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書庫 「葉っぱ猫」 mixi処コミュの声無しの詩/二章?

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 プログラムは進んでいき、十二番目までの演奏者がその旋律を終える。
 しかし、渉は正直なところ、小休憩以降まるで演奏を聴いていなかった。
 聴きたくても、聴けない。
 詩季のことが気になって、演奏どころではないのだ。
 暗くなった照明の下、しかも前列席では、携帯画面を開くこともままならない。
 だから渉は気にかけながらも席を立たず、伯母さんが戻ってくるのが先か、アナウンスで続報が来るのが先か、待ち続けていたのだが、

 退場した演奏者の後に登場した"彼女"の姿に、渉は一瞬にして心を奪われた──。

 スポットライトに照らされてもなお、白い肌は印象的で。
 淡い翡翠色のドレスを着た詩季が、壇上に置かれたグランドピアノの前に立った。
 
「十三番、住名詩季。曲はドビュッシー、アラベスク第一番です」
 詩季は声が出せない。
 それを主催者側も配慮しているのか、紹介は司会の女性が担当していた。
 壇上、ピアノの前に詩季が進み出て、流麗なお辞儀を見せる。
 それは先週、渉に見せたぎこちない動きとは違って、美しい動作だった。
 演奏会用の正装に身を包んだ詩季は、長く光沢のある黒髪をアップにしていて、いつもとはまるで違う雰囲気を纏っていて。
 立ち姿からして、どこか他の演奏者と違うように感じるのは、身内だからなのか。
 住名家のピアノチェアよりも更に豪華な装飾の施された椅子に、詩季は静かに座った。
 そして、静寂と期待の波が館内を満たしていく。
 皆が、一度は抜けた八番目の演奏者の音に、我知らずのまま心待ちにする。

 ──詩季のその白く、繊細な指先が、音を連ね始めた。

 最初の単音から始まる、静かな、けれどテンポの速い曲調。
 詩季の演奏まで、実に十二人、ピアノ演奏を披露していて。
 一台のピアノでこれほど様々な曲調が描かれるのか、と渉は思ったものだったが、

 ──詩季は更に、一味違った。

 階段上に、半音ずつ上がっていく序盤から、繊細で大胆、というには大味すぎる。
 先週の、月の光という曲よりも穏やかで、午後のひと時を感じるような曲調。
 ピアノ独特の音が、想像の世界と調和していく。

 ──詩季が大きく、腕を広げて鍵盤の上、指先で踊った。

 普段の彼女からは想像も出来ない、大きな動き。それでも、鍵盤の上、指先で綴る詩季の言葉を代弁した曲は、ただの音とは思えないほど、息吹を持っていた。
 少なくとも、渉にはそう感じられた。
 終盤に差し掛かるにつれ、連奏のような音の連なりは、優雅な午後から夕暮れへ。
 そして落ちた太陽のこちら側。
 澄んだ群青の空が浮かび────世界は最後の一音で、掻き消えた。

 果たして、渉が空想家なのかどうかは、わからない。
 けれど、彼女の曲には自然と鮮明なイメージが浮かんでくるようで。
 これまでの演奏者達とはやはり、一線を画していると渉には肌で感じられた。
 曲が終わり。
 ほお……と渉は、感嘆の息をゆっくりと、染み出すように吐いた。
 知らない間に止まっていた呼吸のせいか、肺と心臓が空気を求めていて、苦しい。
 いや、そうではなかった。
 それほどに詩季のピアノは、渉の心に響いた気がしたのだ。
 会場の端から端──満場の拍手が、会場を包んで詩季に伝え届けられる。
 それは、どの奏者にも送られるものだと、渉も理解はしていた。
 が、それでも──
 この詩季への拍手が一際、これまでで一番大きく聞こえた気がしたのだった。


