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安田均コミュのクレージー・プラネットについて(1978年分)

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<奇想天外>の連載コラム「クレージー・プラネット」78年度分のトピです。
ご自由にコメント下さい。

●78年1月号《ファンジンがいっぱい》
 デル・リイ=マルツバーグ論争について、ファンジン、評論誌について

●78年2月号《SFファンは考える人?》
 大長編の続出と個人短編集の増加について。『無限ボックス』The Infinity Box(ケイト・ウィルヘルム)『星影』Starshadows(パミラ・サージェント)など。

●78年3月号《77年の英米SFをふり返る》
・『暗闇のスキャナー』フィリップ・K・ディック(サンリオSF文庫)『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック?〜?』(同)同『灰と星』ジョージ・ゼブロウスキー『おれは誰だ?』ボブ・ショウ(同)『マーシャン・インカ』イアン・ワトスン(同)『飛翔せよ、遥かなる空へ』フィリップ・ホセ・ファーマー(ハヤカワ文庫SF)『闇の聖母』フリッツ・ライバー(同)、『聖堂都市サーク』テリイ・カー(同)『ゲイトウェイ』フレデリック・ポール(早川海外SFノヴェルズ)『へびつかい座ホットライン』ジョン・ヴァーリイ(同)『夜の大海の中で』グレゴリイ・ベンフォード(同)『ドサディ実験星』フランク・ハーバート(創元SF文庫)『ドリームマシン』クリストファー・プリースト(同)など。

●78年4月号《女性歴史作家が書いたSF大長編》
『漂流世界』Floating Worlds セシリア・ホランド

●78年5月号《トールキンで再燃したファンタジイブーム》
『緑色遺伝子』ピーター・ディキンスン、『妖女サイベルの呼び声』パトリシア・A・マキリップなど。

●78年6月号《今年もSF大会の季節が、やってきた》
『永劫の嵐』The Immortal Storm サム・モスコウィッツ『フューチュリアン』Futurians デーモン・ナイトなど。

●78年7月号《まだ駆け出しの新人を二人ばかり》
「遺産」Legacy チャールズ・シェフィールド(『プロテウスの啓示』(ハヤカワ文庫SF)原型)『エンダーのゲーム』オースン・スコット・カード(ハヤカワ文庫SF)

●78年8月号《SFイラストレーション・オールスター名鑑》
ケリイ・フリース他、計9名の画家について

●78年9月号《大女流SF作家になったジェイムズ・ティプトリー》
『世界の壁まで』Up the Walls of the World ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア

●78年10月号《手作りの良さが残るホラー・ストーリイ》
「ある少女の日記から」Pages from a Young Girl’s Journal ロバート・エイクマン「棒」Sticks カール・エドワード・ワグナー

●78年11月号《インタビュー・インタビュー・インタビュー》
 ラリイ・ニーヴン、R・A・ラファティ、フィリップ・K・ディック、J・G・バラードのインタビュー紹介

●78年12月号《ル・グィンのSFワークショップを覗くと》
『クラリオン西部分会:内側から覗けば』(原題不明)ボブ・サベラ『アーシュラ・K・ル・グィンのSFワークショップ:変えられた私』The Altered ? 著者不明

コメント(24)

さて年を明けて78年1月号では、《ファンジンがいっぱい》というタイトルである。

クレプラを担当するようになってから海外ファンジンをとりよせるようになり、いつのまにか18種類だった。しかし大抵は一口程度の断片的な知識がほとんど。で、いろいろページを繰って見ると、デル・リイ=マルツバーグ論争なる、格好の材料が見つかったと、安田氏は書き、それについて詳しい紹介にうつる。

詳細な内容はさけるが、要するにデル・リイの「古きよき時代のSF」路線の手放しに誉める傾向と、現代の「難解な」SFをけなす書評に対し、いろいろな作家やファンがクレームをつけたが、とりわけマルツバーグが辛らつにその傾向を酷評している、といったもののようだ。
安田氏はこうした復古調の傾向はいつの時代にも起きていたが、今回は「あの素晴らしかったバランタイン・ブックスが」という残念さにつきる、と締めくくっている。

続いて、海外ファンジンの紹介にうつる。まずは前記の論争の記事を載せた「SFレビュー」。安田氏はこのファンジンを絶賛し、「収支尻が黒字で定期的な刊行となると、もうプロ雑誌とかわるところがない」と評している。
そして現在も発行が続く「ローカス」。「いながらにして米SF界の動向がつかめる」とこちらも絶賛。
「SFレビュー」「ローカス」と並ぶ御三家、と紹介されたのは「アルゴル」。上質紙を使い、イラストをふんだんにつかったその誌面構成は、プロ雑誌と呼んでもよい、と安田氏。

最後に定期的に発行されだした評論誌についてふれている。いくつか代表的なものはあるが、安田氏が「ズバ抜けている」と表現しているのは、イギリスの「ファウンデーション」。最近の同誌の内容を紹介しながら、最後に「こうした評論エッセイ風の雑誌をとりよせたいと言われるなら、僕はまずこの「ファウンデーション」をお薦めするだろう」と結んでいる。

ファンジンについては先にも書いたが、「御三家」のうち今残っているのは「ローカス」のみ。「ファウンデーション」も健在だ。
今後もずっと続いて欲しいものだ。
78年2月号は、「SFファンは考える人?」である。

