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オールステンレスカー&P?台車コミュの【ステンレスカー】採用形式

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主な採用形式(軽量ステンレスカー以前に登場)
東急7000系、東急7200系、東急8000系、東急8500系
京王3000系
南海6000系、南海6100系、南海6200系
国鉄キハ35-900

軽量ステンレスカー
東急8090系、東急9000系、東急1000系、東急2000系
東急3000系、東急5000系
京王7000系、京王8000系、京王9000系、京王1000系
南海8000系、南海9000系
東武10000系、東武20000系、東武30000系
京成3500系、京成3600系、京成3700系、京成3000系
小田急1000系、小田急2000系、小田急3000系
国鉄205系、211系以降の各形式

番外編
小田急4000系(鋼製車体だがP?台車を採用)

私が思いつく限り書いてみました。他にありましたらコメントでお知らせくださいね。

コメント(46)

 8000系についての続きです。

 昭和51年に田園都市線が5両編成で運転開始することになり、8500系とともに4両編成で登場した8043F〜8051Fにデハ8700形を1両づつ組みこみました。その際に冷房電源回路の引きとおし回路の都合上、デハ8700形とデハ8200形がユニットを組み、デハ8100形は第二パンタグラフを撤去の上、1M制御車となりました。
 また1次車が5両編成のまま田園都市線に転属してきて、同線の20m車5両化が推進されました。

 昭和52年に新玉川線が開業した当初は建設費の予算が大幅にオーバーしたために、8500系の新造車のみで開業時の所用車輌をそろえることが出来ず、8次車(8617F〜8626F)の中間に、8033F〜8041Fを乗り入れ改造を施した上、ばらして組み込みました。

 昭和54年より田玉線直通運転が開始されることになり、田園都市線配属の8000、8500系が大幅に編成変更することなりました。それで8000系4次車に暫定的に組み込まれていたデハ8700形は8500系に編成替えとなり、デハ8100形、デハ8200形が増備されました。この時点で8001F、8003F、8049F、8051Fが大井町線に残留して、他の編成は東横線に転属していきました。
 このときに8090系の試作車といえる軽量車デハ8400形(初代)が2両登場しています。後にデハ8281、8282へ、更にデハ8254、8255へと改番されています。

 昭和50年代に入ると冷房準備車の冷房化改造がスタートして、新玉川線乗り入れ改造編成も含めて全車冷房化されています。その際にクハ8000形の偶数車にも冷房電源用MGが搭載されています。

 昭和55年より東横線の急行を7000系8両から8000系7両(4M3T)に置き換えるのがスタートして、新たにサハ8300形が登場しました。また8500系に組み込まれているクハ8000形をサハ8900形の新造によって捻出して、東横線に中間車を新造して復帰もスタートしています。
 昭和57年には東横線の急行が8000系の8両編成に全面的に置き換えられることになり、新形式1M方式のデハ8400形(2代目)が登場して5M3Tの8両編成となりました。大井町線に残っている8049F、8051Fにもこのデハ8400形が組み込まれています。

 この頃より方向幕の自動化が開始されて、正面の方向幕は黒地に白文字で、急行列車の場合は急行種別も一体表示の上赤文字表示となっています。側面は行灯式から8500系と同様の種別と行き先を同時に表示する方向幕になっています。
 8000系1次車は長い間非冷房車でしたが昭和60年に全車輌冷房化改造されています。このときにクハ8000形の奇数車には冷房化電源用として大容量のSIVが搭載されています。

 しかし急行運用を8090系で置き換えることになり、8000系は各停運用にまわされることになったのですが、この時に各停編成は6M2Tの8両編成にすることになり、サハ8300形はデハ8200形へ、デハ8400形は大井町線所属の8408、8409を除き、デハ8100形へ改造されることになりました。改造で発生した電装品は8090系の新造車へ流用されています。

 東横線の各駅停車8両化を進める過程で、8005F、8045F、8047Fは大井町線に転属して5両化され、捻出された中間車は田園都市線の8500系に乗り入れ改造で組み込まれていた編成とともに、東横線の編成への増結に回されています。この過程で新造された8000系はデハ8256とデハ8169の各1両のみとなっています。

 東横線では各停運用を中心に使用されていましたが、室内のアコモが見劣りするようになったので更新工事がスタートしました。更新途中から正面の塗りわけが歌舞伎塗装になったり、方向幕がLEDになって、乗客サービスへの向上が図られています。

 長い間東横線の主力として活躍していましたが、5050系やみなとみらい線のY500系の登場により置き換えが進み、東横線で現在は朝ラッシュ時運用の編成のみとなっています。
 大井町線の編成も8500系や8590系の転入により置き換えが進み、こちらも8001Fなどが最後の活躍をしている状態です。
 幸いにも伊豆急やインドネシア国鉄に譲渡されて第二の天地で活躍していますので、東急線から去っても活躍を見守りたいと思います。
 今回は東急8090系について解説します。

