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愛(ai)コミュの連載小説: 哀愁のアクエレッロ 第1章

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日記にも上げましたが、
これから私が実際に経験した事実をもとにした、
「哀愁のアクエレッロ」というノンフィクション小説を連載していきます。
イタリアのフィレンツェを舞台にした、
ちょっと切ない物語です。
是非、最後までおつきあいください。


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1章  街角の旅人


「ヴァイ、ジャポネーゼ!ヴァイ!」

 粋に訳せば「来てみろよ、日本人!来てみやがれ!」とでもなるだろうか。4人のフィレンツェっ子たちが、そう叫びながら得意気にちょこまかとパスをまわしている。僕はフィレンツェの中心部にあるサンタ・マリア・デル・フィオーレという見事なカテドラルの前で、図らずも子供たちを相手にサッカーの勝負を挑んでしまったのだった。いくらサッカー王国イタリアとはいえ、子供なら簡単にねじ伏せられるだろうと高を括っていたのだが、彼らは中学生ぐらいのガキどものくせになかなかやる。日頃から入り組んだ路地で仲間同士ボールを奪い合っているからだろうか、ボール扱いのうまさは相当なものだ。僕は日本人代表として、バカにされたまま帰るわけにはいかないと思い、高校時代に精一杯鍛えたはずのテクニックを駆使し、懸命に彼らと戦った。子供の頃から負けず嫌いで、家族をはじめ周囲の人間をあきれさせてきた僕は、このときもガキどもを相手に大人気もなく、もてる力を全て搾り出してしまっていた。
 夢中で走り回るうちに旅の疲れで硬直した筋肉も徐々にほぐれだし、勝負勘も戻ってきたようだった。やがて自分がボールを支配する時間も増え、しまいにはフィレンツェっ子たちも、

