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ホリスティックケアネットワークコミュのシュタイナーから看護へ

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こんにちは。ドイツの旅(行けるかどうかわかりませんが、是非とも行きたい!です)に向けての事前準備?としてちょっとトピを立ててみました。

私はミヒャエル・エンデの「モモ」が好きで、そういうことから子安美知子さんの

〔「モモ」を読むーシュタイナーの世界観を地下水としてー女性文庫 学陽書房〕http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%83%A2%E3%83%A2%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%E2%80%95%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3%E3%82%92%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E6%B0%B4%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6-%E5%AD%90%E5%AE%89-%E7%BE%8E%E7%9F%A5%E5%AD%90/dp/4022606339/ref=sr_1_8/250-8242737-8575416?ie=UTF8&s=books&qid=1179967921&sr=1-8

という本を読んでシュタイナーについて知ったのですが、(私にとって)難解なシュタイナーのアントロポゾフィーやその世界観を「モモ」を通してわかりやすく述べられており、さらに看護に大切な傾聴についても深く述べられていてわりと興味深く読めました。

ここでは、その本から印象に残った箇所を引用して、皆さんにシェアしたいなと思っています。

また、シュタイナーの思想をどう看護にいかすか、またいかされているかを少しづつ考えていけたらと思います。

よろしくお願いしまーす。





コメント(7)

面白そうですね〜〜♪わくわく。。

モモは大学のドイツ語の授業で、原著を読みました。
でも、オオダコのなんとかとか、
辞書をひけども行き当たらない単語が多く
初心者泣かせでした(笑)

子安さんがこんな本を書かれていたとは
知りませんでした。
早速本を探してみよーーーっと。

どうもありがとうございますvv
<傾聴について>
看護の中で重要な位置をしめる傾聴。その「技術」をもっと深めたいと思うとき、「モモ」とシュタイナーの文献から(疑問もかなりありますが)参考になりそうな箇所がいくつかありましたので引用してみます。 

神秘家ならではの言葉や文章がたくさんありますが、そういった部分が苦手でなければ、割と興味深く読めるのではないかと思います。もし適切でないと思われた箇所がありましたら削除しますので言ってくださいネ。


主人公は、モモという名の浮浪児の女の子です。年齢も生まれた場所もわからないという、はっきりとしないモモの紹介の中で、外見以外のモモの特徴をはっきりと説明している箇所があります。つまりモモの「相手の話を聞く」力を述べている箇所です。


「小さいモモにできたこと、それはほかでもありません。あいての話を聞くことでした。」と書いて、作者エンデは、すぐに読者の反応を予想します。

「なあんだ。そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんてだれだってできるじゃないかって。」

ところが作者は言い切ります。

「それは間違いです。本当に聞くことができる人はめったにいないものです」と。

聞くこと、ドイツ語のzuhorenはただ聞くというより、耳をじっと傾けて聞き入ることです。モモがその点で名人だったというのはどういうことでしょうか。
                                  
「モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人もきゅうにまともな考えがうかんできます。モモがそういう考えを引き出すようなことを言ったり、質問した、というわけではないのです。

彼女はただじっとすわって、注意深く聞いているだけです。その大きな黒い目は、あいてをじっと見つめています。すると相手には、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかと驚くような考えが、すうっと浮かび上がってくるのです。

モモに話を聞いてもらっていると、どうしてよいかわからずに思いまよっていた人はきゅうに自分の意志がはっきりしてきます。ひっこみ思案の人には、きゅうにまえがひらけ、勇気が出てきます。不幸な人、なやみのある人には、希望とあかるさがわいてきます。

例えば、こう考えている人がいたとします。おれの人生は失敗で、なんの意味もない、おれは何千万人もの人間の中でケチな一人で、死んだところでこわれたつぼとおんなじだ。べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きていようと、死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。

この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことに自分が間違っていたことがわかってくるのです。

いや、おれはおれなんだ。世界中の人間の中でおれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりにこの世でたいせつな存在なんだ。こういう風にモモは人の話が聞けたのです。」
             
      

ここでシュタイナーの「いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか」という本をあけてみます。そこでシュタイナーは「他の人間の語る言葉に耳を傾けるありかた」について説いています。

「そのさいには、自分自身の内なるものが完全に沈黙するようになる習慣が、身につかなければならない。

だれかが意見を言う、ほかの人がそれを聞くとき、ふつうは聞く人の心のなかに賛成、反対のどちらかの反応がうごめくものである。また多くの人たちは、ただちにその賛成や、とくに反対の意見を外に表わしたい気持ちにかられてしまうものである。

しかし、この道の訓練を志す人はこうした賛成や反対も気分をすべて沈黙させねばならない。」

「ひとつの練習として、ある期間自分と正反対の考えに耳をかたむけ、いっさいの賛成、とくにいっさいの否定的判断を完全に沈黙する行をみずから課する。いっさいの合理的な判断が静まるばかりでなく、悪、拒絶、いや賛成の気持ちも、いっさい沈黙することが大切である。

とくにほんとうに注意深く自己観察する必要があるのは、そうした感情がたとえ意識の表面にはのぼらないようでも、自分の心の奥深いところにひそんではいはしないだろうか、という点である。

