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書庫 「葉っぱ猫」 mixi処コミュの声無しの詩/四章?

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『四章 「涙」にまみれた「曲」のワケ』



 気がつけば、あの泊まりの日から、ちょうど一ヶ月が経った。

 自室の勉強机でレポートを仕上げながら、渉はふと携帯画面を見る。
 『メールを受信しています』の記号に、ふと、渉は気を取られてしまっていた。
 ──この一ヶ月。
 渉にとっては大学の講義やレポートに追われる毎日だった。
 まさに『気がつけば』と言えるほど時間の流れは早いものだったが、それでも、頭の片隅には、いつも詩季のことがあった。
 友達からの誘いに乗ってカラオケに行ったとき。
 誰かと電話で話すとき。
 メールの受信音が来たときにも、詩季からではないかと気にする自分がいる。
 具体的な手術の日程を聞いていなかったせいで、
 ……いつ手術なのか?
 ……もう手術は終わっているのか?
 ……それとも長引いているのか?
 それらの疑問に答えは出ないし、どこから伝わってくることもない。
 そんな時に受信した一通のメール。その差出人は、麻衣だった。
『電話かけても大丈夫?』
 短い一文だが、渉はそれに返信する間も惜しい気持ちになって、電話帳から麻衣をえらぶと通話ボタンを押す。
 数コールの電子音の後、
『もしもし』
 と、麻衣の声が聞こえて、渉は前置きも惜しんで聞こうとして──一呼吸。
 済んでのところで、急き立てることは抑えることが出来た。
 思っていたよりも、随分と自分は心配していたんだと感じながらも、渉は少しだけ落ち着いた口調で話し出す。
「電話、今問題ないぞ。どうした?」
『あ、うん。お母さんが、渉にも面会させたらどうかって言ってたからさ』
 説明不足さえ感じる短い言葉は、麻衣らしいといえば、らしい。
 渉は細かく聞き出したい思いを堪えて、聞いた。
「もう手術終わったんだ? 日程とか聞いてなかったからさ、連絡待ってたんだよ」
『手術は、うん、終わった。そっか、連絡行ってなかったのね』
「まぁな。それで、どこの病院? 今日は時間あるから、すぐ行けると思う」
 言いながら、すでに渉は携帯を片手に出発の準備を始めていた。
 元々、外出用の服は着ているから、後は細かいものを持つだけで出られる。
『えっと。お父さんが迎えに行くらしいから、三十分ぐらいしたら外に出て』
「わざわざ来てくれんの? 悪いな」
『あたし、こっちに居るからさ。あ、こっちって病院だけど』
「麻衣はしーちゃんについててやればいいよ。病院って寂しいらしいしさ」
 聞きかじりの情報を付け加えて、渉は笑う。
 その言葉に、麻衣はすぐさま何かを答えるかと思ったのだが、何故か、沈黙。
 反応の薄い麻衣に、渉はちょっと心配になった。
「……どうした?」
『……なんでもない。とりあえず、お父さんが迎えに行くみたいだから、よろしく』
「……おう」
 電話を切って。
 けれども出発の準備を整えてしまった渉は、手持ち無沙汰になった。
 何かすることがあるわけでもなくて、でも、何もしないにしては三十分は長い。
 ……三十分もあればコンビニぐらいは行けるか。
 そう判断した渉は、軽いジョギングを踏まえて近くのコンビニへと出かけることにした。
 買い物は──詩季への見舞い品でいいだろう。
 喉の手術だったらまだ食べるものは無理かもしれないが、手ぶらで面会に行くのも躊躇われた渉は、走り出す。
 ──少し考えれば、わかるはずだった。
 麻衣の様子がどことなく、元気のない雰囲気だったことも、最後の不自然な沈黙の意味も、想像すれば予想はついたのだ。
 だからこそ。
 だからこそ、渉は何も考えようとせず、コンビニへと走り出したのだった。

