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日田の歴史って面白くて凄い!コミュの日田市の石井神社の謎

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石井神社の御祭神は止波(鳥羽)宿禰(とばのすくね)である。止波宿禰は『旧事本紀』に13代成務天皇の御世に、葛城国造と同祖、止波宿禰を定めたとある。
 また、豊日志には、止波宿禰は刃連(三芳町)に居住し農耕を教えたとあり、現在でも会所山(よそやま)の中腹には、止波塚と呼ばれる古墳も存在している。
 豊西記には、止波が没したので百姓はその徳を懐かしんで祠を880年に会所山に建てたと言われ、これが石井神社の創立となっている。
 豊西記には、後に石井郷に移り、今の石井神社になったと記述されている。また、890年に日田の軍司に任命された大蔵永弘が、石井村に奉遷し、この時に田島の住民も転居させたとある。
               石井神社のルーツ
 この様に、石井神社のルーツは会所山にあり、『豊後国風土記』に記述されている日田の地名の起こりとされる久津媛神社(ひさつひめ)も会所山の頂上にあり、古代日田の国造りと深く関わっていると言っても過言ではない。
 日田古代の豪族である日下部氏から大蔵氏に政権が変わっていく背景にこの石井神社の刃連から石井という国譲りに深く関係しているのではないだろうか。
 また、『豊後国風土記』の石井郷とは旧日田郡と五和と高瀬を合わせたもので筑後川以南の日田が石井という地名である事がわかる。実は、石井という名が『古事記』で記述されている。それが『日本書紀』の筑紫の君「磐井」であり、筑後川を中心に政権を握っていた人物だ。『日本書紀』にある、磐井の叛逆の為に、継体天皇は、物部麁鹿火を九州へ向かっわせている。磐井の最後は豊の国に逃げ込んだと『日本書紀』では記述されている。

                日下部氏と丹後半島


 そしてこの時代背景に、この石井神社が深く関わっていると私見では思う。日下部氏は、『豊後国風土記』では、刃連に居住し、その後石井へと移動し「日下長者伝説」として残り筑後川下流域との深い繋がりを示している。
 久留米の高良神社の初代宮司も「日下部氏」であり、筑後川南岸の日下部氏のルーツが日田にあると思えてしょうがない。
 日下部氏とは、浦島太郎である。笑うだろうが、『日本書紀』に登場する浦嶋子が浦島太郎であることは知られていない。『日本書紀』には日下部氏としての浦嶋子なのである。
 丹後半島に残る浦嶋伝説が日田とつながって来るとは誰も想像しないだろう。

『日本書紀』では丹後半島と関連する天の日矛伝承が存在する。新羅の王子として丹後の但馬(田島?)にやって来たその時に持ってきたのが「日鏡」鉄鏡?である。この但馬は、鉄器が盛んに行われた場所であり、天の日矛とは鉄王と言ってもいい。
 浦嶋太郎は竜宮城に行き300年生きたとされ、もうひとり300年生きた人物がいる。それが武内宿禰である。(竜宮城とは筑後川そして日田だったのか?)
 武内宿禰とは、要するに、止波(鳥羽)宿禰と同じ年代になるということ。ヤマトから仲哀天皇と神功皇后に使えているのである。また久留米の高良神社の祭神である高良玉垂は武内宿禰だと言われている。

                    鷹伝説
また、今の福岡県田川市は昔は「鷹羽郡」と呼ばれ要するに「鷹」である。古代史研究の大和岩雄氏は、鷹=鉄=製鉄=秦氏と仮説しているが、宇佐に行くと伝承で金の鷹伝承や残り、宇佐も「鷹」なのである。
 そして日田も豊西記では、西から鷹が飛んできて日田がうまれたという伝説もあるし、豊西記には昔日田は「鷹羽郡」と記述されている事には驚きを隠せない。
 その田川にある香春神社には新羅の神が住み着いた記述があり、ここで天の日矛との関連がつながってくる。要するに新羅=鷹なのである。
 語源由来辞典では「タカ」と「タケ」は同意語とされている。武(タケ)内宿禰のタケには鷹が含ま   (日田の地形までもが鷹)
れているという事だ。

         

       金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と蕨手紋(わらびてもん)