冒頭、最近の英米SFで、大長編の続出と個人短編集の増加という、一見正反対の現象だと指摘する。
前者については、安田さんは「SFの書き方そのものが変わってきた」のではないかとし、「従来なら行間から読者に自由な想像をさせておくという余裕があったのに、その部分が作者の知識・情報によっていまやどんどん埋められてきているような気が」すると述べ、「こうした情報的深化が、逆に想像力の発展の余地を殺し、作品を矮小化する元凶となっている」という説に、「なろほどと一部うなずけないこともない」と共感を示している。
私にとっては、想像力の貧困からか、書き込んである作品についつい甘くなってしまい、上述の指摘には頭が痛い。

そこで、安田氏はこの2つの潮流(大長編の続出と個人短編集の増加)について考察しようとするが、前者はボリュームがありすぎるので、後者について触れることに。
ここで、安田氏は「年刊SF傑作選#6」の編者テリー・カーの言葉を引用する。それによると、今日短編がはやらないのは、「人々は考えることを好んでいないのだ」と指摘する。
安田氏はカーの言葉について、「一部に、やや古めかしいSF擁護的論調が見うけられるものの、大むね(ママ)正鵠を射ている」と賛同する。

SFアンソロジーに話を戻すと、オリジナル・アンソロジーの退潮傾向により、個人作家の短編集に形を変えていると、近年の状況について説明する。
こうしたアンソロジーに意欲的な出版社として、ポケット・ブックスとエース・ブックスをあげ、前者はハードカバーで出されたもののリプリントを中心に、エースは若手中心のペーパーバックとそれぞれ特色を示している。

例として前者では、ケイト・ウィルヘルムの「無限ボックス」(The Infinity Box)、トマス・M・ディッシュ「死の中へと」(Getting into Death)、ジョージ・R・R・マーティン「星と影の詩」(Songs of Stars and Shadows)、ジェリィ・パーネル「正義」(High Justice)などを引き合いに出している。そして中でも安田氏は、ウィルヘルムを持ち上げ、作風と収録短編を紹介した後に、「僕は大好きなのだ」と告白し、「現在ル・グィンと並んで米国の女性SFをリードしていることは間違いない」と手放しの褒めようだ。

一方のエース・ブックスはどうか。エースから出版された作品として、パミラ・サージェント「星影」(Starshadows)、スパイダー・ロビンソン(ママ)「カラハンの時間超越サロン」(Calahan's Crosstaime Saloons)、ジョージ・ゼブロウスキー「単一宇宙」(Monadic Universe)をあげている。そして安田氏は、前者二人の短編について紹介する。

サージェントについては、「ある種のサージェント像を描いてきた
僕の期待は裏切られた」と期待はずれであったことを吐露している。理由として、「構築力・プロットといった面が余りにも大雑把で現実感に乏しい」と斬り捨てている。

ロビンソンの方はまずまず合格のようで、安田氏は作品紹介後、「そう大した話でもないが、ロビンソンの視点には、そこはかとない優しさが感じられ」、「これが彼の人気にもつながっているのだろう」と好評価を得たようだ。

最後にファン出版の短編集「フェグフート全集」(The Compleat Feghoot)(レジナルド・ブレットナーがグレンデル・ブライアント名義で出したもの)を紹介する。
1950年代から60年代にかけ、「F&SF」誌の片隅に、10行から20行で載っていた、フェグフートという男が主人公のユーモア譚とのこと。ちょうどアメリカ版「泰平ヨン」らしく、その第7回を紹介している。
人気があった作品らしく、最近「アシモフSFマガジン」誌(ママ)で甦ったらしい(78年当時の話)。
そして安田氏は、「どうやら、SFの短編は考えさせるものばかりでもなさそうだ」と結んでいる。

今回安田氏が取り上げた作品の中では、ウィルヘルムが気になった。サンリオ亡き今、ウィルヘルム作品が邦訳されることはなさそうだが、うもれさせたまま、というのは悲しい。
78年3月号は、《77年の英米SFをふり返る》。
冒頭、安田氏は英米SFの大量出版に驚きをかくせず、「ひと昔前なら、主要な作家および目ぼしい新人など二十人前後とりあげるだけで」、一年間の英米SFの概要をつかめたが、今年はそれがあてはまらない、としている。

その要因として、非英語圏諸国のSFの翻訳、女性作家の大挙進出、復刻・再刊ブームの継続をあげている。

そして今年の特徴は、巨匠に新作が見られなかったかわり、ディックやウィルヘルムなど巨匠にかくれていた作家に陽があたったこととしている。

以下、具体的に作品を紹介に移るのだが、全部抜書きしてもあまり意味がないので、このトピの説明文に示した一覧を下記に再掲する。


『スキャナー・ダークリー』フィリップ・K・ディック(ハヤカワ文庫SF)『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック?〜?』(サンリオSF文庫)『灰と星』ジョージ・ゼブロウスキー(同)『おれは誰だ?』ボブ・ショウ(同)『マーシャン・インカ』イアン・ワトスン(同)『飛翔せよ、遥かなる空へ』フィリップ・ホセ・ファーマー(ハヤカワ文庫SF)『闇の聖母』フリッツ・ライバー(同)、『聖堂都市サーク』テリイ・カー(同)『ゲイトウェイ』フレデリック・ポール(早川海外SFノヴェルズ)『へびつかい座ホットライン』ジョン・ヴァーリイ(同)『夜の大海の中で』グレゴリイ・ベンフォード(同)『ドサディ実験星』フランク・ハーバート(創元SF文庫)『ドリームマシン』クリストファー・プリースト(同)など。

