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書庫 「葉っぱ猫」 mixi処コミュの声無しの詩/三章?

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 そろそろ日付も変わる夜中。
 渉は『羨ましいな』と言いながら部屋を出た詩季を自室まで送ると、麻衣の部屋に足を踏み入れる。
「おー。つかれー。しーちゃん、寝たんー?」
 部屋の中には、酔っ払いが居た。
 それもそのはず、部屋にはいくつもの空き缶が転がっていて、そのどれもにアルコール分5%や6%の表示が描かれていた。
 酒豪にはジュースだろうそれら酎ハイは、二十歳の二人にとっては充分。
「なんで関西弁のイントネーションなんだ」
 突っ込みながら渉は部屋に入るとカーペットに座った。
 ベッドに寄りかかりながら酒を飲んでいる麻衣が、渉に缶を一本差し出す。
「ほらほら、これからは大人の時間じゃん?」
「しーちゃんがいる時からずっと飲んでたくせに……」
 言いながら、渡された酎ハイは素直に受け取り、プルタブを開けて口をつける。
 ほんの少しだけ焼けるような感覚と、淡い青りんごの味。
 ──渉が泊まると決まった後。
 麻衣は冷蔵庫に保管していた大量のアルコール類を取り出すと自分の部屋に持ち込んでいて、酒盛りをする気満々だった。
 流石に詩季が起きて一緒に居る間は、お酒を自重していた渉も、すでに酔っ払いと化した麻衣だけを相手にするなら気にしない。
 そこには詩季が未成年だから──という健全な理由もあったが、それ以上に渉は、自分が酔っ払ってしまっている間に、ボロを出すのが怖かったのだ。
 詩季にだけは、失った過去のことは話したくない。何故か、そう思った。
「麻衣、飲みすぎじゃないか?」
 ようやく一本目の半分手前を飲んで、渉はふと麻衣を見る。
 ぐだーと身体をベッドに預けたままの彼女の脇には、六本ほどの酎ハイが転がっていて、いくらなんでも飲みすぎだ……渉は止めようとしたのだが、
「たまにはいいのよー。普段、あんまり飲まないし」
 とっくに風呂も済ませ、パジャマ姿の麻衣は渉の静止も聞かずに、だらしなく足を立ててぐいっと一息。
 飲まないという割には、中々豪快な飲みっぷりだった。
「…………久しぶりよね、我が家の夜にあんたが混ざってるのって」
 僅かに開いたままのカーテンの隙間、見えるのは暗闇だけ。
 なのに、麻衣はその隙間に何かが見えているかのように、目を凝らしていて。
 無意味に渉も、そこを見る。
「……そうだな」
 僅かに火照ったような顔色の麻衣が、静かに言って、渉は少し間を開けて頷いた。
 同意を求めるような独り言に対して、渉はふと思う。
 麻衣になら、記憶のことを話してもいいかな、と。それは別に詩季を蚊帳の外に置いているわけではなくて、むしろ詩季が特別なのかもしれない。
 更に首を上向け、渉は缶を煽った。
 ちらりと見た麻衣は、変わらずに窓の暗闇を眺めているようで。
 年が同じだということ。
 そして、高校が同じだったということが、話しやすいと感じる一因なのかもしれないが、麻衣はとても話しやすかった。素で話せる部分がある。
 ただし、それはあくまでも級友ならではの感覚。
