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海幸彦(ウミサチヒコ)コミュの伊豆手船

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防人の 堀江漕ぎ出る 伊豆手船 楫取る間なく 恋は繁けむ
さきもりの ほりえこぎづる いづてぶね かぢとるまなく こひはしげけむ

難波の堀江から 防人らが漕ぎ出して行く手船は伊豆造り
 
その櫂を漕ぐ手の休む間がないように

防人の妻恋う思いもやむことはないだろう

* 伊豆の手舟(てぶね):伊豆で作った舟
* 伊豆の手船
かつて伊豆は東海道、文字通り「東の海の道」で、幹線主要地だったのである。それに良質なクスノキ、タブノキ、スギ材などに恵まれ、丸木船がつくられる。縄文時代より伊豆は、造船の地だったのである。
 やがて枯野船、伊豆手船の大船が建造される。軽野船は全長三〇?、一〇〇?以上の巨船で、伊豆から難波まで回航され、応神天皇が朝夕使う清水を汲む業務に就いたと「日本書紀」にある。また、崇神天皇に献上した巨船の建造地は、西伊豆町仁科の入江で鍛冶屋浜の地名があり、造船に携わった製鉄工が住んだとされる。本文にないが、松崎町の伊那上・下宮の「伊那」は、造船匠の帰化人・猪名部氏に由来するという。

 そして軽野船の建造地は、伊豆市松ヶ瀬の軽野神社付近され、狩野川上流域にある。狩野の地名は、枯野→軽野→狩野に転訛される。それにしても山間が造船地になりうるのかの疑問に、良質な船材の自生地、建造船は川下りで海に送り出されたとする。現在の狩野川では考えにくいが、むかしは水量豊かで、川船が頻繁に上り下りし、筏流しが行われていた「川の道」であった、とする。
 また、伊豆手船は、伊豆でつくられた船および伊豆型船の意味で、すぐれた性能の船の総称となる。当時、東国から挑発された農民が遠く北九州に送られ、外敵に備える防人として国境警備にあたる。大和朝廷の水軍の根幹となり、北の蝦夷、粛慎、西の新羅との戦いに就航したに違いないと、推理する。
(「伊豆水軍」永岡治著)

コメント(3)

崇神天皇
BC97-BC27 紀元前
このころにすでに鉄を使った造船法があったのかな?
かじや=鍛冶ではなくて、楫(舵)の可能性は?

風土記、『鎌倉實記』に

准后親房の記に曰はく、應�壇傾銚淒�甲午、冬十月、伊豆の國に課せて船を造らしめき。長さ十丈、船成りて海に泛(うか)べしに、輕きこと葉の如くにして馳せき。傅へて云はく、此の舟木は日金山の麓なる奧野の楠なりといふ。是、本朝に大船を造る始めなり。

とある。
日金山は

駿河の國の伊豆の埼を割きて伊豆の國と號く。日金の嶽に瓊々杵尊(ににぎのみこと)の荒�炭欧鮑廚襦6縮遒煉逐�(みかり)は、年々國別の役(えだち)なり。八牧の幣坐(みてぐら)を構ふ。狩具の行裝を出し納(い)るる次第は圖記にあり。推古天皇の御宇、伊豆・甲斐両國の間に聖��太子の御領多かりき。此より獵鞍(かりくら)を停止(とど)めき。八牧の所別に、往古、獵鞍の司々、山の�辰鮑廚蠅董∧昇舛煉炭舛皮砲�。其の舊き法は断えて久し。夏野の獵鞍は、伊藤・興野に、年毎に鹿柵(かせ)の射手を撰びて行ふ。云々。

との記述。
「堀江漕ぐ 伊豆手の舟の 楫つくめ 音しば立ちぬ みを(水脈)早みかも」
(4460番・防人の歌)
訳
難波の堀江を漕ぎゆく 伊豆造りの舟よ
伊豆風の舟の 櫂を支える櫓杆(ろづく)のきしる音が
櫓杆(ろづく)の音が 今日もしきりに耳に立つ
音がしきりに立つは みお(水脈)が早いのか
乗せられ行く防人の 嘆きの苦吟か
        
注・楫は櫂のこと、櫓・パドル。パドルを支える船体に付けられた突起が櫓杆(ろづく)。ここでは「楫つくめ」と訛って呼ばれています。
きしむ音ですから、嘆きの苦吟を連想します。

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