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仏教を楽しむ会(^^)コミュの「仏教に救われた?」・・・(^^)

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仏教・・・・

「仏様に救われた」という言葉があります。

 「お釈迦様に救われた」という言葉は、あまり日常では聞きません。


 何方か、「救われました」体験をお持ちの方って、いらっしゃいますか?

 もちろん、私も体験しています。
  おいおい書いてみます。

    それでは、皆様、宜しくお願い致します。合掌(^^)v

コメント(48)

この話題、なかなかレスがつかんかったはずやね。
宗教としては根本的やねんけど、人が扱うには重すぎる...。
だから宗教には超越者が必要になるんやろうね。

ワシの立場はいつでも仏様のお手伝い。
余分な話を書いたけど基本は「1」の最初に書いた6行ほど。

--ワシの思ってる救いとは--
私の良いことも悪いことも、うれしい思いも悲しい思いも、優しい気持ちも憎しみの気持ちも、すべてひっくるめて私が私のままで仏様に肯定されていく心の領域。そしてそれを信じて生きていくこと。
救われたというより、仏教と出会ってよかったと思うことは色々ありますね。

今まで起きた苦しいこと悲しいことが消化不良起こしていたのが、苦しみ&悲しみとして噛み砕いて流れていく感覚
・・・・抽象的すぎてすみません。

自分は仏教とであってお坊さんや同朋と知り合って、苦しいときに、苦しいと言えて添ってもらえることをありがたく感じています。
>すえぞーさん、私の送ったメッセージ、開示してくれても良いですよ。
そのほうが、(有)さんには、解りやすいかもしれません。
私は、当事者のご夫婦に向って「救われましたね」という発言はしていませんよ。


>こふじさん、あおいさん
私は、自分が仏様(この場合は、うちのご住職様)に救われたという体験があったので、他にもそういう方がいて、仏教やお寺に対する誤解のようなものも解きたいみたいな気持ちが働いたのかもしれません。

  
 注)和尚様方、もしくは、仏教系の学生の方々には、先にお話しておきますが、私は、昨日から、生まれて初めて臨在録」を読み出したような人間です。私は、仏教に関しては無知と思って戴いて結構ですので、続きのお話をお聞かせくださいませ。
まあ、ワシの書き方が悪かったようやね。当の夫婦の心境は想像するしかないけどね、最初は我が子の死を負のイメージで捉えるしかできなかったはず。自分の周りにいる幸せそうに見える親子を見て「何で自分たちだけがこんな目に」という思いでいっぱいになるやろうね。親して我が子にしてやれる唯一のことが、ただ泣いてやることだけなんですから。
幸いにも人は忘れることができます。意識の中でほとんどを占めていた悲しみすら時が押し流してくれます。
それでもね、ただ忘れて悲しみを癒すのはイヤなんですよ。あ、いつの間にか自分のことになっちゃいましたけど、親としてね我が子を忘れてやるわけにはいかんのです。だから我が子の死を、真正面から見ながら生きていくために仏法が助けてくれるんです。

そこで人の基準ではなく仏様の基準で話しをしていくことで、仏法というものを受け入れてもらうんです。ほんまの仏様はワシが勝手に思ってるよりはるかに非情なんですけど、仏様にもたれて生きていくのが、ワシ的には楽なんですわ。
そやないと人様に勧められませんがな。
書き方で侘びを入れる事は、私もよくあることなのです。


仏教にも繋がると思いますけど
「解らない奴は、放っておけ」
ではなくて
「解り合おうとしない奴は、放っておけ」

仏教って、もっと寛大なものではないのでしょうか?
乞食坊主の生き方を選びたいという人達の気持ちが、解る気がします・・・。合掌(--)v
詰まるところ、我々は現実世界の中で、
どのように仏法と向き合うかである。

然るに、我々真宗坊主の「失」は、
あまりに観念論で語っている事に気付かない事である。
現実はまさにリアリティの連続である。
肉親が亡くなればとにかく悲しいし、
それを受け止め、いずれは受け容れる迄の期間、
相当な辛さを経験せねばなるまい。
以て、その間の思いたるや、やはり、
時間よ逆戻りしてくれて無理ながら「願う」ものである。
そこをどう共有していくかも、
坊主の一つの課題であろう・・・。