           ◆


 演奏会も無事、終わった。
 渉にとって初めての体験だった演奏会は、想像以上に堪能することが出来て、これなら麻衣に払った五千円も、少しも惜しくはなかった。
 若井文化ホールの会場外。
 玄関口に程近い場所で、渉は演奏会の余韻に浸っていた。
 目の前では伯母さんが携帯メールだろうか、何やら画面を見て笑みを浮かべていて、そんな様子を覗いながら、渉は簡易ベンチに腰掛けている。
 どうやらこの後、伯母さんは麻衣とどこかへ出かける予定らしい。
 演奏会の後、ホール外周で待っていた伯母さんが、詩季を送ってほしいと言伝てきて、了解した渉は玄関口で詩季と麻衣を待つことになったのだ。
 姉妹同士で何か話しているのか、他の奏者は保護者や知り合いと共に渉の前を通り過ぎていくが、詩季と麻衣の姿はまだなかった。
「渉ちゃん、ちょっといいかしら」
「うん?」
 のんびりと行き交う人たちを眺めていた渉は、急に話しかけられ、振り向いた。
 ひと段落ついたのか、携帯をしまった伯母さんは心配そうな表情を覗かせていて。
「しーちゃんのことなんだけど……勉強のほう、どんな具合なの?」
 渉は、うーんと首を捻った。
「勉強? そうだな、大学受験のための勉強って言うなら……まだこれからかな」
 ちょっとだけ考えた渉は、正直に返すことにした。
 心配性の伯母さんにより不安がらせることを言うのも、と思ったが、それでも変に期待させるだけよりは良い気がして。
 ごまかす必要もないほど、詩季が勉強を頑張っているのは確かだし、彼女は頭も良い。
 しかし、高校一年生の勉強だけを見てどうこう言えるほど、渉は教師としてのスキルを積んでいるわけではないのだ。
「でもさ、音楽大学は基本的に、基礎学科はそこまで影響ないみたいだから……俺が教えることなんかよりも、今日みたいな音楽の実力とかが大事だって話だよ」
 おばさんの表情に微妙な"かげり"が出来たのを見て、渉は慌ててフォローする。
 実際、この間大学の友人から聞いた話によればそうだった。
 その友人はもともと音楽大学を目指していたらしいが、諦めた友人。彼が言っていた話によると、選定基準にあるのは、当然ながら基礎学科よりも音楽関係。
 当然、基礎学科も申し訳程度にはあるらしいが、それよりもずっと、音楽の技術や知識が重要視されているらしい。
「だから、あんなに凄い演奏ができてるしーちゃんは大丈夫だと思うけど」
「そうねぇ。そう信じたいわよね。あの子、ほんとに凄く頑張ってるもの」
 口元に手を当てて、ふう、と息をついた伯母さん。
 ……あれ?
 その雰囲気に、悩ませてしまったのかと渉は思ったが、違うようだった。
 次の伯母さんの言葉が、それを裏付ける。

「身体だけは壊さないでほしいんだけど。手術も受けようとはしてくれないしねぇ……」

 不意な伯母さんの言葉。
 それは渉が原因ではないと告げると共に、それ以上に、渉の心を騒がせた。
「……手術?」
 問おうかどうか一瞬の葛藤、けれど、このまま流してしまうと後々の気がかりになるだろう予感がした渉は、伯母さんにそう問いかけた。
「えっ?」
 恐らく、無意識にこぼした言葉だったのだろう。
 問いかけてきた渉を見て、伯母さんは何で知っているの? とばかりに目を見開いた。
 が、自分が発言によってとすぐに気付いたのか、言葉を繋ぐ。
「あ、あぁ。そうそう、手術。声帯手術の話は昔から上がってるんだけどねぇ。あの子、すっごく嫌がってね。神経の代わりにその、人口声帯って言うの? それを入れるって話だったんだけど。やっぱり嫌みたい」
 伯母さんの言葉はどこか、不自然というか、何か焦っているような雰囲気はあったものの、言葉の早々に、いつも通りの口調に戻る。
 手術という単語に不穏感を受けてしまうのは、過去の事故が原因なのか。
 渉にはわからなくて、とりあえず下手な沈黙よりも会話を選んだ。
「声帯手術って、難しいの?」
「お医者さんが言うにはそこまで難しくはないみたいだけど。やっぱり人口声帯って綺麗な声にはならないみたいだから」
 伯母さんの説明に、なるほど、と渉は納得した。
 ピアノ演奏の時の詩季を思い出す。
 あれほど綺麗で儚げな単音から、迫力さえ生み出すことの出来る独奏まで。
 詩季は、それを自由自在に生み出せるだけの才能を持っているのだ。
 だったら、下手に声を取り戻すよりも音の才能を磨くほうが利に適っているのかもしれないな──そんな風に渉は思った。
 ……でも。
 納得したように思えて、自覚もなく頭に浮かんだものがある。
 それは、いつか詩季が歌ってみたいと言っていた『音』のこと。
 ……そうか、手術をしてもあの音が歌えるわけじゃないんだな。
 予期せぬタイミングで知ってしまった事実に、渉は何ともいえない気分になる。
 その後は、大したことのない雑談。
 と言っても、伯母さんが一方的に色々と話してくれていただけだったが。