「もう何年? あたしら今二十歳だから……うわ、もうほとんど十年前じゃん」
「もう年寄り、って感じか」
「いやー。あたし若いよ? ぴちぴちよ?」
 言いながらズボンに手をかけると、麻衣はぐいっと──
「待て待て!」
 渉は慌ててそれを抑えて止めると、首を振った。
「興味はないし、そういう事をしでかすな! 怖いから!」
「怖いって何よー!」
 手を弾かれ、ぐにーと頬をつねられる。
 痛みより、目の前にいる麻衣の眼力が、結構怖い。
「あたしは未来の映画監督よ? あんた出してあげないわよ、そんなこと言ってると!」
 大声と多少の唾を飛ばした麻衣に、渉は怯み、
「急になんだ!?」
 と声を荒げ返してから、気付いた。
「あ、そういえば麻衣は芸術大学か」
 何気に麻衣とは高校時代、たわいない会話をすることはあってもそういう話をした覚えがなくて、『映画監督』という単語に違和感が沸いてしまったのだが──現在通っている大学のことを思い出して、渉は納得した。
「そうよ。映像学科よ、文句ある?」
「……いや、文句はないけど」
 麻衣と酒を交わしたのは初めてな渉だったが、麻衣はそこそこに、絡み上戸だった。
 顔を赤くしたまま、首に腕を回してくる。
「そりゃそうよね。あたしは夢追いかけて、しーちゃんも夢追いかけて」
 顔を伏せるように、渉の肩に頭を預けながら、ぼそぼそと囁くような麻衣。
 十月の夜分、涼しさのある室内は、酒の匂いに包まれていて。
「……あんたは、どうなの」
「俺、か。夢なんて、簡単に見つかるもんじゃないよなぁ」
 半分ほど飲んだ青りんご味の酎ハイを、唇に垂れ乗せる。
 ほんの僅かに喉を焦がすような味は、アルコールならではの感覚。
 何気に回された腕や、肩の感触がやや気にかかるが、どけるのも変で、何も言わない。
「……夢、ないんだ」
 渉は頷きながら、更にもう一口、喉の奥に水分を放り込んだ。
 あまり、渉は酒が得意なほうではなかったりする。
 その癖、今飲んでいるのは、この従妹のせいだった。
 酔った麻衣は雰囲気が変わっていて、一月遅れの従妹は、今も肩に頭を乗せられている。
 ただでさえ数週間前にようやく再会を果たし、しかも高校時代もほとんど会話らしい会話をした覚えもないのに、麻衣は酔っているのか無防備だった。
「……ほんとに、ないの?」
 問われ、考えたのはまったく関係のないこと。
 実のところ、従妹と呼んでいるものの、実際に彼女たちと血縁関係はなかった。
 父親の姉が結婚した旦那の、妹夫妻の娘が麻衣であり、詩季なのだ。
 従妹と言っているが、実際の法律上ではそういう扱いではない。ただの親戚筋。
 しかもほとんど関わっていなかった事もあって、渉はこういう麻衣に耐性がなかった。
「……聞いてんの?」
「聞いてるよ。夢……かぁ。……ない、かな。たぶん。だから二人のこと、羨ましいとは思うよ。監督に、作曲家だろ」
「……ほんとにそう思う?」
 すぐ耳元から聞こえる声をくすぐったく感じながら、渉は頷いた。
「あぁ、思う」
 確かに、それは本心だ。
 自分に夢がないことへの焦燥感がないわけでもないが、だからってどうしようもない。
 ……無理をして何かを掴もうとしても、空回りしそうだし。
 そんなことを考えていたからか、それとも酔っているせいなのか、