           ◆

 住名家の大黒柱である住名浩二《おじさん》はまだ若い。
 四十前半で、愛車はセダン。
 ゆったりとした助手席に身を置きながら、渉はどこか緊張感のある雰囲気に、気軽に話しかけようとしても、話すことが出来なかった。
 たまに何か言いたそうな伯父さんの様子は伝わっているのだが、かといって、何かを聞こうとも思えず、ただ沈黙だけが続く。
 病院までのおよそ三十分近く、二人は沈黙のままだった。
 移動する個室での沈黙は、想像するよりもずっと気まずく、右から左に流れていく助手席側の景色を渉はずっと眺めていた。
 普段ほとんどどころか、まず会話を交わすことのない人なのだから、沈黙が場を支配してしまうと息をすることすら躊躇うのも無理はなかった。
 だが、そんな空気も、病院の駐車場に着くまでだった。
 車を駐車して、エンジンを止める段階になって、ようやく伯父さんの口が開いた。
「……渉くん、今から病室に行くんだけど、」
「はい」
「悪いね。……ここまで何も説明なしだっただろうに、何も言わずに来てくれて」
「いや、大丈夫です。そりゃ、ちょっとは心配ですけど……」
 ちょっとは、なんて実は強がりなだけだが、伯父の手前、そう言う渉。
 何となく、想像は出来る。
 ──声帯手術が上手くいかずに、何か喉に異常が出たとかで、声は戻らなかった。
 自分の中で、一つの言葉としてそれが浮かぶと、渉は頭を掻きながら続きを連想する。
 ……そうか、しまった。じゃあフォローの言葉や行動を考えとかないと。
「……歩きながら話そう。掻い摘んで、説明するよ──」
 僅かに開いていた車窓をスイッチで閉じた伯父さんの言葉に、渉は頷いた。
 車を降りた伯父さんの横に並んで、渉もまた後に続く。
 少し古ぼけた病院の外観は、どこかで見覚えのあるような気がしたが、思い出せない。
 どこで見たんだったか。
 そんなことを考えている間に、渉は病院内へと足を踏み入れた。
 土曜日だからか外来患者はまばらで、伯父さんは抑えた声で、ぼそぼそと話し始める。
「渉くん、とりあえず、色々と娘のためにありがとう。まずは君にはそれを感謝するべきだと麻衣から言われていてね」
「いえ、そんな感謝されることなんて……」
「手術を受ける決意をしたのも、君のおかげだったんだろ? 俺は、あの子がちゃんと勇気を出して挑んだことが嬉しい。今までは、もしかしたら音楽に逃げているだけなのかとも思ったんだが……いや、これは厳しい考えだと自覚してるよ」
 白い通路を超え、外来棟を通り抜けて、入院患者用の棟に備え付けられたエレベーターの前で苦笑する伯父さん。
 渉はどう答えようか迷い、迷ったあげくに何も言わなかった。
「ただ、今回は決意して、頑張った。俺はそれがすごく嬉しかったんだ。それを君には知っていてほしくてね」
 5Fのボタンを押して、伯父さんは言葉を続けた。
「だが、その……手術のことなんだが、実は少し問題が起きてね」
 遂に伯父さんの話が、本題に入る。
 長い前置きはきっと、渉に失望や申し訳なさを感じさせないようにする為だったのだろう、渉にもそれは理解できていたから、ショックはそれほどなかった。
 だから、
「……何となく、麻衣からの電話でそんな気はしてました」
 とだけ、渉は伯父さんに伝えておいた。
 その方がきっと、伯父さんにとっても少しだけ話しやすくなるから。
 一ヶ月は短いようでやはり、長い。
 丸々と話していなかった期間があったからか、これまで気にしていたほどには、自分がショックを受けていなさそうで、渉はちょっとだけ驚く。
「そうか、麻衣はずっと付き添ってくれてる。もしかしたら精神的に参ってるかもしれないから、出来れば声をかけてやってくれないか」
「わかりました。それで、その……しーちゃんは?」
 だが、堪え切れなかった。
 あとほんの一分もないだろう時間の中で、どうしてこうも焦らすのだろう──渉は思ってしまって、伯父さんの言葉を待ちきれなかった。
 伯父さんは、頷いた。
「……詩季の手術は、それ自体は成功したんだ。けど、その途中で問題が起きたらしい」
「問題?」
「そう。その問題っていうのが……」

