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お城めぐりしよう!コミュの堀(濠)部

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おかげさまで、三代目堀(濠)部も溢れんばかりとなって参りましたので、四代目に突入させて頂くこととなりました。皆様、いつもご投稿頂き、ありがとうございます。

初代堀(濠)部トピはこちらです。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=2879082&comm_id=22348

二代目堀(濠)部はこちらです。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=21078397&comm_id=22348

三代目堀(濠)部はこちらです。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=37827861&comm_id=22348

堀にまつわるお話であれば、写真がなくても構いません。
城郭・陣屋に関わる堀であれば、水堀、空堀、堀切など、その形状を問いません。横レス、おおいに結構です。感想だけでも結構ですから、ぜひどしどしコメントをお寄せ下さい。

巻頭写真は、今回は縦版で揃えてみました。左から、

八代城(熊本県)
江戸城(東京都)
飛山城(栃木県)

です。

コメント(400)

山中城の障子堀の写真が、重くてアップ出来ないバッド(下向き矢印)
 下総国佐倉城です。
 詳しくは以下を御参照下さい。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981540748&owner_id=250900

左;水堀
中;馬出空堀
右;三の丸空堀
近江 木浜城
木浜は、古来より琵琶湖水運の要津として栄えたところで、京極道誉の木浜役所が置かれたところであり、軍事的な要衝で進藤山城守の居城と伝えられている。
六角氏との結びつきが強く
六角氏の将で後藤氏と共に肩を並べ、佐々木(六角氏)の両藤と呼ばれており、六角定頼が管領代として13代将軍義輝を日吉大社で元服させるに際し宮司樹下邸の修繕奉行をしている。
しかし、永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻により六角承禎・義治父子が甲賀へ落ちのび、進藤氏は信長の軍門に入り、元亀4年(1573)の朝倉征討や天正4年(1576)の石山本願寺攻めに加わっている。
元亀3年(1572)には大原賢永の家臣が木浜城を焼き払おうとして失敗し、野洲川原で火刑に処されたと伝わる。
近江 小浜城
城主は↑と同じ後藤氏
野洲川下流東岸の環濠集落小浜集落中央付近に築かれ野洲川の本流と支流(現在消滅した北流)に挟まれた三角州に位置し、野洲川から琵琶湖へ至る湊が発達していた。これは木浜(このはま)湊に次ぐ要津。
<観音寺騒動>と言う事件が有ったそうで
六角氏の代替わり六角定頼→義賢に代わって父より大きく成りたいと思ったのか
畿内掌握間直の三好長慶と抗争して、中央政界で敗北。
永禄3年(1560年)8月中旬、義賢は大軍を率いて浅井氏を討とうとしたが野良田の戦いで浅井長政に敗北。
六角義賢の六宿老筆頭(後藤秀勝・三雲成持・蒲生賢秀・平井定武・目賀田綱清、進藤貞治)で「六角氏の両藤」と称され後藤氏親子暗殺を家臣の反対を押し切って決行。
結果、家臣にあいそうつかれて居城の観音寺城を追放<観音寺騒動>
その後、許されたけど信長上洛時の戦いで支城の箕作城・和田山城そして観音寺城も落城、義賢・義治父子は甲賀郡の石部城へ
その時にダメな城主を見限って(父、兄殺されていますし)後藤氏は、信長方にお引越ししたみたいです。
そしてその後の六角氏は、腹いせに↑の木浜城に放火し様として捕えられて野洲川で焼殺されたとか。


近江 南津田館 近江八幡城山の南裾
この辺りの集落が環濠集落だったと思われます?
近江 北津田館 近江八幡城山の北部
この地で天智天皇が食されて命名されたムベの実は今でも天皇家に献上されているとか
アケビの一種です。石碑(写真3)
伊賀北部 峠東城 屋敷城
パット見て、はじめこれのどこが城なの?ってよく見てみると
手前の窪地はL字型の空堀、後方土塁もありでお城です。
写真 全体、 空堀、 後方土塁
【城名】榎並氏城 平城
【所在地】三重県伊賀市 伊賀上野城から西南西に3km位の山裾
ヘルパーハウスの入り口付近に土塁の残骸と堀の名残のみが残ります。

