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雲の子ども 絵本コミュの雲を見つめる子供(後編)

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後編0:
テーブルの上には飲みかけのコーヒーが入ったマグカップがある。マークがいなくなってしばらくしてスターバックスに行ったときにグレースという女の子からもらったものだ。 
スターバックスではいつものウエイトレスが近づいてきた。
「ずいぶん来なかったですね。今日はマーク君と一緒ではないの?」と竜彦に言った。うん、と竜彦が答えると、「じゃあマークは、今日はお家でゆっくりしているのかな?」そう更に言われて竜彦は、マークはちょうど二週間ぐらい前に病気で死んだから、いないのだと答えた。
彼女は急に顔をこわばらせて次の瞬間に店の奥に消えてしまった。その次の瞬間にまた、目にいっぱいに涙をためたまま現れた。
「これをマークにプレゼントしようと思って先週からずっと待っていたのです」
それはマグカップだった。

(写真 toplesent )

“Hi! Mark! You are always welcome!Grace from Starbucks”  ・・・と言う文字が刻まれていた。
少しふたりで話した。グレースはカップを僕に渡して最後に「一人でも来て下さい。私はここにいます」と言って店の奥に消えた。スターバックスのオープンカフェから見ていた雲のことは忘れないけど、それからスターバックスには行っていない。

コメント(9)

後編1:
 竜彦は部屋にひとりでコーヒーを飲んでいた。カップを持ち上げるとき、時々右ひじの外側にある小さな痣(あざ)が気になってしまう。右ひじを内側に曲げて身体の方に寄せると、一センチぐらいの青黒くなった傷が残っている。もう痛みはなくなっている。ひじを打った時にはもっと大きく赤い色をしていたが、もう何ヶ月も前から今の状態になってしまっていた。
 その日、オーチャードから国立博物館に向かう歩道をマークと一緒に歩いていた。途中にあるパークモールと言う建物の前には半径四、五メートルほどの噴水がある。シンガポールの建物には色々工夫を凝らした噴水があるが、この噴水自体は平凡なものの一つと言える。周りに水を溜める池があり、中央部からは勢い良く水が駆け上がっている。暑い日だった。
マークはそもそも水浴びが好きだった。マークが勢い込んで池の中に進んで行き上の方から降り落ちてくる水を浴び始めた。
竜彦は歩き疲れてもいたので止める元気はなかった。
そして最初、その姿を見ていただけだったが、いつまでも終らないマークの水遊びを立って見ているのは辛く噴水の縁に片方の脚を乗せて竜彦は腰掛けた。頭の上にまで水飛沫が飛んでくる。マークは池の中で泳ぎ始めてもいる。マークは泳げるのだ。噴水の水は歩道の三分の一を水浸しにする勢いを持っていた。
だから、自分の頭がびしょ濡れになるまでに、そう時間はかからなかった。着ていたTシャツも水浸しで身体に張り付き始めた。そしてズボンもだ。噴水の縁に腰掛ければ、そうなるのは当たり前と言える。
びっこを引きながら一人の少女が傍を通った。十五、六才ぐらいだろうか。杖で身体を支えながら、竜彦の目の前をゆっくり通り過ぎた。まだ杖の使い方に慣れていないようにも思えた。右足を前に出して左手で次に杖を前方の方にめがけて突き出して、それを脇で支えて左足を含めた全身を移動させる、そして今度はまた右足を出す。時々休息が必要になるのか、立ち止まり、その姿を見ている竜彦と何度かまなざしを交わした。


(写真 Toshawa)
後編2
 彼女が通り過ぎてしまう後ろ姿を見ながら身体をずらした瞬間に竜彦は脚を滑らして池に転げ落ちた。池の深さはせいぜい五十センチほどだ。既に、水浸しになっているので濡れる心配をする必要はなかったが運悪く、竜彦はひじを池の中にあった鉄製の噴水機具にぶつけてしまう。あまりの痛さに気が遠くなる。
 噴水の端で痛さでうずくまっている竜彦の傍にマークがいつの間にかいる。と言っても竜彦の事を心配したからでなくお仲間になった竜彦に水を掛けるためだ。池から上がると少女がすぐ傍まで戻って来ていて、一瞬ハンカチのようなものを出そうとするしぐさをした。そう思ったが、すぐそのしぐさは止めてしまった。小さなハンカチで竜彦の身体全体を拭く事などできはしない。その事に気付いて自分の場違いな動作に気付いたのか笑った。あるいは竜彦の姿がおかしかったのだろうか。
 彼女は竜彦の身体を拭くのはあきらめて、杖を噴水の縁に置いて、池から這い上がってきたマークの頭をそのハンケチで拭いた。マークはじっとしていた。彼女はマークにまず中国語で話し掛けた。何を言ったのかは分からない。次に英語で話しかけた。そして抱きしめた。マークを抱きしめたので彼女のワンピースは濡れている。そして彼女が去っていった。
びっこを引きながら、そして時々後ろを向きながら去って行く彼女の後ろ姿を竜彦とマークは見ていた。
ふたりの身体からは水が滴り落ちていた。大通をそのままの姿で通るのは恥ずかしくて、歩きながらシャツが乾くのを期待して裏にあるフォートカニング通りを駐車場に向かった。道路には子供と大人の足跡が残る。しかしすぐ乾いてしまうだろう。