 昭和37年に製造した7000系より、アメリカのバッド社との技術提携により東急の新造車はサハ3250形とデハ150形、そしてアルミ試作車(デハ7200、クハ7500)を除き全てオールステンレスカーとなりました。
 ステンレス車はさびないために塗装が不要という特徴があるのですが、同時期に実用化されたアルミ車体に比べて重たい(普通鋼製車とさほど変わらない)ために、東急以外の鉄道会社ではなかなか普及しませんでした。

 それでバッド社との技術提携の期間満了を見越して、東急車輛独自でステンレス車体の構造解析をコンピュータ(ボーイング社が航空機製造で用いられているものと同じ)で行い、贅肉を削った軽量ステンレス車体を試作しました。
 まずは昭和54年に8000系の中間電動車(M2)デハ8400形2両で試用してみて、特に大きな問題が出なかったので、東横線の8000系の編成増備車は8090系となり、車体のデザインをモデルチェンジしました。

 当時の東横線では7000系非冷房8両編成が急行の主力として活躍していましたが、輸送力増強および冷房化率を向上させるために8000系を7両編成化(新形式サハ8300形を組み込み)して急行運用に投入を始めていました。
 これにあわせて昭和55年より8091Fが4M3Tの7両編成で投入されました。足回りは従来の8000系とほぼ同一で形式番号もそれぞれ90番台を名乗っています。

 8090系のもう一つの特徴は地上線専用運用ということで、5200系以来久々に正面非貫通構造として、折妻に連続3枚窓を配置して正面の展望性をよくしていることです。側面はステンレスカー独特のコルゲートをリブに変更して、窓下に赤帯2本を巻いて、東横線急行の新しいイメージをPRしました。

 昭和56年には菊名駅を除いた急行停車駅のホームが20m車8両対応となったので、8093F以降は1M電動車デハ8490形を組み込んだ5M3Tの8両編成で登場しました。8000系の急行編成も同時にデハ8400形(2代目)を新造して5M3Tの8両編成にされています。後に7両編成の8091Fも8両化されています。田園都市線の8500系8両編成の応援も受けて、急行の20m車8両化が達成されました。

 当時の東横線は急行運用と各停運用に分かれていて、各停の方も7000系などの18m車8両から8000系の20m車7両への置き換えが進められているところでした。更に全駅のホームを延伸して各停も20m車8両化することになり、8000系と8500系は各停運用に転用して、急行は8090系を増備して統一することになりました。
 このときに登場した8097F以降は正面のスタイルを見直してライトが赤帯部分の位置に変更され、運転台もATC準備対応の高運転台となりました。また編成も補機の配置を見直すためにデハ8490形の連結位置が変更となり、サハ8390形とユニットを組むことになりました。後に8091F〜8095Fも編成を統一しています。

 しかし、みなとみらい線への乗り入れへの話が具体化されると、正面非貫通の8090系がそのままでは乗り入れ不可能となり、当時増備が進んでいる9000系に比べても性能的に見劣りするようになりました。
 それで昭和63年に正面貫通式の8590系(デハ8590、8690形各5両)を新造して、5M3Tの8両編成10本から6M2Tの8両編成5本に編成替えして、正面非貫通のクハ8090形を中心に3M2Tの5両編成10本を組んで大井町線に転属させました。

 東横線の特急新設ダイヤ改正による運用減や田園都市線輸送力増強の兼ね合いで、一時期8590系のうち3本を長津田に転属させて、10両編成2本が田園都市線で活躍しました。田園都市線に新5000系が登場すると再び東横線に戻りましたが、東横線に5050系が増備されて昼間運用が9000系以降のVVVFインバータ車に統一されると、8590系全編成が長津田に転属して、5両編成3本と10両編成2本に編成替えされています。
 大井町線に配属の5両編成は4M1Tという強力編成を生かして、田園都市線直通急行に8500系とともに活用されています。
 南海の8000系と9000系についてですが、今までずっと軽量ステンレス車体だと思い込んでいたのですが、従来のバッド社との技術提携で製造された車体のようですね。
 トップページの解説を修正しておきました。
 今回からは南海電車について解説します。
 まずは南海高野線の通勤型6000,6100系です。

 昭和37年に東急車輛が米国バッド社と技術提携して、オールステンレスカーの製造技術を導入し、東急7000系、南海6000系、京王3000系の3系列が最初に登場しました。
 東急7000系はバッド車の標準型車輌と同じスタイルを採用して角ばったデザインとなりましたが、南海6000系や京王3000系の場合は従来形車輌のデザインの流れを汲んでいて、京王3000系は正面の上半分にFRPを採用して丸みを出したのに対して南海6000系は軟質ステンレスを用いて丸みを出しています。