「渉はさ、夢を持ってないんじゃなくて…………忘れてるだけじゃないの?」

 そんな麻衣の言葉が、するりと渉の中に飛び込んでくる。
 いつもの渉なら、動揺しながらも、心が訴えるものに従ってごまかしただろう。
 だが、酔いに任せた思考と、跳ねる鼓動が、それをさせようとはいなかった。
「……記憶を失くしてること、知ってたのか」
 だから、そんなことを言ってしまう。
 ただ、ごまかしたとしても、大した意味はなかったのかもしれなかった。
 何故なら、麻衣は微かに頷いてみせたから。
「実は知ってたんだよね」
 渉は何度かそうだとは思っていたし、特に問題もないようだったが、
 ……あれ? そもそも、何で俺は隠そうとしたんだっけ。
 思ったより渉は酒に弱いようだった。
 頭の中まで酔いが回ってきているようで、思考が徐々に乱れつつある中、
「……頑張って隠してきた意味、あんまりなかったなぁ」
 ぼそりと漏らした言葉は、麻衣にも届いていないだろう。
 ただの独白──気がつけば、渉の握る一缶はまるまる、空っぽだった。
 さしたる量ではないが、あまりお酒を飲む機会のない渉にとっては充分。
 頭や顔に血が昇ったような、長風呂した後のような火照った自分の額に手を当てながら渉は呟いていた。
「家庭教師受ける前から、どうしようかな、って思ってたんだけど……あんまりさ、そういう話はするべきじゃないと思ってたんだよ、俺」
「いいんじゃないの?」
「そうかな。でも、知られてたんなら意味なかったかな、って」
 というか、知っていたのなら言ってくれれば──と渉は考え、しかしそれだと一部、辻褄が合わない気がした。
 ……詩季にしたって、麻衣にしたって、知ってる素振りはなかったような?
 そんな風に考えていると、麻衣が口を開く。
 わざわざ考えなくても、答えはそこにあった。
「あたしは知ってるけどね」
 また一缶飲み終わったのか、麻衣の手にはプルタブの開いていない新しい酎ハイ。
「しーちゃんは知らないからね。あたしもわざわざ、そんな話、したくないし。あんたも話したくなさそうだったから、あたしはしーちゃんに合わせてただけ」
「……なるほど」
「こないだのチケットの時に言いかけたのって、それ。あんたに話しておいたほうがすっきりすると思って、でも、それってあたしの自己満かなーって」
「なるほど」
 思い出してみれば、今朝、麻衣は何かを言いたそうだった。
 聞かずじまいだったが、それだけもどかしい思いをさせてしまっていたのなら、いっそ告げてしまった方が良かったのか。
 下手に告げれば、ぎくしゃくしそうな気がしたのかもしれない。
 そこまで深く理由も考えなかった自分も、自分だが。
「なるほどなるほどって、それしか言えんのか」
 ぐい、と肩をぶつけてくる麻衣。
 揺れる身体を片手で支えて、渉は飲み終わった缶をテーブルに置く。
「まぁいいや、それより、あんたに言いたかったことがあるのよ。なんかさ、あんたしーちゃんにめっちゃ気使ってない?」
「そう、かな?」
 無意識に、渉は次の酎ハイに手を伸ばしていた。
 パッケージを見ずにプルタブを開けると、ごきゅり、と喉を鳴らして喉に通す。
「長いこと会ってなかったから、だと思う。ていうか、俺には十年ぐらい前の記憶が、事故のせいでないからさ。麻衣は高校一緒だったからまだ、慣れてるけど、良いお兄さんを演じちゃってるのかもな」
 必要以上に酒が入っているせいか。
 渉は普段なら口に出さないようなことまで、ぽろぽろと零していた。
 それは、麻衣にしても同じだったが。


  ぽろっと零した記憶の話が終わると、何だかそこに注ぐ言葉がなくなってしまった感があって、二人は無言のまま缶を空けた。
 空き缶の数はもう二桁を超えたが、なんでこんなに飲んでいるのかもわからない。
 麻衣は、意外にも強いようで、赤くなった顔のまま平然としている。
 渉は渉で、そこまで一気に飲まないから頭の中にもやがかかったような感覚はともかく、足許がおぼつかないほどではなかった。
 と、麻衣がおそらく七本目だろう缶を置くと、立ち上がる。
 そして、言った。
「トイレ」
 そのまま返事も待たずに部屋を出て行こうとして、足を止め、麻衣は振り返る。
 なんだ、と目を向ける渉に、
「もう一回飲みなおすから、ちょっとコンビニでおつまみ買ってきてよ」
 使いっぱしりも同然な言い方。
 というか、これ以上に飲む気かと思わなくもなかったが、渉は片手を挙げた。
 渉も少しだけ、酔いを醒ます時間が欲しかった。
 そういう意味ではコンビニへの買い出しは悪くもない。
 トイレの為に去っていった麻衣を見送って、渉も部屋を出た。
 ……このまま悪酔いも、怖いしな。

           ◆

 深夜一時をとっくに回った街中は、十月を迎えて幾分、冷え込むようになっていた。
 夜中に出歩くつもりもない、それ以前に夕方には自宅に帰っているつもりだった渉は、長袖の上着一枚だったが、酒が入っているせいか思ったより寒いとは感じない。
「ふぅ、」
 息を吐く。
 思ったよりも白い息が空気に溶けていって、渉はそれを視線で追いかけた。
 曇った空は、その先の星明かりを完全に隠している。
 さっきはまったく意識していなかったことのたくさんが、冷たい空気に触れて、何種類もの感情をない交ぜにして追いかけてくるのを渉は感じた。
 麻衣の夢を知らなかったこと。麻衣が知っていたこと。
 そして彼女の言った「夢を忘れてるだけ」という、疑問の含まれた言葉。

 ……渉は、夢を探そうとしなかったわけではなかった。
 ただ、何かを探しても、見つけたと思っても、どれも心にしっくりとはまらない。
 趣味としてはいいけれど、夢として追いかけるには物足りない。
 そんなことを繰り返していて。
 でも、それが実は、本当に追いかけていた夢を忘れているだけだとしたら。
 もしかしたら、その忘れた夢こそが、本当に叶えたいものなんだったら。
 渉は、自分が夢を見つけられない理由を、見つけたような気がした。
 記憶がないから、結局のところ、わからないのだけれど……