こうした大量のSFにふれたうえで、これまで量的拡大には質的向上をともなっていたが、70年代のこのブームははたしてどうなのか。

それはもう少し待たないと、安田氏もわからないとしている。

その後、安田氏がどう総括されたかは調査していないが、上記のリストを見ると、リストアップされた作品が結構邦訳されているところを見るとそう悲観する必要はないのでは、などと私には思える。

また河出の20世紀Sfシリーズの1970年代篇である、『接続された女』の編者の一人である中村融氏の巻末解説を読むと、この年代の特徴をピックアップしたあと、「70年代は求心的な動きが起こらず、商業的な繁栄を享受しながら、内省を深めていた時期」と結論づけ、「それは成熟のあらわれであったが、停滞にむかう危険も秘めていた」と指摘している。

みなさんの感想はいかがだろう?
前回は、77年のSFの収穫を、邦題名で列挙し、未訳の作品は除いたが、逆に紹介された際のタイトルの方に思い入れがある、とう方のために、紹介された全作品(もちろんほとんど仮題)を挙げてみよう。(ただし、ゴシック文字で強調された作品に限る)作者表記も当時のママ。

「スキャナー・ダークリィ」フィリップ・K・ディック
「フィリップ・ディック傑作集」同上
「断層線」ケイト・ウィルヘルム
「溶岩世界」(階層宇宙シリーズ)フィリップ・ホセ・ファーマー
「暗いデザイン」(リヴァーワールドシリーズ)同上
「ドラゴンの歌い手」アン・マカフリィ
「われらが闇の乙女よ」フリッツ・ライバー
「剣と氷魔術」同上
「ミカエルマス」アルジス・バドリス
「スカイフォール」ハリイ・ハリスン
「マークハイム」ポール・アンダースン
「ゲイトウェイ」フレデリック・ポール
「臨界量」ポール&コーンブルース
「カメレオンの呪文」ピアズ・アンソニイ
「クラスター」同上
「ハサン」同上
「星々の遺産」クリフォード・D・シマック
「スカーミシュ」同上
「時間嵐」ゴードン・ディクスン
「ドサデイ実験」フランク・ハーバート
「夜の人々」ジャック・フィニイ
「盗まれた顔」マイケル・ビショップ
「小さな知識」同上
「オフィウチ・ホットライン」ジョン・ヴァーリィ
「わが思いおこす罪のすべて」ジョー・ホールドマン
「傭兵」ジェリイ・パーネル
「正義」同上
「悪魔のハンマー」ラリイ・ニーヴン&ジェリイ・パーネル
「光の死」ジョージ・R・R・マーティン
「星影の歌」同上
「SFの新しい声」同上編
「もし星々が神ならば」グレッグ・ベンフォード&ゴードン・エクランド
「夜の大海の中で」グレッグ・ベンフォード
「スターハイカー」ジャック・ダン
「サーク」テリイ・カー
「サファイア酒を飲んで」タニス・リー
「ヴォルファバー」同上
「遺骨と星々」ジョージ・ゼブロウスキー
「単一宇宙」同上
「資本戦争」ロバート・アスピリン
「世界の狩人」C・J・チェリイ
「ザンのゲームプレーヤー」M・A・フォースター
「アースチャイルド」ドリス・ピサーチャ
「星々の渦」ボブ・ショウ
「宇宙万華鏡」同上
「誰か?」同上
「ウェセックスの夢」クリス・プリースト
「火星のインカ」イアン・ワトスン
「異星人大使」同上

みなさんは、どれが既訳かわかりました?

また70年代論として、以下の文章がある。

http://www.asahi-net.or.jp/~li7m-oon/doc/article/SFM0010.htm
(大野さん、勝手にリンクしてごめんなさい)
78年4月号のクレプラは、《女性歴史作家が書いたSF大長編》。

冒頭、アメリカでのスターウォーズ騒動について簡単にふれている。映画雑誌はもちろん、SF専門誌各誌やファンジンにまで別枠で取り上げられていることを紹介。

もう一つ本題に入る前にエピソードが語られていて、それがノーマン・スピンラッドの「なぜわたしは(エリスン、シルヴァーバーグらのように)SF界を去ると宣言しないのか?」(海外のファンジン<スラスト>掲載)。詳しくは紹介しないが、結論は「私はSF界を去る気もなく、単に作家として自分を考える」ことにした、ということのようだ。

ここでようやく本題。セシリア・ホランドという女性作家の書いた「漂流世界」(Floating Worlds)。これが彼女の書いた最初のSF。本格的な紹介の前に、簡単な作家の履歴はもちろん、今回は同書の購入にあたってのエピソードも紹介されており、本来は不要かも知れないが、こういったところに思わずニヤリとさせられる。

物語は、約4000年後の未来。地球はアナーキズムによって支配され、革命委員会が全ての権力を握っている。大気と海の汚染から守るためにドームを作って外界とは接触しないようにしているが、それに不満がある人たちは、火星や月に国家を建設。また土星と天王星にも人類の末裔たちは進出しており、スタイス帝国を名乗り、おりあらば内惑星に対する侵略行為を行っていた。スタイス帝国はまた貴重なエネルギー源であるクリスタルと呼ばれる物質を産出していた。

