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書庫 「葉っぱ猫」 mixi処コミュの声無しの詩/三章?

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『今日、泣いちゃって、ごめんなさい』
 もうすぐ家に到着する、というところで、詩季は渉を引っ張って止めると、携帯を見せた後──頭を下げて、謝ってきた。
 ストレートな一文と態度に、逆に焦ってしまって、渉は手を振ってみせる。
「いや、こっちこそなんか……ごめんね?」
『ううん』
 首を振れば済むことを、文字にして。
 画面を見せたままの位置で、詩季の指先が携帯の縁をなぞる。
 言葉は元々なくて、だから無言なんて慣れっこになってきたはずの渉だが、その詩季の指先はまるで、何か気まずい沈黙のように感じられた。
 戸惑うような、迷うような指先。
 どちらも自然に歩みは止まり、渉は詩季が何を打つのか、待つことにした。
 話したいことはきっと、さっきの話だけじゃない。
 そんな気が、したから。
 携帯を持たない詩季の左手は、喉のあたりをきゅっと押さえていて、白く細い指はほんの少しだけ、震えているようにも見える。
 だが、渉は何も言わなかった。
 ただ、待っている。
 時間にして一分ほども経っていないだろう、詩季の親指が動いた。
 文字を形作っていく。
『手術はね、怖い。』
 短い文章の連なりを、作ってはクリア。作ってはクリア。
 それはまるで、形を持たない、本当の言葉のようで。
『よくなる可能性があるから、手術する。』
『でも、自分の身体にメスが入る。』
『失敗する可能性も、0じゃない。』
『それがすごく怖くて、0じゃないっていうことは、起こるかもしれない。』
『だから、今まで手術受けようなんて考えなかった。』
『でも、このままじゃ駄目だってことも、わかってるの。』
『頑張りたい。でも、頑張れない。それでも』
『背中を押してほしいんだ、渉くんに』
『昔みたいに、頑張れ、って言ってほしい』
『渉くんは覚えてないけど、昔もすごく、励まされたんだよ』
 綴られた言葉は、ひとつの願い。
 あと一歩を踏み出せない少女の頼みに、渉は少しだけ考えて、頷いた。
「もし何かあったら、その時は俺が何でも手伝うよ。だから、しーちゃん……頑張れ」
 ぽん、と肩を叩く。
 詩季は目を閉じて、ゆっくり深呼吸。
 そして大きく頷くと、最後に一文を添えた。

『やっぱり、記憶があってもなくても、渉くんは渉くんのままだよ』

 詩季はそれだけ告げると、小走りで家に入っていった。
 追いかけるようにして渉も帰宅し、頼まれた買い物を麻衣に届けに行って。
 渉は、そこで見る。
 すでに泥酔して、夢の世界へと旅立った後の麻衣の姿を──。

           ◆

 ──六畳間の、渉の自室。

 それから一週間が経って。
 翌日に迫った、四回目の家庭教師の日。
 考えてみればこの先週と先々週、両方ともちゃんとした勉強をしていないことに気付いた渉は、詩季に内緒で幾つかの教材を買い集めていた。
 基本学科はそこまで重要ではないとはいえ、最低限の知識は欲しい。
 と言っても、ドリルの出来を見るに、詩季の頭は別に悪いわけでもないのだ。
 だったら基礎さえちゃんと出来ていれば、詩季は基礎学科程度なら余裕だと渉は見積もりをつけていた。
 買ってきたのは、その目的に特化している基礎分野の教材三点。
 ……今日は、このうちの一冊を進めよう。
 そう考えて、渉は携帯のメールを打つ。
『しーちゃん、今日の家庭教師、二時ぐらいに行くよ』
 送ったメールに、一分もしない内に即返信。
 鳴った受信音に、メールを開いて、渉は「え、」と言葉を漏らした。
「……あぁ、そうか」
 だが、メール文を下にスクロールして、納得。
 詩季はどうやら、手術を受ける決意を本格的に固めたようだった。
 返ってきたメールには、冒頭に『家庭教師は当分お休みにしてください』という内容が書かれていて、その文章の後には『たぶん数週間以内には、手術を受ける準備が整います』という旨がある。
「……声帯手術、か」
 渉は机の上に準備しておいた教材に手をかけた。
 これから数週間は少なくとも、家庭教師をすることはないのだ。
 なら、教材を出しっぱなしにしておくのも忍びない。
 机の引き出しにそれを収めながら、渉はぽつりと呟いた。
「しーちゃんの声、どんな声でも、きっと満足できるって信じたいな」
 実際、声帯手術がどんなものかとか、どういうリスクがあるのかを、渉は知らない。
 それでも「背中を押してくれ」と頼まれたことに関しては、責任を持ちたい。
 何かあったら、少しでも役に立ちたいと思うぐらいには、渉は先週、詩季に頼まれた言葉に責任を持っているつもりだった。
「声を出せるようになったら、麻衣と三人でカラオケかな」
 ベッドに寝転がり、ふとその光景を想像すると、渉はぷっと吹き出した。
 それは、麻衣と自分が、歌い慣れていなくておたおたする詩季をいじっている光景。
 マイクを握った詩季に抱きつく麻衣と、ソファに座って笑っている自分。
 現実感たっぷりの想像は、記憶を失くした渉にとっても、楽しみなものだった。
 この数週間という短い時間の中でも、これほど馴染んだのは、やっぱり消えた過去に積み重ねた『何か』があってこそなんだろう。
 ふと、思う──
 きっと昔、自分は夢を持っていたのだ。幼いながらに。
 それはたぶん、麻衣にも詩季にも告げていて、だから二人は自分の夢を知っている。
 聞けば、たぶん答えてくれるだろう。
 でも、もし聞いてしっくり来なかったら……という可能性が残っていて。
 この一週間で何度も考えた、二人のどちらかへのメール。
 それも、渉は結局打とうとは思えなかった。
 いつか思い出せる。
 そう考えているから、というのもある。
 今はまだ二人に関する記憶すら戻っていなくても、こうしてまた関わりを持っていれば、近い将来に記憶は戻ってくる。
 何だか渉にはそう思えて──それが何となく、待ち遠しい。
 詩季からの受信メールに、渉は何と返すか迷ったものの、すぐに文章は決まった。