 買い物を済ませて、コンビニ帰り。
 歩いて十分もかからない距離にあって、しかも二十四時間営業。
 なんだか今では普通になったコンビニという仕組みが、実はすごく有り難くて、便利だなぁ、便利すぎるなぁと渉は思った。
 きっとまだ、酔っている。
 住名家へと戻る前にもうちょっと散歩していくべきか。
 そんなことを考えながら歩き始めて、渉は見覚えのある姿を目に留めた。
「……しーちゃん?」
 二車線の道路を挟む歩道から近づいてくるのは──詩季だった。
 寝たのかと思っていたが、何でコンビニなんかに? 渉は近づくと声をかける。
「どうしたの、こんな遅くに。コンビニ行きたいなら声かけてくれればよかったのに」
 ただでさえ危ないご時勢だ。
 そう言った渉に、詩季は首をふるふる振ると、携帯画面を見せた。
『コンビニじゃないよ』
 どういうことだろうか、と問おうとして、詩季が次の文を打ち始める。
 言葉を作っているのに問うのも変な気がして、渉はその文を待った。
『渉くんと二人きりで話したいと思って』
 コンビニの明かりを反射するような携帯の画面に、
「そっか、んじゃ帰りながら話そうか」
 笑いながら頷くと、渉は詩季が横に並べるような速さで歩き出した。
 詩季もそれに続く。
 だが詩季は言葉を打つでもなく、話したいと言う割りに、ついてくるだけ。
 そのまま数分、あと半分ほどで家に着くという距離になっても詩季は何も言わなくて、
 ……促したほうがいいのかな?
 渉は何か言い出しにくそうだとようやく気付いて、口を開く。
「……それで? どうしたの、しーちゃん」
「…………、…………」
 けれど、詩季は携帯を打とうともしない。
 ただ横に並んで歩くだけで、ただ何かを考えているのか、地面をじっと見つめながら歩調を合わせてついてくる。
「何か、相談ごととか?」
 しばらくの無視。そして、左右に振られた頭。
「……そっか」
 こくこく と頷く詩季。
 曇った空の切れ間からは、欠けた月が顔を出し始めていて、渉は急かすものでもないか、ともう少しだけゆっくりとした歩調で、帰路を目指した。
 更に一分ほどの無言の後。
 ようやく、詩季は携帯を開くと文字を打ち始めた。
 画面を眺め、クリアのボタンに指がかかったままなのは、何かを迷っているのか。
 だが、詩季は携帯を、歩く渉の前に差し伸ばした。
 そこに書かれている文字に、麻衣の比ではない。渉の鼓動は跳ねる。