「ジャポネーゼもなかなかやるなぁ。」

と、こぼしながら順番に僕の肩を叩き、あどけない笑顔に桃色のほっぺたをぶらさげて各々の家路についた。
 あごの先から滴る汗の感触は、必然的にある懐かしい光景を香ばしく蘇らせてくれた。高校時代、夕暮れの中で、頭上を縦横無尽に飛び回るコウモリたちに見守られながら、息があがるまで走り続けた、あのグラウンドの景色である。いくら走っても追いつけないものを、愚直に追いかけ続けたあの日々。あの頃、毎日のように繰り返された練習の苦痛と爽快感を脳髄の奥で再現するうち、自分の原点がそこにあることが徐々に明らかになっていくような気がした。あのひたむきさをいつまでも持ち続けていなければならない、と、念を押すように自分に言い聞かせながら、前かがみになって呼吸が整うのを待った。
 脈と呼吸が少しずつ元通りになっていくにしたがい、僕の顔は自然とほころんでいった。してやったりの表情である。なにせ子供たちとの小さな決闘における勝利は、僕という日本人が、また一つ、新たな点で世界とつながった瞬間を意味しているのだから。サッカーは英語以上の世界共通語だと思っている僕は、旅先でよくこうして地元の人たちとサッカーを通してコミュニケーションをはかってきた。ネパールでもとある学校に乱入して子供たちとボールを蹴って遊んだし、メキシコのイスラ・ムヘレスという島でも、ずんぐりむっくりしたオヤジたちに混じって、サンダルのままボールを追いかけたりもした。遠い異国の地で、言葉も通じない者同士、一つのボールを追って気持ちを通い合わせることができたとき、勝った負けただけではない、サッカーの素晴らしさを想うのである。
 カテドラル前の階段に腰掛け、滴る汗をぬぐいつつ一息ついていると、あたりがすでに暗くなっていることにようやく気づいた。観光客はまだ幾人かそのあたりをうろついてはいたが、そろそろ夕食どきとあって、多くはレストランの集まる区画へ向かっていったのだろう。僕はボロボロのリュックサックの中から、普通の水だと思ってあやまって買ってしまった炭酸入りのミネラルウォーターのボトルを取り出し、すっかりなまぬるくなった液体を、カラカラに乾いたのどに勢いよく流し込んだ。まったくヨーロッパ人はなんでこんなものを飲むのかとあきれてしまう。炭酸入りの水なんて、まるでスプーンをなめたときのようなつまらない味しかしないのに。紛らわしく店頭に並べるのもやめて欲しい、と願ったのは僕のくだらない負け惜しみであるが、そんなことを思いながらも、このときはそのまずさと理解できない趣向をなんとなく許せてしまったから不思議なものだ。
 埃だらけのリュックサックには、お気に入りのスケッチブックも入っている。僕はいつからか、旅先でこのスケッチブックを突発的に開き、筆をとって何やらちょこまかと描くようになった。描くのはもっぱら建物や風景の絵である。おそらくヨーロッパの街並みの美しさや景色の多様さに刺激されてのことだろう。
 僕は確かに絵を描くことが好きだった。小学校に入った頃、恐竜の魅力にとりつかれ、毎日恐竜の図鑑を眺めてはそれを描き写してことを記憶しているし、中学・高校を通してノートの端っこには、必ず忍者のイラストや漫画のキャラクターの落書きをほどこしていたことを覚えている。けれども、小さい頃に他人から絵がうまいと言われたこともなければ、自分で才能があると思ったこともない。それは今でもない。ただ、描くのが好き、描きたくなる、それだけである。
 僕はスケッチブックをリュックサックから取り出して手にとると、それを何気なくパラパラとめくってみた。ローマのコロッセオを書いた鉛筆画、イタリアのブレーシアで描いたお城のペン画などが、かわるがわる主役になる。それらの絵を見ていると、描いていたときの心境や、それぞれの街でめぐりあった人々の印象が鮮やかに蘇ってくる。写真をたくさん敷き詰めたアルバムをめくるより、遥かに大きな感慨が、一枚一枚の絵から三次元の迫力で溢れ出てくるような気がするのだ。
 スロバキアの駅舎を描いた鉛筆画は、ビザを買い忘れたせいで夜明けに電車から強制的に降ろされたときの寂しさとやるせなさを、とびっきりの鮮度で呼び起こしてくれるし、プラハの城を望む角度で書いた、色つきのペン画を見ていると、「コーヒー一杯で何時間でも粘っていいよ!」と言ってくれた水上カフェの店長のあご髭が、手が届きそうなほどリアルに再現されるのだ。そのスケッチブックは、僕にとってはとても貴重な、オリジナルの紙芝居のようなものである。
 ところが、その紙芝居に、フィレンツェのシーンはまだ加わっていなかった。その日もどこかいいポイントはないかと、探しながら街を歩いてみたのだが、うまく描けそうな場所はついにみつけられなかったのである。

 明日こそは!

 と、決意してスケッチブックを閉じたそのとき、まるで「早く食い物をよこせ!」と駄々をこねるかのように、お腹がグーッという重低音を響かせて鳴った。それも一度ならず、何度も。激しく運動したせいか、どうしようもなく腹が減ってしまっていたので、もう何でもいいからその辺のどこかで何か詰め込みたい気分だった。
 薄闇の中、歴史というものの重みを体現するかのように、毅然とした姿をたたえてそびえたつジョットーの鐘楼を、畏敬の念を込めて見上げたりしながら、食い物にありつけそうな区画を目指して路地裏に迷い込んでいった。詩的な感情と至極現実的な欲求が僕の中で協演している。人間というのはおかしな生き物だと、変に感心しながらどんどん歩くうち、ある寂しげな通りの奥にぽつんと光る灯りが見えた。灯りはときにレストランを意味し、それはすなわち食い物にありつける可能性を示唆する。絶え間なく食料を求め続ける生意気な我が胃袋を抑えながら、期待に胸ふくらませてその灯りの方へと急いだ。

(つづく)


株式会社 愛
代表取り締まられ役
湯川史樹(ゆかわ・ふみき)
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