           ◆


 それからしばらくして。
 麻衣と詩季がホール側の通路から歩いてくるのを、渉は真っ先に見つけた。
 雰囲気からして大人しい詩季を、横を歩いている麻衣が小突く振りをして笑っていて。
 何だかそれがとても新鮮に思えて──何でだろうと考えている間に、二人は渉と伯母さんの傍に着いていた。
「おー、渉。詩季のピアノ良かったらしいじゃん」
 客席に一度も来ていなかったのに、麻衣はそんな口振りで話しかけてきて。
 渉は頷いたが、すっきりせず麻衣に問う。
「うん、良かったけど……何で知ってんの?」
「ほら、詩季が自分で言ってたから。自信過剰よねぇ?」
 うりうり、と肘で突っつく麻衣に、僅かに頬を上気させて詩季は慌てて携帯を打った。
『そ、そんなことないよ。そんなに上手くデキナカッタ!』
 よっぽど慌てたのか。
 文章の途中で変換がおかしくなっていて、渉は意図せずに吹き出してしまった。
 とはいえ、フォローはする。
「自信を持つことは悪いことじゃないと思うけどな」
「そうそう。自信持てばいいんだって。ねぇお母さん?」
 麻衣も珍しく同意してきて、そのままバトンを伯母さんに放り投げる。
「そうよ、しーちゃん。お母さん、しーちゃんにピアノやらせてよかったと思ってるわ」
『う、うん』
 伯母さんまで同意し、しかも渉の想像を上回る表現の大げさ具合と、大きな声での褒め言葉に──詩季は一目でわかるほど顔を赤くして俯いた。
 言葉も、丁寧に"どもり"まで表現して、皆に見えるように携帯を突き出す。
 恥ずかしい、でも素直に嬉しい。
 そんな気持ちが表れているような気がして、渉は笑顔が絶えなかった。
 と、その隙を狙ったように麻衣がぽん、と肩に手を置いてくる。
 そして、耳元にぐっと顔を近づけると、麻衣は囁いてきた。
(……そうそう。朝のあれさ、勘違いだったみたい)
 ……勘違い?
 意味がわからず、渉は反応に困る。
(……いや、この一週間のアレ、機嫌悪かったわけじゃなかったらしくて)
 渉にしか聞こえない程の小さな声で、麻衣はごめん、と謝った。
 姉妹同士、何を話したのか──だが、別に怒ることでもないだろう。
 だから、その言葉にどう返そうか迷いはしたものの、何も言わない。
 ちょっとだけ、からかうように言いたくなった「ぼったくりが! 金返せ!」という言葉も、流石に詩季の手前では言えないし、言う気もない。
 とりあえず、自分が原因で機嫌を損ねたわけじゃないことがわかっただけでよかった。
 ついさっきまであった渉の中の暗い気分は、二人との合流で、あっという間に吹き飛んでしまっていた。