『しーちゃんなら大丈夫。頑張れ!』

 何となれば、それは詩季が求めていた言葉。
 夢うつつに溺れながら、渉は心に過ぎる何かを押し包んで、隠す。
 こんな日々を、過去に自分は失ったのだ。
 ……もう、失いたくなんてないな。
 渉はそんな風に、知らないまま思っていた。
 それも、眠ってしまえばおぼろげな記憶となってしまうのだが。

           ◆

 ──カーテンの閉じきった詩季の部屋。

 詩季は何度も携帯を見ていた。
 そこには、デジタルな文字で描かれているたった一行の文章、

『しーちゃんなら大丈夫。頑張れ!』

 このメールを渉がどういう気持ちで打っていようと、詩季は気にしていなかった。
 ただ、嬉しい。
 言い方は違えど、十年前にも、同じように自分を支えてくれた人の言葉。
 だから、頑張れるんだ──詩季は、自分にそう言い聞かせる。
 遮光・防音カーテンを閉じきった部屋は、それでもLEDに照らされて充分明るい。
 だが、お世辞にも今の詩季の部屋は『綺麗』とは言いがたかった。
 テーブルの上に散乱する無数の楽譜。
 床に散らばった書きかけのスケッチ用紙には、妙なデザインが半端に描かれている。
 ベッドにも幾つかの楽器やヴァオリンが置かれ、寝るスペースすらままならない。
 別にそれは、出かける準備をしていたわけではなかった。

 ──────曲を、作る。

 そのために詩季は今、全てを投げ打つ勢いで、全神経を注いでいた。
 手術は、受ける。
 でも、その前にどうしてもやりたい事がある。
 忘れてはいけない大切な思いを、どこかに刻み付けておく必要があった。
 だから詩季は、自分の『作曲家になりたい』というその心を、今に刻もうとしていた。
 素人作りだから、形に残したところで……という思いは、ないわけではない。
 だけど、そんなときに詩季はメールを見る。

『しーちゃんなら大丈夫。頑張れ!』

 携帯に残された履歴の最後、一通のメールは、詩季の心と熱さを支えていた。
 もう少しだけ、時間が欲しい。
 でも手術の日程は、自分自身が怯えて逃げないように予め、もう決めていた。
 限られた時間の中、詩季が残したいもの。
 きっと、それは形になる。
 だから、詩季はめげそうになる自分を叱咤しながら、今日も机に向かう。

 会いたい、と思わないわけではない。
 この時間の少しでも一緒に居たい、と思わないわけではない。
 本当は。
 けれど、それは出来ない。
 この焦げる想いを伝える術は、たった一つだけ。
 今の自分が会ってしまえば、何も出来ずに泣いて、ただ渉の胸に縋ってしまいそうで。
 だから、詩季は自分を叱咤する。もっともっと、追い込む。

 小さい頃の彼の言葉、今の彼の言葉、どちらも──間違いなく、渉だった。
 でも、それを渉は知らない。忘れているから、気付くことが出来ない。
 結局今まで、ずっと離れたままだった。
 過去にもらったものを何も返すことが出来なかった自分が、今度は何かをしてあげたい。
 そんな自分が出来ることは、きっとこの、たった一つだけ。
 心臓は、とくん、とくん、と小刻みな鼓動を打ち続ける。
 その鼓動をそのまま描くように、詩季は机に向かった。
 目の前に並ぶのは、無数の音符に包まれた完成間近の楽譜。
 手は鉛筆の黒に汚れていたが、詩季はそんなことを気にしない。
 手術を受ける前に──たった一つの想いを、完成させるために。

 ──渉は知らない。
 ──詩季が、今何をしているのか。
 ──詩季が、もうすぐ何の手術を受けようとしているのか。

 ──渉は何も、知らなかった。


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