 キン、というエレベーターの到着音。

「渉ちゃん! ああ来てくれたのね。早くこっちに来て、しーちゃんに会ってあげて?」
 開くか開かないか。
 伯父さんの言葉の最中に、開閉扉の向こうから誰かの手が伸びてくると、有無を言わせない勢いで渉の腕を掴み、引っ張った。
 聞こえた声も、伸ばされた手も、伯母さんのもの。
 よっぽど待ち構えていたのだろう、姿を確認する前に掴まれた渉は、そのまま伯母さんに引っ張られながら通路を進むと、立ち並んだ病室の一部屋に入った。
 何かを言う暇もあればこそ。
 渉は、この一ヶ月間ずっと気になっていた結果を目前に出来たのだった。

 詩季は、そこに居た。

 ──ただし、無傷の首はそのままに、死んだように眠ったままの姿で。

           ◆

 どくん、と心臓が跳ねる。

 事情もわからないまま病室に入った渉は、ベッドの上で眠った詩季と再会を果たした。
 だが、その時に何故か、渉は──詩季が死んでしまっているかのように思った。
 白い病室、紐で留められた薄い色のカーテン。
 白い海に包まれたような少女の姿は、まるでこの部屋と一体化しているようで。
 それは、彼女の存在感が感じられない、ということだった。
 ……死んでいる? いや、呼吸はしてるじゃないか。
 冷静なのか、それとも感情が暴走しているのか。
 自分でも自覚のないまま、微かな胸の上下だけは確認出来て、渉は頭に浮かんだ最悪の結果を蹴散らすとベッドに駆け寄った。
 ベッド脇の見舞い客に用意された椅子には麻衣が座っていて、けれど、すぐ真横に来るまで渉の存在に気付いていないようだった。
 俯いた顔を持ち上げ、驚いた空気を醸した麻衣。
 そんな彼女がどこか痩せたように見えるのは、気のせいにしては現実味を帯びていて。
 
 再び、どくん、と。

 病室の入り口では、伯父さんと伯母さんが何事かを話しているようだが、渉の耳にまでその話は届かない。
 下から見上げる麻衣と視線が絡んだ。
 辛そうに揺れた瞳。
 いつもなら、どんな時でも輝きを秘めている麻衣の瞳が、今は暗く落ち込んでいる。
 ……なんだろう、この、感覚は。
 そんな状況にありながら、渉が思っていたのは、目の前のことではなかった。
 胸を打ち鳴らす鼓動が、何かを掻き乱す。
 覚醒しているはずの意識が、何故か乱れていた
 動かない詩季の様子を見て。
 その傍で憔悴したような麻衣を見て。
 入り口で会話をする二人の両親を感じて。
 何かが、大きく乱れた。
 小さい、それでも断続的な痛みが胸ではなく脳を内側から直撃するように、襲った。

 ……なんだろう、俺は、ここに来たことがある?

 妙な感覚だった。
 まるでパズルを組み立てようとして、失くした一ピースを探していたような。
 見つからず忘れ去ったまま流れた時間の先で、どこかにいったピースが舞い戻ってきたような、整理した自分自身の言葉で、渉は気付いた──それは、まさか。
「渉ちゃん、ごめんねぇ来てもらって」
 唐突に。
 伯母さんから話しかけられて、どこか別の次元に意識を飛ばしてしまっていた渉の意識と視力が、現在に戻ってくる。
 聞こえた声に、渉は理由もわからないまま詩季を探した。
 探すまでもない、手を伸ばせば触れられるベッドに詩季は寝ているのに。
 そうだ、今は詩季のことだ。何故、こんなに目の前に居るのに、見失ったのか。
「あ、いや……うん」
 詩季に意識を奪われると、今度は──何を考えていたんだろう、突然かけられた声に渉の内なる思考は吹っ飛んでいた。
 目を開かない詩季は、ただ浅くゆっくりとした呼吸を繰り返している。
 軽度のパニックを引き起こしていたのだろう、傍目にはわからない程度のものだったが、意識が変に混乱したことで逆に、渉は冷静になった。
「……しーちゃん、これ、どうなってるの?」
 静かに問うと、伯母さんは少し悩んだ素振りを見せた。
 話していいのか、迷っているのか。それとも説明する言葉に迷っているのか。
「……しーちゃんね。手術を受けるって決めて、一週間ほど前から病院に入ってたんだけど、肝心の手術がちょっと……その……上手くいかなかったの。それで、その、」
 詩季が眠っているのは理解出来た。
 だから、手術が上手くいかなかったということは、見ればいくらでもわかる。
 ただ、渉はその先が知りたいのに、伯父さんも伯母さんもすぐには答えてくれず、だから今度も自分から問おうとして、

