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東アジア歴史文化研究会コミュの西郷隆盛の人間像 エピソード2

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奄美大島から呼び戻された西郷は、大久保の考えとは逆に久光の率兵上京計画に猛烈な反対をしました。西郷は斉彬が考えた当時と現在の状況が余りにも違うこと、上京準備が完全に整っていないこと、今軍勢を率いて京に入れば必ず予期せぬ事態が起こること、斉彬に比べて久光が人物的にも数段劣ることなどを理由に、久光に面と向かって堂々と反対意見を述べたのです。

久光としては、当然快く思うはずがありません。颯爽と国政に乗り出そうとしていたのを、たかが一藩士にあからさまに反対されたのですから。この時から、島津久光と西郷の確執が始まったと言えましょう。

しかし、目的に邁進して止まない大久保は根気よく西郷を口説き、この計画の一端を担うように協力を求めました。そんな大久保の態度に、西郷は「そいなら、気張って(頑張って)やりもんそ」と答え、久光の行列が出発する約1ヶ月前に、「肥後の形勢を視察し下関で久光の行列が来るのを待て」という命令を久光から受け先発しました。

西郷が下関に入ってみると、西郷の予期した憂いは的中していました。久光や薩摩藩上層部が考えている以上に、情勢は激しく揺れ動いていたのです。久光の率兵上京計画を薩摩がいよいよ倒幕に踏み切ったと勘違いした一般の志士や浪士、他藩士、薩摩の急進派藩士らが、ぞくぞくと京都・大阪に集結し、不穏な動きを見せていたのです。

久光は元来保守的な人間で、大きな改革は望まない人物です。ましてや、久光の頭の中には幕府を倒すなどという考えは毛頭ありません。久光の素志は、公武合体政策なのです。これら緊迫した情報を聞いた西郷は、このまま久光の行列が京・大阪に入れば思いがけない惨事が起こるかもしれない、何とか未然にそれを食い止めなければならないと考え、久光から下された下関で待てとの命令を無視し、その足で急遽大阪へと向かったのです。

大阪に入った西郷は、騒ぎ立てる浪士達を沈静させ、軽挙行動を戒め、自分の命令の元に厳しく統制することを約束させ、騒ぎを収めていたのですが、そんなことは久光にとって関係がありません。下関に着いた久光は、命令を無視し勝手に行動した西郷に激怒しました。そしてその後、兵庫に入った久光は、西郷の捕縛命令を下すのです。久光の激怒を知った大久保は、西郷を兵庫・須磨の浜に呼び出し、西郷に向かってこう言いました。

「久光公のお怒りは尋常ではごわはんから、もしかすると、吉之助さあに切腹を命じるかも分かりもはん。こうなったのには、おいにも大きな責任がごわすから、吉之助さあだけを死なすわけには、いきもはん。おいも一緒に死にもす。吉之助さあ、おいと一緒に刺し違えて死にもそ」

大久保の目は決意に満ちています。しかし、西郷は首を大きく横に振り、こう言いました。

「今、おいとおはんが二人とも死んだら、薩摩藩の今後はどうなりもすか、天下のことはどうなりもすか。死ぬときは、いつでも死ねもんそ。男が黙って歯を食いしばって堪えなければならない時は、こん今ごわすぞ。恥を忍んで、我慢する時でごわすぞ」

西郷のこの言葉に、大久保は改心し、西郷を自分の宿舎に連れて行き、久光に西郷が自分の宿舎で謹慎していることを伝えました。西郷はどんな困難な場面に出会ったとしても、決して自ら命を絶つようなことはしませんでした。それは、月照と共に自殺を企てたのに死ぬことが出来なかった西郷の一つの天命への自覚によるものだと思います。

死を覚悟した男のなせる業だと思いますが、さらなる試練を乗り越えなければ、幕末の流れを主導できなかったのかもしれません。

そして、西郷は沖永良部島に流されていきます。今度は罪人として流されていきます。

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