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歴史研究『温故知新』コミュの名君・名宰相の条件

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 古くはマルクス・アウレリウス・アントニヌスを初めとするローマの五賢帝、コンスタンティヌス1世(古代ローマ帝国皇帝)、アッバース1世(サファーヴィー朝の第5代皇帝)、イヴァン大帝(モスクワ大公国大公)、フリードリヒ2世(神聖ローマ帝国皇帝)、李世民(唐の太宗・第2代皇帝)、康熙帝(清の聖祖・第4代皇帝、写真左) 、保科正之(会津藩初代藩主)、池田光政(岡山藩初代藩主)、徳川光圀(水戸藩第2代藩主)、上杉鷹山(米沢藩第9代藩主)、松平春嶽(福井藩第14代藩主)と、洋の東西を問わず、世に『名君』と謳われた人物は綺羅、星の如くいます。
 
 また、管仲(斉・宰相)、藺相如(趙)、諸葛亮(蜀・丞相)、耶律楚材(モンゴル帝国)、エイブラハム・リンカーン(アメリカ合衆国第16代大統領)、ビスマルク(ドイツ帝国・初代宰相、写真中央)、大久保利通(初代内務卿、写真右)、ウィンストン・チャーチル(イギリス・首相)、吉田茂(第45代、48〜51代首相)、J・F・ケネディ(アメリカ合衆国第35代大統領)と、世に『名宰相』と謳われた人物も綺羅、星の如くいます。

 そこで今回は、名君・名宰相について、語り合いましょう。
 
 皆さんが【名君・名宰相だと思う人】を、簡単で良いので【理由】を添えて挙げてください。
  
 そして、ここからは任意事項ですが、余裕がある人は、【名君・名宰相の条件として必要条件は何か】を挙げてください。
 その他、その名君・名宰相だと感じたエピソード、名言等を挙げてくれても構いません。

 今回、このトピックを立ち上げたのは、『名将の条件』の>32:で私が述べたように、軍事的業績で名をなした『名将』と、政治的業績で名をなした『名君・名宰相』を対比させてみるのは、有意義なことだと思ったからです。
 従って、両者の区別は、ここではとりあえず、“軍事的業績”と“政治的業績”を基準としたいと思います。
 
 この両者を比較していくと、必要条件として全く異なるものが抽出されてくる一方で、その条件をより抽象化していくと、両者の共通項も見つかってくるかもしれません。
 
 そんな訳で、古今東西の様々な人物を紹介し合い、そこから帰納的に『名君・名宰相の条件』を抽出していけたらと思っております。
 
 たくさんの書き込み、コメント、お待ちしておりますm(__)m

コメント(8)

 コミュのレビューに『小説・上杉鷹山』(童門冬二著)の感想を載せた(http://mixi.jp/view_community_item.pl?comm_id=2066877&item_id=15737)ので、そちらも併せてお読みいただければと思いますが、まず最初に『名君』としてご紹介したいのは、まさにこの上杉鷹山(諱は治憲)です。
 
 上杉鷹山は、内村鑑三が『代表的日本人』でも紹介したためもあって、J・F・ケネディ(アメリカ第35代大統領)やビル・クリントン(アメリカ第42代大統領)が「最も尊敬する日本人」として挙げたほどの人物です。

◇上杉鷹山は、わずか3万石の小藩・日向高鍋藩から名門の上杉家に養子に入り、10代で米沢藩(15万石)藩主の座に就きました。
 その時の米沢藩は、関ヶ原の戦い前に領した会津120万石時代の家臣を人員整理することなく引き連れてきて、その子孫である藩士の人件費だけでも藩財政を逼迫させている状況下で、名門の名前を汚さぬようにと格式を重視して見栄を張ることに多額の金を使っていたため、財政は破綻寸前でした。

 その中で改革を断行しようとした鷹山は、まず旧体制下のいわゆるお役所仕事に安住する藩士の心や、格式や手続きばかり重視する重臣の心から変えていかないといけないという壁にぶつかります。
 また、その当時の改革といえば、年貢をアップして民を苦しめるか、徳川吉宗の享保の改革に見られるように倹約一辺倒で武士に苦労だけを強いるものが主流で、その発想の転換を図る必要性もありました。