 話は遠回りになったが、日田出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が日本古代史全べての謎を解くキーワードとなる。
 特に筑後川流域の装飾古墳には、「わらびて紋」というものが画かれているのだが、実はこの文様が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と鉄帯鉤に画かれているのである。
 この鏡を知っているからこそ古墳に描かれるのではないか。その鉄鏡は6世紀頃ののダンワラ古墳から出土したとされる。要するに、日下部氏が田島から石井に移住(国譲り)された頃に、埋めていったっものではと思えてくる。そして、その文様を知る日下部氏が、日ノ岡古墳、重定古墳、珍敷塚古墳、丸山塚古墳、乗場古墳、鹿毛塚古墳、田代太田古墳という浮羽〜八女という筑後川下流域の古墳に画かれて伝えて行ったとしたらどうだろうか。そう、ここに日下部長者伝説が重なってくる。

 そして、この武内宿禰が日田の王だったら・・・。

 小迫辻原遺跡は、ヤマト、山陰、東海、瀬戸内から持ち込まれたとされる、土器が出土し、考古学的にヤマトの出城としての遺跡だとされている。
 豊臣も徳川も日田に楔を打ち込み、北部九州を統治していたのであり、4世紀にも、ヤマトは日田に楔を打ち込んだ可能性があるならどうだろうか。

                 出雲神話と日田の謎

 出雲国造の祖「岐比佐都美」という神がいるが、その別名が「来日田維穂命」であり、日田の古代の女王「比佐津媛」と同じ神はないかと思う。この「岐比佐都美」は女性みたいだが実は男神で、相撲の神様の「野見宿禰」の父であるとされる。話はそれるが、日田どんの物語で、「出雲のこかんじゃ」を倒す話ともつながっていそうだ。
 男と女をすり替えるのは、実はあの有名な伊勢神宮でも言われている。本当の祭神は武内宿禰で、本当の太陽信仰の神だと。
 
 石井神社のルーツは、この天の日矛であり、武内宿禰=浦島太郎なのである。この人物がヤマトを束ねて九州へ遠征してきた。そして、日田を拠点に筑後川流域を支配していったが、後には、この勢力は筑後川以南へと国譲りしていったのである。

 武内宿禰の末裔が磐井=石井であり、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、武内宿禰(天の日矛)から磐井まで伝世していったという仮説につながってくる。芸能人の西武警察で有名なアマチュア考古学の苅谷俊介氏も日田の講演で磐井まで伝世されたこの説を唱えていた。
 もう一つ、天孫降臨の時に登場する猿田彦だ。この神は最後は、伊勢近くの鳥羽(止波)の海で亡くなるのだが、伊勢に行くと、伊勢神宮の内宮と外宮と猿田彦神社がある。伊勢の内宮の天照大神は、淋しいから豊受大神を丹後から外宮に迎えたとあるが、女性を女性が呼ぶのはおかしいという説があり、本当の天照大神は男だと根強い説があるのである。

 こうして考えてみれば、石井神社の御祭神は武内宿禰であり、天の日矛であり、素戔嗚尊=大国主神という事だ。また 私見では、武内宿禰は日田で殺された(出雲の祟り)可能性が強いとみている。(日田は出雲神話の一部、)

『古事記』には、出雲国造の先祖に当たる岐比佐都美(きひさつみ)というものが、青葉の山を飾って作り、川下に立て、ご馳走を供したところ、物言わぬ皇子が突然曰く。「川下の青葉の山は、山のように見えて山ではない。石いはくまの曾宮(そのみや)にオオクニヌシ(=出雲の大神)の祭場ではないか」としゃべる。とあるが 『古事記』のこの部分は日田の事で、山の様で山でないのは曾(その)宮は会所山?ではなかろうか。
 会所山こそ「大国主神(武内宿禰)を祀る一番由緒ある神社」ここに出雲の祟りの根元がある。その国譲りした先が「石井神社」。日本で一番の祟りの神社の根元だというわけだ。

 同じような祟りがある、奈良の三輪山の祟りを鎮める為に、太田田根子を探し出せと大物主神は夢に出てくる。そこで太田田根子を探し出すと祟りは鎮まった。
 三輪山の山頂には日向皇子が祭神され、九州に関連する皇子だ。5年前に、講談社の世界七不思議という本で、三輪山の麓にある纒向古墳の箸墓古墳に眠るは、日田の神功皇后(久津媛)かとカラー5ページで紹介された。
 邪馬台国畿内説の有力候補の箸墓に「日田神・ひだかみ」が眠るとは、考古学界も誰も想像しないだろう。
 祟りを鎮める「八幡神」の根元が宇佐でなく日田であり、会所山であり、飛ばされた石井神社なのである。りきさんは、その上からの封印された重圧からいつ解放されるのか・・・

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