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日田の歴史って面白くて凄い!コミュの日田市の石井神社の謎 バージョンアップ1号

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はじめに。

 石井とは、日田の古代史を証明する生き証人と言っても過言ではない。そしてその延長線が日本古代史と大きく関わってくるのである。
 「謎の4世紀」という言葉があるが、卑弥呼と台与の『魏志』倭人伝による記述は3世紀末頃までの記述で、その4世紀からの日本の歴史が全くわからないのである。
『古事記』と『日本書紀』の文献で年代を特定できるはずもなく、神社の伝承や言い伝(伝承)や『風土記』といったものを総合的に紐解いていくしかない。
 私は、日田古代史を紐解く上で、日田の郷土史を研究されていた、福本英樹氏、木藪正道氏、児玉國昭氏、そして日本の古代史を研究している歴史作家、関裕二氏の説を総合的に考えてみたいと思う。
 

日田古代を注目する人たち
 日田の古代を重要視していたのは、日田と卑弥呼を重要視する、福本英城氏、木藪正氏、児玉國昭氏、後藤英彦氏、石丸邦夫氏。そして日田と神話の天孫降臨説をつなげる、澤田洋太郎氏、高木彬光氏、関裕二氏だ。
 また、考古学会も日田の小迫辻原遺跡(4世紀)には注目しており、ヤマト勢力の出城だとしている。その理由は、畿内、山陰、東海、瀬戸内などの布留式土器と呼ばれる土器が出土しているからである。ちょうどその時、ヤマトでも纒向遺跡が成長し邪馬台国畿内説の最重要な遺跡としている。纒向は、東海、北陸、山陰、瀬戸内などの広域な土器が持ち込まれている遺跡で、小迫辻原遺跡とも似通っている。
 ただ、不思議なのは、日田の場合布留式土器が小迫辻原遺跡だけと言ってもいいだろうが、ここだけ布留式が出土される。市内の他の遺跡(少しは他の遺跡からも出土している)からは出土しないのである。考古学者の小田富士雄氏も、「異様な遺跡」だという。小迫辻原遺跡は、今でも日本最古の豪族居館跡である事を忘れてはならないし、考古学界謎の4世紀を紐解く重要な遺跡である事は認めている。