 6000系は従来車と同様に片開き車となりましたが、高野線の通勤輸送力増強のために20m4扉車となっています。また昇圧も控えていたので複電圧仕様となっています。

 続いて両開き扉に改良して、ラッシュ時の乗降時間の短縮を図ったのが6100系となります。昇圧で旧型車の置き換えも含めて6000系、6100系は大量に増備されました。
 6100系も登場時は非冷房でしたが、冷房改造も視野に入れていて、パイオニアIII台車も車体重量増を見越して車軸などを補強されて登場しています。
 増備途中から冷房車で新造するように切り替わりましたが、従来の非冷房車も冷房改造されています。

 先輩格の6000系も冷房改造されることになりましたが、こちらのパイオニアIII台車は住友金属のミンデン台車に交換されてしまいました。
 6100系も近年の車体更新で同じく台車をミンデン台車へ交換されて、こちらは形式を6300系に変更されています。

 高野線は北半分の平坦区間と南半分の山岳区間では輸送需要が異なり、高野山まで直通するのは17m級2扉車のズームカーのみですが、北半分の平坦区間では沿線人口も増えていることから6000系などの大型通勤車が活躍しています。現在は橋本まで複線化と同時に線形改良されて、6000系なども抑速ブレーキを追加装備した上で、なんば〜橋本間で活躍しています。
 続いて南海高野線の8200系について解説します。

 1975年に電気子チョッパの試作車として6200系と同じ車体で8000系が6両編成1本のみ製造されました。
 高野線は三日市以南の急勾配区間では抑速ブレーキが必需品となるのですが、8000系の場合は回生ブレーキを搭載しているものの、回生失効時のバックアップ用の発電ブレーキを搭載できずに、勾配区間には入線できないなどの制約がありました。

 同時期には関西私鉄で電気子チョッパ制御を採用した鉄道会社が複数社ありましたが、阪神を除き制御装置の価格の割りに経済性の効果が発揮できずに量産化されませんでした。
 南海も界磁チョッパ制御に切り替えることになり、1982年に8200系として6両編成で高野線に登場しました。
 車体は8000系をベースに正面デザインが若干変更になっています。

 現在は三日市町以南の勾配区間でも変電所に回生ブレーキの電力吸収装置が追加されているので、橋本まで乗り入れるようになりました。
 東急8500系について解説します。

 8000系は新玉川線乗り入れを念頭において設計されたのですが、当初は地上信号式のATSを用いる予定が、トンネル内の信号機の見通しを考えると車内信号式のCS−ATCに変更することになり、半蔵門線直通運転に際して営団地下鉄(現:東京メトロ)と乗り入れ車輌の仕様について協議した結果、相互乗り入れ開始(半蔵門線開業と同時)当初の6両編成では東急車は5M1Tの性能が要求(再急勾配で1ユニットカットで起動できること、先行故障列車を押し上げて起動できること)されることになりました。
 それで8000系の両端クハ(Tc)の編成から両端デハ(Mc)の編成に変更することになり、営団地下鉄と運転台機器配置や床下機器の詳細配置を協議して検討しなおした8500系が製造されることになりました。

 東急では初めて高運転台を採用して、正面および側面に種別つきの電動方向幕を装備して、列車無線装置も新造時より設置されています。またATC装置の設置準備として運転台直後に搭載スペースも確保されています。
 このような通勤電車の最新技術が集大成されたことが評価されて、東急で初めて(今のところ唯一だが)ローレル賞を受賞しています。

 昭和50年当時の田園都市線は大井町をターミナルとして発着しており、現在の大井町線区間のホーム有効長の関係で最大4両編成として8000系が昭和49年より投入されたばかりでした。引きつづき輸送力増強のために8500系を4両編成で導入することになり、6次車(8601F〜8610F)は3M1Tで、7次車(8611F〜8616F)はオール電動車編成で続々と投入されました。
 昭和51年より5両編成化に着手することになり、8000系4次車も含めて8500系の中間車が1両づつ新造して増結されました。8500系は全編成4M1Tの5両となり、各編成ごとに車輌の末尾番号がそろいました。
 ちなみにサハ8900型に冷房電源を搭載していますが、8910まではMGを、8911からはSIVに変更になっています。

