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曽国藩コミュのアヘン戦争から同治中興へ

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アヘン戦争から同治中興へ

「不平等条約」の思想
 南京条約 1842年、アヘン戦争終結→1842年以後、イギリスとのあいだで、南京条約をはじめとする一連の不平等条約が締結される(フランス、アメリカなどとも)――中国(清)はイギリスに香港を割譲、関税自主権を認められず、イギリスに対して領事裁判権を承認する。

 「不平等条約」の解釈 華夷秩序下で「条約」が「不平等」なのは当然――中国のやり方になじみのないイギリスに自分たちのやり方による貿易を許すという「恩恵」としての解釈が行われる。

 →アヘン戦争の敗北は中国にとっては衝撃ではあったが、時代を変えるほどの大事件とは認識されていなかった。

 香港 南京条約でイギリスが獲得したのは香港(ホンコン)島のみで、つづく第二次アヘン戦争後の北京条約で九龍(クーロン)地区を獲得した。この両地区はイギリス領とされた。1898年、この両地区の周囲の広い地域をイギリスが中国から99年期限で租借し、ここを「新界」と呼んだ。この香港島・九龍・新界を含む地域が広い意味での「香港」である。1997年、「新界」租借の期限切れを契機として香港は香港島・九龍地区も含めて中国(人民共和国)に返還され、特別行政区となった。

第二次アヘン戦争
 開港の影響 上海以南の5港(上海、寧波(にんぽー)、福州、廈門(アモイ)、広州)が開港される――開港された港(と都市)を 条約港 という。

開港は南中国の社会には大きな変化をもたらしたが、中国全体への影響は限定的である。
中国にはすでに綿織物産業と独自の金融・市場制度があった→イギリス資本の影響力拡大も進まない(イギリス商人が中国市場に参入していくためには買弁と呼ばれる仲介人の協力が必要だった)。
 第二次アヘン戦争 1856年、香港船アロー号の取り調べに際して中国の官憲がイギリス国旗を侮辱した事件(アロー号事件)とフランス人宣教師殺害事件を理由として、イギリスとフランスが中国(清)に対して戦争を起こす=第二次アヘン戦争(アロー戦争、アロー号戦争とも)→貿易のいっそうの拡大を目指す。

 当時、清朝は、太平天国の乱に加え、華北で起こっていた 捻軍決起(捻匪の乱) への対処にも追われていた。



太平天国との戦い
 曽国藩の衝撃 太平天国勢力の北上のルートにあたった 湖南 で、服喪のため帰省していた官僚 曽国藩(そうこくはん) は、「キリスト教の民衆反乱勢力」の拡大に強い衝撃を受ける――これは 名教の奇変 である→王朝防衛だけではなく、儒教防衛のための戦いに立ち上がる。

 「郷勇」湘軍の結成 曽国藩は太平天国と戦うために団練を巨大化した地元の義勇軍「郷勇」を結成――これを 湖南軍=湘(しょう)軍 と名づけた。

財源は国内関税 釐金(りきん)(百分の一税) ――関所を通る貨物の値段の100分の1を徴収する。
将兵は地元で信頼の置ける人物を集めて採用する。
 郷勇の結成 湘軍に続き、李鴻章の淮軍(わいぐん)など郷勇の結成があいつぐ。

同治中興
 北京条約 1860年、第二次アヘン戦争講和――イギリス、フランスに加え、アメリカ(合衆国)、ロシアとも条約を結び(北京条約など)、北方沿岸地帯や黄河・長江沿いなどの内陸部を含む多くの港の開港を決める。

 同治中興 1861年、対外強硬思想の持ち主だった 咸豊(かんぽう)帝(1850〜61年 在位) が死去し、幼帝 同治帝 が即位――実権を握った西太后(咸豊帝の皇后、同治帝の実母。中国では慈禧太后と呼ぶことが多い)や相次いで側近となった粛順・奕 (えききん)らは「郷勇」指導者を含む漢人有力官僚の登用を推進した。

 1864年に太平天国滅亡→比較的平和で、産業・経済の発展も見られるようになった時期を 同治中興 の時代という。

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