「詩季、植物状態になったのよ……」

 ──答えたのは、麻衣だった。
 痩せたように見えるのは、もしかしたら頬がやつれているからかも知れない。
 だが、声にはまだ彼女らしい、力強さが微かに残っていた。
「……植物状態?」
 渉は、言葉を繰り返した。
 繰り返したのに、状況的にはある意味正しい言葉なのに──渉は理解できなかった。
「…………植物状態が、どうしたの?」
 馬鹿みたいな、同じことを問う言葉。
 けれど、理解しようとする意識より、それ以上のものが心と頭の中に圧し掛かってきて、それが精一杯だった。
 渉の言葉に、誰もすぐには答えようとしない。
 簡潔な言葉とは、即ち、力を持った言霊になる……それは誰が言っていたのか。
 誰もが、その『事実』を告げることに、躊躇しているようだった。

「………………」
「……………………あの、」

 声を上げたのは、伯母さん。
 心配そうなその表情は、落ち着いて見れば、この場の誰よりも真っ青になっていて、それでも麻衣の親らしい、気丈さだけは保っていて。
 そんな彼女が、唇から漏らしたのは、何よりも娘を想った言葉だった。
「事情の説明はすぐにでもするけど、まずはしーちゃんに声かけてあげてくれないかしら。
きっと心細いと思うの……この子も。最近はずっと渉ちゃんに懐いてたから、出来れば声をかけてあげて? その後で、待合室にでも移って伯母さんと話しましょう」
 冷静に見える伯父さんも、きっとこの状況を受け入れきれてはいない。
 入り口から通路に向けている瞳は何を考えているのかわからず、麻衣もまた顔を伏せて何も言わない中で、伯母さんの言葉は渉に響いた。
 この中で一番心が重たいのは、伯母さんのはずなのに、それでも親として、大人として振舞える彼女に、渉は頷いた。
 心配性で、つい最近も受験の心配をしていたり、遅くなったからと親戚の自分に泊まるよう配慮してくれた気遣いな面もあって──なのに、しっかりとした言葉。
 だから渉は、押し潰されそうな心の負荷を、冷静に感じ取れた。
 さっきから冷静になったと思いながら、それ以上に渉はテンパっていたようだった。
 振り返ると、詩季を見る。
 真っ白なベッドに包まれた白い少女は、眠るように呼吸を重ねていた。
 近づいて、そっとベッドの端に手を添える。
「……しーちゃん、その、まだ何があったかわからないけど、さ」
 考えてみればそうだった。
 事情がわからないままで、どう言葉をかけたらいいかもわからない。
 だが、声をかける。
「後で色々話を聞いて、もっかい来るよ。……大丈夫」
 ぎりっ、と音が聞こえた。
 それはたぶん、俯いた麻衣の食いしばった歯の隙間から漏れた音。
 誰かが何かを言う前に、麻衣は立ち上がると部屋を飛び出していく。
 伯父さんも伯母さんも、彼女を追いかけようとはしない。
 きっと一人にすることが最良なのだと考えている──それが渉にもわかったから、気にはなったものの彼女の行動は心から追い出した。
 詩季にもう一言だけ、声を投げかける。
「また後でね、しーちゃん」
 返事はない。
 それだけじゃない。
 以前は器用に会話ツールとして利用していた携帯も、今はない。
 ──言葉を話せるようになるどころか、詩季はもう自ら動くことすら、出来なかった。