     日田の古代史の中心の会所山(水道タンクの山)と
           久津媛(比佐津媛=ひさつひめ)と景行天皇

 日田の古代史の中心と言えば会所山(よそやま)で、『豊後国風土記』がいう日田の地名の起こりである久津媛(ひさつひめ)神社が会所山の頂上に存在する。  
 そして中腹には鳥羽(止波)塚と呼ばれる古墳がある。成務天皇の時代に日田国造りに派遣された鳥羽の宿禰の古墳であろうとされる。
 その頃の『先代旧事本紀』に書かれた九州の国造りは、筑紫、豊国、肥前、肥国、阿蘇、筑前夜須、宇佐、松浦、葛津と日田と記述されている。
 また、日田の古代の地名の呼び名は、続日本紀―日向 『旧事紀』―比多  和名抄― 日高 豊西記―日鷹 東鏡―肥多 『豊後国風土記』―日田とそれぞれ違う。
 話はそれるが、古村豊氏は、日田卑弥呼説で、著書のなかで、日田=日向という証明をしている。日田を中心に冬至と夏至のラインに日向(ひむか・ひなた)と読める地名が日田を中心にクロスしている事を上げている。私見では、宮崎の日向(ひゅうが)の名付け親は景行天皇であり、それより以前の『記紀』神話では、天照大神と素戔嗚尊と月読尊が筑紫の日向(ひむか・ひなた・ひこ)で生まれた記述があって、景行天皇の九州遠征前のずっと前に九州のどこかに日向という場所が存在していた事が証明される。
 また、不可解なのが日本書紀の記述である。『日本書紀』の記述では八女から浮羽と移動しその後突然と日向に行っている。しかし『豊後国風土記』では、景行天皇は浮羽から日田に凱旋している。『日本書紀』は何故、日田を無視するのだろうか。日田が日向であれば理解出来るが・・・。また五馬媛の玉来神社の祭神が景行天皇である事も意味を示しているのではないか。景行天皇や神功皇后は、一般的には架空の人物だとされているが、これだけの濃厚な伝承が残る人物を実在してたとしても不思議ではない。
 私見、景行天皇は、日田を出発し、浮羽そして八女そして鹿児島へと天孫降臨していった、通常の逆行をしている可能性を思う。『豊後国風土記』は日田に凱旋しているが、実は日田を出発したというわけだ。
 景行天皇は影が行くという暗号に思えてしょうがない。武内宿禰には真根子というそっくりさんがいて、武内宿禰の補佐をし、身代わりで死んでいる。また武内宿禰と仲哀天皇という神功皇后の不可解な関係、詳細は避けるが豊玉姫や振根と入根の兄弟の殺しあいなどの兄弟による不仲現象がこの景行天皇と折り重なってくるのだ。また素戔嗚尊と月読尊の関係にもみえてくる。
 武内宿禰は日田で暗殺され、その兄弟は生き延びたという筋書きにつながっていく。
『魏志』倭人伝には、卑弥呼の死後。男王が立つが国中再び戦いが起き、台与が立つと治まったとされる男王は武内宿禰だと私見では思う。
 かごめ歌をご存知だろうか。
 月刊ムーという、ちょっと以上に怪しい本がある。今から30年以上前に日田に取材に来ている。かごめ歌を取材中に二人の記者が同じ夢をみたらしい、ヒダに行けと。しかし飛騨に行っても何もなかった。そこで日田だというのがわかった。
 実はかごめ歌には卑弥呼の伝説が隠されているという話も存在している。そこでかごめ歌を検証する。
かごめ かごめ 籠の中の鳥はいついつ出やる、夜明けの晩に(夜明けに晩はありえない)鶴と亀がすべった 後ろの正面だーーれ。
 通訳すると、籠とは、籠神社で祭神が豊受大神(トヨ)の事、籠の中の鳥は(台与こと神功皇后)夜明けの夕方に鶴と亀という地名がならんだ。亀山公園(日隈)から西へ行けば、中釣(なかづる)桑鶴、加々鶴、大鶴という地名が東西に列ぶ。
 後ろの正面だーーーーれ。これが天照大神というわけだ。
亀山公園から中釣をみて、その後ろは会所山で、会所山は字で後山(うしろやま)ときちんと地元の看板に書かれている。これは偶然かもしれないが。。。
 言葉や地名や物語にも意味があっての事。「ひた隠し」「ひた向き」「ひたひた」「ひたる」「ひだかみ」という意味も・・・どう感じるか。

             石井神社の祭神

石井神社の御祭神は鳥羽(止波)宿禰(とばのすくね)である。鳥羽宿禰は『旧事本紀』に13代成務天皇の御世に、葛城国造と同祖、鳥羽宿禰を定めたとある。
 また、豊日志には、鳥羽宿禰は刃連(三芳町)に居住し農耕を教えたとあり、現在でも会所山(よそやま)の中腹には、鳥羽塚と呼ばれる古墳も存在している。
 豊西記には、止波が没したので百姓はその徳を懐かしんで祠を880年に会所山に建てたと言われ、これが石井神社の創立となっている。また豊西記には、後に石井郷に移り、今の石井神社になったと記述されている。また、890年に日田の軍司に任命された大蔵永弘が、石井村に奉遷し、この時に田島の住民も転居させたとある。

一番わかりやすいのが日田神社蒐集録だろう(以下抜粋)鳥羽の宿禰は、成務天皇の時代に、日田の国造として任命され、会所山の景行天皇と久津媛を、お祭りを申しあげて、ここを日田郡政治の中心地とした。そして、久津媛の治めていた日田郡の平坦地(筑後川北?)と五馬姫の治めていた山間部(筑後川以南?)を統一し、その後、日田郡民を率いて鳥羽氏は神功皇后の三韓征伐に大功を立てた。
 また、鉾の由来は、石井源太夫が八幡宮に祈願し、剣を大空に向かって投げた所、西南の方向に山野に落ちた。その所を、剣納山として石井大明神の社地として定めた。その後、石井大明神を建てたとある。

