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「みんなで幸せになろうよ♪」コミュのケイティ語録−19♪

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 許しというのは、起こったと思ったことは起こらなかった、つまり、許すべきことなど何もなかったのだということを発見することだ。

 ひどいことのように見えるものは、一度それを問い直してみると変わる。問い直されていない思い込み以上に、ひどいものはない。

 だから、苦しいときには、問い直し、自分の考えを見つめ、自分を自由にし、子供になろう。

 何も知らないまま、自由でいよう。

「探すのをやめたとき愛は見つかる*創元社*バイロン・ケイティ著」

第9章−P242

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 さて今日も、ケイティの「許しというのは、起こったと思ったことは起こらなかった、つまり、許すべきことなど何もなかったのだということを発見することだ」という言葉から順番に、ケイティがどのような考えや真意を私たちに伝えたいのかを、私なりに考えてみたいと思います。

 ケイティの「4つの質問」の1番目の問いかけは、「それは本当ですか?」というものです。これは、まず各人が考え信じていることについて軽くジャブを入れるような問いかけです。そのとき、その問いかけに対して、自分の考え−信念−が「正しい−イエス」と考え、答えた人に対して、2番目の「それが本当だと、絶対に言い切ることができますか?」という問いかけによって、ある意味で、その人の信念体系自体に揺さぶりをかけることになります。

 もちろん、これはその人が考え信じていることの正否、あるいは善悪を問い詰めているわけではありません。ケイティが求めているのは、ただ、今、自分自身が“自分自身”について信じている考えについて、「絶対に本当かどうかを、絶対−真実−の領域で見直してみましょう」と誘いかけていると私は考えます。

 ケイティの「起こったと思ったことは起こらなかった、つまり、許すべきことなど何もなかったのだということを発見することだ」という言葉について再検証してみましょう。

 まず、私たちが深い眠り(無意識)に落ちたときに、「起こったと思ったことがあったのか?」、「許すべきことがあったのか?」、あるいは「誰もが人生のなかで考え正しいと信じていたことが、そのとき存在していたのか?」と、自分自身に問い直してみてください。

 答えは、「無い」ではありませんか?

 このような時を、私たちは毎晩当たり前のように過ごしています。深い眠りのなかでは、私たちの身体と結びついた意識の記憶、私たちが「現実」だと信じていた人生の記憶は、一時的ではありますが完全に消え去っています。それは起こっているように見えたり、まったく起こっていない状態があるわけです。つまり、身体と意識が結びついているときは事実として存在しているように見えますが、深い眠りに入り、身体から意識が離れた意識状態、つまり無意識−眠り−に入ってしまうと世界と私、そして時間と空間さえも忘れ去られている状態になります。

 このことが何を意味するかというと、ここで「現実」だと信じられている考えのすべては、つねに「一時的な状態」であり、絶対に真実だと言い切ることはできない、ということです。そうなると、絶対−真実−つね−ではない状態が存在しているわけですから、答えはいつも「ノー」ということになると思います。

 ただケイティの方法がとてもやさしいところは、2番目の答えが、たとえその時「イエス」であったとしても、それを問い詰めたり、無理に変えようとしないところにあります。ですから、彼女が意図していることとしては、ただ相対的な現実のなかで起こる出来事についての考えやジャッジメント(決めつけ)から、各人を自由にすることだけを目的としていると思います。

 ここで相対的な現実が、私たちに何をもたらしているかについて考えてみましょう。私たちの相対的−物質的宇宙の中では、ある考えがあり、その考えが自分の外側の世界のなかで自分の思ったような効果や結果を生みだすとき「その考えは正しい」と考え信じることはできます。

 実際、私たちが何かを時間的なプロセスのなかで、何かが起こっていることを認識する場合、最初に物事について考えをめぐらす人がいて、それを外側の世界という自分の記憶に基づき定義されている考えにそってそれを見ます。その見ていることについて、自分の考えていることの“間”に“違い”を見る場合、あるいは今までこの世界で学んできた記憶と見ている結果にズレを見る場合、そのことを私たちは「間違っている」と考えます。

 ここで、その思考の流れに気づいて、逆に、“間”に“違い”があると考え信じるようになったから、私と私の見ている世界がまるで違う生きもののように見えてくると考えたならどのような見方ができるでしょうか? つまり、「私と私の見ている世界に違いを見ないという生きかた−ありかた−をする」ということです。

 「正しい」と「間違っている」という考えは、物質的な宇宙という分離した世界を真実だと考え、それを前提に物事を考え、知ろうとする視点のなかでは、相対的な評価をつねに生みだし続け、そのような事実が存在しているかのように見えます。

 また、「相対」という言葉が示すとおり、自分とは違う何かが存在すると考え、分離を前提とし、その考えを真実あるいは事実だと考えている世界のなかでは、主体と客体の見方が入れ替わった状態において「どちらの見方も正しい」ことがあり得る状態をつくりだすこともできます。

 しかし、相対的な現実は、つねに逆の効果も生みだし、主体と客体が存在している限り、「どちらの見方も正しくない」、「何が正しいのかすらもわからない」、あるいは「真実は、相対性あるいは、目に見える世界のなかでは−存在できない−存在しない」ということもできます。