私は、伝道院に学んでいた頃、
常に教えられたのは「聖教に問い、聖教に聞け」。
果たしてこの言葉は、
時として諸刃の剣に成りかねない事を一連のレスで思い致した。

例えば禅門は「以心伝心経外別伝」と言いながら、
現実はそこで完結していない部分もある。

我々も然り、
殊に本願寺はあまりに文明に迎合し、
それが却って原理主義的に陥ってきている。

天台・真言に至っては極めてソフトに、
対人間として向き合っている。
学問仏教である南都六宗の諸大寺もまた然り。

それを我が宗門は平気で、
「自力作善」と断じてしまう・・・・。
それに対して、同じ真宗の他派はかなりソフトである。

自力と切る前に、
我等は如何様にても自力を離れられぬ身、
だからいよいよ他力本願は顕かとなる。

私は「世界で一つの花」をして、
阿弥陀仏の本願と聞く・・・・。
決して、生き様に整合性を求める必要はないと愚考する。

いささかならず支離滅裂で失礼しました・・・m(_ _)m。
師曰く

「迷い人ばかりが集まっていては、迷える事、更に多し」

 
>吉祥天女さん
>私は、当事者のご夫婦に向って「救われましたね」という発言はしていませんよ。

それはそうでしょうね。そのご夫婦には会われて無いでしょうしね…。
しかしながら、僕は、
>残ったご夫婦を救われたのは、すえぞーさんですね。
という発言を見たときに、類似体験があっただけに反応してしまいました。
過剰な反応をしてしまった事に関しては申し訳なく思います。
やっぱり書かずにおれないので書きます。

>仏教にも繋がると思いますけど
>「解らない奴は、放っておけ」
>ではなくて
>「解り合おうとしない奴は、放っておけ」
>仏教って、もっと寛大なものではないのでしょうか?

これ、「仏教の寛大さ」を自分の物差しで見てるように聞こえたのは僕だけでしょうか?
仏教が寛大であるのなら、仏様は「放っておけ」なんて言われませんよ。
そもそも「放っておく」なんて人間の考えでしょう。
僕はこう聞かせてもらっていますけどね。

「解らない奴は、 放 っ て お け な い 」
「解り合おうとしない奴も、 放 っ て お け な い 」

僕は解り合おうとしない人も、解らない人もたぶん放っておきます…。めんどくさがりなので。
でもこれが、人間である僕と、仏様との決定的な違いじゃないですか?

その人その人仏教に対する味わいがあると思うので、他人の仏教に対する味わいに対してごちゃごちゃ言ってしまい申し訳なく思いますが、一応、僕の味わいを書かせてもらいました。
↑仏の「絶対慈悲」たる所以を言いたかったのね(^_^)。

親鸞は聖道門に「すえとおりたる慈悲なし」と言った。
これは親鸞の90年間の宗教経験が言わしめたものであり、
我々真宗坊主はそこに胡座をかいてはいけないけどね。

以て、阿弥陀仏こそは人智を超えたところで、
慈悲のはたらきが顕現すると聞かせて頂く。
私も言い過ぎる所がありました。
(有)さんとマサルさん、NAMOさんとは、実際にお会いしておりますので、それぞれの仏教に対する真面目さは、私も真摯に受け止めさせて戴いております。