           ◆

 待合室で、伯母さんは話してくれた。
 最初は細々とした、何かを堪えるような口調で、徐々に冷静さを増して。

 ──詩季は、声帯の病気以外にもう一つ、抱えている病気があったらしい。
 それは、心臓に関わる病だと伯母さんは言った。
 なるべく早くに手術を行うべき病気だったが、手術の成功確率は絶対というわけではなくて、その僅かな危険性があるから、詩季は手術をこれまで嫌がってきたのだ、と。
 けれど、長く生きる為には手術をするべきだった。
 手術を避けたままで生きていけたとしても、いつか限界が来ると医師は言っていた。
 ならば、生命力の最も強い十代の間に手術をすることが一番、危険が少ない。
 詩季はそれを聞いて、知っていた。
 だから、渉の後押しを得てようやく数週間前、詩季はやっと、手術を決意したのだ。
 これまで。
 本人の意向で、決して家族以外にこの事実を伝えることはなかったらしい。
 だから、渉も知らなかった。
 もし知っていても何も出来なかっただろうし、本人が誰にも知られたくないと言っていることを話されても、どうかと思う。
 問題は、知らないままに、後押ししたこと。
 話を聞いているうちに、渉の心はどんどんと重くなっていくのを感じていた。
 伯父さんや伯母さんが、事前にしつこいほどフォローを重ねていたのは、言いよどんでいたのは──たぶん、それが理由なんだろうと渉は察した。
 家庭教師として渉が来てから、徐々に手術に前向きになっていたことを知っていた伯父さんと伯母さんは、本人の、詩季の意向を汲んだのだ──。


「これはしーちゃんが決めたことなの。……渉ちゃんは気にしないでいいのよ」
 説明をしていく間に、渉の顔色が悪くなったことに気付いた伯母さんは強調した。
「渉ちゃんのおかげで、あの子は可能性を信じることが出来た。それって大事なことよ。伯母さんも心配してたし、手術はいつか必ずしなきゃいけないことだったもの」
 目を伏せた渉に、伯母さんはその手を握ると、丁寧にそう言った。
 掌から伝わってくる暖かさは、一ヶ月前に詩季の手を握ったあの日を思い出させて。
 ほんの少しだけ、渉は何も言えずに待合室の椅子に座ったまま身体を丸めた。
 伯母さんは、しばらくの間、渉が落ち着くのを待つ。
 渉はそんな伯母さんの気持ちをありがたく受け止めながら、ゆっくりと呼吸を整える。
 そう、責任を感じていたとしても、今はそれが問題になることはない。
「……ごめん、伯母さん。続きを聞かせて」
「いいの?」
「うん、聞きたいんだ」
 渉の言葉に、伯母さんは頷くと先ほどの言葉を継いだ。

 手術を行なった結果は、見ての通りだった。
 どうやら心臓自体の手術は成功したものの、手術時間が延びたせいと、医師の説明によると「脳空気塞栓」という症状が出てしまったらしい。
 唐突な専門用語に戸惑った渉に、伯母さんは説明してくれる。
 それは脳に影響が出る事例だと医師は言っていたそうで、心臓手術では、心臓が空になり、空気が入ることが稀に起こることがある。確率は極めて低いが、その状態で頭の血管にこの空気が飛ぶと、脳に障害を残す事が有り得る。
 詩季の症状を検査した結果、この「脳空気塞栓」の可能性が濃厚だそうで、最悪の場合、目が覚めないことがあるらしい。
 それは本当に稀だけど、事前承諾の表にもちゃんと書いていたものだったそうだ。
 端的に言えば。
 詩季は、動くことも意思を示すことも出来なくなったのだと──説明された。
 渉は小さく感謝の言葉を叔母さんに伝えると、黙った。
 まるで知らない状況、真実。
 渉は、何かを発しようとすることすら、忘れてしまったように沈黙した。


「あ、住名さん。こちらにいらっしゃったんですね」
 病室に繋がった通路から声が聞こえ、渉は顔を上げるでもなく横目で見る。
 やってきた看護士は伯母さんを見ていて。
 伯母さんは、心配そうに渉を見ながらも看護士から話を聞く。
 どうやら、医師から何か話があるそうで、看護士から話を聞いた伯母さんは、それでも心配そうに渉を見た。
「……大丈夫だよ、ありがとう」
 詩季や麻衣のことでも心配が絶えないはずなのに、自分のことまで気にかけてくれる優しい伯母さんに、これ以上迷惑はかけたくない。
 渉が何とかそれだけ伝えると、伯母さんは待合室を後にした。