写真 全景、 堀跡、 土塁跡
備中国・足守陣屋の堀です。
豊臣秀吉の正室・北政所(おね)の実兄の木下家定が関ヶ原の合戦後にここに移され、その後その次男の利定が大坂の陣の戦功でもって足守領有が確定して、子孫代々明治までここで続きました。
堀は正門(大手門)の前辺りだけクランクに曲げられています。
金堂陣屋 陣屋
滋賀県東近江市五個荘金堂町
貞享二年(1683年)に本多忠平が大和郡山城主となった際、近江に4万石の所領が与えられ蒲生・神崎・坂田の三郡の所領を管理するために置かれた陣屋
明治5年に廃止され、敷地は民家に払い下げられましたが、長屋門は西側の勝徳寺に移築されています。
7.垣見城 平城 堀川のみ
滋賀県東近江市垣見町
垣見城は築城年代や築城者については定かではないが、永田栄俊が垣見在住の記録がある。また応仁の乱では京極・六角氏がここで戦い、六角氏再興の戦いではこの城に籠城したが落城した。

 写真2,3 一帯が姫屋敷
9.甘露城 平城  水路、案内板
滋賀県彦根市甘呂町1026(荒山城の北)
河瀬氏の支城のひとつ。南北朝時代、河瀬大和守高秀による築城。
河瀬氏は河瀬城を拠点に犬上郡に大きな勢力を持つ一族。
元は荘園の荘官であったが武士化して勢力を拡げ、中世末期には大神主として多賀大社の実権を握っていた。(大社ですし、私感ですが近江一の神社)
本城である河瀬城の築城ととともに蓮台寺城・甘露城・大宇城を築いて支城網を形成し、戦国期の甘露城の城主として「河瀬大和守秀宗」の名が確認できる。
佐土城(構居) 平屋敷城 堀(道路部も堀跡) 現状お寺
兵庫県姫路市別所町佐土(福乗寺)
城主は妻鹿孫次郎貞祐八世孫の清水小左衛門久勝
国分寺城(構居) 平屋敷城 堀 現状原っぱ 
兵庫県姫路市御国野町国分寺(国道の東西に掘りの名残)
城主は御着城小寺氏の支流原田某、庄山城の戦いで討死
才城(構居) 平屋敷城 堀川 現状お寺 
兵庫県姫路市広畑区才(随應寺)
高橋城 平城(館) 現状寺 堀川
資料が出てこないんですけど下坂氏城同じ地域の土豪だと考えられています。
下坂庄は下坂中、大戌亥、高橋、下坂浜の四ヵ村からなっている。
村城 平館城 堀川のみ 石碑
滋賀県東近江市種町
かつては、大同川と土塁・空堀で囲まれたお城。
種村氏によって築かれた。種村氏は、六角高頼の次男伊豆守高成がこの地を領して種村氏を称した。
永禄十一年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛の軍を興し、観音寺城の六角父子と対立、支城箕作城を一晩で落とすと、和田山城や観音寺城の将兵は逃散した。このとき、種村城も織田勢に占拠され、そのまま廃城となった。
再訪問時に西の橋の袂に石碑発見。
永久寺城 平館城 現状お寺(養善寺) 近くに堀川?
滋賀県長浜市永久寺町一丸
速水城 平館城 堀の名残のみ
滋賀県長浜市湖北町速水(伊豆神社)
速水氏代々の居館で、六角氏、浅井氏に仕え羽柴秀吉に仕えた。秀吉に仕えて黄母衣衆の一人となった速水守久が著名。
今西城 平館城 土塁、堀川
滋賀県長浜市湖北町今西
京極氏の家臣今西氏代々の居館
飯開神社城塞 平寺社城塞 土塁、堀
滋賀県長浜市湖北町延勝寺
保延寺館 平館城 土塁 堀
滋賀県長浜市高月町保延寺(白山神社)
船木城 平館城 湖城 曲輪、堀跡 <高島七頭>
滋賀県高島市安曇野町北船木
高島七頭の佐々木能登守(山崎氏(能登氏))の居城とされます。
高島七頭(たかしましちかしら):佐々木高信は佐々木信綱の次男で高島氏を称し、高島氏は、高島、平井、朽木、永田、横山、田中、山崎(能登)の七家に分かれ、高島七頭と呼ばれるようになりました。総領家が高島家で、越中守を称し清水山城を居城とし、朽木城、永田城、横山城・武曽城、田中城、船木城、五番領城などが高島一族の居城として築かれました。
三上陣屋
滋賀県野洲市三上
元禄11年(1698年)遠藤胤親によって築かれた。 元禄5年(1692年)3月郡上八幡城主遠藤常久が7歳で嗣子なく没し、幕府によってお取り潰しとなったが、先祖の遠藤慶隆の功績が認められ、一族の遠藤胤親を大垣新田藩主戸田氏成の養子とし、常陸国・下野国に一万石を与えられて存続した。この胤親の所領が近江に移され三上陣屋を構えて三上藩となったそうです。