 昭和52年にいよいよ新玉川線が開業することになりましたが、建設費が予想以上にかかったことで車輌新造費が不足してしまい、8500系8次車(8617F〜8626F)の中に8000系4次車を乗り入れ改造を施した上で組み込まれました。当時は地下線内で冷房が使用できなかったので、新玉川線の編成は全て冷房準備車となっています。
 田園都市線の8500系も同年秋より長津田〜渋谷間に昼間時間帯のみ快速列車が運転開始されことになり、ATCを取り付けました。
 昭和53年より営団地下鉄半蔵門線が渋谷〜青山一丁目間で開業したのですが、当時はまだ営団8000系を製造せずに全列車東急8500系で運転されていたので、9次車から8627F以降(8630Fまで)が6両編成で新造されています。

 昭和54年8月より田園都市線の運行系統が大幅に変更になり、現在のように新玉川線(路線名はまだ統合されてなかった)と全面的に直通運転が開始されて、残りの区間は大井町線として分離独立しました。
 同時に全列車8500系に統一されて一部列車は8両編成化されることになり、10次車として8500系の中間車が大量に増備されています。(新玉川線の冷房準備車は冷房改造されました)


この頃より東横線の急行冷房化で20m車が必要となってきたので、8500系に組み込まれているクハ8000形を捻出して東横線に転属させて新造の中間車と編成を組むことになり、代わりにサハ8900形を新造して組み込んでいます。
 また昭和56年より営団8000系がデビューして、営団に貸し出されていた編成と入れ替わりで8500系(6両編成)が東横線に転属しています。
 8000系の項目でも述べましたが旧8400形の軽量試作車の成功により13次車からは8000、8500系の増備車も軽量鋼体車に変更となり、外観は窓下に従来どおりコルゲートを取り付けているものの、屋根のカーブが変更となり絶縁塗料を塗る方式に変更したので、編成内で目立つようになりました。

 昭和58年1月より急行列車の運転が開始されることになり、同時に10両編成化もスタートして、14次車でも8500系の中間車が大量に増備されています。
 昭和59年に田園都市線が中央林間まで全通して、初めて10両固定編成として15次車(8631F〜8633F)が登場しています。
 東横線の各停の大型車化の一環として16次車の8634Fが7両で新造(デハ8800形1両はサハ代用で4M3T編成で運用)されて東横線に新製配置となりましたが、わずか1年で10両化されて田園都市線に転属しています。
 ちなみに東横線の8000系各停7、8両化に伴う増結用の車輌は、8500系に組み込まれていた8000系中間車を捻出して東横線に転属させ、代わりにデハ8700、8800形を新造して補充しています。

 引き続き東横線、田園都市線の輸送力増強のために17次車(8635F、8636F)、18次車(8637F〜8641F)、19次車(8642F)と増備されていますが、8642Fが8両編成で東横線に新製配置された以外は田園都市線に10両編成(8638F〜8641Fは5+5で登場して、大井町線でも運用)で投入されて、8500系の一部の8両編成が東横線に転属しています。
 18次車からは9000系のデビューにあわせて設計変更が行われ、クーラーや室内の内装、座席は9000系に準じたものに変更になっています。

 8637Fの中間車のうち3両はVVVF車(1C8M制御)に試験的に改造されることになり、改造工事で入場中は8642Fの中間車3両が代わりに連結されました。改造工事が完成後は元の編成に戻されて営業運転に復帰しています。
 その試用結果に基づいて平成元年に20次車として最終ユニット(デハ0718−デハ0818)が同じく1C8M制御のVVVF車として登場しています。このときに8642Fが田園都市線に転属して10両化されましたが、8637FのVVVF車ユニットもまとめて集約するように編成替えされました。

 現在は田園都市線用として全て10両化されて、東横線に転属していた編成も9000系の増備で田園都市線に転属の上、10両化されています。
 結果として8500系は400両も製造されましたが、デハ8700、8800形はそれぞれ100両を超えてしまい、100両目からはたとえば8899の次が0800となるように、千の位を0として番号処理を行っています。
質問です。

東急の5200系、6000系はオールステンレスカーなんでしょうか?
たまたまアルバムを見てましたら東急の5200系に5000系を混結したのが出てきましたものですから・・。ここのコミュの範疇でしたら、写真をアップしたいと思います。
>東急の5200系、6000系

 東急車輛とバッド社が、提携する以前の技術で作られた、セミステンレスカーです。構造的には鋼製車と大差ありません。
>aki-akiさん、雪兎さん

 東急5200、6000系はすでにお答えが出ているとおりセミステンレス(スキンステンレス)ですが、コミュのトップページに記してあるとおりに、セミステンレスカーも範疇に入れてあります。>雪兎さん、サンクス