この社は日田郡の本であるから、郡内の祭りは石井を初めとする事になった。尾張の国に蓬莱島という宮地がある。ここには源太夫を祭ってあるという。この源太夫というのは、小豊命尾張国造であると言い伝えられている。(注:久留米大学の歴史研究をされている方で、神話の美濃は日田という説の方がおられる。高瀬にも美濃という地名の信号がある)
別の説では、石井源太夫は、鞍形多尾から石井に移るときに西の方に向かい、これ(剣)を投げた。

石井神社の建立について、852年に鳥羽の子孫によって創立された。次に、大蔵永秀によって、1431年に再建された。

日田市郡中で日田に関係のあった祭神は石井神社のみではないか。そして石井源太夫は鳥羽の宿禰の末裔で石井の地頭であったが、後にうきは郡の吉井に転居しており、今も石井氏にして子孫がいる。(以上抜粋)

 また、『豊後日田古代文化史』 志手 環氏は、石井を「いしい」と呼んでいるが、『風土記』の意からみれば「いはい」と呼ぶべき様に思われる。
 石井は、今「伊志伊」と訓んでいるが、『古事記』等に石を「伊波」と呼んでいる。磐井は石井で伊波伊であり、その磐井が日田に縁故があり、日鷹吉士や日下部の一族で、この地に繁栄した事が偲ばれ、磐井もの地で生まれ地名になったのか、母方の郷であっと推測できる。としている。

 鳥羽の宿禰と石井源太夫という二人の人物がでてくる。『豊西記』には、「石井源太夫高明公」、当郡に下向き、来来里の着御あり。これによって村名としその後大原に館し昿田を開きという。
 『豊後国志』には「鳥羽の宿禰」が日田国造となり刃連に住まい常に庶民に会す。以て耕の事を教え常に同居し、名づけて会所宮というのは是なり。日田で初めて水田が開かれたことから“田始播”=田島と呼ばれるようになったと記されている。
 福本氏はこの二人は同一人物としているが、私見は日田神社蒐集録と同じで別人とみる。

               
                ヤマトと日田の関係
 
 蘇我氏から藤原氏へと政権が変わる節目に日田も反応しているのではないだろうか。私見、勝者の藤原氏は、敗者の蘇我氏を悪者として後世に残し本当は藤原氏が悪行で政権を乗っ取りを企てたと思う。
 関氏は、詳細は避けるが、蘇我氏を抹殺する為に日田も抹殺してしまう経緯があったという。蘇我氏の祖は「武内宿禰」とされている。
 そのルーツが日田で九州を統治していたという事は『記紀』神話に書けなかっただろう。筑紫の日向(日田)で天照大神と素戔嗚尊と月読尊がその記述されると私見では思う。
 一説では、日田から神武天皇は旅だったという説がある。私もその説には賛同するが、関氏も日田での講演会で天皇家は日田で誕生したという。また講談社の「世界7不思議」という前面カラーの中で、日田の神功皇后(久津媛)が纒向遺跡の箸墓古墳に眠るという大胆仮説を紹介していた。
 纒向遺跡と小迫辻原遺跡は同時期に発展し、同族による支配をしていたという仮説が成り立てば、日田と纒向は親戚関係という流れが導かれるだろう。
 また『姓氏 家系大辞典』では、葛城直(葛城氏の祖)は「九州日田の豪族として、神武天皇の東征に従た」とされ、葛城臣は孝元天皇の曾孫、武内宿禰の子「葛城襲津彦」を祖とする臣姓の氏であり蘇我氏=葛城氏というのがわかる。
 関氏の著書で書かれている、小迫辻原遺跡の時代背景こそが、ヤマトの武内宿禰と神功皇后がに九州の日田に楔を打ち、筑後川流域を支配し、九州を統治していったという。そしてその後の姿を関氏は紹介している。
 小迫辻原遺跡は、焼土化がわかっている。要するに焼き討ちにされたと関氏は語る。武内宿禰は、三韓征伐までに権力を持ち過ぎ、身内のヤマトから、謀反行為で殺されていたという。
この後の日田から鹿児島への逃亡劇が天孫降臨として神話になったという仮説を月刊PHPの「歴史街道」で紹介されている。ちなみに、3泊4日のこの取材に私も同行し、歴史街道の編集長と関裕二氏と専属カメラマンと4人での旅は邪馬台国九州偏で紹介されている。
 関裕二氏の邪馬台国国論は、本居宣長の説を基本とし、日田を付き加えただけの説である。本居宣長は、九州の卑弥呼が、魏へ朝貢し、倭国王だと申し出た。これは、ヤマト(本当の邪馬台国)が九州に押し寄せて身動きがとれない状況の中で、苦肉の策として、倭国王だと嘘の報告をして、魏の後ろ盾をもらうための行為だったという。魏を敵に回すこととなった本当の倭国王(ヤマト)は、魏にわからないように、ヤマトの卑弥呼が九州の卑弥呼を殺したというもの。関氏はヤマトの女王が「台与」で九州の女王が「卑弥呼」だと仮説している。
 後に紹介するが、私見では、日田の久津媛の本当の姿は「武内宿禰」だという事が大きな意味をもってくる。この説は過去誰もいない。
  