写真3 ここも陣屋跡ですが昭和に入ってから天皇家の神事に使うお米を栽培しているそうです。
越前 福井城
福井県福井市大手(福井県庁)
徳川家康の二男、結城秀康の福井藩45万石→明治まで32万石のお城です。
福島県白河市の
白河小峰城のお堀と石垣です
ちょっと櫓も見えます
☆ 城クラスの堀を持つ陣屋
伊予 西条陣屋
愛媛県西条市明屋敷(西条高校)
四方水堀で2方向がこの幅の水堀です。

寛永13年(1636年)に伊勢国神戸の一柳直重が築城。三代目で領民苦しめて改易、
寛文10年(1670年)紀州藩 徳川頼宣の次男頼純が西条藩に入封し、以後10代続いて明治に至る。
写真3は大手門
>>[389]
岐阜城にもお堀あったんですねぇわーい(嬉しい顔)
次回訪問時には探してみますネ!ぴかぴか(新しい)
>>[390]
山麓の信長居館跡の発掘作業が進んでいますので、今後、新たな発見があるかもしれません。
大和 結崎環濠(ゆうさき)
奈良県磯城郡川西町結崎
現状個人宅で元々は四方堀だったと考えられるが現状は1.5面の水堀
大和 上窪田環濠 国指定重要文化財
奈良県生駒郡安堵町大字窪田133
二重堀に囲まれた個人宅
関東より足利尊氏に従い大和に入部した足立氏を出自とし、のちに窪田氏と称した。
筒井氏と婚姻によって勢力を拡大し、中殿と呼ばれるようになって中氏となって現在も在住。
崩壊寸前ですが多聞城からの移築門が西側に在ります。

*こうして遺構は消えて行きます。
吐田館
奈良県御所市豊田
主郭部は一反の正方形の水田です。

写真1 国土地理院からの地図  *樽原館は間違いです。
  (三方、コの字型に水堀、北側は下り斜面です)
写真2 西側の水堀
写真3 東側のL字型の水堀は埋め立てられて更地に(白い砂利部)
    水堀って管理が大変そうですから仕方ないんですかねぇ涙
 日本百名城にカウントされている足利氏宅跡〔史跡〕、即ち栃木県足利市の真言宗大日派本山金剛山鑁阿寺の水堀です。
 下野国足利城〔足利市指定史跡〕本丸と二の丸の間の堀切です。
 足利城については以下を御参照下さい。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1984173469&owner_id=250900
 上野国館林城です。

左;外濠
中・右;濠の役割を果たした城沼(ジョウヌマ)
上野国小泉城です。

左;外濠
中・右;内濠

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