親鸞上人の教えを、きっちりと受け継がれていかれる方々であろうという事も含めて、尊敬しております。
それがなければ私も放っておけという事になりかねません。

考えすぎないように、苦の中に「光」を見出せるような「楽しむコミュ」に向上できれば、それが一番、楽です。

 次のトピで、お花でも眺めていってくださいね。(^^)
ほしぞらさん、御無沙汰です。

仰る通りだと思いますよ。
白熱するというのは、
それだけ真剣に考えているという事です。

当たり障りのない対応も良いかもしれません。
しかし・・・なのですよね。
それも時と場合による。

浄土真宗を譬えに仰せですが、
これはどの宗派でも同じだと思います。
否、もっと他宗派の方がある意味、
激烈かも知れません。

そういう意味では、
真宗坊主は議論慣れしていないような気もします。
結構、長い物に巻かれろ的な・・・ね。

私はそれを危惧しています。
別にそこいら中に、
喧嘩を仕掛けろって訳ではないですよ。

御指摘のように、
親鸞が顕かにした教えは、「悪人往生」の教えです。
これは、法然から受けた教えではありますが、
浄土教の特徴は「倫理的」枠組みを超えたところにあります。
多分、そこが余宗と違うところなのかも知れません。
「仏教を楽しむのに、議論は必要か否か」

で、トピでも作りましょうか?
私、しばし静観中です。(^^)
せっかく宗派を越えて集まってるんやから、もう少し話を根本的な所に持っていきませんか?

☆そもそも仏教における「救い」とは?
・原始仏教なら輪廻からの解脱でしょうか。ただし釈尊が解脱させてくれる訳じゃない。手ほどきや応援はしてもらえるけど自助努力の世界です。
人の悩み苦しみにはいちいち応えません。根本的な解決、つまり人でなくなることを目標とするのです。ということで「救い」は無いといえるのでは?さすがにここら辺の仏教は現代の日本人には受け入れがたいでしょうね。とりあえず知識として持っておくくらいでエエんぢゃないですか。

・大乗仏教(浄土教含む)では、新種の仏陀が登場して多種多様な能力を駆使して衆生(信者)を成仏さしたり、仏国土というパラダイス的な世界へ導き輪廻から解脱させます。ただし、ここで出てくる仏さんは自分で成仏しはったってことを忘れたらあきまへんで。
日本でゆう仏教とは、この辺が主流になってると思います。ここで言う「救い」とは死後の保証やけど、仏及び仏教との出偶いそのものともいえますね。

・あと、僧侶が成仏の手助けをするタイプもありますよね。追善供養とか、卒塔婆建てたりとか。観音信仰とか現世利益的な「救い」もありますので初心者ウケはしますよね。

・そして…。個人的に体験する「救い」ですね。

おおざっぱに書きましたので、皆さんで補完したり、おかしいところはびしびし軌道修正してやってください。
議論は絶対に必要だと考えております。
我々は「生死(しょうじ)いずべき道」を沙汰して、
この忍土で生きているのですよ。

先ず、これが仏教徒であることの真面目です。

天台の法華大会(広学竪義)しかり、
禅門の法戦式しかり、
法相宗の慈恩会しかり・・・・
(以上、論議法要)

全て、命懸けの法会と聞きます。
以上は儀礼としての要素が今や多分にありますが、
いずれにせよ、それぞれの宗派で、
必ず避けては通れない関門と聞きます。

その点、ここに在る我々は、
所謂ぬるま湯の中で仏法を語ろうとしている。
それは、本当に仏祖に恩に対する所業と言えるか・・・。

私はそこを問題にしているのです。
自らの宗門への批判も、
何もやみくもに語っている訳ではありません。

くれぐれも、
仏教とて宗教である限り、
諸刃の剣となりかねません。
以て、自分という存在そのもをして・・・・ね。

気楽に生きるのはそれでよしです。
でも、「ここぞ!」という時は、
チャンネル切り替えってことで・・・・。

稽首。
仏教を楽しむのに…という前提をつけられると、この辺それぞれ想いがあるんじゃないですか?
そもそも仏教を楽しむってことにおいても考え方違うと思いますし…。
仏教を論議によって楽しむ。
仏教を聞く事によって楽しむ。
仏教を知る事によって楽しむ。
色々あると思います。
それこそ極端な話、仏教を楽しむのは、間に「○○することによって」と入らない限り、人間である僕は楽しめないと思うんですよ。そう考えるならば、議論もまた楽しむ要素の一つであるかな…と。

それに、単純に議論に関して言いますと、こういう掲示板形式でのやりとりである以上、言葉で思った事などを書き込む訳ですし、議論になってしまうことは仕方ない事だと思ってます。

