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東アジア歴史文化研究会コミュの西郷 隆盛の人間像?

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8月28日の作家神渡良平氏の講演「歴史を動かした男西郷隆盛−敬天愛人に学ぶ」にあたり、西郷隆盛の略歴をシリーズで掲載いたします。

最初に簡単な略歴から

西郷 隆盛(さいごう たかもり、文政10年12月7日−明治10年9月24日)は、日本の武士・薩摩藩士、軍人、政治家。薩摩藩の大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。

薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪にあう。しかし、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。勝海舟との降伏交渉に当たっては、新政府明治35年に、勝海舟の尽力等もあり、の後ろ盾となっていたイギリスが、江戸湾を拠点とした貿易に支障がでることを恐れて江戸総攻撃に反対したため、西郷隆盛をはじめとする新政府はイギリスの求めに応じ、江戸総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

明治35年に、勝海舟の尽力等もあり、継嗣の寅太郎(次男、貴族院議員)は侯爵を賜る。その寅太郎の三男吉之助は、貴族院議員、参議院議員、第2次佐藤栄作内閣法相を務めた。西郷隆盛と愛加奈の間に奄美大島で生まれた菊次郎(長男)は後に京都市長になる。




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