その時の痣がこうしてまだ、残っているのだ。
 竜彦とマークが噴水の中で水浴びをした光景。濡れた頭を拭いてもらっているマーク。あの時の光景を見ていたのは、竜彦とその少女とマークだった。マークの記憶に残っていたのかどうかは正確には分からないけど。そしてマークはこの世から消えてしまった。もし竜彦がこの世界から消えてしまえば、あの暑い日の光景を思い出せるのは、あの少女だけになる。竜彦は無性にあの時、傍を通りかかったびっこの少女に会いたく思った。彼女はまだ生きているに違いない。彼女の記憶の中に残っているマークのことを聞いてみたいと思った。
 君にマークはどんな子に見えたのか? 君が振り返って僕らの方に戻ってきたのは何故なのか? 君はどんな女の子なのか? 君はあの時の情景を思い出せるか? 僕がこんな質問をする以前に、あの時のことを思い出したことはあるのか? いつ君は足の怪我をしたのか? もうびっこは引いていないのか? それとも、ずっとびっこを引かなくてはならないのか? 君はどこから現われたのか? そして君はマークが好きなのか? マークと何か話せたか? 君はマークの笑顔をひょっとして見たのではないだろうか?
後編3:
空に浮いている雲。でもいつものようにずっと何時間も、君を見続ける子供はもういない。そんな雲を見ている竜彦。でもマークのようにいつまでも見ていることはできない。
マークには雲がどのように感じられていたのかは今でも分からないけど、空を見上げるといつも違った大きな絵が描かれている。


毎日のように違った絵が飾られている美術館。そして毎時間、目の前でその姿を変えてゆく絵。
レオナルド・ダビンチの絵は素晴らしいけどマークがいつも見ている雲の絵はそれ以上かもしれない。
時々、竜彦はレオナルドの雲の絵のことを思い出す。そこから彼が見ていた雲を想像する。レオナルドのまなざしに映った雲とマークのまなざしに映った雲のことを思う。

(写真 AAXNEW )
後編4
マークは何も話せない子供だったので当たり前だけどマークとの思い出を書いても、そこに会話はない。喫茶店でおしっこを垂れ流して椅子を拭いてきた(毎度のこと)こと、パンツの取替え、街角で立っているマークの姿。お粥をスプーンですくって食べているマーク。そんな光景も思い出すけど・・・
よく思い出すのはマークの後ろ姿だ。
マークと一緒にいるときに竜彦が見ていたものは空を見上げているときは雲だけど、地上を見ているときは、雲を見ているマークの姿だ。
横顔や少し離れて向かいから見ているときもあるけど、雲を見ているマークの後ろ姿が多かった。
(写真 UshirosugaTa)

マークの後ろ姿を見ながら彼が何を見ているのかを竜彦は時々考えていた。マークの目線の先には雲がありマークが雲を見ているのは間違いないのだけど。
でも、さらにマークは何を見ているのだろうと竜彦は考えてしまう。それは何を感じているのだろうと思うことと同じだ。

マークとメイと三人で出かけたとき、雲を見ているマークの後ろ姿を見ながら、「マークに見えているもの、マークが感じているもの、マークが思っていることを私も感じてみたい」とメイも言っていた。

だから東京に帰ってからも竜彦は誰かの後ろ姿をじっと眺めてしまうと、その人は何を感じているのだろうと思ってしまう。
後編5:
やっぱり一番思い出すのはマークと一緒に見続けた雲のことだ。
どんな雲かは言葉ではいえない。雲の数に比べるとなぜ言葉の数はこんなに少ないのだろう。
だから竜彦は雲を見ていると言葉を失ってしまう。
(写真 TolostWARD)
後編6:
竜彦の目の前にはマークがいつも肩から提げていた黄色のポシェットと彼のかかとの跡が残っている靴があった。

マークがあのとき、笑ったのは何かの偶然であって、それ以降はほとんど笑わなかった。
後になってメイにマークを笑わせることができなくて申し訳ないと竜彦は手紙を出した。するとメイから返事が来た。
「一度でも見ることができたのから自分は満足しています。あのときのマークの笑顔はなんどもなんども思い出すので、私には充分すぎるくらいです。本当に良い思い出です。
それに、マークは他の人の何百倍も雲を見て楽しんだのだから他の人より何百倍も幸せだったと私は思っています。
マークがあんなに雲が好きだと言うことが分かったのも竜彦さんのおかげです・・・」
(写真 Tokomono)
後編7
マークは僕らの前からいなくなった。
でも、マークがいつも見ていた雲はまだ空に浮かんでいる。
(写真 AA7)

僕らはもうマークを見ることはできないけど、彼が見ていたものを今でもこうして見ることができる。
「風で流される雲を見ている君らのまなざしの中にも、マークのまなざしは生きている。マークが何者だったのかを知りたいと思うなら、彼が見ていたものを彼が見ていたように見ることだよ」と雲が言っている。
それがマークと僕らのつながりを教えてくれるような気がする。

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