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東アジア歴史文化研究会コミュの西郷 隆盛の人間像?

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西郷さんの幼少から斉彬時代まで

幼少・青年時代

文政10年(1827年)12月7日、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名、禄47石余)の第一子として生まれる。西郷家の家格は御小姓与であり、下から二番目の身分である下級藩士であった。本姓は藤原(系譜参照)を称する。先祖は肥後の菊池家の家臣で、江戸時代の元禄時代に薩摩の島津家家臣になる。
天保10年(1839年)、郷中仲間と月例のお宮参りに行った際、他の郷中と友人とが喧嘩しその仲裁に入るが、上組の郷中が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしまう。西郷は三日間高熱にうなされたものの一命は取り留めたが、刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した。天保12年(1841年)、元服し吉之介隆永と名乗る。この頃に下加治屋町郷中(したかじやまちごじゅう)の二才組(にせこ)に昇進。これを機に、西郷の身辺警護を中村半次郎(後の桐野利秋)が務め始める。

郡方書役時代

弘化元年(1844年)、郡奉行迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与(一番組小与八番)に編入された。弘化4年(1847年)、郷中の二才頭となった。嘉永3年(1850年)、高崎崩れ(お由羅騒動)で赤山靭負(ゆきえ)が切腹し、赤山の御用人をしていた父から切腹の様子を聞き、血衣を見せられた。これ以後、世子島津斉彬の襲封を願うようになった。
伊藤茂右衛門に陽明学、福昌寺(現在鹿児島市立玉龍高等学校があるところにあった島津家の菩提寺)の無参和尚に禅を学ぶ。この年、赤山らの遺志を継ぐために、秩父崩れの秩父季保愛読の『近思録』を輪読する会を大久保正助(利通)・吉井幸輔(友実)・伊地知竜右衛門(正治)・有村俊斎(海江田信義)らとつくった(このメンバーが精忠組のもとになった)。

斉彬時代

嘉永4年(1851年)2月2日、島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になった。嘉永5年(1852年)、父母の勧めで伊集院兼寛の姉須賀(敏(敏子)であったとも云われる)と結婚したが、7月に祖父遊山、9月に父吉兵衛、11月に母マサが相次いで死去し、一人で一家を支えなければならなくなった。嘉永6年(1853年)2月、家督相続を許可されたが、役は郡方書役助と変わらず、禄は減少して41石余であった。この頃に通称を吉之介から善兵衛に改めた。12月、ペリーが浦賀に来航し、攘夷問題が起き始めた。
安政元年(1854年)、上書が認められ、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸に赴いた。4月、庭方役となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受けるようになり、またぜひ会いたいと思っていた碩学藤田東湖にも会い、国事について教えを受けた。鹿児島では11月に、貧窮の苦労を見かねた妻の実家、伊集院家が西郷家から須賀を引き取ってしまい、以後、二弟の吉二郎が一家の面倒を見ることになった。
安政2年(1855年)、西郷家の家督を継ぎ、善兵衛から吉兵衛へ改める(8代目吉兵衛)。12月、越前藩士橋本左内が来訪し、国事を話し合い、その博識に驚く。この頃から政治活動資金を時々、斉彬の命で賜るようになる。安政3年(1856年)5月、武田耕雲斎と会う。7月、斉彬の密書を水戸の徳川斉昭に持って行く。12月、第13代将軍徳川家定と斉彬の養女篤姫(敬子、将軍正室)が結婚。この頃の斉彬の考え方は、将軍正室を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするもので、日中韓同盟をも視野にいれた壮大な計画であった。西郷はその手足となって活動したのである。
安政4年(1857年)4月、参勤交代の帰途に肥後熊本藩の長岡監物、津田山三郎と会い、国事を話し合った。5月、帰藩。次弟吉二郎が御勘定所書役、三弟信吾が表茶坊主に任ぜられた。10月、徒目付・鳥預の兼務を命ぜられた(親友大久保利通(正助)も徒目付になった)。11月、藍玉の高値に困っていた下関の白石正一郎に薩摩の藍玉購入の斡旋をし、以後、白石宅は薩摩人の活動拠点の一つになった。12月、江戸に着き、将軍継嗣に関する斉彬の密書を越前藩主松平慶永に持って行き、この月内、橋本左内らと一橋慶喜擁立について協議を重ねた。安政5年(1858年)1、2月、橋本左内・梅田雲浜らと書簡を交わし、中根雪江が来訪するなど情報交換し、3月には将軍正室から近衛忠煕への書簡を携えて京都に赴き、僧月照らの協力で慶喜継嗣のための内勅降下をはかったが失敗した。
5月、彦根藩主井伊直弼が大老となった。井伊は、6月に日米修好通商条約に調印し、次いで紀伊藩主徳川慶福を将軍継嗣に決定した。7月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた(広義の安政の大獄開始)。この間、西郷は6月に鹿児島へ帰り、松平慶永からの江戸・京都情勢を記した書簡を斉彬にもたらし、すぐに上京し、梁川星巌・春日潜庵らと情報交換した。7月8日、斉彬は鹿児島城下天保山で薩軍の大軍事調練を実施した(兵を率いて東上するつもりであったともいわれる)が、7月16日、急逝した。7月19日、斉彬の弟久光の子忠義が家督相続し、久光が後見人となったが、藩の実権は斉彬の父斉興が握った。


大河ドラマ「篤姫」は、安政の大獄の恨みをかった大老井伊直弼が桜田門外で暗殺されるところまで進みました。いよいよ次は皇女和宮の登場です。面白くなってきましたが、西郷さんは奄美大島に流されています。この期間の西郷さんをどのように描くか楽しみです。

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