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気づくための会コミュの必ず自分で考え、調べてみること

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人から聴いたことをすぐ鵜呑みにするということは、
誤った認識を招く危険を伴い、あまりオススメできない。

特に相手が善い人そうだからという理由で、
その人の言葉を信じる人がいるが、
善い人、悪い人なんてものは、
一時的な「状態」を指しているのであって、
その人の本質とは呼べないものであることに
気づくことをオススメしたい。

極端な例として、極悪人とされる人でも、
聖なる言葉を発することはできるし、
善い人を演じることはできるのである。

恐らくその人のことをよく知らない人がその言葉に触れると、
その人の印象までも善い人と感じられることだろう。

特に名声や人々からの賛辞を集めたがる人は
言葉の力というのを理解していて、
どの言葉を使えば、相手の心を自分の都合良く動かせるかを
知識として知っているのである。

言った者勝ちではないが、
適当でもいいからとりあえず話し、
その中から使えるなと思った言葉をストックしていくわけだ。

だからこそ、人の話を聴く時は、
話の中でどれがより正確で、
どれがより正確でないかを理解する為にも、
自分で確認することが大切なのだ。

結構、いい加減なことを平気で言っている人がいることに
気づけることでしょう。

コメント(6)

自分で調べる上で気をつけなければならないのは、活字になっているからといって,それが「正しいこと」とは限らないことです。
どんな情報に接する時も、最初の瞬間の感覚を掴めるようにしてください(あの方は「刹那の我」とお教えくださってる)。
既成概念や固定観念が「刹那の我」を,にぶらさないよう気をつけることが、「気付き」を多く得るためのファーストステップです。
活字になっているということは、
それを書いた人がいるということだから、
当然その人の感性、認識力、表現方法によって、
その範囲内で生み出されたもの。

夢枕獏氏の例え方を借りると、
ある絵画を模写すれば、ごくわずかであれ誤差が生じる。
その模写した絵画をまた模写すれば、また誤差が生じ、
オリジナルとの誤差はさらに大きくなる。
それを何度も何度も繰返していけば、
最後にはオリジナルとかけ離れた作品が生まれることだろう。
ってやつです。
また、その誤差(変化)に気づく為には、
極微の概念、視点があると便利だと思います。
(ついでですが、「涅槃の王」は面白い!)

つまり、問う人が何を求めているかにもよりますが、
できるだけオリジナルに近いところの情報に触れる方が
望ましいという理屈。

ただし、昔の文献などには、
文献となるまでに何十年も何百年も口伝によってのみ
その内容が伝えられてきたものが数多い為、
文献がオリジナルだ、信じるに値するなどと決めつけないこと。

何十年、何百年という年月の間に、
どれだけの人の中を経ているのかと思うと、
むしろその正確さやいかにと問いたくなってきませんか。
それを踏まえた上で、その情報を存分に味わうべきですね。

ところで、“刹那の我”とは何であるか、説明して欲しいです。
文章から推測すると、“ひらめき”みたいなもんかい?
そのまま引用。

『 何故、簡単な事がそれほど分らないかを考えてみると、こういう理由がある。それはベルグソンの所謂刹那の我にならないからで、勿論それを意識しないからでもあろう。彼の説によれば人間は誰でも物心がつき始めると、色々な事を聞いたり、伝説や既成学問を詰め込まれたりするので、一人前になるまでには、それが棒のようなものになって心の中にできてしまう。だから棒以外の説を聞いても、その棒が邪魔をして想念の中へそのままはいらない。だから想念の中が空っぽなら苦もなくはいるから直ぐ分るわけで、よく白紙になれなどと言われるが、全くその通りである。そうは言うものの棒などに気が付く者は殆どないらしい。だからこの文を読んだ人は、今からでも刹那の我となる事である。刹那の我とは、物を見たり聞いたりしたその瞬間、咄嗟の感じをいうのである。全く棒が邪魔をする間隙のない、ちょうど子供と同じようにする。よく子供が大人の言葉を聞き返す言葉に感心させられる事がよくあるが、全く棒の邪魔がないからである。
この事を彼はまた、直観の哲学とも言った。この意味も、歪めないで真っ直ぐにものを見よ、それが正しい見方であるというわけで、刹那の我に付随したものである。それからまた彼の哲学には、万物流転という言葉がある。これもなかなか面白いと思う。それは万有一切は一瞬の停滞もなく動いているという意味で、例えば去年と今年とは一切が何処か違っている。世界も社会も同様であり、自分自身の想念も環境もそうである。否昨日の自分とも、五分前の自分とも必ず違っているところがある。としたら昔からいう一寸先は闇という言葉もそれである。このように何でも彼んでも一秒の停止もなく流動してやまないのである。
従って、この理を人間に当てはめてみる時、こういう事になろう。何かの事にぶつかった時、去年の見方も考え方も、今のそれと違っていなければならない。大きく見れば終戦前と終戦後とは丸っきり違っているではないか。僅かの間に驚異的である。ところが多くの人は、何百年前のやり方や、何十年前の考え方が、先祖代々から棒のように続いているから、的確に現在を把握する事ができない。これを称して封建とか、旧い頭とか言うのであろう。つまり一切が流転しているのに、ご自分だけは泥水のように停滞しているからで、こういう人こそ世の中から置き去りを食ったり、不幸な運命となるのである。』
昭和26年(1951年)7月18日
「栄光」113号『再びベルグソンについて』より
そのまま引用はいいけど、もう少し読みやすく、
わかりやすくお願いします。

刹那の我というのは直感と理解すればいいのでしょうか。
それって、ひらめきでいいんじゃないの?

コップは空であるから役に立つ。
その中に古い水が満たされていれば、
新しい水は入らず、あふれ出てしまう。

そういう哲学が東洋にもある。
偏見を持たずに、物事に触れよということでしょう。
僕の下手な説明よりも引用が一番よい。
それが混ざりけのないものを直接伝えることになる。
そういう趣旨。

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