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「みんなで幸せになろうよ♪」コミュのケイティ語録−21♪

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 私は意地悪だとあなたが言ったら、私は「ありがとう、そのとおりだわ。 あなたが言ったとおり、いえそれ以上だわ。 あなたに見えるものを教えてちょうだい。 そうすれば、私たち二人の力で、私はもっと自分のことをよく理解できるようになるから」。

 友だちというのはこういうものだ。

 これは誠実さと呼ばれる。

 人が私たちについて言うことで、私の人生でどこかで見つけられないものはない。

 自分を防衛しなければという衝動を感じることが何か一つでもあったら、それこそは私の内面で発見されるのを待っている真珠なのだ。

「探すのをやめたとき愛は見つかる*創元社*バイロン・ケイティ著」

第10章−P258

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 ケイティ語録もあと1つで終わります。

 今日のテーマは、とてもデリケートなテーマではありますが、ケイティの方法で、自分自身を見つめることができれば、これから他人そして自分自身と上手に向き合うとても偉大なプロセスへと入ることができると私は考えています。

 第10章のテーマは「愛すべきでないものは? まさか自分?」というものです。この章の解説は、私自身より、ケイティが語ってくれていることそのものを抜粋したいと思います。

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「第10章 愛すべきでないものは? まさか自分?」

 自分自身の愛を得ようとすることは、他人の愛を求めるのとの同じくらい苦しいものです。そして、その結果は、同じく、不満足なものです。そして、求めることをやめることは、同じように効果があります。自分自身の問い直されていない考えを誠実に問い直すことができれば、愛はちゃんと生まれてくるのです。

 苦しい人間関係(配偶者、母親、職場のだれかなど)についての問い直しはすべて、ストレスは自分自身の考えによって引き起こされたことをいつも教えてくれます。問題なのは他人ではないのです。それはあり得ません。そして、ひっくり返しをすると、苦しい考えの反対が、同じくらい正しいか、もっと正しいということがわかります。どこかの時点で、あなたは「私は自分自身に忠実であるべきだ」「私は自分自身を理解すべきだ」、そして究極的には「私は自分自身を愛するべきだ」というような文章に到達します。

 これはあなたにとっては耳新しいことではないかもしれません。ほとんどの人が、友人や、家族や、人生相談助言コラムニストから、自分自身を愛するべきだと言われたことがあるでしょう。でも、どうしたらできるのでしょうか。ひっくり返しを生きることなんてできないように見えるという事実ですら、自分を苦しめることがあるのです。「私の何が問題なのだろう? なぜ私は自分を愛せないのだろう?」 このプロセスを強制することはできません。できるのは、問い直して、何が真実かを見つけることだけです。

 自分の苦しい考えを読み解いてないのであれば、バブルバスに行って、ろうそくに火をつけ、ポジティブアファーメーション[訳注:自分に言い聞かせるポジティブな言葉]を唱え、あらゆる方法で自分自身を甘やかしても、ひとたびバスタブから出ると、同じ考えが戻ってきてあなたに取りつくのです。そういうやり方はまるで、たぶらかしみたいなものです。たぶらかそうとしている相手が自分だというだけです。

 この章は、自分自身をたぶらかしたりだましたりするためのものではありません。ちょうどその反対です。だまされているあなたを救うためのものです。他人を愛することの妨げになるのは、自分の思い込みを信じるということだけです。そして、あなたは、自分自身を愛するうえでもそれが唯一の障害物だということを理解するようになるでしょう。結局は自分にとって真実でないかもしれない信念を発見するために、あなたはいくつものプライベートな質問を自分自身にする必要があります。恥ずかしく思っていることは何ですか? (もう憤っているべきではないと思っているのに)今でも憤っている相手は誰ですか? あなた自身をまだ許せないことは何ですか?

 この問い直しは操作ではありません。真実への愛のために、あなた自身の中に入っていって、あなた自身の答えを見つけるのです。自分自身を愛するのに苦労するようなら、ワークはまだ終わっていません。

P244

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 私たちの自我は、とても巧妙です。私自身、長年キネシオロジーを行ってきてわかったことは、自我は「回避、信じこみ、隠し、否定し、逃げる、ウソをつく」ことによって、私たちの真実を見せないことに命をかけています。

 キネシオロジーの筋肉反射は、瞬間的なストレス反応なのですが、それを意識的につくろうということまで学習しようとします。そのような反応から、いかに身体という無意識の装置は、実のところ真実を隠し見えないようにし続けるということがわかります。

 それはなぜか? 私たちが真実に気づいてしまうと、自我そして身体も生き残れないからです。これは私自身が学び徹底的に見つめてきた私のなかでの真実です。しかしながら、もし、私の考えがおかしいと考えるなら、ぜひ、ご自身のなかで、それを検証してみてください。

 とてもおもしろいことがわかるかもしれません♪

 あと「愛する」ということについての私なりの考えですが・・・

 私にとって「愛」とは、「存在−ある−ひとつであること−真実−自由−永遠−神」であり、目に見える形の変化の中にはなく、ただ拡大し続けることがその真の本性だと考えています。

 私たちは、今ここにおいても、存在している(ように見える)ということは、すでにそれだけで存在に愛され、その真価を認められているからだと思います。

 存在がすでにここにあるというのに、存在証明をあえて求める必要などありません。ここでは、自分とは違う何かがあるため相対的な価値がいつも頭を離れにくい状況にありますが、本来、レベルがあるとか、比較するという考え自体が、「愛においては全く無意味なことだ」と私は考えています。そして、愛が愛であるなら、私とあなたはちがう存在だと考えるでしょうか? 愛は分割を意味する言葉なのでしょうか?

 もし、そんな考えを愛と呼ぶなら、いまだ分離−自我−を愛していると言ったほうが正直だと私は思います。ただ、このことは、ここで個性を尊重しないという意味ではありません。個性と考えられているモノのすべては、決して分断されているモノではなく、ひとつのなかで輝いてこそ、その本領が発揮されるということです。

 もっとも、ここに存在する(ように見える)すべての存在は、存在と離れて自分の世界が持ちたいという考えに魅了されなければ、誰もここにはいないと思います。また、そのような私たちの火遊びも、存在−神−は、私たちに永遠の自由を与え、私の子供たちが望んだのだからと、神の子が自らの選択で帰ることを選ぶまで待ってくれているのだと、私は思います。

 愛がこの世界で動くとき、それがたとえどのような形に見えたとしても愛であることに変わりなく、愛がすることであり、それが「愛する」という表現なのかもしれません。

 でも、それが分離(ウソ、偽り)を愛する(分離と自分を同一視する)なら、分離−無意識−自我−を依然として存在させる−投影する−ことになります。神の子ひとりひとりには、存在から与えられた心の力があるからです。

 それに個我・自我の解釈が加わり、愛が愛に見えなくなることはあると思いますが、でもそれは、自我の解釈そのものが真実を見えなくさせているだけのことだと思います。

 それでも、存在がどのようにして私たちを愛してくれているのかに気づいたなら、愛は本来の自己を思いだし、心を一つにすることを選び、すべてを拡大させる力を取り戻すことでしょう。

 私たちの誰もが、ハートの奥に、それをいつも宿しています。
 
 いつも、ハートが、善悪−正否−男女−二元性を越えた真実を、私たちひとり一人の胸−心に「幸せな気持ち」や「喜び」をもたらすことで、その答えを与えてくれていると、私は確信しています♪

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