 真実とは、真(まこと)が実ると書きます。もっとも重要な考え方として、相対的な真実の視点から物事を見るか、あるいは相対的な状態を無くした状態、またそれをこえた「存在−ある」の領域で、すべてを見直したとき、どのような真実−現実−が見えてくるかとうことだと思います。相対的な状態がない状態は、私たちは、毎晩深い眠りのなかで「私は身体である」という意識を忘れたとき、一時的に消え去ります。これは身体にとって眠りの状態に陥ったときですら、相対的な現実は存在できなくする−相対的な現実が忘れられる状態がある−ことを意味します。

 また、「無意識」とはどのような状態でしょうか? 無意識に共通する要素として、「眠り、忘却、夢の中、物理的には死に近い状態」に身体意識が入っている状態ということができます。身体としての意識が“無い”状態は、「無意識」あるいは「無自覚」な状態と呼ぶこともありますが、ここで別の見方をすると「無意識」という存在の状態が“ある”ということになります。つまり、無意識の状態とは意識が自覚してはいませんが、存在しているということです。ですから、無意識という状態のなかに意識が“ある”という状態が存在していることになります。
 そして、最後に残るのは、「存在−ある」という状態です。私はこの存在の状態を“悟り”あるいは“真の目覚め”だと考えています。つまり、“無い”は、実際には存在せず「幻想、夢、眠り」であり、その状態から意識が目覚めれば、すべてが“ある”という真あるいは純粋かつ完全な意識の状態が“ただある”ということです。

 私たちが日常的に体験している現実と考え、信じていることのすべては、人生−人間の身体と意識が結びつき、人として生きている間の記憶−が、朝起きたときから、何度も映画が上映されるように流れだす状態だと考えることができます。私たちの人生を映画を見るような状態で見直すとき、実際そのようになっていると思います。 

 あるいは、私たちは誰もが、私たちの人生−ある名前をつけられた私−主人公が外側との関わりなかで演じる物語−映画の台本、あるいは無意識の中にある、名前をつけられたある人生の記憶に基づく−考え−を演じ続けていると考えることもできます。

 もっとも、私たちの人生と映画との違いは、ある主人公の物語の短縮版−始まりと終わり−を2、3時間のドラマや映画として客観的に見るのではなく、朝起きるとともに、それを自分自身の人生として台本の行方がわからないまま流れ始め、意識が今の身体と完全に離れるまでを体験します。それが、通常の自分の人生だと信じ続けている状態にあると思います。

 ケイティの問い直しの技術は、私たちの演じている物語−ドラマ−を一時停止し、無意識のなかでドラマを演じている自分を見つめる方法と言ってもよいかもしれません。私たちが自分の考えを見つめ、問い直しているときは、いつでも無意識−人生の台本・記憶−を参照している状態にあります。

 私たちはこの無意識の台本のままを「ありのままの自分」と考えて、人生を終了することもできますが、それとは別のあり方がまた存在していると私は考えています。
 
 その別のありかた−生き方−とは、私(主体)と私が見ている世界(客体)を越え、無意識から“目覚め”て生きるというありかたです。この“真の目覚め”のことを、別の言葉で「悟り」と呼ぶこともできます。

 ここでもういちど「真実とはどのような状態であるか?」を問い直してみましょう。

 それは、「永遠に変わらない」ということも意味すると思います。

 そう考えたとき、あったりなかったりするような不安定な無意識な状態や、相対的な物質宇宙のなかで、人生の記憶が現れたときにだけ起こる、ある対象に対して感じる気持ち、「許せない」あるいは「許すべき」と考え信じていることは、真実ではないと思います。

 ケイティの「許しというのは、起こったと思ったことは起こらなかった、つまり、許すべきことなど何もなかったのだということを発見することだ」という言葉の真意は、私たちの信じる現実そして無意識をさらに超えたところに立ち、分離を越え、俯瞰してすべてをひとつである視野から見る姿勢やありかたのことを言っている、と私は考えます。

 このようなケイティの見方を裏づける事実が、少し前に医学関係者あるいは科学者によって発見されました。その事実は、私たちが赤ちゃんの頃、「ミラー細胞」という身体の仕組みを利用し、外に見える世界をただ無邪気にマネをすることから、ここでの現実と意識が結びつき学習が始められる、という発見です。

 それによってわかることは、赤ちゃんの頃の私たちの意識あるいは認識の状態は、本来、外側の世界と区別がほとんどなかったことを示していると私は考えます。その状態から、意識が身体と“同化−同一視”していくにつれ、私と私と違う何かがある、ということをどんどん現実化していく仕組みがあると考えることもできます。 

 ここで、今日のケイティの「だから、苦しいときには、問い直し、自分の考えを見つめ、自分を自由にし、子供になろう」という言葉を思い出すとよいかもしれません。

 赤ちゃんとしてこの世界に生まれてきたばかりの私たちは、私と私の見ている世界に区別がなかった状態が本来の姿であったということです。ですから、最初の間違いは、「私と私の見ている世界を違うモノだと考え、信じ、それを問い直していなかった」ことにある、とケイティは言っているように思います。

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