 一人きりの待合室。
 何故か、周りに誰もいなくなった瞬間、胸が急激に締め付けられた。
 身体を真っ直ぐに保てないほどの締め付け、まるで胸から膝にバネが伸びたように、折り曲げないと呼吸すらままならない。
 言葉が出ない。
 息をちゃんと吸えないし、逆に吐くことも出来ない。
 眩暈さえ、押し寄せてくる。
 唐突な不調。
 渉は待合室のソファに強引に身体を横たわらせると、荒い息を吐いた。
 初めての過呼吸だった。
 だが、渉はそれがそういうものだとは知らなかった。
 だから、渉は原因不明で、そのままダウンした。
 意識は暗くて白い、闇の中へと堕ちていく────


          ◆


 ──夢を見ていた。

 ──それは、懐かしい感情のまとわった記憶でもあった。

 小さい頃は、男とか女とか関係なく、すごく仲良しの三人組だった。
 血が繋がっていないとか、性別が違うとか、十歳だろうと六歳だろうと気にしない。
 ただ三人は、仲が良かった。

 それはずっと、続いていくものだとばかり、思っていた。

 詩季は小さい頃、すごく身体が弱かった。
 今の白さと同じぐらい、いや当時の方がもっと白くて、ほんの少し力を込めれば折れてしまいそうなほど、詩季は虚弱体質に見えた。
 何度も何度も、彼女は入退院を繰り返していて、渉や麻衣はその度に病院を訪れていた。
 病院で、かけっこ。
 看護士さんに怒られては、しゅんとうなだれて部屋に戻った。
 それでも遊び足りなくて、病室では三人でしりとりや、簡単な遊びで盛り上がった。
 大切な、渉の中にある思い出だった。
 そう。
 それは思い出だった。
 あの頃、渉は麻衣と一緒にずっと、詩季の病室に入り浸りだった。
 そして、ある日麻衣と二人で計画を練ったのだ。
 落ち込む詩季のために、何か二人だけでサプライズをしてやろうと。
 相談の結果、プレゼントするものは『ピアノ』になった。
 と言っても子供が二人、お年玉貯金を崩しても買えるものなどたかが知れていて。
 それでも決めた買い物をしようと、麻衣は詩季の相手を、渉は買出しを担当した。
 どんなものがいいか、それは完全に渉に任されていて、市内のおもちゃ屋さんに出向いて渉は一生懸命に、選んだ。
 ただ、資金の問題で買えたのは、幼児向けの小さな赤いピアノだったが。

 おもちゃのピアノは、しかし、十歳の子供にとってはそこそこに、大荷物だった。
 けれどそれは、プレゼントだ。
 渉は一生懸命にそれを持って、再びバスに乗ると、一息をついた。
 これで詩季が少しでも喜んでくれればいい。
 頑張ろうと思ってくれれば、嬉しい。
 子供ながら渉はそんなことを思っていて──ただ疲れたのだろう、うたた寝をした。

 次に気付いたとき。
 聞こえたアナウンスに、渉は焦った。
 何故なら、病院がある方向のバスと、自宅に向かうバスを乗り間違えてしまったから。
 もうすぐ自宅だという所まで近づいていたバスを、渉は慌てて降りる。
 焦ったままで事情を話したバスの運転手は優しくて、料金は要らないと言ってくれて。
 降りた渉は、荷物を抱えて戻るために反対側のバス停に向かった。
 車線を乗り越えようとして、そこに、一匹の猫がいることに気付いた。
 まだ小さな、ぶち猫だった。
 だけどその猫は怪我をしているようで、片足を引きずっていて、動きが鈍かった。
 プレゼントは重くて。
 でも、心配して。
 だから、
 渉は、猫に向かって走るトラックに気付いた途端、プレゼントを置いて飛び出した。

 キキィ─────────、────。

           ◆

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