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雲の子ども 絵本コミュの雲を見つめる子ども(前編)

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写真:Yuri(雲)、大久保聡(表紙)
絵:サンチェ 文:平田 遼

コメント(11)

前編1:
マークに初めて出会ったのはシンガポールのリン家だった。
8歳だったマークが生まれて初めて笑顔を見せたはそのときだ。
それから、もう5年余りが過ぎようとしている。竜彦(たつひこ)は東京のビルの窓から外を眺めながら、その日のことを思い出している。
すぐ目の前にある都会のビルの群れのずっと上にある空を彼は見ている。
空では、乳濁したような雲が群れをなして空中を泳いで流れてゆく。いくつもの雲のかけらが現れ小さくなり消えてゆく。その雲の遠くの更に向こう側にはまだ光を失っていない明るさと青さが水平に伸びている。その彼方にはまた別の雲たちの群れが浮かんでいる。水中から海面に漂う藻を眺めているようだ。
雲は風に流されて窓の右側から現れて左側に向かう。過去の時間の中に消えてゆく。
目をつぶって今見失ってしまった雲を竜彦は思い出そうとする。
すると、あのころ幾度となく見ていた雲の姿が思い浮かんできた。幾度と言うよりは何時間も何時間も見ていた雲の姿だ。
毎日のようにマークと竜彦は雲を眺めていた。
前編2:

マークはリン家の知的障害をもった8歳の男の子だった。家族は父親のリチャード、母親のメイ、小学三年生の兄のジェームズとマーク。それに住み込みのメイドのアニーと合わせて5人が同じ家に住んでいた。竜彦はもともとジェームズの数学の家庭教師だった。
マークが笑ったあの日、竜彦はジェームズに数学を教えに来ていた。
勉強を終えてジェームズとお茶を飲んでいるときにマークと引き続いて母親のメイが部屋に入ってきた。
見た瞬間は賢く見える顔をした子供だ。
でもしばらくすると、あまり表情がないこと、まなざしが宙を浮いているようだと分かってくる。

マークがどこか障害をもった子供だと気がつく。

でも、小さい子供になれていない竜彦はちょうど隣の部屋でトルコ行進曲が鳴っていたということもあり、さしたる思いもなくマークを抱えて音楽にあわせて身体を動かした。
前編3
そのとき マークがにっこり笑った。
(写真 smilesday )

それが母親のメイを非常に驚かせた。・・・それからしばらくして、彼女はその場で泣き出してしまった。

母親のメイはそれまでの人生でマークが笑う表情を見たことがなかったのだ。
数日後、竜彦はジェームズだけでなくマークの家庭教師もお願いされた。ほとんど何もしゃべれず、ほとんど何の表情も出さないマークと時間を過ごすと言うアルバイトをすることになった。家庭教師と言うよりベビーシッターと言う方が実態に合っていると思う人はいるだろう。

しかしメイが期待しているのはそうではなかった。メイの中に、笑っているマークを抱きしめたいという欲望が生まれたのだと思う。どうしてもマークの笑顔をまた見たかったのだろう。マークに生きる喜びを教えたい、マークと生きる喜びを感じたいという気持ちが込められているのだと思っている。だからベビーシッターではなく家庭教師(Home Tutor)なのだと思う。しかし、その日は二度とマークの笑顔を見ることができなかった。
前編4:
最初はリン家で時間を過ごしたけど途中からはマークを連れて外に出かけることが多くなった。散歩することが多かったけど、その後でオーチャードのような繁華街のコーヒーショップや砂浜につれていくことも、川沿いのレストランで休憩することもあった。水族館やバードパークに行くことも多かった。

(写真 townshe)
前編5:
すぐ分かったことだが、外にいるとき、少し上向きになっているマークのまなざしの向こうには空があり雲が流れていた。空が見えるときにはマークはいつも空を見つめていた。

だからマークと竜彦は一緒に何時間も何時間も空の雲を見ていた。マークには「飽きる」ということがないので、昼食が終わり夕食をとるまでの間ずっとと言うことになる。
(写真 AA2)

夕食はよくボートキーにある大椀粥(スーパーボウル)と言う中華粥(かゆ)専門店でとる。お粥屋に来るのはお粥がいろんな面で安心だし栄養があるということもあるが、それ以上においしいからだ。
マークはスプーンを使ってちゃんと食べる。お粥を一生懸命に食べているマーク。笑顔はないけどおいしいと感じているはずだ。マークはお粥が好きだと竜彦は思っているが、本当に好きなのは竜彦の方かもしれない。
前編6
昼食が終わってスターバックスの道路にはりだした椅子(いす)にマークと竜彦は腰掛けている。
(写真 Ryousannhethree、Hyousi)
マークは椅子に座ったまま、空を見上げている。青い空には白い象の形をした雲が浮かんでいる。
すこしずつだが雲は動き形を変えてゆく・・・・
夕方になるとすこしずつ空が赤みはじめてきた。
その赤みをおびた色が雲に映えている。


