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曽国藩コミュの(義務と特権)「『武士道』解題(ノーブレス・オブリージュ)」李登輝著より

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(義務と特権)「『武士道』解題(ノーブレス・オブリージュ)」李登輝著より

 曽国藩の言葉ではないですが、紹介します。

 ふと寄った地元の図書館で最近気になっている言葉「ノーブレス・オブリージュ」の文字につられて選んだ、台湾の指導者だった李登輝氏の著書「『武士道』解題〜ノーブレス・オブリージュ〜」を読んでいます。

 武士道はもちろん、戦前の日本を代表する国際人、新渡戸稲造氏が著した本のことです。李登輝氏は、戦前の台湾で日本の教育を受け、京都大学で農業経済を勉強しますが、大きく影響を与えたのは、新渡戸氏の著書だったそうです。その中で「義」について、新渡戸氏の言葉と、李登輝氏の言葉を紹介します。


『義』 (Rectitude or Justice)〜武士道「義」より、

「義は、武士の掟中最も厳格なる教訓であった。武士にとりて卑劣なる行動、曲りたる振舞いほど忌むべきものはない。」

・林子平(1738〜1793、経世家)
「義は勇の相手にて裁断の心なり。道理に任せて決心して猶予せざる心をいうなり。死すべき場所に死し、打つべき場所に打つことなり」

・真木和泉(1813〜1864、幕末の尊皇攘夷の指導者)
「節義は例えて言わば人の身体の骨あるごとし。骨なければ首も正しく上にあることを得ず、手も動くを得ず、足も立つを得ず、されば人は才能ありとても、学問ありとても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば、不骨不調法にても、士たるだけのこと欠かぬなり」

孟子曰く「仁は人の心なり、義は人の路なり」
「その路を捨てて由らず、その心を放って求むるを知らず、哀しい哉。人鶏犬の放つあらば即ちこれを求むるを知る。心を放つあるも求むるを知らず」

イエス・キリスト(孟子から遅るること三百年に生まれた)の言葉
「我は失せし者の見いださるべき義の道なり」

(新渡戸稲造氏の意見)
 私は論点から脱線したが、要するに孟子によれば、義は人が喪われたる楽園を回復するために歩むべき直(なお)くかつ狭き路である。
(以上、新渡戸稲造著「武士道」より引用)

(以下、李登輝氏の「武士道」解題より)
 「義」と言うのは、「武士道」を考えて行く上でも最も重要な観念の一つであり、決して「個人」や「私」的なレベルに閉じ込めておくべきことではなく、必ず「公」のレベルにまで高く引き上げて受け止めていかねばなりません。

 すなわち、「義」というものは、もっと広い意味の「公義」という形でとらえられるべきであり、その段階にまで持っていかなければほとんど意味をなさない、と私は確信しているのです。広い意味という場合には、これはもう「武士」とか「平民」とかいった゛階級゛などには全く関係ない「人間」全体の生き方の問題となってくる。すなわち、「人類社会」全体にかかわる根本的な問題としてとらえなければならない、と思うからです。(中略)


 とても崇高な精神を感じる一節で、人間の生きる目的「本分」とは何かと教えられる思いを持ちます。

 戦後の日本は、「義」の心は薄れ、霧消しています。その代わりあるのが「利」でそれも、「私利私欲」が前面にして、他人の生活、命までも奪う、経済システム(社会通念)になってしまいました。
 戦前、日本の教育は、戦争を止められなかった責任はありますが、明治維新以来、「公儀」の仕事の奔走した偉人たちのバックボーンに「武士道」の心があったことは間違いありません。武士の闘争心ではないく、公に尽くす精神を日本人に呼び戻すことが急務と思います。

ノーブレス・オブリージュ:生まれながらにして自己の身分に伴う義務と特権 

を理解し、無理せずにできる「社会奉仕の心」を育てる教育が必用なように思います。

*参考資料:李登輝著「『武士道』解題〜ノーブレス・オブリージュ〜」(2003年初版)

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