例えば、なんらかの意味で自分よりずっと低いところにいるひとの発言に聞き入りながら、知ったかぶりや優越のあらゆる感情を抑える練習が必要となる。」


シュタイナーの引用のなかにあった「この道の訓練」とはアントロポゾフィーの修行に他なりません。

モモの「聞く力」についてミヒャエル・エンデが来日した際に「エンデさん、あの秘密はなんでしょう。ふしぎな力ですね」とたずねたところ、エンデ氏は、かみしめるような口調でこう答えました。

「モモが身につけていたような、ひとの話に聞き入る力、その秘密は、自分をまったくからにすることにあります。それによって、自分のなかに他者を迎える空席ができます。そしてその相手をこの空間に入れてあげます。モモは、そうやって彼女のなかにはいってくるものが、良いものか悪いものかと問うことをしません。」

そこで、さきに引用したシュタイナーの本から、引き続いて次のところを思い出しました。

「こうして人間は、自分をまったく無にして他者の言葉を聞けるようになる。自分のこと、自分の意見や感じ方を完全に排除して。

自分と正反対の意見が出されるとき、いや「およそひどいこと」がまかり通る時ですら、没批判的に聞き入る練習をしていくと、しだいに、そのひとは他者の本質と完全に解けあい、すっかりこれと合体する。相手の話を聞くことによって相手の魂の中に入り込む。」

シュタイナーはこの訓練を続けていくと、しだいに音というものが、心や精神、つまり高次の世界を知覚するための正しい手段になっていくと言います。

モモに戻りますと…

「またべつのときのことです。小さい男の子が、歌を忘れたカナリアをつれてモモのところにやってきました。こんどのは、いままでのよりずっとむずかしい仕事でした。カナリアがやっとまた楽しそうにさえずりはじめるまでに、モモは一週間ものあいあじっとカナリアのそばで耳をすましていなければなりませんでした。

モモは犬や猫にも、コオロギやヒキガエルにも、いやそればかりか雨や、木々にざめく風にまで、耳を傾けました。するとそんなものにでも、それそれの言葉でモモに話しかけてくるのです。

友達がみんなうちに帰ってしまった晩、モモはよくひとりで長いあいだ、古い劇場の大きな石のすりばちの中にすわっていることがあります。頭の上は星をちりばめた空の丸天井です。こうしてモモは、荘厳な静けさにひたすら聞き入るのです。

こうして座っていると、まるで星の世界の声を聞こうとしている大きな、大きな耳たぶの底にいるようです。そして、ひそやかな、けれどもとても壮大な、えもいわれず心にしみいる音楽が聞こえてくるように思えるのです。」


これはシュタナーの説く「音の世界」を聞く訓練の進行とかさなっています。生物と無生物の発する音を聞き分けること、動物の内なる快や不快を聞きとること、そうやって「その音が自分の魂の外に存在するなにものかを告げている、という事実に全集中力を集中し、自分と異質なそのもののなかに沈潜すること」を練習していき、しかもそのときその音が、自分の気に入るか不愉快か、という反応から脱していかなければなりません。

シュタイナーは、この練習を計画的に意識的に続けるように勧めます。すると人間は、その音を発する存在自体の内面と溶解しあう力を獲得する、というのです。

「全自然をこのやり方で感受するすべを学ばなくてはいけない。それによって感情と思考の世界に、ひとつの新しい知覚器官の種子が生まれる。全自然がその響きを通して、人間に秘密をうちあけはじめる。

これまで彼の魂にとって理解できない響きにすぎなかったものが、いまや深い自然界の言葉となる。いわゆる無生物から出る響きにしても、これまではただの音としか聞こえなかったものを、いまや魂の新しい言葉として聞き取るのである。」

<訓練の仕方についての具体的指示>

自分の中の反感、共感を沈黙させる。ほんのかすかな否定的感情も頭をもたげないようにする。倫理に走りたい誘惑をしりぞけ、ただちに判断する反応すらもしずめる。こうして自分の中を空にする。

これがとてもむずかしいのです。努めても努めてもだめだとわかったとき、なにかばかばかしいように思えてきたりします。あるいは、なんとしてでもうまくいきたいとあせって、気がくるいそうになったりします。

そこでじつは、こうした練習をするにあたり非常に重要な条件を申し上げなければなりません。

それは練習をやりすぎてはいけない。またけっして成果をあげる意図をもちすぎてはならない、ということです。その点をしっかりふまえておかないと、日常人としての人間のバランスがくずれていきます。

シュタイナーは、それを「心の健全性」という観点で繰り返し強調し、見えない世界への修行が見える世界での病人につながることのないよう厳しく警告しています。


「だれでも、自分の社会的地位や職業的義務がゆるす以上の時間とエネルギーを練習にあてたりしてはならない。この道の訓練(修行)が、彼の外的世界での生活事情を、一時的にも変更するようなことがあってはならない。」