 その中で鷹山は改革に着手し、それを着実に実行に移して行きました。
 結果として鷹山は、藩政の改革を成功させ、天明の大飢饉時に東北で多数の餓死者や逃亡者が出る中で、米沢では備蓄米が多数あるとの噂が流れ、他藩の民が米沢に流入したほどでした。
 その成功は、鷹山の強い意志がなしたものといえますが、それ以外にも、特質すべき点を以下に挙げたいと思います。

◇まず、鷹山の発想は、「藩のために民があるのではなく、民は藩の宝である」という民富論で、封建社会のご時世では斬新的なものでした。
 この発想は、鷹山が第10代藩主治広に示し、歴代藩主に受け継がれた『伝国の辞』にも現われています。
【一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
                      右三条御遺念有るまじく候事】

◇また、鷹山は、「国造りの基本は人造りにある」という思想の下、藩校・興譲館を設立しました。
 この藩校は、この時代には珍しく、武士だけでなく、町民や農民にも門戸を開いたもので、しかも朱子学が幕府の正学とされたこの時代に、より実学的な要素を多く取り入れた学者である細井平洲を講師に招いて講義させたのです。

◇鷹山は、上杉家に養子に入って江戸藩邸で過ごした幼少期に、この細井平洲の師事を受けており、その実学の思想は、鷹山の改革にも影響を与えたものと思われます。
 その中で特質すべきは、農政改革です。
 これは、今まで原料を他国に売って薄利を得ていたのを、米沢で加工し付加価値を付けてより大きな利益を上げることで、民を富ませようとしたものです。これによって生まれた名品が、笹野一刀彫りや紅花染め、米沢織り等で、今も米沢の名産品として挙げられるものばかりです。
 元大分県知事・平松守彦氏が県知事時代に掲げた一村一品運動は、この鷹山のアイデアが基になっているのです。

 また、鷹山は、国土の狭い米沢において、藩士にも遊休している庭で桑などを栽培し、池で観賞用の錦鯉を買うことを奨励し、それで半知借上(給料半分の支払い無期限延期)で生活が困窮する武士に生活の糧を得る道を与えたのです。
 これにはもちろん、「武士が土いじりをするなどもっての外」と反発もありましたが、生活に困窮する下級武士は背に腹はかえられないと支持したのです。

◇以上のように見てくると、上杉鷹山の改革は、まさに人の意識の改革であったことがうかがえると思います。
 名君であることの条件としては、やはり自分の信念を貫く強い意志は必要だと思いますが、その一方で、発想の柔軟性も重要だと思います。
 
 『小説・上杉鷹山』の中で、師の細井平洲が鷹山を諭して言ったのが、次の論語の一節です。
 【過てば則ち改むるに憚ることなかれ】
  
 大目標に対する強い信念があるからこそ、小目標の設定ミスや手段のミス、自分の判断ミスは素直に柔軟に改めることができるんだと思います。
 この両者を持ち合わせていたところが、上杉鷹山の名君としての魅力の1つだと私は思います。

 ちなみに、左の写真は上杉鷹山の肖像画、右の写真は渡辺崋山が描いた細井平洲の肖像画です。
>婆娑羅 さま

上杉鷹山からスタートですか。
確かにまじめな宰相ですな。道徳の教科書に出てくるような感じの方。
二宮尊徳もそうですけど、何となく聖人君子ぽい。

日本の聖人君子は、本物ですよね。
孔子を聖人君子と思って見ると面食らうように、中国の聖人君子は、生身の人間です。
中国原産の君子を蒸留すると、日本の君子になる。鷹山や金次郎。

エッセンスのみの生臭くない、中国には存在し得ない君子。
こういう方って、私的にはみりきを感じませんな。純粋で勤勉な民の暮す限定した地域での君子。すなわち、日本でしか通用しない名宰相ですな。
「王安石」形では?
あの人も、日本でやったら成功したろうにね。

