欺瞞に満ちたものかを認識し、中国の仕掛ける「歴史問題」という名の外交・情報戦に対処しなければ、日本は単なる敗戦にとどまらず、いよいよ国家としての存立が危ぶまれることになりかねない。

 この点で日本にとっての追い風は、昨年春、中国で反日デモの嵐が吹き荒れた際に、アメリカのワシントン・ポストやロサンゼルス・タイムス、ウオールストリート・ジャーナルの各紙や、イギリス誌「エコノミスト」など欧米有力メディアが、中国こそ歴史認識を見直すべきだという論調を展開したことである。

 そこで問題とされた中国の歴史認識は、文化大革命や大躍進といった戦後の中国国内の問題についてであり、第二次世界大戦の話にまでは遡っていない。またアメリカが「戦勝国史観」から脱却するには、なお時間がかかるであろうが、日本は例えば「南京大虐殺」が中国のデッチ上げたブラックプロパガンダに過ぎないことを実証的研究によってアピールし、中国の主張する「歴史観」の不当性を粘り強くかつ戦略的に世界に訴えていく必要があるであろう。

 冷戦が終わっていないということは、単に共産主義国家が残っているという意味ではない。「改革・開放」を称する裏で、謀略や秘密工作という手法で他国を、そして世界を支配しようとする覇権主義を本質とする共産主義運動が残っている限り、日中関係も含めて中国をめぐる国際情勢では、冷戦は決して終わっていないということなのである。

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