といったスペース・オペラ風の設定だが、他のスペース・オペラ作品と違ってヒーローは出てこない。代わりに女性の主人公が据えられている。彼女が、内惑星の連合評議会として存在する連合評議会から帝国との紛争を調停する役割を持たされ、一定の成功は得るが…。

安田氏は、主人公に女性について、SFでこれだけ「女性」を意識しながら(この辺りのエピソードは省略しました/筆者注)、自由にふるまうヒロインを見たことがなかったと評する。

また本書には三つのポイントがあると指摘した上で(作者が女性であること、作者がジャンル外からの登場であること、大長編であること)、初登場にしては十分佳作である、と安田氏は判断する。

そして、アメリカのSF界は底が深いと書き、今後もどのジャンルからSFを書く作家が現れるかわからないと表現してこの回のまとめとしている。

次回はファンタジイの予定。

また前号の「スカーミッシュ」(シマック)は「前哨戦」で訳があることを訂正している。
78年5月号は、予告通りファンタジーがテーマ(《トールキンで再燃したファンタジイブーム》)。
まず安田氏は、アメリカのSF情報紙<ローカス>の「前年の推薦作」のカテゴリーが、今回「SF」と「ファンタジイ」に分けられていることに目をつける。

次に前年のファンタジー話題作(テリー・ブルックスの「シャナーラの剣」など)を次々とあげたあと、「バラエティとその質はひょっとしたらSFの上を行っているのじゃないかと疑いたくなる」と評する。

さらにファンタジーの興隆を歴史的にふれ(当然バランタイン・ブックスの「アダルト・ファンタジイ」シリーズや、そこで果したリン・カーターの手腕にも言及する)、具体的な作品の紹介に移る。

まずはピーター・ディキンソン(ママ)。彼について安田氏は、「派手な舞台や事件は扱わず、読者をなにげなく幻想の世界へと導いていく腕は、ほんとうにうまいなあの一語につきる」と絶賛。
そして彼の作品『青い鷹』(邦訳は、偕成社より刊行)のストーリー紹介を行う。

続いて安田氏は、新人パトリシア・マキリップの作品『エルドの忘れられた獣たち』(Forgotten Beasts of Eld)にふれる。そして彼女の作風を、「かなり癖のある文体が、そうした(ストーリイをとりあげても特にどうということはない場合のこと:引用者注)単調さを救うテクニックの一つになっていると指摘する。

さらに、いわゆる「幻想小説」というタイプの作品はないだろうか?として、ドリス・レッシングの『生存者の回顧録』(邦題『生存者の回想』サンリオ刊)がそれに適していると紹介している。
この作品が幻想的な理由として、氏は「語り手が”壁の向う側”の世界を所有していること」をあげている。

3人目として「風刺ファンタジイ」の書き手として、ウィリアム・コッツウィンクルの『ドクター・ラット』(Doctor Rat)を紹介し、「寓意にあふれた傑作ファンタジイ」と評価する。

最後に、「吸血鬼もののファンタジイ」として、アン・ライスの『吸血鬼とのインタビュー』(邦題は、『夜明けのヴァンパイア』早川書房より刊行)。安田氏によるとこの作品は、「ルイジアナ州生まれの吸血鬼が自らのライフ・ストーリイを語るという一種のサスペンス小説」とのこと。

こうしていろいろな傾向のファンタジイを紹介した後、「ファンタジイ」とは何か?と問題提起する。
広義に解釈すると、おとぎ話や神話・伝説など、およそ非日常的なものなら何でもひっくくってしまえる、と氏は指摘する。
それに加えて、SFが単なるモダンなファンタジイぐらいの意味しかもっていない、とし、この「ファンタジーの復権」ブームは、むしろ「ファンタジイの混迷」といった方がよいくらいだ、とする。それがいつ「ファンタジイの退屈」に転化するか、ブーム後が怖いと結んでいる。

しかしここからは私見なのだが、その後邦訳でも確かにファンタジイとみなせる作品が、SFのラベルを貼り付けられて出版される、とうのは断続的にしろ、現在も続いているような気がする。
またブームということなら、ご存知「ハリー・ポッター」によってファンタジイ・ブームは巻き起こり、それは小説以外のジャンルにも波及したのではないか。

今後もファンタジイは、(低調な時期もあるにしろ)書き継がれていくのではないだろうか。

78年6月号は、《今年もSF大会の季節が、やってきた》。
つい先日、Nippon2007が終わったので、今更感もあるが、しばしおつきあいを…。

ネヴュラ賞の話題から、世界SF大会の話に移った安田氏は、第1回大会と、その背景(いわゆる「フューチュリアン派」と『ニュー・ファンダム派』との対立、BNF同士のいさかいにより、とても和やかな雰囲気でSF大会を開ける状況ではなかったことなど)を説明する。
安田氏は、『永劫の嵐』(The Immortal Storm;サム・モスコウィッツ著)と『フューチュリアン』(The Futurians;デーモン・ナイト著)をあげて紹介しているが、この辺りは、野田昌宏氏が『「科学小説」神髄』の第6章「今昔ふあん気質考」が詳述しているので、お持ちの方はご参照を。