例えば、一つの考えが書き込まれました。
書き込まれた事に対して、「あー、ナルホド。」と、思われたならそれで良いと思います。
でも、この考え方に関してよくわからない部分があったら「どういうこと?」って聞くと思います。
さらにいえば、「僕はこう思うんだけど?」ということもあるでしょう。

釈尊が言葉によって人に伝えられたことから仏教は始まったと聞かせてもらっております。人に伝えるには(誤解も生みやすいものであるが)言葉を用いるしかない。とお考えになられたからでしょう。
そういう意味では、仏教を伝える上で言葉でのやりとりは大事なことだと思うんですよ。

まあ、人間同士が漠然と議論してたら吉祥天女さんのお師匠さんの言われる「迷い人ばかりが集まっていては、迷える事、更に多し」になりかねませんが…。

でも、その事に対してたとえ話で言いますね。
仏法を方位磁石に例えると、仏教に出会えた人は、そんな迷い人でありながらも、手にはしっかりと方位磁石が握られていたことに気がつかれた人であると思うんです。
論議は、その方位磁石が指した方向をみんなで確認しあうような行為だと思うんですけどね〜。
皆さんのコメント、とても面白く読ませて戴いております。

議論は好きなので、しつこいようですが、飲みさえ入らなければ真面目に加わりたいと思います。
(お酒の恨みは怖いのよ。根に持っててごめんね〜)

もともと、宗派を超えてということで引き受けたコミュでもありますし、私も、ここで逃げ出すのは「自分らしくない」ので、参加できるところには、コメントします。
鍛えられるわ〜、このコミュ。(^^)

                 続けて下さい。
人であって、人でなくなるということについてですが

私は、そういう和尚様方を存じ上げておりますので、私は、その表現の仕方も良いと思います。

数年前に臨済宗の僧侶の方でターミナルケアをされている岡山の和尚様の講演で「赤肉団上に一無位の真人有り」という言葉を始めて知りました。この一文の意味と同じような事ではないかと・・・。
こんばんわ、すえぞーですぅ。
(余裕がないので以下は標準語で:汗)

> ちなみに、すえぞーさんの<<つまり人でなくなることを目標とする>>
> というのは原始仏教も近代仏教も、それは言っていないと思います。

たしかに言ってませんけど、三衣一鉢の比丘の暮らしが理想なら自分に仏教は受け入れられません。日本にいる僧侶で本当に出家された方どれだけおいででしょうか。有名なところで酒井雄哉師とかの極少数です。出家とは親元を離れ住み込みで修業するという意味ではなく、一切衆生に向けられる仏の慈悲を学ぶために、まずは身内と他人という分別を捨てるために我が子すら捨てるという厳しい境界です。
また成仏し大慈大悲を身につけられても、それは我々人間の小さな精神で理解できる慈悲ではありません。おそらくは、私などの基準ですと薄情者にしか見えないかも知れません。私が病を受けて倒れても、大慈悲の仏なら早く娑婆世界を離れることができて良かったと喜んで下さるでしょう。

たとえ覚者であり聖者でもある仏陀であっても、我々人間(凡夫)の基準で量る限り、それはただの薄情者と区別は付きますまい。

人間とは「人である間」(期間)ではなく、「人と人との間」(関係)ではありませんか?
人との関わり、つまり社会性を持ってこそ人間ではないかと思います。
以上の理屈を受け入れてもらえるなら、原始仏教を「人でなくなることを目標」という言葉で表現しても良いのではと思います。それにわざわざ斯様な表現を使ったのも、大乗仏教との違いをより強調するためです。
ほしぞらさんお返事有り難うございます。

反論の順序がずれてますが、こちらは最初に書かせていただきます。

> 大乗だの小乗だのと区別したがるのも、本能そのもの。
> その自覚、認識、止観がちゃんとできれば、大乗だの小乗だの揶揄は無くなる。

自分ではおおむね大乗仏教に立場に立っておるつもりですので、いくぶん原始仏教について揶揄した表現は出ると思いますが、私の発言は原始仏教と大乗仏教と及びその他を分けて書いていますので、区別すること自体は前提条件です。とゆ〜か、善意を持って議論していただけるなら区別して下さい。