 5200+5000の写真は貴重かと思いますので、アップのほどお願いいたしますね。>aki-akiさん
雪兎さん、福島支部長さん、早速にありがとうございます。

あ、セミステンレスカーも良かったんですか。そう書いてありますね。

では、古い写真をアップします。

(2479)
 1980-5-8
 大井町線大岡山駅
 5202-5117-5251-5211-5201
5連にするのに、5000系から抜いてきたんですかねえ。
>aki-akiさん
 早速アップありがとうございます。
 この頃はまだ2回目の更新工事を受ける前ですね。私がまだ小学生だった頃、よく乗ったことはありますがカメラは持っていなかったので手元に写真がありませんでした。

 5200系は4両しか製造されなかったので、東横線から田園都市線に比較的早期に転属したものの、田玉線直通運転時に東横線に戻り、5000系を増結した4+2の6両となったようです。
 しかし昭和55年には大井町線に戻ってきた際に5両編成となり、中間にグリーン車1両をはさんだ編成となって大井町線から引退するまでこの編成でしたね。

 この写真の撮影時期よりしばらくして更新工事が行われて、ヘッドライトがブタ目のシールドビームに、台枠も更新されて車体裾部分のコルゲートがなくなってしまいました。
>aki-akiさん
 はじめまして、5200の懐かしい写真をありがとうございます。S56頃大井町線で通勤していたので良く見かけました。ところが東横線の4+2は毎日使っていたにもかかわらず全く記憶がありません。ピクトリアルの東急特集も空白期間で編成表が見つかりませんでした。まあ6000の東横急行も6連だか8連だか良く覚えてないので、ボケ始めているかもふらふら
(8連時代があったなんて最近知りました)
>鉄弦28号さん
 昭和54年8月に田園都市線が8500系に統一されて、18m車が大挙東横線に転属したのですが、翌55年には東横線から5000系、5200系が引退し、さらに56年には6000系も引退しましたね。(7200系の各停6両はいつまで走っていたかな?)

 この頃の東横線は各停が6両(18m車、20m車共に)、急行が18m車8両と20m車7両?だったかと思います。
 6000系の8両編成の急行もあったようです。

 5200系や6000系が東横線を走っていたのもほんのわずかの期間でしたが、鉄道ピクトリアルの昭和59年か60年の東急特集号にこの頃の記事が掲載されていたと思います。
 今回は東急9000系について解説します。
 東急では6200形電車を改造したVVVF試作車で営業運転をしつつ各種試験を行っていましたが、昭和61年に1500V用の量産車としては近鉄、新京成に次ぐ3社目として登場しました。

 明治時代に電車(電気機関車)が登場して以来、制御方式や駆動方式には時代とともに新技術が導入されてきたものの、主電動機については直流直巻モーター(一部の電車は直流複巻モーター)を採用してきました。しかし、電気子に電流を流す関係で整流子(ブラシ)が必要不可欠で、磨耗部品であるためにメンテナンスが欠かせませんでした。

 一方交流電源で駆動できる誘導電動機は電気子に電流を流す必要がなく整流子を省略できるので、鉄道車両用のモーターとして実用化できないか注目されていました。しかし、鉄道車両の場合は速度に応じて回転数やトルクを制御する必要があり、交流電源の電圧と周波数をコントロールできる制御装置の開発が望まれていました。
 チョッパ制御で実用化された半導体素子サイリスタをさらに進化させて、三相交流電源の電圧と周波数をそれぞれ別個に制御する技術が確立され、VVVFインバータ制御装置が誕生しました。

 一番最初に実用化されたのは熊本市電に8200形電車ですが、当時のVVVFインバータ制御ではまだ信号回路への誘導障害の影響がわからず、信号のない路面電車でまず実用化されました。
 次が直流750Vの電源を第三軌条から取り入れている大阪市営地下鉄で、20系電車として登場しています。
 その後にようやく1500V用として使用できるサイリスタ素子が実用化されて、日本全国の鉄道に普及するようになりました。

 東急9000系はVVVFインバータ制御にボルスタレス台車を装備して、東横線用として登場させました。
 8090系では車体の側面が上窄まりとなっていますが、床面積を有効活用すべく、8000系などと同様な完全切妻の車体となりました。ただ正面の非常扉は車掌台に寄せて運転台スペースを拡大しています。
 室内は基本的に4扉ロングシートですが、車内の風の吹き抜け防止のために連結面は狭幅貫通路としてドアも取り付けています。また車端部の左側にはボックスシートを採用して着席定員増大の試みがされています。7人がけのロングシートも3+4にシートモケットを色分け区分して、さらに肘掛で区切っています。
 また車内放送はICを用いた音声合成方式の自動放送を採用し、第一編成のみは連結面の貫通路上部にLED案内表示を設けて、次の停車駅を表示させています。