で、どうかと申しますと、
私の信じる名宰相の第一は、なんと言っても児玉源太郎です。
イギリスの首相も務まりそうなお方ですよ。ロビー活動も出来るし、人も育てられる。
で、いざと言う時には最前線で陣頭指揮を取れる。

鷹山・金次郎→平時の能吏型(この国だからこその美談演出。住民に拠る。他国では王安石)なんとなく、美談も鬱屈気味w。

児玉源太郎・謝安・真田信幸w→乱世の能吏型。劇場型の痛快な美談演出。

単純な私としては、後者こそ素直にヒーローと見えます。
この型は敵の大小で輝きが違ってきますのでね。
蛮族100万や野蛮な帝政ロシアを相手にした宰相から見ると、幕府の隠密と戦った信幸が、多少かすむのは仕方ありませんね。
>2:ぶうたろうさん

◇なんだか、私の意図を見抜かれてしまったようで、感服しましたm(__)m

 実は、最初に上杉鷹山、次に保科正之という、朱子学的名君(ぶうたろうさんのいうところの王安石型)を取り上げ、その後に田沼意次と田中角栄を取り上げようと思っていましたあせあせ(飛び散る汗)
 京大名誉教授の会田勇次先生も、「朱子学的名君には元々あまり心が響かなかったが、保科正之は本物過ぎて、圧倒された。」といったことを10年くらい前の『歴史街道』の保科正之の特集でおっしゃっていました。

 そのような意味で、普遍的な『名君・名宰相の条件』を様々な角度から検証していきたいと思いますが、更に、暴君・暗君といわれた人が実は名君だったり、名君・名宰相といわれた人が実は暗愚だったりといった虚像も暴いていけたらと思っています。
 後者の例としては、>1:でも触れた松平定信や水野忠邦、徳川吉宗を候補として考えています。
 また、蜀漢の劉備の息子、劉禅は暗愚の象徴的に語られていますし、日本だと今川氏真が暗君の一人として挙げられることが多いのですが、それは間違っているのではないかといった研究もされていますので、その辺りも検証していきたいところですわーい(嬉しい顔)

◇さて、児玉源太郎の名前については、別のトピックでえびのよしかつさんも挙げていましたが、彼の政治的業績の中で、ぶうたろうさんが特筆したい物をいくつかご紹介いただけますか?
 近現代史は高校の授業でも手薄になりがちな分野ですが、このコミュでは時代に偏りなく厚く語り合えたらと思いますのでわーい(嬉しい顔)
遅くなりました。

私もご他聞に漏れず、坂の上の雲と203高地の丹波哲郎見て児玉ファンになったもんですので、日露戦の活躍以外はいいかげんにしか知らんのです。

でも、政治的功績の最大のものは、

・台湾統治の成功(台湾の、今に続く親日感情の生みの親)

である事は間違い無いと思いますよ。
 >3:で予告した通り、今回は保科正之について述べたいと思いますが、その前に、一点訂正を…。

 私は、>3:で上杉鷹山と保科正之を朱子学的名君と呼びましたが、朱子学的名君というのは、いささか禁欲的であり、実学よりも観念論を好み、経済合理性よりも倫理を求めるようなイメージが強いものです。
 実際、朱子学というのは、“宋王朝が北方民族によって江南の地に追いやられ、頭の中だけで中華を夢想した時代の産物”で、“儒教が生きた実践道徳から離れ、絵空事としかいえぬほどの極端な観念道徳論”として打ち立てられたもの(京大名誉教授・会田勇次先生の言)で、それをそのまま実践しようとした君主は、そのように揶揄されてもやむを得ないといえると思います。

 しかし、これは上杉鷹山と保科正之については、ちゃんと歴史を読めば、当てはまりません。小説や戦前の道徳の教科書に載っていたような虚構で美化された人物像に接してしまうと、そのように見えてしまうかもしれませんが・・・。特に戦前の教科書は特殊な意図をもって誇張されて上杉鷹山が描かれていたので…。