> フンベツを捨てるなら、そんな事にこだわるのもおかしいのでは?
> 出家であるか在家であるか、そんなフンベツはどうでもいい事ですし、僧侶であるか
> そうでないかも、たいした意味はないと僕は思っています。

あなたがどう思おうと、古代インドの仏教者達は出家なさったのですよ。もちろん目的は成仏であり、当時の成仏の基準で言えば輪廻から解脱することです。
親や我が子を捨てて出家するのは、すべての生命を我が子同様に慈しむためです。その為には「自分の子と他人の子」といった基本的ですが、ごく普通の差別(分別:ふんべつ)であっても成仏という目標には障害となり得ます。この手の思想は一子地といって大乗仏教ではおなじみですが、原始仏教においても近似的になぜ出家するのかの答えになります。それこそ赤の他人である別種の生き物にさえ慈悲をそそぐのが仏です。

> 人間は人間でしか無いのです。いくら頑張っても人間でしか無いと自覚する事も
> 大事な「悟り」の一歩では?
> また同時に、人間の空想や期待に反して、逆もまた同じなのですよね、
> つまり、いくら人が残忍で極悪非道だという行為をした人間も、
> やはり畜生には成らないのですよ。

このような考え方も一種の悟りと言えますが、仏教で言う悟りではなく諦念と呼ぶべきもので、宗教ではなくどちらかというと哲学的考察です。私がこの場で語る「人」とは生物学的形態ではなく、精神面における自覚的な「人」です。
極悪非道の行いをなすものは「人」の形態をしていても畜生同然であり、それこそが輪廻の原因となるのですから。(あ、念のため言っておきますが、“輪廻は仏教の前提条件”ですからね。コレを否定されると仏教の議論でなくなりますので…。)
そして精神面を徹底的に高める行為を極めた結果が成仏であり、釈尊は生物学的に人間の形態のまま仏陀となられたのです。つまり生物学的に人間であっても、精神面では「人」以上の存在になれるということです。そしてそのような高位の精神状態は凡人からすると、極度のニヒリズムであったり単に薄情者と見えたりするのです。

> <<三衣一鉢の比丘の暮らしが理想なら自分に仏教は受け入れられません。>>
>
> ↑それは仏教ではなく「たく鉢坊主ごっこ」ですよ。そんなコスプレして、そんな行為をするのが、理想なら、大変です。

そりゃあ大変だ。(笑)
三衣一鉢は暖かい地域じゃないとコスプレになりますね。本来の意味は自己の所有物についての分別を捨てるための修行です。ですからコレは目的じゃなくって手段ですね。それでも原始仏教の修行方法を忠実に伝えてる南伝仏教なんかじゃ正統派ですよ。ただ私としては、釈尊のやり方として一切否定はしない代わりに、自分には絶対できないと言う立場を取ります。(さむいし)

> ただし、人が死ねば人は人の習性本能を持たなくなる
> つまり、死ねばだれもが「成仏」。
>「成仏しな!」「成仏してくれ」は、死ねという意味。死ぬという事。

↑これだけは坊主として絶対に受け入れられません。
死ねば成仏なら、仏教は無用です。ただ死ねばいいんですから。くどいようですが死ねば生まれ変わるのであって、それを輪廻とよび仏教成立の前提条件の一つとなっています。死後や生存中にかかわらず成仏する(できる)のは、厳格な修行やら仏陀の救済活動があっての話であって特別なことです。

> 良き行いをすれば、仏のような生物に変化するというのが諸行無常の意味ですか?
> 出家して苦行し、欲望を捨てれば、特別な生物に進化すると教典は伝えておるのでしょうか?