 編成は1M方式の電動車を採用して、MT比が1:1となるようにしています。また編成単位で新造したこともあり、各車輌の形式番台区分が重複しないようにして、末尾の番号が編成内で統一されました。クハは9000、9100、デハは9200〜9400、9600、サハは9700、9800となっています。基本的にSIVはM車に、CPはTc、T車に搭載していますが、デハ9600形のSIVとサハ9700形のCPは搭載を省略しています。

 昭和61年3月に1次車として9001Fが8両編成で登場して、早速急行運用で運転開始してものの、直後に横浜〜高島町間で脱線事故が発生してしまいました。その後は原因究明のために営業運転を休止して、対策を施されるまで増備がストップしました。
 昭和62年11月よりようやく2次車が登場することになり、9002F〜9006Fは東横線の各停運用として8両編成で、9007Fは大井町線用として5両編成で登場しています。
 一時期9001Fが5両編成化されて大井町線で走っていたこともあります。また9007Fはこどもの国線の通勤線化工事の際に3両編成で営業運転されて、長津田駅そばの急カーブで車輪のキシリ音対策の試験が行われました。

 昭和63年8月からは3次車として9008F〜9012Fの8両編成5本が急行用として登場しました。同時に登場した8590系の編成がえで8090系は5両編成化されて大井町線に転属しています。(大井町線の7000、7200系が目蒲線、池上線に転属して、3000系を全廃し、日本初でステンレスカー、回生ブレーキ化率100%を達成)

 引き続き平成元年9月に4次車として9014Fが、平成3年3月には9015Fがそれぞれ8両編成で新造されて、東横線にいた8500系を全て田園都市線に転属させました。
 
 現在は更新工事を実施され、引き続き東横線(特急から各停まで)や大井町線(田園都市線直通急行には用いられない)で運用されています。
>福島支部長さん
>5000系を増結した4+2

 ありました。ピク85’1月の東急特集号の、東横線5000系さよなら運転の記事に79'8の写真が載っていました。相棒は5050が渋谷より先頭だったようです。さよなら運転が80'3月ですからこのときいっしょに転出したのでしょうね。

>鉄弦28号さん
 5050って桜木町寄り先頭車ではありませんでしたか?

 昭和55年3月といえば、東横線から5000,5200系が引退しましたが、翌4月からは目蒲線に3両編成で走り出しましたね。

 5000系はブレーキ方式の関連で最大6両編成までしか増結が出来なかったようで、一時期東横線で8両化するためにブレーキを改造する計画もあったようですね?
ああっ!、失礼!偶数車は当然桜木町よりでしたね!
で、訂正です。渋谷方が5200でした!
>フェルチョ☆ターボさん
 補足ありがとうございました。
 Y000系を設計する際に、1M2Tで運転できるかなど、データを採取していたのですね。長津田駅を出たところの急カーブの騒音防止もそれに含まれているかと思いますね。
矢口と申します。こちらでは初めての書き込みとなります。よろしくお願いします。

FTRAINのログを漁っていたところ気になる発言がありましたので質問します。なんと福島支部長。さんの発言でした^^;

一部を引用させていただきます(9003Fは2003Fの誤記でしょうか)。
「9001Fと9002Fは編成の一部の車両の内装を試験的に変更し、その結果が9003Fに活かされています。」

鉄道雑誌の主要な記事は集めているつもりなのですが、このことについて触れた記事はなく初めて知りました。

1995年の発言ですので、もうご記憶にないかもしれませんが、もしご記憶がありましたら、どのように変更されたのか教えてください。
>矢口さん、初めまして。

 エフトレの10年以上も前の発言ですか。懐かしいですね。
 9000系の場合、9001Fが試作車で、9002F以降が量産車となるのですが、クハの車内妻面の貫通路の上にLEDの案内表示が9001Fのみ設置されていたのが、9002F以降は設置されなかった程度しか違いがなかったかと思います。

 2000系の場合は2001Fと2002Fの座席や窓のカーテンの模様を何種類か用意して比較検討した結果、2003Fに採用されたので、おそらくエフトレの私の発言は2000系の間違いだったかと思います。

 2000系の後はしばらく新車ゼロの年が続いたので、この内装は8000系更新車(歌舞伎車)に採用されたのみで終わりましたね。

参考までに以下のコミュを紹介しますね。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1242150
>福島支部長。さん

なるほど、2001Fと2002Fでしたか。疑問が氷解しました。ありがとうございます。

内装は少し調べたところ、1994年〜1995年に行われた7600系の室内更新でも花柄のモケットとスタンションポールは採用されたようです(カーテンについては書いてありませんでした)。
 そういえば7600系も更新されましたね。
 スタンションポールは7600系の他にも8000系、8500系更新車にも採用されていましたね。

 2000系にスタンションポールが採用されていたかどうかは記憶に残っていないのですが、中間車の貫通扉のガラスのデザインも三角形2枚の組み合わせに変更されていたのを思い出しました。