「んじゃ、あたしとお母さんは行ってくるけど。しーちゃんは別に構わないのよね」
『うん、私は渉くんに送ってもらう』
 文化ホール前のバス停。
 麻衣と伯母さんは、このまま近くの駅まで移動した後、買い物に出かけるらしい。
 詩季は渉にもわかるように、携帯画面で返事をする。
「ちゃんと送るよ」
 もうそろそろ夕方を迎える時間。
 意図の読めない視線を麻衣から向けられて、渉はそう言った。
 他に何を求められているのかは、その視線だけでは、渉にはちょっとわからない。
 麻衣は、その後ちらっと詩季を眺めた後、歩き出した。
 こういう麻衣は滅多に見ることがなくて、渉はちょっとだけその様子が気にかかる。
 どちらかといえば、麻衣は何でもはっきりと言うタイプだと思うのだが、視線だけで何かを伝えようとするのは、やはり珍しかった。
 伯母さんも、
「じゃあ渉ちゃん、あんまり遅くならない間に送ってあげてね」
 と、少し心配そうな色を滲ませて言い残すと、年齢を感じさせない小走りで歩き出した麻衣を追いかけていく。
 詩季のことが心配なのか、それとも信頼されていないのか。
 どちらとも取れる雰囲気の二人に、渉はどう態度に表していいのかわからず、ひとまず腕時計代わりの携帯を見た。。
 デジタル表示で刻まれている時刻は、午後六時を回ってすぐ。
 ……明日はカテキョだけど、今から伯母さんたちが戻るまで勉強を見るのもいいな。
 そんな風に考えていた渉は、教材を持ってきていないことに気付いて、どうしようと意識を発展させる。
 と、渉の長袖の裾が くいくい と横から引っ張られた。
 携帯と自分の間に割り込んできたのは、詩季の携帯。

『ここ、ギャラリーもやってるんだ。ちょっとだけ見ていってもいい?』

 どこか、おもちゃを欲しがる子供のように、期待するような眼差しを向けてきた詩季を見ると、渉は勉強とは言い出せず、頷いた。
 時間うんぬんよりも、何より詩季の頼みなのだから、聞いてやりたい。
 今日を頑張った詩季へのご褒美、とするには安いもので、だからそうとは言わないが、ちょっとぐらいなら展示コーナーを見る時間もあるだろう。

 何様気取り。
 渉は、詩季と共に文化ホールの扉をもう一度くぐるのだった。





 ──真っ白な病室。

 作業の手を止めて、青年はテレビから流れる語りを聞いていた。
 ……そうだ。あの演奏会の後、自分と『詩季』は絵画のギャラリーを見に行った。
 六年前のあの日。
 別に深い考えは何もなくて、ただご褒美とばかりに彼女の頼みを自分は聞いた。
 今こうして振り返れば、思う。
 麻衣がテレビの向こう側で語ったように自分はきっと、この時に大きな分岐点の一つを選択したのかもしれない、と。
 もし『あの日』そのまま帰って勉強することを優先していれば、未来は変わっていた。
 だが、そんな風に考えはしてもそれはもう過去のものだ。

 それはもう意味のないことだった。
 過去の思い出は……心を過ぎる。
 しかし、青年は意識的にそれを心の奥深くへと追いやると設置作業を再開した。
 簡易シアターの準備は、もう整いかけていた──。





 ──照らされた舞台上。

 映画館内の観客はいまや、飲まれかけていた。
 住名麻衣という映画監督の、たった独りで語られる、思い出という名の物語に。
 ここまでの話で、幾人かは帰ったら調べるだろう。『ドビュッシー』や『月の光』や、『アラベスク第一番』という、語りの中に登場した音楽を。
 あるいはすでに知っている人間は、あれは良いとか、それよりは……という感想を持つ人間も、何人か居たかもしれない。
 だが、大半の観客はそんな単語に興味すら持たず、きっと映画が終わった後は、差して大切でもない記憶の隅っこにこの話を放り込むだろう。
 けれど、この瞬間だけは確かに、麻衣の話に観客のほとんどが耳を傾けていた。
 たった一人の映画監督の口上は、前代未聞に長かったが、
 それでも、観客たちは魅了されていた。

 彼らの運命が、この後どう転がってしまうのか。

 麻衣は語り続ける。それは六年前の『あの日』以降の出来事────。


   +

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