              日田の隠された国譲り神話
 
 『豊後国風土記』の石井郷とは旧日田郡と五和と高瀬を合わせたもので筑後川以南の日田が石井郷という地名である事がわかる。実は、石井という名が『古事記』で記述されている。それが『日本書紀』の筑紫の君「磐井」であり、筑後川を中心に政権を握っていた人物だ。『日本書紀』にある、磐井の叛逆の為に、継体天皇は、物部麁鹿火を九州へと遠征している。磐井の最後は豊の国に逃げ込んだと『日本書紀』では記述されている。
 日田古代の豪族である日下部氏から大蔵氏に政権が変わっていく背景が未だに謎であるが、この石井神社の刃連から石井という移動(国譲り)に深く関係しているのではないだろうか。
 そしてこの時代背景に、この石井神社が深く関わっていると私見では思う。日下部氏は、『豊後国風土記』では、刃連に居住し、その後石井へと移動し「日下長者伝説」として残り筑後川下流域との深い繋がりを示している。
 久留米の高良神社の初代宮司も「日下部氏」であり、筑後川南岸の日下部氏のルーツが日田にあると思えてしょうがない。
日下部氏とは、浦島太郎である。
笑うだろう。
 『日本書紀』に登場する浦嶋子が浦島太郎であることは知られていない。『日本書紀』では、日下部氏としての浦嶋子なのである。丹後半島に残る浦嶋伝説が日田とつながって来るとは誰も想像しないだろう。

 福本英樹氏は『日本書紀』では丹後半島と関連する天の日矛伝承に注目し新羅の王子として丹後の但馬(田島?)にやって来た。その時に持ってきたのが「日鏡」(鉄鏡?)である。この但馬は、鉄器が盛んに行われた場所であり、天の日矛とは鉄王と言ってもいい事から、日鏡は鉄鏡だと仮説しているのだが、私が調べた中で駒澤大学教授の瀧音能之氏は著書で ひさ=鏡だと紹介している。
 私見、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は「ひさ」の代表する鏡なのである。『豊後国風土記』では、「ひさ」が訛り「ひた」になったとあり、日田=鏡 という仮説につながってくる。また鉄鏡が飛騨市からも発見されている。日田の鏡ように豪華ではないが、「ひた=ひだ」という鉄鏡が出土した地名になっているのも意味深だ。
 話はそれるが、江戸時代の国学者の飯田武郷と平田篤胤は八咫の鏡は鉄鏡だと仮説されている事は知られてない。八咫の鏡は伊勢神宮の御神体であり天皇家の最重要の鏡であるのだ。伊勢神宮の本当の祭神は「男神」だという説は根強いものがある。
 関氏もその説に同調し、伊勢神宮の祭神は「武内宿禰=天日矛」だという。実は、天の日矛の本拠地は但馬の豊岡で、浦島太郎伝承の残る丹後なのである。
 浦嶋太郎は竜宮城に行き300年生きたとされ、もうひとり300年生きた人物がいる。それが武内宿禰である。武内宿禰とは、要するに、鳥羽宿禰と同じ年代になり仲哀天皇と神功皇后に使えているのである。
 また久留米の高良神社の祭神である高良玉垂は武内宿禰だと言われている。