 スタンションポールというと、どうやら5000系6扉車を連想してしまいます。


最後に宣伝です。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=2379670
通勤・近郊電車の標準車輌
 最近9000系に車外スピーカーの取り付けと車掌スイッチの交換を行っているようですね。
 近々実施予定の13号線への直通乗り入れではワンマン運転になると思うので、それに対しての準備だと思うのですが、車掌スイッチは大井町線の9007Fや田園都市線の2000系も交換しているようです。
 真相は何なのでしょうか?
13号線への乗り入れについては行わない可能性を含めて「東急 9000系・1000系・2000系」コミュニティのほうに書き込みましたので、そちらをご参照ください。
 通勤電車のロングシートの座席(20m4扉車だと7人がけが主流)に定員どおりになかなか座ってもらえないために、1980年代から色々と試行錯誤されてきましたね。

 私が思いつくものとして、営団8000系の座席に一人分の区分を示すマスを刺繍で表示、国鉄201系の3+1+3に色分けする、何系が始祖か失念したがバケットシートを採用するなど試行錯誤しましたが、東急9000系では肘掛で3+4に区切ってしまいましたね。
 結局東急以外の鉄道には強制的に区切るのは普及しなかったようですが、JRの209系で2+3+2でスタンションポールを設置するのがバリアフリー法に迎合するようで、最近のトレンドとなり、東急9000系も更新時に肘掛を撤去してスタンションポールに変更しているようです。
>福島支部長。さん
東横線8000系の6M2T化に、冷房電源の関係で8001、8003、8005と8011、8013、8015を交換したと福島支部長。さんがむかし書かれているのを拝見しました。

交換時期は1988年夏ごろということが下記のサイトに書いてあったのですが、8011F〜8015Fの8連化はもう少し早い時期ですし、ほかにも8連化された編成があったようですが、そのあたりはどうなっていたのでしょうか。

根岸旭台鉄道研究所 ありがとう東急8011F
ttp://homepage3.nifty.com/Tc181-63/8011F.html

ほかの参考ページ
hagiのホームページ 東横線の車両の動き 1972〜
ttp://www5.big.or.jp/~hagi/rail/toyoko.html

東急編成写真・資料館 東急8000系グループ編成の変遷 〜1991
http://tokyu.at-ninja.jp/data/hensei/8000_-1991.html
 ご存知の通り8000系1次車(8001F〜8009F)は非冷房車で登場して、2次車以降が冷房車あるいは冷房準備車で登場しています。
 8000系の冷房車が登場した当初は、低圧補助電源用の静止形インバータ(SIV)が実用化されてからあまり時間が経ってなく、冷房電源に使える大容量のSIVはまだ開発されていませんでした。
 8000系の冷房電源はクハ8000形の奇数車の床下に専用のMGを搭載することにして6両分の冷房電源を供給することにしました。冷房準備車も台枠を強化して冷房改造時にすぐに搭載できるようにしてあります。(4次車からはクハ8000の偶数車にもMGの搭載準備がされた)
 冷房準備車の方も昭和54年までに順次冷房改造され、クハ8000形にMGを搭載しています。(8034〜8044の偶数車も8500系の中間に組み込まれて新玉川線乗り入れに使用されていたので、東横線に復帰するまでMGを搭載)

 東横線の8000系は一部編成が急行運用に使うために、7両化、8両化が計画されて、新形式サハ8300形が登場しました。その時に2両分の冷房電源を供給できるSIVを搭載して、クハ8000形のMGの容量不足分を補っています。
 一方8000系1次車も冷房改造が進められ、その時にはもう既に冷房電源用の大容量のSIVが実用化されていた(サハ8911から採用)ので、クハ8000の奇数車の床下にSIVを搭載しました。

 ちょうどこの頃から東横線の各停の大型8連化にともない、8000系の6M2T化が計画されて、サハ8300形は電装してデハ8200形に改造されました。このときに冷房電源用のSIVを撤去してしまったので、クハ8000形のMG1台だけでは明らかに容量不足となりました。
 それと関連して冷房装置の省エネ化を進めることにして、電力消費量を削減した冷房への換装が進められていたのですが、電源の容量的には8011F以降のMGよりも8009FまでのSIVの方が余裕があったので、大井町線の1次車と東横線の2次車のクハを相互に貸し出しという形でトレードしました。
 おそらく8017F以降の編成はやむを得ず、冷房の一部カットをして、省エネ冷房搭載まで乗り切ったのでは?と思います。

 後に東横線の8000系編成では登場当初から使用していた低圧補助電源のSIVが老朽化したので、冷房電源と兼用の大容量のSIVに換装されて編成内のデハ8200形の一両に搭載されました。これで冷房電源容量に関しては余裕が出来たと思います。
>福島支部長。さん。