 どういうことかというと、例えば上杉鷹山は自分の改革に反対し、鷹山を城の一室に事実上閉じ込めた上で、改革の撤回をせまったいわゆる七家騒動事件で、首謀者の須田満主と芋川延親に切腹、他の5名も隠居・閉門等に処するなど措置をしていますし、藩内の実情を知るために視察を頻繁に行ったといわれています。
 また、武士に農作業をさせて所得を得させる政策も、徳川吉宗や松平定信が倹約一辺倒だったことに比べると、はるかに合理的なものといえます。

 これは、保科正之の場合も同様で、目安箱を導入したのは徳川吉宗とされていますが、それよりも前の時代に、保科正之がその原型を実行していたといわれ、民富の思想を背景にしていたと思われる政策を、いくつも実行しています(詳細はページを改めて、述べます)。

 朱子学的名君というのは、前述の点に加えて、机上の空論である理想論をそのまま民衆に押し付ける傾向があり、法政大学教授の村上直先生は、その典型例として、徳川綱吉や新井白石を挙げていますが、保科正之は、これとは完全に一線を画するとおっしゃっています。

 このような意味で、>2:でぶうたろうさんが王安石型として上杉鷹山を挙げたのは、間違いだと思いますし、私も説明不足で、しかも朱子学的名君という言葉をあまりに多義的に使ってしまったと反省しています。
 また、前述の京大名誉教授の会田勇次先生が、保科正之のことを有事に強い政治家であると述べていることや、上杉鷹山が実家の日向高鍋藩に送り返される危険と常に同居し、更に藩財政の逼迫から藩政を幕府に返上する案まで論議される中での改革であった点で、上杉鷹山が平時の能吏というのも根拠のない間違ったイメージに過ぎないと思いますし、保科正之についても、同様のことが言えると思います。
 そもそも平時の能吏と乱世の能吏の違いは、武力や謀略によって国を守ったか否かにないのは当たり前のこととして、敷かれたレールの上を無難に走行するのが上手いか、それとも難局を乗り切るリーダーシップと精神力があるかで分けられるべきものなので、その点でも、少なくとも上杉鷹山は後者に属すると思います。

 もちろん、これらの点については、歴史的客観的具体的事実から、反証のある方も多くおられると思いますので、そのような反論、お待ちしておりますm(__)m

 保科正之のご紹介・本編は、ページを改めて後ほどさせていただきたいと思います。
 では、上杉鷹山に続いて、保科正之のご紹介をしたいと思います。

◇≪略歴≫
 保科正之(肥後守、左近衛中将)は、3代将軍徳川家光の異母弟として生まれ、家光の実母とされている於江予の方の嫉妬によるいじめから逃れるため、幼少期は武田信玄の次女・見性院(穴山信君の正室)に預けられ、その下で育てられます。
 その後、見性院の手引もあったのか、武田の遺臣の子孫である保科正光の養子となり、養父の死によって高遠藩3万石の藩主となり、26歳の時には山形最上20万石に転封、更に33歳の時には会津23万石に転封されます。

 この保科正之は、異母兄の将軍・家光の信頼が厚かったこともあり、幕政に参加し、家光の死後は家光の命によって幼少の4代将軍・家綱の後見を務めました。

◇≪功績≫
 まず、保科正之が会津藩主としてしたことで特質すべきは、地方(じかた)知行を蔵米知行に改めたことです。
 地方知行というのは、領地を家臣に分封する制度で、蔵米知行というのは、領地は全て藩のもので、そこから上がる米の租税を家臣に与えるもので、前者の方が地方分権的で後者の方が統一支配的であるといわれます。これにより、保科正之は、藩の結束を強めたわけです。
 また、一反歩の平均的収穫高を決める石盛の改正を行い、年貢が適正に徴収されるような制度を整えました。
 また、>5:で述べた目安箱の原型を導入し、蠟、漆、鉛、神、熊の皮などの八品の藩外への持ち出しを禁じ、専売制の原型を導入し、更に社倉法という中国・宋時代の朱子が導入した制度を日本で最初に導入しました。この社倉法というのは、米の一部を藩が買い上げ、社倉米として備蓄し、低利で貸し付け、秋の収穫期に返済をさせる制度で、しかも不測の事態が起こった時に貸与することとされ、凶作などで返済が困難になった場合は、寛大な措置を採るなどの運用がされていました。