                鷹伝説
 今の福岡県田川市の昔は「鷹羽郡」と呼ばれ要するに「鷹」である。古代史研究の大和岩雄氏は、鷹=鉄=製鉄=秦氏と仮説しているが、宇佐に行くと伝承で金の鷹伝承や残り、宇佐も「鷹」なのである。
 そして日田も豊西記では、西から鷹が飛んできて日田がうまれたという伝説もあるし、豊西記には昔日田は「鷹羽郡」と記述されている事には驚きを隠せない。
 その田川にある香春神社には新羅の神が住み着いたという記述があり、ここで新羅からやって来た天の日矛との関連がつながってくる。要するに新羅の神が、丹後から香春へやって来たっという証明になると思う。
  語源由来辞典では「タカ」と「タケ」は同意語とされている。武(タケ)内宿禰のタケには鷹が含まれているという事だ。
 浦島伝説と似通っているのが神話の豊玉姫の物語である。関氏は、神功皇后を台与(トヨ)と仮説し、竜宮城で待ち受ける豊玉姫は神功皇后ではと想像できよう。

         

       金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と蕨手紋(わらびてもん)

 筑後川流域の装飾古墳には、「わらびて紋」というものが画かれているのだが、実はこの文様が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と鉄帯鉤に画かれているのである。
 この鏡を知っているからこそ古墳に描かれるのではないか。その鉄鏡は6世紀頃のダンワラ古墳から出土したとされる。要するに、日下部氏が田島から石井に移住(国譲り)された頃に、埋めていったものではと思えてくる。そして、その文様を知る日下部氏が、日ノ岡古墳、重定古墳、珍敷塚古墳、丸山塚古墳、乗場古墳、鹿毛塚古墳、田代太田古墳という浮羽〜八女という筑後川下流域の古墳に画かれて伝えて行ったとしたらどうだろうか。そう、ここに日下部長者伝説が重なってくる。

 そして、この武内宿禰(素戔嗚尊)が日田の王だったら・・・。

 その証明が小迫辻原遺跡である。
 豊臣も徳川も日田に楔を打ち込み、北部九州を統治していたのであり、4世紀、そして6世紀にも、ヤマトは日田に楔を打ち込んだ可能性があるならどうだろうか。
日田という地は、九州を統治しようとする時、九州が反乱・謀反をすれば、東国(ヤマト・徳川・豊臣)は、日田に楔を打ち込み、九州を押さえつけるという歴史を繰り返すという時期に日田は政治的に反応し、歴史上から“ひた”隠しにするのだ。

             出雲神話と日田の謎

 出雲国造の祖「岐比佐都美」という神がいるが、その別名が「来日田維穂命」であり、日田の古代の女王「比佐津媛」と同じ神はないかと福本氏は仮説している。この出雲の「岐比佐都美」は女性みたいだが実は男神で、相撲の神様の「野見宿禰」の父であるとされる。福本氏は久津媛が男神だとは言っていないが、私には男神だと思えてくる。
話はそれるが、日田どん物語で、「出雲のこかんじゃ」を倒す話とつながっていそうだ。
 男と女をすり替えるのは、先ほども紹介したようにあの有名な伊勢神宮でも言われている。本当の祭神は武内宿禰で、本当の太陽信仰の神だといわれているのだ。 詳細は避けるが持統天皇が女性にすり替えた可能性が強い。
 
 石井神社のルーツは、新羅の神こと天の日矛であり、武内宿禰=浦島太郎なのである。この人物がヤマトを束ねて九州へ遠征してきた。そして、日田を拠点に筑後川流域を支配していったが、後にこの勢力の末裔は身内ヤマトから筑後川以南へと国譲りしていったのである。

 私見、武内宿禰(鳥羽の宿禰)の末裔が磐井=石井であり、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、武内宿禰(天の日矛)から磐井まで伝世していったという仮説につながってくる。芸能人の西武警察で有名なアマチュア考古学の苅谷俊介氏も日田の講演で金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は磐井まで伝世されたこの説を唱えていた。

 もう一つ、関裕二氏も指摘していたが天孫降臨の時に登場する猿田彦だ。この神は最後は、伊勢近くの“鳥羽”の海で亡くなるのだが、また伊勢に行くと、伊勢神宮の内宮と外宮と猿田彦神社がある。伊勢の内宮の天照大神は、淋しいから豊受大神を丹後から外宮に迎えたとあるが、女性を女性が呼ぶのはおかしいという説があり、何度もふれるが本当の天照大神は男だと根強い説があるのである。
天津彦彦火瓊瓊杵尊が天照大神の命令で天孫降臨を行うとき、筑紫の八衢の神である猿田彦が道祖神として道案内を行う物語である。
澤田洋太郎氏と小説家の高木 彬光氏が猿田彦こそが日田の神であると仮説している。