釈迦に説法のような気もしますが、あらためて資料を調べた結果です。どうも省エネ型のクーラなら8両でもなんとかなるといった印象を受けました。

まず、サハを挟まない7両以上の編成は、1982年4月の急行大形8両、普通大形7両化の際(13次車投入による組み替え)に、7両編成のMT比を5M2Tとすることになったため誕生しました。編成としては8039Fと8041Fで、両先頭車にMGを設置することで対応していたようです(鉄道ファン1982年7月号)。8039Fと8041Fは12次車までMGつきで8500系の中間に組み込まれていたので、それを取り外さずにそのまま使用したのかもしれません。

1983年10月には急行の大形8両への統一と普通の7両化が進み(8000系15次車投入による組み替え)、8011F〜8019F、8029Fが7両編成化されましたが、このときからは省エネ型のクーラを使用することによって対応したようです(鉄道ファン1984年7月号)。

1986年4月〜1988年4月には普通の大形8両化の推進に合わせて東横線所属編成の全編成が8両編成となりましたが、デハ8200形へのSIV搭載は以下のとおりもう少し後だったようです。ちょうどこの時期に先頭車交換が行われました。

1987年4月1日 不明(補機の記載なし)
1988年4月1日 8021F、8035F(17編成中、2編成)
1989年4月1日 8017F〜8039F、8043F(17編成中、13編成)
1989年4月1日 8011F〜8043F(17編成中、17編成)
>福島支部長。さま
>東急9000系では肘掛で3+4に区切ってしまいましたね。結局東急以外の鉄道には強制的に区切るのは普及しなかったようですが、

先日、初めて京急新1000に乗りましたら、シートが仕切られていました。ちょっと古臭いイメージでしたのをふと思い出しましたので。。。
>矢口さん
 釈迦に説法なんてとんどもございません。
 私の発言はかなり推測が入ってしまってましたので、やはりデータによってきちんと裏づけされた発言は色々と勉強になりました。
>1989年4月1日 8011F〜8043F(17編成中、17編成)
これは1990年ですよね?
>いばらさん
 歴史街道で水間鉄道が出てきましたか?
 実は現役トピが当コミュにありますので、お手数ですが、そちらに再度発言いただけると幸いです。

>鉄弦28号さん
 京急の新1000系にも座席の仕切りが登場ですか。
 私はあいにく乗車したことがないのですが、最新の6次車が今までの伝統を打ち破ってステンレスカーになったのが斬新でしたね。
>福島支部長。さん
おっしゃるとおり1990年の間違いです。失礼しました。
出典はジェーアールアール発行の「私鉄車両編成表」1987年版〜1990年版です。
 8001Fの2号車のデハ8409について別コミュに発言したものを記録のためにこちらにもアップしておきます。
(マルチポスト禁止とめくじらをたてないでくださいね。)

 この車輌は1M専用ユニットで端子間電圧が750Vのモーターを使用して1両で直並列制御を行っています。
 デハ8100型でもユニット相手のデハ8200形がない場合、4個のモーターを永久直列繋ぎで制御できますが、回生ブレーキの失効速度が45km/hとなってしまいます。
 それでデハ8100-8200形の2両ユニットの場合と同じように回生ブレーキが25km/hまで使えるようにデハ8400形が登場しました。

 登場当初は東横線急行用の5M3Tの編成と大井町線の8049F、8051Fに組み込まれていましたが、前者は6M2T化のためにデハ8100形に改造されて、(8045、8047Fは5両化されて大井町線に転属)大井町線のデハ8408、8409の2両のみが改造されずに残りました。
 しかし、大井町線の8045F〜8051Fはご存知の通りに元2パンタのデハ8100形が連結されていて、田園都市線に新造投入された際に2M2Tの4両編成で活躍するために、制御装置や抵抗器が特殊仕様となっていたので、8000系廃車の第一陣になってしまいました。
 それでデハ8400形を廃車にせずに有効活用すべく8001F、8005Fのデハ8101、8105と車輌交換された次第です。
静岡鉄道1000系です。
Wikiで調べたところ、
東急7200系をベースに、前面非貫通にした車両のようですね。
>かのぷ〜 ^^さん
 静鉄1000系の写真ありがとうございます。
 まだ軽量ステンレスカーが登場する前で、オールステンレスカーは東急車輌でしか製造できなかった時代でしたが、在来車をすべて置き換えて1形式に統一させてしまった地方私鉄で注目の的ですね。
 側面から見ると本当に東急7200系とそっくりで、隣の県の豊鉄1800系と並んで評価できますね。(ただTc車もPIIIではなくペデスタル式TS台車をはいています)

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