 この政策は、後の幕政においても活かされ、明暦の大火(振袖火事)の時には、保科正之の主張で貯蓄米を放出させ、施粥や家作金の配布を推進し、江戸の街の復興に尽力しました。
 この際、大火で焼失した江戸城天守閣の再建を主張する幕閣の意見を抑え、「天守閣はただ世間を観望するのに便利なだけ。その再建に財力と人力を費やすより、町屋の復旧を!」と主張したそうです。
 結局、その後、幕府の財政が潤うことがなかったため、天守閣は再建されることなく現在に至ったわけですが・・・。

 次に、保科正之が幕政において主導した政策としては、玉川上水の開削、殉死の禁止、末期養子禁止の緩和、子間引きの禁止、大名証人(人質)制度の廃止等があります。
 こちらは、玉川上水の開削を除くと、若干>5:で述べた朱子学的理想論が出ている感もあります。

◇≪私見≫
 以上のように、保科正之の政策を見ると、幕政においては、彼の朱子学的理想論が前面に出たものが多く見られるところですが、会津藩での政策においては、藩政の特に経済的な基礎を整備した点は評価できると思います。
 そして、その政策は、>1:でご紹介した上杉鷹山と同様、民富が国力増強の基本であるという思想に裏付けされていたように思います。そして、その民富を実現するため、目安箱や社倉法など、古い考え方に固執せずに進取の精神をもって新しい制度を柔軟に取り入れる姿勢は、特に注目すべき点だと思います。

 【百里先の見える人は、気違いにされる。現状に踏みとどまる者は落後者になる。十里先を見て、それを実行する人が、世の成功者である。】
 (※一部差別表現とされている文言が入っていますが、特定の人を差別する意図を含んだ発言でないため、原文をそのまま引用させていただきました。)

 これは、阪急の創始者・小林一三の言葉で、リーダーの条件を挙げたものといえますが、保科正之は、まさにこの十里先を見てそれを実行することを地で行った人だと思います。
 つまり、この保科正之から学びとれる『名君・名宰相の条件』は、?先見の明、?常識・因習に捉われない進取の精神ではないかなぁと思います。
>婆娑羅さま

大変きっちりした調べ物に基づいた論立てに、ほんとに感服いたします。読んで頷いているだけで殆ど済んでしまうコミュですなw。

朱子学的な美学と言うか美意識のようなものは、確かに机上の空論風に扱われますよね。鎌倉後の南北朝期に、南朝の重鎮だった北畠親房が頑張って南朝の正統性を書きなぐったのも、当時の流行だった朱子学によるんでしょうし、幕末に流行った勤皇思想の元も、水戸で流行った同じ様な正統性をネタにした学問です。

でも私、日本における朱子学って、しっかり日本の文化の背骨になっている、大事な要素だと思いますよ。つまり、大陸における朱子学ほど、日本における朱子学(的な価値観)は、机上の空論に陥っておりません。

中国では国を滅亡に追いやった正統論議ですが、日本ではもっと現実的に消化されてますよね。あんまり理屈に走った論議は、日本では、はなから受け入れられなかったのでは?こういう「思想のエッセンスだけの利用」は、日本においては律令制真似した古の頃より、度々普通に見られることです。

十八誌略の最後の方(南宋のあたり)で繰り広げられる、敵(金やモンゴル)を前にしての机上の空論によるチャンス取り逃がしと、結局保身に走る売国奴による亡国、ああいう愚は、日本ではおかされなかったように思います。

それに、これは大事な点ですが、王安石は、机上の空論屋ではありません。
青苗法や、(あと二つぐらいありましたよね、忘れましたw)屯田兵を主体にした軍隊の精鋭化、あれらは過去にバラに行われてきたローカルな法律を、国法として整備したもんで、非常に現実的な物です。あれがあのままあと二十年実施されれば、宋の財政再建と軍備の正常化は、間違いなくなされたであろうことは、ほぼ定説あつかいです。