で、最近のSF大会(といっても、この文章自体が30年前に書かれているのだが)はどうなっているのか、と<ローカス>から一昨年(つまり76年)のレポートを紹介し、その伝統は今日にも継承されているようで、今年のワールドコンもほぼ同じ内容だったようだ。

そして話は、かのハーラン・エリスンが蒙った災難(?)に移り、その年のヒューゴー賞を受賞したが(「世界の中心で愛を叫んだけもの」)、SF大会でのファンとのいざこざ(これがエリスンが蒙った災難のこと)に嫌気がさしたエリスンは、以後ファンダムとつきあう気力を失ったエピソードを紹介する。

積極的・激情型なエリスンに対し、違った意味でSF大会にシラけた顔をしている作家として、バリー・マルツバーグを安田氏はあげる。彼のやり方は、作品の中でパロディ化してみせるというものだ。そして例としてあげられたのは、『惑星会場での集い』(Gather in the Hall of the Planets)。
安田氏は、その作品を説明した後、馬鹿馬鹿しいパロディと読むより、作者のしたたかな内面吐露小説として読むべき、と指摘する。

最後に二人(エリスンとマルツバーグ)を、愛情と近親憎悪が交錯する典型的なファンダム人間にまちがいはないとし、日本にはそんな人はいないのか気になる、として今回のコラムを結んでいる。
78年7月号のタイトルは、《まだ駆け出しの新人を二人ばかり》。

安田氏のこのコラムは、最初はなんでもない雑談風の話題を枕にし、その後本題に入る、という形式が目立つが、今回もその流れ出紹介されていく。

まずは、アメリカのSF雑誌界。「コスモス」誌のように廃刊に追い込まれた例もあるが、総じて健闘していることを、<ローカス>誌をもとに指摘している。
特に「アイザック・アシモフズ・SFマガジン」(ママ)は、創刊1年たたずして、「アナログ」誌を抜き、売行きNO.1の座についたことをあげる。
さらに、折からのSFブームに乗ったアメリカSF界。さらに新しい雑誌として「ノヴァ」、「デスティニーズ」。安田氏はそれぞれの新雑誌を紹介し、多様性という点からもファンにとっては嬉しいことだ、と言う。

こうしたSF雑誌の拡大には、SFブームに加えて、オリジナル・アンソロジーの減少を安田氏はあげ、「書下し(ママ)の中短編の載る場が他になくなってきたこと」が、雑誌に有利に働いていると見る。

そして、数の話を措いて、内容についての考察に進む。
「これだけSF雑誌が活況を呈しているということは、少なくともいくばくかの優れた新人が、頭角を現しつつあるといえはしないだろうか」と安田氏は推測し、最近目立ってきている二人の新人を取り上げる。

その一人目はチャールズ・シェフィールド(!)。安田氏が彼を選んだ理由は、「とにかく新人の中では驚くくらい筆力が旺盛」な点。具体的な作品の例として、「遺産」(Legacy)の紹介を進める。

結論として、「サスペンスに富んだミステリイ仕立てのストーリイ展開と、次々と現われる未来のSF的小道具になかなかの魅力を感じさせる作品」と評する。

ちなみにシェフィールドの日本初紹介は、紹介された作品と同じ<ギャラクシイ>誌に掲載された「遥かなる賭け」(SFM82年2月号)。初邦書は、『星ぼしに架ける橋』(82年10月、ハヤカワ文庫SF)。近年には、<マッカンドルー航宙記>ものの続編『太陽レンズの彼方へ』(05年創元SF文庫)がある。

続いてもう一人は、オルスン・スコット・カード(ママ)。紹介する作品は、「エンダーのゲーム」(中編版)。この作品一本で頭角を現し、同作品の長編版で、ヒューゴー・ネビュラのダブル・クラウンに輝いた(続編『死者の代弁者』では、ローカスも加えたトリプル・クラウンに輝く)。

安田氏の読後の感想は、「確かにこれは傑作に近いのだが、一方でやはり「アナログ」誌特有の限界にいささかガッカリした」であった。つまり、「他の雑誌に載ったなら、きっと傑作になったであろうテーマを、「アナログ」誌という型にはめられたために、充分展開できなかったうらみがある」。

たしかに原型中編では、ヒューゴー、ローカスの各賞にノミネートされたものの、受賞ははたせず、長編版で見事栄冠を射止めたのだから、安田氏の指摘はあたった形になるかも知れない。(長編版の邦訳では、山岸真氏が解説を寄せているが、現物が手元にないので、実際、安田氏の指摘があたったかどうか未確認)。

(原型中編の)作品を紹介した後、安田氏は、「(虚構が現実であったという認識を)もう少しつきつめればすばらしい寓意SFになったのにという気がしてならない」と、結んだ。
「遺産」Legacyは、『プロテウスの啓示』(ハヤカワ文庫SF)原型でした。
改めて気づいたのですが、この頃の奇想天外は、「海外SF秀作コーナー」として、海外の厳選された(?)傑作短編を積極的に取り上げていただのですね。
山岸さんが最初に買った奇想天外には、ハミルトンの「呪われた銀河」(初出はアスタウンディング35年7月号)、次が
ベイビィ、きみはすばらしかった」(ケイト・ウィルヘルム/初出オービット2号)。こうした名前も山岸さんは、覚えていかれたのでしょうか。