大乗経典ではそのようなことが書かれてる部分ってありますね。ただし一世代で変化できるわけではないようです。何度も何度も生まれ変わり、無限と称しても良いような年月において功徳を積み重ねた結果としての成仏です。諸行無常とは良い意味で使うなら、紙のように薄い努力でも積み重ね続ければ、電話帳を人力で引き裂くことができないように大きな結果(変化)を産むと言うことです。

原始仏教では、そんな超越者のような成仏ではなく輪廻の外に出ることができる聖者を仏陀と尊称します。なぜ大乗仏教の仏陀が上級の生命体のように記述されるのかと言えば、それこそが仏教の歴史における「救い」の顕現なのです。それまでの修行者にしか開かれていなかった成仏への道でしたが、「人」として社会生活のしがらみの中に居る在家信者にも成仏の可能性を教示するための仏教の進化です。

『仏説般若心経』などで出てくる「空」の概念は面白いんですけど、コレばっかり言ってると「人類が勝手に考えてる仏」も「空」だし、「救済の対象である衆生」も「空」、「仏教」も「空」で「一切皆空」って書いてある経典だって「空」です。
大乗仏教では菩薩が成仏するまでに、一度はこの「空」にハマるって言ってますね。いわゆる「七地沈空の難」でしょ。

あのね、悪口で言ってるんじゃないですから。ほしぞらさんがそれだけよく勉強していらっしゃるってことです。
部分的にはかみ合わないところもありますが、全体的には素晴らしい考えをお持ちだと思いますよ。

(長文おつき合い有り難うございます。ワシも疲れたw)
活字って、疲れるし、また、仏教交流会でもいたしましょう。
皆さん、真剣で真面目ですので、特に問題は無いと思いますが・・・お釈迦様も、このコミュには苦笑されていらっしゃるかもしれません。
ここは、このまま続けて下さい。
管理人は、トピも作らなくちゃいけないので・・・合掌(^^)v
情熱的な人が多いので、議論をしたければしたい人が参加すればよし・・・

本気で修行したいのなら、お寺に行って師を見つければ、そのほうが早いと思いますが

         「真理の道も一歩から」(^^)v 
誰も、ほしぞらさんに責任を取って欲しいとも思っていないはずです。
そのような事をしても、何も意味がありません。
私は、実名で、仕事してます。
逃げも隠れも出来ない所におります。


正直さは、時に人を傷つけたり
人を追い詰める事もあります。
私が大切にしたいのは、220人のコミュのメンバーです。

ほしぞらさん、怒る事はとても、エネルギーが要る事なのです。管理人がいちいち怒っていては、コミュの皆様に申し訳が立ちません。

個別のメッセージでは、怒っている時には「私は怒っています」と書いて送ります。議論というのは、お互いの立場に立って考える事も必要だと思います。

激論はあっても仕方が無い事だと思います。
ネットの中でも、相性はあるのです。
コメントは、自分が間違っていないと思っていれば、残されていて良いと思います。

個別のメッセージは、個別のもの。
返事はもう書きませんが、どうぞ、気持ちが納まらないのでしたら幾らでも、私のアドレスにお送りください。お伝えしてあるはずです。
ちょっと見ないうちにえらい荒れてますなあ。

>ほしぞらさん
こうなると議論どころじゃありませんね。もともと現代での仏教は多様性がありすぎて、正解は人の数だけあることでしょう。
もっと根本的には釈尊が相手に応じて対機説法してるんですから、悟りや救いにしてもきっと何種類もあるのでしょう。

私にはほしぞらさんの書き込みが、とても一方的に感じられます。議論ですから「違う」と感じたら反論してくださればいいのですが、「間違ってます」だけで、肝心な理由を書かず、その後にはテーマからずれた自説の展開になっています。
言葉遣いくらいはお互い様だと思うので、別にきついとかゆるいとかは言いませんが、お話の風呂敷を広げすぎては困ります。
このトピックは「仏教に救われた?」ですよ。「仏教についての議論のあり方」とかその他の議論なら、管理人さんが勧めてくださってる様にご自分でトピックを立てればいいのですよ。
『仏教に救われた』→「自分の歩みは自分らしく確かに出てます」