 福本氏は『古事記』に、出雲国造の先祖に当たる岐比佐都美(きひさつみ)というものが、青葉の山を飾って作り、川下に立て、ご馳走を供したところ、物言わぬ皇子が突然曰く。「川下の青葉の山は、山のように見えて山ではない。石いはくまの曾宮(そのみや)に大国主神(出雲の大神)の祭場ではないか」としゃべる。とあるが 『古事記』のこの部分は日田の事で、山の様で山でないのは曾(その)宮は会所山?ではなかろうかと著書で仮説している。
 会所山こそ「大国主神(武内宿禰)を祀る一番由緒ある神社」と出雲神話はけなげに伝えているのだろうか・・。
私見だが、出雲の神宝が行方不明になり、一斉捜索で出雲は崩壊してしまう記述が『古事記』にある。ヤマトは必死に探したがわからなかった。この出雲の神宝こそが鉄鏡ではないか。証拠はないが出雲大社の御神体も鉄鏡ではないかと思っている。日田で殺された出雲の神が会所山に眠り、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を磐井まで伝承したという仮説は細い糸をたどるくらいのものである。
 神話の祟りの物語の原点が日田にあり、その天皇家の祟りが日田から始まっているという壮大な仮説ではある。
 同じような祟りがある、奈良の三輪山の祟りを鎮める為に、太田田根子を探し出せと大物主神は夢に出てくる。そこで太田田根子を探し出すと祟りは鎮まった。
 三輪山の山頂には日向皇子が祭神され、九州に関連する皇子だ。5年前に、講談社の世界七不思議という本で、三輪山の麓にある纒向古墳の箸墓古墳に眠るは、日田の神功皇后(久津媛)かとカラー6ページで紹介された。
 邪馬台国畿内説の有力候補の箸墓に「日田神・ひだかみ」が眠るとは、考古学界も誰も想像しないだろう。
 祟りを鎮める「八幡神(鷹)」の根元が宇佐でなく日田であり、会所山であり、飛ばされた石井神社なのである。歴史作家の関裕二氏は、日田での講演会で神武天皇は日田で生まれたと言っていたのが忘れられない。ちなみに関氏は神武・崇人・応神は同時期で武内宿禰と神功皇后の子どもであると仮説している。

最後に、この中の文章の中は、日田の古代史の重要性を唱える先生方の引用でいいとこ取りをしているだけなのである。しかし、このいいとこ取りが本当の歴史と思えてしょうがない。
石井神社の秋のお奉りの「おくんち」で石井神社から若宮八幡(隈山・ガランドヤ)へお下りをする意味も、磐井の墓が隈山もしくは、ガランドヤという謎解きになりそうだ。
 そして磐井の本拠地は福本氏の日田であるという仮説に私は共感し筑後川流域の神社での青鬼と赤鬼という神社伝統にもその影響を感じられるのである。

敗者の宿命は、祟ること。それは勝者にいかがわしい事があったからにほかならない。
日田には会所山(武内宿禰)と日下部伝承(筑紫の君磐井)というヤマトに成敗された二つの怨念がある。その怨念は『記紀』神話の出雲の祟りとして引き継がれている。
石井の国譲りの怨念は石井神社の「りきさん」として表現され、また、日田の各地の神社の伝承として言い伝えられている。「りきさん」はヤマト勢力から封印され、その上から押さえつけられ、思い重圧からいつ解放されるのか・・・。その謎は日本古代史の真実を伝える重大な意味を持つものであり、昔の人が、未来に言い伝えようとする暗号としての表現なのだ。
蘇我氏は悪でない。おそらく石井も悪でない。勝者(藤原)が敗者(蘇我)を悪に仕立て上げ、その末裔の歴史までを封印するという必然でしかない。そして敗者はその真実を伝える為に、神話や伝承や昔話や神社に権力者に気づかれないように必死で真実を言い伝たえようとするものである。

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