私は残念ながら奇想天外はリアルタイムで読んでいないので(SFMの方を買っていた。79年以降)、安田コラムの面白さがわかったのはだいぶ経ってからでした。

ちなみに『エンダーのゲーム』、一度読んだきりで、ストーリイは忘却の彼方です…(汗)。
78年8月号は、《SFイラストレーション・オールスター名鑑》。
「表紙絵はその雑誌を売るためにあって、中身の小説は次号を買わせるためにある」という言葉を引いて、安田氏は、近年、昔ならファン出版でしか出せなかったような個々のイラストレーターの画集が大手から次々に出されていると指摘。中でも、SFのイラスト・表紙絵を中心に並べて、SFの歴史を語るといった体裁の本が、1975年から1977年にかけて10冊近く出版された状況を語る。
以前にも増して重要となってきている、SFイラストレーターたちを紹介するのが今回の目的。

ここで安田氏は、アメージング・ストーリーズ創刊以来のSFイラストの歴史をざっと概観する。黄金時代は40年代から50年代にかけて。それ以降は、雑誌がパルプサイズからダイジェスト版へと一回り小さくなったことと、雑誌数そのものの減少のせいで、少し沈滞する。

しかし50年代から60年代にその名声を確立し、現在(78年)もなおファンの間で幅広く支持を得ている二人の画匠がいるとして、ケリイ・フリースとフランク・フラゼッタを挙げる。

ケリイ・フリースは、1953年10月号に、ジョン・W・キャンベルのアスタウンディング誌に登場。その斬新な構図と、生き生きとした描写でたちまちSFイラストレーターのスターダムへとのし上がった。
画風は、大きく分けて三つ。ひとつは宇宙画風のもの、そして人物画が中心となる普通のイラスト、コミカルなタッチのペン画と、いずれも一目見てフリースだとわかるらしい。

フランク・フラゼッタは、ペーパーバック版のコナン・シリーズで一躍有名になった。筋骨隆々たる荒くれ男が蛮刀を振り回すシーンや、ボリューム感満点のあられもない美女を後方から描いたシーンでは、天下一品の筆の冴えを見せるとのこと。

リチャード・パワーズは、時代を先取りしていたため、ここにきて急に高い評価を受け始めた。当時はまだ弱小出版社だったバランタイン・ブックスが、今では古典扱いされるSFの名作を次々と出し始めた頃に、その表紙を一手に担当。

そしてここからは最新鋭のイラストレーターの紹介。
スティーブン・ファビアンは、黒白の丹念な細密画を得意とするが、SFファンの間でも好き嫌いがはっきりとわかるとのこと。

パトリック・ウッドラフは、どちらかといえば幻想派。ここ4〜5年のペーパーバックの表紙絵からSFと関わるようになった。

以上、二人は安田氏お気に入りのイラストレーター。今度は嫌いなタイプ(!)を、氏は挙げる。
ダレル・スウィートは、「そのヒドさは目を覆うばかり。スタージョンの「キャビア」の再刊などモクモクと煙を吐く実験室にデル・リイらしき肖像が置いてあるというヘドを吐きたくなるような絵」だと、酷評する。

視点を変えて、宇宙画では、リック・スターンバックの独壇場。
宇宙画といっても、一風変わった才能の持ち主が、イギリスのクリス・フォス。「馬鹿でかい宇宙船が宙に浮いているだけでもマグリット的な感覚になってしまう」というのが安田評。わが国では、彼のイラストはサンリオSF文庫のポスターにもなったので、ご記憶の方も多いだろう(『ベストSF1』の表紙にも使われている)。

最後にファン・アート。これはティム・カークに止めをさす。そのユーモラスなモンスターたちは、まさに彼の性格を表してもいるのだろう、と安田氏は指摘。最近(78年当時)は、自らグラフィックなファンジン「シェイヨル」を創刊したとのこと。

他にもファン・アートでは名前があがるが、今回はこれまで、ということでこのコラムを終えている。

何だか絵も載せれないイラストレーターの話だったので、話がややこしくなったかも。まあ<クレージー・プラネット>も、いくつかイラストを紹介しているが、カラーでないので、なかなか雰囲気を伝えきれなかっただろうけど。

SFマガジンでは、時折、田中光氏が海外のアート集を年1回程度、紹介されているので、最近の話題は、そちらをご参照下さい。
リチャード・パワーズ、スティーブン・ファビアン、パトリック・ウッドラフ、ダレル・スウィート、リック・スターンバック、ティム・カーク。以上、不勉強でまったく、名前を知りません・・。