もしあまりに忙しい日常生活のなかで、訓練の時間がとれないというのなら、毎日五分間だけでもかまわないと、シュタイナーは言います。

その五分が本当に濃密な修行の意識で貫かれ、それが必ず毎日実行されるのであれば。その五分なら五分だけの訓練の中身を、シュタイナーは別にこまかく体系的に述べていますが、たとえその段階が進んで行って、一日の練習時間がしだいに増えていくとしても、そのことで訓練する人間の日常生活がいささかも妨げられてはならない、そこが肝心です。

これらの練習は、やがてメディテーションとも名づけられるようになりますが、メディテーションを続ける人間には、たしかにある内的な変化が生じ、彼は日常の現実に対してもこれまでと違った見方をするようになります。

とはいえ

「なんども繰り返し強調しておかなければならないことがある。それは修行者がこの内的変容によって世事にうとい人間になるわけではない、ということだ。日々の生活の諸義務から遠ざかるようなことは絶対ありえない。」

というように、日常人であることを捨て去るわけではけっしてないのです、だから「聞く力」の練習にしても、なにも四六時中「賛成」「反対」を抑えて、だれとでも、話すなどということではありません。

「自分の生活態度をいきなり急変させて、この徹底した内的沈黙を守り通せ、などというのではない。個々の場合にこうしよう、とケースを選んでやってみることから始めるのである。

するとじつにゆっくりとであるが、やがておのずからこの新しい聞き方が、自分お習慣の中にはいりこんでくる。訓練はこのように計画を立てて、おこなわれるものなのである。」

シュタイナーが「聞く力」の訓練について説くなかで、没批判的という言葉を用いたからといって、それは日々の生活のなかで、なにごとも無批判な人間になれ、というのとは、むしろ正反対のことをめざしているのです。

聞く力だけにとどまらない、さまざまな訓練から人間の中に生じる変容、そこから新しいよりどころが確立し、以前とはちがった新しい批判力が生まれることでしょう。

けれども、さらにこの新しい批判力をも超えていく努力をするために、一方で内的訓練をどこまでも続行します。そのときも四六時中ではなく、個々のケースを選んで自覚的におこなう…こうしてわずかずつ私たちの「聞く力」は発展していきます。

星の世界の声まで聞こえるモモの聴覚にいたるには、実に果てしない道のりが必要なようです。それでも、そのモモが小さな小さな存在として、私の中にも住みついているのならこの訓練を始める意味はあと言えます。

シュタイナーの説く訓練は、まず毎日のなかに日常とはまったく異なることがらのための時間を確保することから始まります。


モモは子どもの頃に読んでもらっていらいで、実はほとんどの内容を忘れています。
ただ 時間泥棒という概念とテレビが子供心に結びついたことだけ憶えています。

「傾聴の訓練」とともにその対極にある「テレビ(マスメディア)」の影響について考えました。

というのも、この訓練のいわんとするところが、現代人の私達にとって、まずは「テレビを消してみる」ところにあるような気がしたからです。
司会者やコメンテーターをはじめとする「誰か」の意見を無防備に、そして日常的浴びるということで作られて行く「仮の思考」と「借り物の思考回路」。
これらが、ホンモノではないことを本能的に解っている自分。
ゆえに、〜〜セミナーなどでよりリアルな(肉声をきく)体験をする機会があると そこに本物感を見出してなびく、でもこれらが自分の求めている「答え」をもっていないことにがっかりしてしまう。
そんな受身で依存的な態度の根源は
実は時間泥棒=つけっぱなしのテレビ
の置き土産のような気がします。

 「いかにしてより低次の世界の認識に居留まるか」というマニュアル本を作るなら、現代人の一般的な生活を安易に批判するだけでできてしまいそう?なところですが…。(苦笑)
(シュタイナー思想が現代人の生活の批判ばかりを挙げ連ねていると受け取られてしまうことはよくありますよね)

シュタイナー教育で子ども時代にバーチャル体験(テレビやビデオ)を避けるということともつながる気がします。
「傾聴するちから」
まずは 「それを弱めてしまうもの」 についての一考でした。

あ、そうですよね。訓練と書いてありますが、現代社会のある意味余計なものを取り除いていくうちに、こういった能力も自然に備わっていくのかもしれませんね。

野外で生活するモモの得意分野がこういったことだというのには意味があるのかもしれません。

(モモおもしろいですよ^^モモは大人向けのファンタジーじゃないかな。子供のころよりも今読む方がおもしろく感じます。)

ところで6月の1,2,3日と穂高養生園でアンドリー・ワイルさんのワークショップがあったんですが、そこに「癌が消える」という本を書いた寺山心一翁さんが来られていて、癌が治りやすい人、治りにくい人について少し話されていたんですが、感性の強い人は治りやすい、逆に頭でものをかんがえがちな人というのは治りにくいんだとおっしゃていました。確かに一理あるなあって思いました。

考えてみるとシュタイナーはすべての面でアーティスティックですよね。教育も医療も建築も。特にシュタイナー教育は感性を伸ばすということにすごい力を注いでいますね。(なんでなんだろう?私が高校や大学受験の時は五教科以外は時間の無駄とさえ言われいたから、こういう学校がかなりうらやましいです。通ってみたかったなあ。)そして統合医療でもかなり右脳的なことが求められますしね。

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