法務に日々取り組みながら、法話もしながら、
具体的に・・・

仏様の「はたらき」を感じたり、「心の方向転換」が出来て穏やかになれたり、自分や周囲の人を大事に出来たり・・・。

応病与薬で法務に励む、「よか話聞かせてもらいました」とか「簡単な言葉でわかりやすかった」とか「そのようなみ教えね」と言われるのが98%ですね。良いことばかり言ってるようですが、2%ぐらいは「なんで?」「どうなるとね?」ですね。
明日は少し昔に「差別発言」を指摘し、言い合いをしたご家庭に月参りです。その方が今は、病床で会えません。寂しくもあり、まだまだお話しもしたいのですが・・・。


『仏教に救われた』というのは、仏様の「はたらき」にふれてるかどうか。自覚しなくても良いと思います。
先程、ほしぞらさんから、「皆様に申し訳ないので、お詫びさせて下さい」というメッセージを戴きました。
私も、威圧的な言葉尻になっていたのかもしれません。あまり顔文字とかも使わないし・・・(^^;

 このコミュは、多分、仏様が守ってくださっているから、力を併せれば、大波小波も乗り越えて、無事にお浄土に辿りつけるでしょう。
         楽しんで下さいね〜。合掌(^^)v
はじめまして。
昨年まで奈良のとある鎮守社(お寺をまもる神社)に助勤していたasa-shipと申します。
私の場合、仏教に救われた…というか、エネルギーを頂く感じです。死を見据えて、(完全にそうできているはずはありませんが)どう生きるか?
悩み、苦しむ中で、頂く縁を大切にして、いかにあらぶる気持を穏やかに保ち、見つめるべきものを見るか。
唯識をとくお寺でしたから、「世界は意識のつくりだすもの」という立脚点があるようです。(私見ですが…)
悩みも苦しみも己の意識がうみだすもの。意識をかえれば、違うみかたができる。

現実、それは容易いことではありませんが、心穏やかならぬとき、ふと思い起こし、道を正すよう心がけています。
*****追記*****
お水取り・花会式をご覧になったことはおありですか?
お声明をおききになったことはおありですか?
専門に学んでいるわけではなく、なんとなくほとけさまに有り難い、と思うくらいの私です。大したことも申し上げられません。
でも、練行衆が己の身をなげうつように、ひたすらほとけさまに懺悔(ザンゲと濁らず、サンゲ)を奉るのを堂内できいたとき、ひたすら涙が出ました。
ああ、ここで、こうして、ながいながいながい間、知らぬうちに祈ってくれていたのか、と。
そのいのりをうけとめて、みまもりを受けていたのだ、と。
小さくねじまがった私を最初から赦して、輪廻するとも極楽があるとも知れぬこの道を照らしていただいていたのか、と。

あくまでも、あくまでも私見です。拙い私の感情です。

でも、そのとき、あの場にいあわせたことをこの上なく、冥迦に感じました。
asa-shipさん こんちわ。

私の場合、学問のほうに力を入れてると、どうしても法要儀式を軽視したり、なおざりにして横着なことをしかねません。月参りでも法話さえしっかりやってれば、読経は適当でもいいやって考えてた時期もあります。(はっ!懺悔せねばっ)

法要儀式の良いところは、時間空間を共有することの心地よさでしょうね。特別に訓練をつんでいない一般の参拝者でも、僧侶たちが作り出す仏徳讃嘆の荘厳(施設を含む雰囲気、空気)の中に身をおくことで参拝者自身を含めた荘厳が完成されるさまを体験できます。たとえ月参りの短い読経でも、お内仏と参拝者と僧侶で作り出す荘厳があると思いますよ。