クリス・フォスは、さすがに分かりますが。

牧ご夫妻のファンジン等をきちんと読めば、ちゃんと名前と絵柄が一致するのでしょうが。
僕も知っているのはパワーズぐらい。知っている、といっても野田昌宏氏の「私をSFに狂わせた絵描きたち」(合ってるかな?)というSFM連載のコラムで名前を見ただけですが…。
昔のペーパーバックではおなじみの顔ぶれなのですが、イラストレータは知られていないのですね。
とりあえず、安田さんの挙げたイラストレータの、適当に検索した画像です。
・ケリイ・フリース
http://ecx.images-amazon.com/images/I/51TVE5ZW45L._SS500_.jpg
・フランク・フラゼッタ
http://g-ec2.images-amazon.com/images/I/51AERRP4YFL._SS500_.jpg
・リチャード・パワーズ
http://home.earthlink.net/~cjk5/ballard72a.jpg
・スティーブン・ファビアン
http://www.thompsonrarebooks.com/shop_image/product/1206.jpg
・パトリック・ウッドラフ
http://g-ec2.images-amazon.com/images/I/51SNG5E9BDL._SS500_.jpg
・ダレル・スウィート
http://g-ec2.images-amazon.com/images/I/513R2GPB5AL._SS500_.jpg
・リック・スターンバック
http://www.ricksternbach.com/moonbow.jpg
・クリス・フォス
http://www.altanen.dk/images/CF21stCentury046.jpg
・ティム・カーク
http://www.kirkdesigninc.com/images/w3_photos/09_illustrations/il_to3_hemispheres_lo.jpg

今調べたらティム・カークは東京ディズニー・シーのデザイナーもやっていたんですねえ。
>大野さん

フォロー、ありがとうございます!
フリースの絵は、この回のクレ・プラでも使われていましたね(白黒でしたが)。

昔どころか、今も僕はあまり画家を気にすることなく洋書を買っています。
>山岸さん

>本文の描写との不一致

日本でもたまにあるようですね。『コ××××ム』とか。
<時の車輪>は未完のまま終わったようで、残念ですね。
☆今回はティプトリー・ジュニアを取り上げていますが、このコラム以降の分も含めて概説しているのが、THATTA ONLINE07年10月8日登録の岡本氏の文章なので、そちらもご覧下さい(
http://www.asahi-net.or.jp/~li7m-oon/thatta01/that233/thatta0709.htm)。勝手にリンク、ごめんなさい。



78年9月号は、《大女流SF作家になったジェイムズ・ティプトリー》。
「ジェイムズ」という名とは裏腹に、実は女性であったことなどを、作品などとともに振り返るのが、今回のコラム。

まず安田氏は、78年のネビュラ賞についてふれ、概ね順当な結果だったことを指摘したあとで、ラクーナ・シェルドンという作家に奇異な感じを抱くかたがいるかもしれない、と感想。実は、このシェルドンが、「ティプトリー事件」の張本人だとする。

ことの発端は、SF情報紙「ローカス」の77年1月号に掲載された「ティプトリー、正体を暴露」という記事。いままで男性作家とみなされていたジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「正体」が、実はアリス・シェルドンという61歳の女性の実験心理学者だということが明らかにされた。

衝撃は全アメリカSF界を襲い、ドゾアの「ティプトリー論」の出版が遅れるなどしたという。当然日本でも(少なくとも一部では)驚きが広がり、最初にティプトリーを紹介した伊藤典夫氏はじめ、さまざまな翻訳家等に及んだという。安田氏も、その衝撃を受けた一人。

続けて安田氏は、ティプトリーの最初の邦訳作品「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」を引き合いに出し、SF独特の巨視的テーマを独自の音楽的詩的な文体で、「人生(異星人?)の断片」風短編にまとめあげたのは、処女作以来の典型的な手法だと説明する。

やがてティプトリーの名は70年代に入ると超新星のように、一挙にその光度を増し、数々の賞を受賞する。

そしてキーポイントとなる作品「男たちの見通せなかった女たち」(ママ)が発表され、「女性運動」に理解を示した男性の作品として話題を呼んだことが紹介される。

だから「ティプトリーの正体」についての驚きも二段階あり、まず著名なのにも関わらず正体不明であった作家の身許がわかったという驚きと、「男性←→女性」問題をテーマとした作品を男性であるばかり思い込んで読んでいたら、実は女性の手によって書かれていたという驚きにわけられる、という。

ティプトリーが正体を暴露したのち、今度は本名(に近い方の名で)での作家活動もまた活発になりだした。冒頭の「スクリュー蝿の解決」(ママ)もその一つとし、安田氏はその作品を紹介する。

話題は変わり、そのティプトリーの期待の処女長編『世界の壁まで』"Up the Walls of the World(未訳)が刊行される。
その長編を紹介した後、この作品にはティプトリーの長所と短所を併せもつことになったと評価。長所とは、構成の妙に加え、ティプトリー独特の文体がそれぞれのパートにふさわしい書き方をしているなど、細部にまで気を配った切れ味の鋭さ。
短所は、逆にそうした凝りすぎが、長編としての一貫したストーリイの流れを阻害し、全体としてのリズム感をやや損なっている点と、安田氏は指摘する。

しかしそうしたマイナス要因をさしひいても、本書は出色の処女長編といえ、ネビュラ賞受賞を期待して、このコラムをしめくくった。

追記 同年のネビュラ賞は、ヴォンダ・マッキンタイアの『夢の蛇』が受賞した。
ティプトリーって、日本でもかなり翻訳されている人気作家なのに・・。
処女長編『世界の壁まで』、というのは未訳なんですね。
>大野万紀さま
 おくればせながらで申し訳ありませんが・・。わざわざ、ご教授いただいてありがとうございました。
 ご紹介いただいた中では、フラゼッタは別格として(フラゼッタはさすがに私も知ってました)、ティム・カークが、気に入りました。
>kokada_inetさん

