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4代目 桂三木助コミュのはじめまして

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私が故人を生で見た最初で最後の姿は、亡くなる前の2日前、1月2日の「浅草演芸ホール」での顔見世興行。公に姿を表した最後の場所でした。

何年振りかで見た彼はすっかり昔の毒気がそぎ落ちて、何と謙虚で垢抜けた粋男っぷりの噺家に成長した事だろう・・と感嘆していたばかりでした。
ただ、TVでこぶ平と共演していた頃の嫌なイメージのためか、客席から拍手は少なかった。
彼の後に出て来たこぶ平(現・正蔵)が、もう余りの大人気でもみくちゃにされてしまうという、その明と暗がいまだに忘れられません・・・。

稀代の名人の名を襲名しながら、虚飾の栄光をひた走る男もあり、
真の芸に目覚めてしまい、自ら課した重責に自壊しまう男もあり。生きてれば、志ん朝亡き後の江戸落前語の穴を埋められたのは、彼をおいて他にはいなかっただろうに・・・。

メディアには露出する機会もなかったその愛すべき一面は、
吉川潮さんのエッセイ「わが愛しの芸人たち」に詳しい。

悔やんでも仕方のない事だが、生きてて欲しかった・・・。

コメント(12)

はじめまして
こういうコミュがあったのですね。
三木助さんは、これまでずっと気になって仕方のない人でした。もう後少し時間がたちかれてきたら、今の正蔵さんよりいい味だしていたかもしれと思います。

そういう意味で、惜しくてならない人だとすっと思っていましいまた。生真面目さが、まだからまわりしたよね。でも年齢がくるのをじっと待っていたら、年齢ともにあじになって、自然とくぁがむけていたのに。

そんな思いを共有できる人がいてうれしいです。
はじめまして。
私も三木助さん大好きでした。落語については世間並みの知識しかありませんでしたが、落語を見に行きたい(とゆうか彼を見たい!)と思っていた矢先の訃報でした。

何で早く見に行かなかったんだろうと後悔の日々です・・・


今でも三木助さんのことを忘れた事はありません。あの笑顔が大好きでした。
志ん朝も、大看板の息子であった。そして、かれも、若いころつまらないテレビ番組にで倒して芸には目覚めていなかった。それが、あるときからブラウン管から姿を消して精進した。

三木助も、なんと言われようと引っ込んで、精進する期間があったならと思う。その引きができなかったのかなーと思う。器用ではなかったのだな。

こぶへいは、ある意味で楽だ。親父の三平は、ある種コメディアンに近い。型がない。なにやって笑いをとっても許された。
ところが先代の三木助はしっかりした型がある。何でもいいから笑わせたらいいというのでは、周囲が納得しない。

もう少し、三木助襲名を遅らせていたらよかったのではないかとも思う。たとえば、今はなき10代目の桂文治師匠は若いころは「こよし」、その後も「しん治」で60近くまで通していたのではないか。「文治」を名乗ったのはなくなる前の15年ではなかったか。

関西では笑福亭仁鶴がいまだに若いときの名前のままだ。桂三技も昔の名前のまま。みんなマイペースでやったいる。三木助は名前を継ぐのが早すぎた。彼にとってかわいそうだ。ちゃんと、後見人のような人が、よく見ていて、襲名にSTOPっをかけてやるべきだったのではないか。だって、10年、20年の時たったときにいくらでも襲名のチャンスはあったはずなのだから。 名だけが先行してしまい、いい芸人を潰してしまい惜しくてしかたがない。
管理人さんへ
こんにちは
勝手に話を展開しています。

ちょっと、誰かがいいアドバイスをやれば、かれはあの世へいかなくて済んだ筈ですね。

惜しい奴だけに惜しいね。
はい・・・
いい人って早死にに思うのはわたしだけでしょうか・・・
何本かのカセットが今も手元に残っています。
小朝さんの若いころの物と共に、私の愛聴する話です。
管理人就任者が出たんだ

三木助氏と言えオレの知人と立教高校で同じクラスだった訳だけど
選挙応援にも来てましたね。

真打襲名の時にやった 湯屋番が好きでした。

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