もちろん人によっては、こういった体験も救いになりうるのですから、僧侶の立場で言うと責任重大ですねえ。
岡ボーズさん こんちわ

> 『仏教に救われた』というのは、仏様の「はたらき」にふれてるかどうか。自覚しなくても良いと思います。

3回ほど読ませていただいて、やっとわかりました。最初は仏さんから離れて仏教の救いなんてあるんかいな?って思ってましたけど、先にasa-shipさんへのお返事を書いてたら気がつきましたよ。
たとえお釈迦さんと大仏さんの区別がつかない人でも、儀式を通して感動を得る場合だってありますよね。あるいは本当に誠実な僧侶(絶対ワシぢゃ無いわな:笑)と出会ってその姿や行動に救いを感じたりとかね。
こういった場面なら仏さんがどうのって話がなくっても、当人にとっては「仏教に救われた」が成立しますし、仏さんの「はたらき」だって有るとか無いとか言う必要ないですわ。

って岡ボーズさんのプロフ見してもろたら、同じ宗派でしたね。とゆ〜ことは三べんも読まんかて、一ぺんでわからんとあきませんね。
>たとえお釈迦さんと大仏さんの区別がつかない人

すみません・・・
素人の方も多いので、区別説明してもらえますか?
あら、説明いりますか?
なにぶん新参者ですので、コミュの空気がわかってませんでした。

☆お釈迦さん
仏教の開祖というか始祖というか、地球上で最初に“成仏した”とされる人の尊称。
2500年位前のインド亜大陸北部の王族(シャカ族)出身のゴータマ・シッダールタさんのことです。なにぶん生身で成仏なさったほどの聖者(しょうじゃ)ですから、気安くお名前で呼ぶのももったいないので、シャカ・ムニ(シャカ族の聖者:釈迦牟尼)仏、またはブッダ(仏陀)と尊称でお呼びします。

☆大仏さん
巨大な仏像に対しての親しみがこめられた俗称。有名な奈良の大仏は盧舎那仏(るしゃなぶつ)、鎌倉の大仏は阿弥陀仏(あみだぶつ)で、それぞれ違うモデルです。
通常は坐像を連想しますけど、自由の女神みたいに立っていても大仏ですし、観音菩薩の大仏もあります。

☆仏像
仏様の像に限らず、仏教の登場人物や明王、天(仏教で言う神様)、菩薩などをモデルに作った像。材質は木・石・金属・コンクリートとなんでもありです。
仏像の例:鎌倉の大仏、四天王、不動明王、観音菩薩など。

--
こんなんやったら別にトピック立てても良いかもしれませんね。
新トピック
【初心者質問大歓迎】仏教や仏教語をわかりやすく説明するコーナー【うんちく披露大歓迎】

即答できそうな質問例
・坊さんはなぜハゲなの?
・なんで正座やのっ!痛いやん。

苦労しそうな質問例
・空ってなによ
・仏教って本当なん?
・坊主が肉食ってる!?彼女おるってぇ!!?

みんなよってたかって楽しく答えてみよう。
異説・反論はもちろんOKだけど、質問に対してレスをつけてるって事を忘れないこと。
(反論は根拠を明確に&初心者にわかるように)
よ〜く考えたら、このコミュ自体が上に書いたトピックとおんなじやん。

ふところ広げすぎで企画倒れみたいです。(汗)
あまり深く考えないように、気楽にやりましょう(^^)v
ま、楽しく議論せさてもろたです(^_^)。

浄土じゃ、みんな仏になっちまうから、
娑婆にいる間に出来ることですからね〜笑。
そうですね♪

やっぱり私が一番かわいい。
やっぱり私の家族がかわいい。
やっぱり私の居場所が一番いい。
私の執着みえてきた。
そんな私も日々刻々、お浄土へ近づかせてもらいよります。
明日 新しいお薬師様の御札と交換するのですが別れがたい泣き顔

この1年ホントお世話になりました泣き顔泣き顔
古典マルクスでマルクス理解が止まってるやつは知性ゼロのウイルス、ジョンローマ(ハーバード数学首席)置塩、森嶋が作った数理マルクスを学びなさい吉原や松尾、塩沢がいい仕事してるからまずそれを学び聖書仏典ガンジー孫子ロスチャルド、織田信長オールスター、マルクスエンゲルス、ウエーバー、ゾンバルト、デュルケム、ゴフマン、パーソンズ、ルーマン、小室、宮台、橋爪、副島、大澤、シケタイの伊藤真をまず読みなさい。これが幼稚園

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