少し前にマークが席に座ったまま、おしっこを漏らしたので竜彦はマークのパンツを履き替えさせた。その間にいつものウエイトレスが座席を拭いてくれていた。尿で汚れた床はバケツの水で流されていた。初めて同じことが起きたときは彼女も少し慌てたけど、マークのことをすぐ理解してくれた。彼女がマークのパンツを履き替えてくれるときもある。そして彼女は、ふたりがスターバックスのそばを通りかかると必ず、お店に寄ってくれるようにと声をかけてくれる。だからオーチャード通りに来たときはマークと竜彦はスターバックスに寄ることにしている。
表紙7
ふたりは砂浜にいる。昼食を終わったばかりだ。竜彦の目の前には海が見えるけどマークはもっとさらに上の方を見ている。
雲だ。真夏の海の上の雲という言葉が日本語では一番、この情景をうまく説明していると思う。でも、シンガポールはいつも夏だ。時々、その雲の下をかもめが飛んでゆく。マークの目にはかもめは見えているのだろうか?マークの目をのぞいて見ると、そこにかもめが飛んでゆくのが見えた。

( AA3)
砂浜ではマークがおしっこをしてもパンツをはき替えさせる必要がない。シンガポールの砂は暖かいのでおしっこはすぐ乾いてしまう。大便をしたときは、砂の中に埋めてしまえばよい。すごく楽なのだ。ただ日向は暑いので日陰でないと何時間も座っていられない。
前編8
海辺沿いの帰り道。竜彦は立ち止まっているマークのそばにいた。じっと空を見たまま立っているマークのお付き合いだ。夕焼けの時間が過ぎていく。マークの目線が向いているのは黄金に輝く雲の群れだ。

真っ暗になるまでマークはじっと立ったままだ。マークを道路の方に向けなおさせるとまた一緒に歩き始めた。

(写真 AA4)
前編9:
少し前まではスコールだった。三十分ぐらい続いた。遠くの方は降りしきる雨の幕で見えなかった。でも雨が止み少しずつ日差しが雲の合間から見えてきている。マークが見ているのは、差し始めた日に照らされている雲だ。雨が降り始めていたときからずっと見続けている。
(写真 AA5)

実は今日はメイも一緒だった。
先日、父親のリチャードから竜彦に電話があった。メイが近ごろ元気に見えないので心配だと言う。いつもぼんやりしていると言う。
メイから話を聞いてみると彼女はマークの気持ちを理解するために、マークの表情と同じ表情を自分もしてみようと思ったようだ。そのときの自分の気持ちを感じればマークの気持ちが少しでも分かるかもしれないと思ったと言う。それでマークの表情を自分で時々真似ていたらしい。
そんなメイの気晴らしも兼ねて今日は三人で空を見ている。
メイの心配はいらないと竜彦は思った。

前編10:
竜彦は時々マークをベイショアと言う自分のコンドミニアムにも連れてきた。29階にある彼の寝室は高速道路を挟んでシンガポール湾に面している。湾には、いつも百隻以上の船舶が停泊している。
その海の向こう側には熱帯の太陽の熱で海水を蒸発させて発達した雲たちの部隊が整列して浮かんでいる。


ベイショアにいることの良い点は安全だと言うことだ。マークは勝手にあまり動かないけど、外では交通事故などの危険もある。だから外でマークと一緒にいながら竜彦が寝てしまうわけにはいかない。でもベイショアでは竜彦が眠っていても、その危険はない。雲を見ていたはずのマークもいつの間にかそばで寝ているということもある。

時々竜彦は怖い夢を見るときがある。海底で重い岩の下敷きになって叫ぼうにも声が出ない息もできないと言う夢だ。目が覚めて気がつくとマークが竜彦の胸の上にあがって寝ているのだ。更に気がつくとベッドがマークのおしっこで大洪水だし自分の背中も水浸しになっている。マークのおしっこを想定してビニール・シーツをベッドの上に敷いたことが招いた事態だとも言える。そしてマークは水浸しのベッドの海から竜彦と言う浮き袋に緊急避難したと言うことだろうか。マークの気持ちは良く分からないが、竜彦のそばで安心しているらしい。それがなにか竜彦にはうれしく感じられる。おしっこで濡れても干せばすぐ乾くシンガポールで、ビニールを敷く方がまずかったと反省する竜彦だった。

また、もうひとつの理由はマークが音楽を好きだと言うことだ。とりわけマークは渡辺貞夫のOnly in my mindを流すとステレオのそばに行きじっとしている。少しだが身体を震わせる。それだけの反応だが竜彦にはマークが彼の音楽に聞き入っているのが分かるのだ。

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