『さっきのお姉ちゃんとの話、本当?』
 
 ──あの会話を聞かれていたのか。詩季は覗うように、渉を見上げていた。
 その瞳は揺れているわけでもなくて、ただ、純粋な疑問だけを漂わせている。
 冷静な雰囲気を匂わせる詩季の様子にも、今度は渉のほうが沈黙だった。
 返す言葉を必死に考えるが、浮かんだどの言葉も選ぶまでには至らない。
 詩季はそれすら待ちきれないのか、それとも渉の中にある何かを察したのか、
『記憶を失くしたって、本当?』
 もう一度、言葉を変えて、渉の眼前に差し出した。
 渉は参ったなぁ、とコンビニ袋を握ったまま伸びをして、真っ白い息を抜く。
 ごまかすことは、出来なさそうだった。
「……うん、本当だよ」
 この三週間とちょっと。
 振り返ってみれば短い時間だったが、あっさりとバレてしまった。
 たぶん、酒に飲まれた部分の影響も多そうだが、渉は心音が駆けるのを感じる。
 麻衣に知られた時よりも、ずっと早く、強い音。
 そんな渉とは正反対に、詩季は少しも取り乱すような素振りはなくて、だからか。
 渉も、自分の鼓動ほどは動揺していない自分に気付いていた。
「俺には、過去の記憶がないんだ。大体、十年前ぐらいから前の記憶がね」
『昔のことは、全部?』
「全部じゃないけど。でも、しーちゃんたちとの思い出は、ほとんど、ないかな」
 ごめん、と渉は詩季に謝った。
 言いながら、それが自分の意図する部分ではないとわかっていても、冷たい言葉に聞こえて、だから渉は謝った。
 詩季には、渉のそんな心の内はわからない。
『なんで謝るの?』
 と、携帯を見せてくる。
 冷たいという言い方は、使いたくなくて、渉は少し考えた後に言った。
「たぶん、その中には大切な記憶もあったはずだからさ。覚えてないけど……そんな気がするから、それを忘れたことに対して、ごめん、かな」
 記憶にはない。
 けれど、他の誰かが覚えている記憶の言葉を通して、見えるものがほんの少しでもあって、それが今の渉の言葉になっていた。
 思い出せないものは、ある意味仕方ない、と割り切っていれれば、それがいい。
『でも、渉くんは渉くんだよね』
 詩季は何を考えているのか、ふと気になったが、その日に焼けていない白い顔からは、感情は読めても考えは読めなかった。
 渉は、ちょっとだけ目をそらしながら、言う。
「……隠してたことや、記憶がないこと、怒らないの?」
『怒る意味がないから』
 詩季は微かに笑った。
 その言葉に、渉はどこか張り詰めていた心の琴が少し、緩んだ気がして。
『昔ね』
 歩きながら、渉は詩季の携帯を覗き込む。
『渉くんがわたしの初めて弾いたピアノを聴いたときのこと、覚えてる?』
「…………いや、」
『その時の感想、私は覚えてるよ?』
 歩みを止めた詩季。
 渉もまた足を止める。
 器用に、携帯の画面を見ず遠い思い出を見つめながら詩季の打った、渉の言葉。

『「俺の知らない世界を感じたよ!」』

 詩季の打った「」の内側の言葉。
『そう言ってくれたの覚えてる。この間も渉くん、言ってくれたよね』
「……そうだっけ?」
 あの時は確か、素直な感想を告げたように思ったが、内容まで即座には思い出せない。
 渉は曖昧なままの記憶に、頬を掻いた。
『そうだよ。あの時、やっぱり渉くんは渉くんなんだ、って思ったもん』
 詩季は、歩き出す。
 遅々とした歩みは、今の、二人だけで話をする時間を、少しでも長く伸ばしたいのか。
 渉もまた、深呼吸のような速度で足を動かした。
『なんで記憶、失くしたの?』
「……なんでだったかな」
 本当は聞きかじって知っている、事故が原因だった。
 でも、それだけは何でか、口に出したくなくて、渉はごまかした。
 その空気はきっと詩季にも伝わっているはず──なのに、彼女は何も言わない。
「たまに少しだけ思い出しそうなことはあるんだよ。きっと大切だった思い出なんだろうけど……けど、思い出せないってことは、どうなんだろうね」
『さっき話してた。渉くんには、本当に夢がないの?』
 渉の悩むような口調に、詩季は別の話を持ち出した。
 特に踏みとどまるような話でもない、と渉はその疑問に、頷く。
「……だと思うよ。探しても、見つからないから」
『お姉ちゃんも言ってた。忘れてるだけなんじゃないのかな』 
 渉は、詩季の横顔を見る。
 ときおり通り過ぎる街路灯の光は、真っ白に近い、綺麗な肌をした詩季の頬を、髪を照らしていて、渉は何を考えるでもなく、その表情に見入った。
「忘れてるだけなのかな、俺」
 考えず、ただ口を突いて言葉は出る。
『うん。だって、渉くんは』
 横から覗き込んだ渉は、そこまで打った詩季の文章を見た。
 が、詩季はその途中の文章をクリアで消すと、別の言葉を継ぎ足した。
『絶対に渉くんなら、思い出せるよ。私が信じてあげるもん』
「しーちゃん……いや、サンキュ。きっと忘れてるだけなんだろうな、俺は」
 見てしまった、渉に告げられなかった言葉は、あえて自分の胸の中にしまいこむ。

 夢がないんじゃなくて、
 ただ夢を忘れてるだけなんだと、渉は信じることにする。
 そして、きっといつか思い出せるはずなのだ──と、信じておくことにした。
 秋を迎えた空に浮かんだ月は欠けていて、それでも光を落とす。
 これと言って意識はしたつもりもなかったが、その夜空を見て、渉はふと思った。
 ……また月の光を、聴きたいな。

  ◆

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