しかし、出来た法を執行する場面で、あちらではご存知旧法派と新法派の戦いという党派間闘争の形になってしまい、結局法の中身はだんだん骨抜きになりました。王安石は、自分が作った法律が、旧法派はもちろん、自分を信奉する新法派によってどんどん曲げられていくのを見つつ、配所で亡くなります。

つまり、現実的な宰相であった王安石が輝かなかったのは、あちら(中国)のお国柄です。こういうソリッドな目標一直線の施策は、あちらでは受け入れられなかったのでしょう(と言うか、多数派を維持できなかったのでしょう)。

上杉鷹山は、私ももちろん現実的な立派な政治家と思っております。(保科の方がやあや泥臭いでしょうかね。もちろんこちらも素晴らしいお方です)

ただ、上記王安石の話で挙げた感じの理由で、彼ら(の施策)が、実際に効果を挙げるまで多数派を形成維持できたのは、日本のお国柄でしょう。
よそでは実現不可能でした。多分。(勝手な印象ですがw)

まあ、これを言ったら、児玉源太郎や大山、西郷(弟の方)だって、彼らが立派にロシアを敗れたのは、お国柄によるもんだと言う事になりそうですが、私が推した児玉源太郎はじめ、当時の陸軍海軍の親玉は、まさにひすいの役における謝安のごとく、腹の据わった、愛嬌溢れる人たちでした。児玉源太郎が宋の宰相だったとしたら、方々上手い事立ち回って、新法を守り通したように思いますよ(王安石は守らず去りましたな。ストイックに)。

と言うわけで、王安石型として私が挙げた政治家は、

「ちょっとストイックな美学」を行動の元にしている人、

と言う事になりますか。
こういう人の施策が受け入れられたのは、受け入れる側に依存するものが大きい(お国柄に依存した輝き方)、ということです。

児玉源太郎や謝安は「普通のおじさん」で、孤独や勤勉、といった鷹山や金次郎の様な君子の印象はありません。ふつうに地味に「結果第一」を成し遂げました。こういう方には、上のタイプの人より高度な(よりグローバルな)宰相としての力量を認めるべきでは無いでしょうか。(私としては、保科は王安石型から外しておきます。これもただの印象ですけどw)

つまり、

「お国柄によらず(どこの国の宰相だったとしても)輝けそうな人」

こそ、名宰相の条件として特記すべき一点と思います。

どうも、長々と勝手な事を失礼いたしました。


>7:ぶうたろうさん

 帰省していて、レスが遅くなってしまいましたm(__)m
 長文、大歓迎です(^_^)

 中国と日本における朱子学の相違の考察、大変面白く読ませていただきました(^_^)
 その朱子学が、政治思想としてだけでなく、現実に制度に組み込まれることで、日本的な自然法の在り方(一言で片付ければ“恥の文化”的な…)にまで影響を与えたのではないかと思います。
 結果としてみれば、それで良かったのではと個人的には思ってますが…(^_^;

 さて、「御国柄によらず」というのは、良い視点だと思います。
 ただし、「ストイックな美学を行動の元にしている人」が必ずしも諸外国で成功しないかというと、その点のシミュレーションはまだ厳密にはできてないと思うので、その点は人物ごとに個々に検証していかないといけないと思いますので、そうしていきましょう。

 ところで、私は名君・名宰相は、statesmanとpoliticianの両者の素質を兼ね備えている必要があると思っていて、理念なき現実主義者(これは真のリアリストとは呼ばないが)のpoliticianは、名君・名宰相と呼ぶには値しないと思います。一方で、理念だけ素晴らしくて、全くpolitician的な素質のない人は、現実に政権を奪取・維持することができず、結果的に名君・名宰相とはなれません。
 新王朝の王莽などがその後者の例に挙げられると思います。もちろん、王莽の場合、理念自体にも疑問符が付く部分がけっこうありますが…。

 また、「結果第一」という点も、statesman的な要素や理念が全く欠けると、単なる有能な行政マン(浅野長政や前田玄以など)になってしまうので、「結果第一」にfirst priorityを置くこともできないと思います。

 以上の点を総合考慮すると、やはり大久保利通は名君・名宰相列伝から外せないかなぁと思います。
 大久保利通については、また追々記述していきたいと思います(^_^; 

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