書き込みありがとうございます。
どこかで未訳の短編でも訳されておかしくない作品がまだ残っている、という文章を見たんですが、出自が思い出せず。
でもティプトリー作品は、よほど読者の期待が大きくないと(というか、今年翻訳された『輝くもの天より〜』の反響が大きくないと)、今後の邦訳の機会はほとんどないかも。あくまで私の意見ですが…。
78年10月号は、《手作りの良さが残るホラー・ストーリイ》。

冒頭、あるホラー・フィクション関係のファン大会の席上で、「なぜあんなゾッとするような話を書くのですか?」と一人のファンの質問に、出席した作家からは要領を得ない回答が続き、ついにある作家が本質をついたように思われる答えを出した、というエピソードから、今回の連載は幕をあける。

人間の原初的欲望に基づいて怪奇小説、恐怖小説が書かれていると指摘した安田氏は、”驚異というものに対する感性”という点でSFと怪奇小説、あるいはファンタジイは接近する、と推測する。

最近(この連載が載った78年)のアメリカでのSFブームと表裏一体になって、怪奇小説でも隆盛が伝えられるとした氏は、その代表として、キングの『キャリー』『シャイニング』、ライバーの『われらが闇の乙女』(→『闇の聖母』)などを列挙する。

ファンタジイの動きとして「世界ファンタジイ大会」の開催と「世界ファンタジイ大賞」(「世界幻想文学大賞」?)の選定をあげる。次いで77年大会の同賞を受賞した各作品に対し、それぞれコメントを付している。
また大会についてもファンジン<SFレビュー>の記事を引用し、参加者の熱気を伝えた。

出版では「世界ファンタジイ大賞」の受賞作も含めたアンソロジーを年々出版する計画があるとし、早速そのアンソロジーを安田氏は紹介する。
まず巻頭に掲載された作品とともに収録された、ロバート・ブロックの「受賞スピーチ」が紹介される。
そして、マキリップの紹介のあと、ロバート・エイクマン「ある少女の日記から」”Pages from a Young Girl's Journal”を詳細に紹介したあと、この作品が「よくできた恐怖小説は恋愛小説に近い」「ゴースト・ストーリイは詩に近いもの」という点を実践した傑作だと褒め称える。

続いて、大賞候補作のカール・エドワード・ワグナーの「棒」”Sticks”の紹介で今回の連載を締めくくった。


78年11月号は、《インタビュー・インタビュー・インタビュー》として、ラリイ・ニーヴン(連載では、「ニーブン」表記)、R・A・ラファティ、フィリップ・K・ディック、J・G・バラード を紹介。

「インタビューというのは、いつ読んでもおもしろい。」との書き出しで始まり、インタビューの成果として、「作品のテーマやそれをとりまく背景へと話がどんどん拡がって、一度眼を通しただけでは読みとれなかった意味などが理解でき」ることを、安田氏はまっさきに指摘する。

海外のSF関係のコラムでも、このインタビューが増えているとし、具体的にインタビューを紹介する。

まずはラリイ・ニーヴン。
聞き手は、ニーヴンがSFを書くようになったいきさつや好きな作家、SFの将来などについてインタビュー。デビュー当時を振り返り、ニュー・ウェーブは「ひどい作品の言い訳にも使えるし、まあ宿題をやってこないようなもんだ」と言う下りが印象的。ちなみにニーヴンが目指していた作家は、ハインライン、アンダースン、クレメントといったところらしい。

続いて、ラファティ。
「わたしにとって、サイエンス・フィクション・ストーリイとはまず物語(ストーリイ)でなければならない。そして、それは本質的な要素として科学(サイエンス)を含み、もう一つ本当の意味での虚構(フィクション)、いいかえれば作りごと、思弁などを含まねばなりません」と述べ、執筆方法についてラファティは語る。

そしてディック。
『宇宙の眼』で易経を思い出させる場面について問われたディックは、それは「偶然の一致」だと述べ、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』はLSDを見たこともない時期に書いたと続け、「『あふれよ、わが涙』と警官は言った」(ママ)でも同じ境遇の同じ少女に出くわしたことがあることを明かす。
そして執筆方法(機械的に一日何時から何時まで、という書き方はできず、「熱くなったら、ドロップするまで書き続ける」とのこと)について話し、ちょうどインタビューの時期がヴァイキング火星着陸の直前に行われていたので火星の生命の存在について聞かれ、毛沢東の死去を引き合いにだして、インタビュアーを煙にまいている。

最後にバラード。
SFとの最初の接触、印象に残った作家(ブラッドベリ、シェクリイ、フレデリック・ポール、リチャード・マシスン)などに触れたあと、〈ニュー・ワールズ〉の編集者テッド・カーネルへの影響について述べる。
それはバラードが作品を書き始めた頃、当時のバラードはSFに変化を求めていたところカーネルはそれに同意し、作品の雑誌掲載やアメリカの出版社や編集者と交渉までしてくれた、ということだった。
そしてイギリス作家の影響について答えたあと、初期の4長編(『狂風世界』『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』)が破滅と災害について扱ったとのインタビュアーの質問に対し、それらは「心理的な充足の物語であり、ハッピーエンドなんだ」と答え、「ウィンダムに代表される伝統的なイギリスの破滅小説を逆転させたもの」と付け加えた。

最後に安田氏は、バラードが〈ギャラクシイ〉の愛読者だったことに驚き、こうした点もインタビューの効用として、締めくくっている。

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